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2006年1月29日 (日)

黄金律       マタイ7:7-14

1.求めよ

 昔の文語訳では、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」となっています。「求めよ、さらば与えられん」は、格言になるくらい世の人にも知られている聖句ではないかと思います。しかし、クリスチャンを長くやっていますと、「神様とみこころとの関係はどうなろうなー」と悩むようになります。「求めたとしても必ずしも与えられるとは限らない」という不審な思いがないでもありません。「求めたら与えられる」というのは、嘘ではないだろうけど、その確立は3割程度かなーなんて、思っている人はおられませんか?まず、神のみこころと私たちの求めはどちらが、優勢なのでしょうか?算数で不等号という記号があります。聖書を公平に見てわかるのですが、やはり神のこみこころが優勢で、私たちの求めは劣勢かなーと思います。しかし、イエス様に限っては、神のみこころとイエス様の求めはイコールであったと思います。ゲツセマネの祈りの時だけは、どちらが優勢になるかしばらく、苦闘したようですが、いつもイエス様はみこころの内を歩まれました。もし、私たちも神のみこころを慕い求め、みこころをつかまえた後、求めるならば百発百中になるかもしれません。

 しかし、マタイ7章で言われている「求めよ」は、ちょっと強調点が異なります。なぜかと言うと、8節には「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます」とあります。また、11節には「悪い者であっても」と書いてあります。ですから、「求めたら与えられる」というのは、クリスチャン、ノンクリスチャン関係なく、宇宙の法則だということです。世の科学者は求め、捜し、たたいてきました。だから、飛行機やロケットを飛ばすことができました。原子力というものすごい力を発見しました。反面、原爆というものまで作りました。「発明は必要の母である」と言った人がいますが、まさしくそうであります。また、ある人たちは、偶像をおがみながら、一生懸命、求めます。その結果、商売が繁盛し、病気が癒されます。なぜでしょう?「求めたら与えられる」というのは、宇宙の法則だからです。むしろ、この法則を軽んじているのが信仰者であります。信仰がきよめられれば、きよめられるほど、「みこころだから仕方がない」と諦める。そういう傾向があるのではないでしょうか。放蕩息子の兄は、とても真面目な信仰者でした。でも、父に対して何と言っているでしょうか。「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」(ルカ15:29)。食えよ、子山羊ぐらい!また、1タラントを隠していたしもべは主人になんと言ったでしょうか。「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」(マタイ25:24)と言いました。彼も信仰を持っていたのです。でも、神様はケチでひどい方だと考えていました。日本の教会のクリスチャンは、とても真面目ですが、この「求める」ということに対しては遠慮深い。韓国でなぜリバイバルが起きたかというと、向こうは熱心に求めたからです。たとえば、2人の人が川で溺れているとします。一人は、「泳げないんだ!助けてくれー!」ともがいて叫び狂っています。もう一人は、「お手すきでしたら、助けてください。みこころでしたらお願いします。プクプク」と、落ち着いた感じです。救助に来た人は、果たしてどちらから助けるでしょうか。「助けてくれー!」ともがいている方を最初に助けると思います。

 マタイが言わんとしていることはどういうことでしょうか。それは「父なる神様は良きものを与えたいと願っておられる気前の良い方だ」ということです。自分のこどもがパンをくれというのに、だれが石を与えるだろうか。魚をくれというのに、だれが蛇を与えるだろうか。11節「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」父なる神様は、子である私たちに、良い物を与えたいと願っておられる、これがマタイの言いたいことです。マタイという人は、本名がレビでした。レビとは神様に使える祭司の名前です。ですから、ご両親は神様に仕える人になるようにという思いで名をつけたのかもしれません。しかし、レビはご両親の信仰生活を見て、「神様を信じているのにどうして貧しい生活をしているんだ。世の中は金だ!」と思って、収税人になったのかもしれません。彼はとてもお金にはシビアな人でした。金銭感覚が人一倍あったんです。でも、父なる神様が良き神様で、気前の良い方だと分かったのです。「自分の両親は真面目だった、でも、気前の良い父なる神様を知らなかった!神様は求めるなら良いものを下さる私たちの父なのだ」ということを知らせたかったのではないかと思います。同時にこれは、日本の教会、クリスチャンに対するメッセージであろうと考えます。日本のクリスチャンは真面目かもしれませんが、神様には求めない。神様に求めるのは、新興宗教、やすっぽい信仰だと考えている。「武士は食わねど、高楊枝!」。だから、病気の癒しも、経済的な祝福も、教会成長のためにも祈りません。だから、日本の教会は貧しいのです。

 私たちは、恥も外聞も捨てて、プライドも捨てて、父なる神様に求めるべきだと思います。座間教会にいたとき、一人の青年会の姉妹が「私はクリスチャンと結婚したいんです。どうか祈ってください」と公に求めました。まもなく、他の教会からクリスチャンがひょっこりやって来て、その姉妹とめでたく結ばれました。ある人は「私は○○の病気を持っています。どうか、私のためにも祈ってください」と言いました。普通なら、隠すところを求めたんです。そういう人のためには、牧師ばかりか、神様もなんとかしてやりたいなーと思うでしょう。日本人はとでも上品で奥ゆかしいのが、美徳とされています。でも、信仰はそうであってはいけません。大胆に求めるなら、与えられるんです。旧約聖書のヤコブは押しのける人でした。兄から長男の権利を奪い取りました。性格的には兄の方が良かったのかもしれません。しかし、兄は長男の権利よりも、食べ物とか生活が大事だったのです。一方、弟ヤコブは霊的な価値を知って、それを兄から奪い取ったのです。ヤコブは最後に、天使と組み打ち(レスリング)しました。「祝福してくださらなければ、離しません」と天使に勝ったのです。聖書に「私はヤコブの神である」と書いてあります。それは、「私はヤコブの神であることを恥としない」という意味です。押しのけるような性格の悪いヤコブの神と呼ばれても良いということです。つまり、聖書の神様は、真面目で信仰のない人よりも、人格的に欠けはあるけど信仰のある人の方を好まれるということです。こんなに断言して良いか分かりませんが・・・。福音書にこうあります。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」この聖句は、バーゲンセールに突進する、オバタリアンを連想させます。しかし、私たち信仰者は、信仰が長くなれば、なるほど上品になって、求めることをしなくなります。みなさん、神様に求めるというのは、「神様は偉大なるお方で豊かなお方だ、恵み深いお方だ」という信仰があるからです。一方求めない人というのは、「神様は小さくて何もできない、プアーで、ケチな方」というゆがんだ信仰があるからです。※

どうぞ、ケチな神観を取り除いて、豊かで気前の良い神観をお持ちください。「父なる神様は求める者には、絶対、良いものをくださるんだ!」ということを信じましょう。「求めなさい」は原文では、「求め続けなさい」であります。ですから、一度や二度であきらめないで、五度も六度も七度も求めましょう。

 ※時間があれば…盲人のバルテマイは「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びました。人々は、「うるさい、黙れ!静かにしろ!」とたしなめました。それでも、彼は、ますます叫びました。イエス様は、そばの者に、彼を連れてくるように言いつけました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのか」と尋ねられました。彼は「主よ。目が見えるようになることです」と言いました。彼はイエス様に目が見えるようになるようよう求めたのです。なぜなら、イエス様は自分の目を開けることができるお方だと信じていたからです。信じていないなら求めません。イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエス様に付いていきました。

2.黄金律

 7:12は聖書でゴールデンルール、黄金律と呼ばれている有名な聖句です。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
自分にしてもらいたいことと言えばどんなことがあるでしょうか。肩が凝っているのでもんでもらいたい。お金がないので貸してもらいたい。こんだけやったんだから、ありがとうと感謝してもらいない。お腹が減ったので、うまいものを食わせてもらいたい。疲れたので、席を譲ってもらいたい。いろいろ、日常で他の人からしてもらいたいことがあります。でも、イエス様は逆に、そのようなことを他の人にせよと命ずるのであります。三浦綾子さんが、天国と地獄の夢を見たそうであります。大きなお家の一階は地獄でした。大きなテーブルの上に、山海の珍味というか、ご馳走がならべられていました。腰掛けていた人たちが、今、食べようとしていました。ところが良く見ると、彼らは一人ひとり椅子に縛られていました。片方の手には長いフォーク、また片方の手には長いスプーンが結わえられていました。フォークやスプーンが1メートルくらいあるので、自分の口にはとても入りません。そこにいた人たちは怒り出し、しまいにはフォークとスプーンで喧嘩をし始めました。せっかくのご馳走が、そこいら中に散乱していました。二階は天国の部屋でした。地獄と同じように、大きなテーブルの上に、山海の珍味というか、ご馳走がならべられていました。また、彼らも長いフォークとスプーンを両手に結わえられていました。一階の地獄と全く同じです。しかし、彼らがしていたことは全く違っていました。長いフォークで取ったご馳走を自分の口にもってくるのではなく、真向かいの人に食べさせてあげていました。「何を食べないの。とってあげるわ」と声をかけながら、お互いの口に持って行っていたのです。それを見た三浦綾子さんは、「わー、これこそ天国だ!」と感激したそうです。

 人からもらうことばかりしか考えない人は、感謝をしません。まだ足りない、まだ足りないと不平不満をもらします。しかし、人に惜しみなく与える人は、感謝が分かる人です。12節の黄金律は、12節だけを独立して解釈しても分かりません。これは、前の「父なる神様が良いものを与える」ということを理解した上のことであります。自分がしてもらいたいことをしてあげる、つまり喜んで与える心は、父なる神様の心を持った人であります。信仰的に霊的に正しく成長するなら、父なる神様のように与える人になる。「くれ、くれ、くれ!まだ足りない、もっと愛して欲しい」というのは、まだ赤ちゃんであります。赤ちゃんや子どもはもらって当たり前、感謝なんかしません。でも、信仰的に成長するならば、感謝の心を持ち、こんどは与えることを喜ぶようになります。中には受けることをしないで、与えることばかりしている人、人の世話にならないという偏屈な人もいますが、これも問題です。父なる神様は私たちのささげもの、私たちの奉仕を喜ばれます。神様からみたら粗末で、わずかかもしれませんが、神様はそれを喜んで受け取ってくださいます。そればかりか、さらに豊かに報いてくださいます。この黄金律は、父なる神様の心を持った人ができることであります。しかし、その前の大切なステップがあることも忘れてはいけません。それは、豊かなる父なる神様の恵みを体験することです。「神様は本当に良き神様、恵み深き神様なんだ。アーメン」と体験した人だけが、今度は、喜んで与える人になることができるのです。私たちは人を助けることも必要ですが、その前に、自分が健康で豊かになることが必要です。親子が空腹なとき、親は食べ物を全部子どもにあげてはいけません。親が倒れたら、子どもをだれが育てるでしょうか。親が癒されて、はじめて、子どもを助けることができるのです。私たちクリスチャンも良き神様からいっぱいいただいて、その恵みを気前よく与える者になりたいと思います。神様の豊かなる恵みの管になりたいと思います。

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2006年1月22日 (日)

裁き合わない        マタイ7:1-6

 6節に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはいけません」というみことばがあります。世の中でも「豚に真珠」「猫に小判」というような格言にもなっています。これは、神様からの恵みとか訓戒を与えても足で踏みにじり、向かってくる人たちのことであります。私たちは、主の御声に聴き従う砕かれた魂を持ちたいと思います。本日は、「裁き合わない」という1つのポイントでお話したいと思います。

①裁きの法則

 「裁く」というギリシヤ語は、肯定的には「分析する」「評価する」「価値判断を下す」という意味があります。また、「見下げる」「批判する」「非難する」「中傷する」という否定的な意味もあります。ここで言われている「裁き」は、後者の方であります。これは、法廷で有罪判決を下すというような状況で言われているのではありません。そうではなく、共同体の中で仲間と交わっていく中で起こる出来事です。裁き合う対象が外部の人ではなく、教会内の兄弟姉妹なんです。おお、教会は同じ価値観、同じ使命観で生きていますので、小さな違いにも敏感に反応してしまうところがあります。世の中では、たいしたことのない問題も、教会では一大事、みたいに思われるわけです。対象が牧師、献身者、役員であるならば、測る尺度がとりわけ厳しくなります。「あれでも牧師?」「あれでも神学生?」なんて、よくありがちです。これが、お坊さんとか、どこかの会社の社長だったら「しょうがないなー」で終わりです。教会の人たちは「みことば」という、ものすごく鋭い両刃の剣を持っています。これがまたよく切れるんです。しかし、両刃の剣ですから、相手を切った拍子に、自分の足を切ってしまうこともあります。

 ですから、イエス様はこのように言われました。1節、2節。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。リビングバイブルでは同じ箇所をこのように訳しています。「人のあら捜しをしてはいけません。自分もそうされないためです。なぜなら、あなたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです」。私には6歳になる子供がいます。私たちは「頭良いねー」とか「よくできたねー」とほめます。そういう場合、子どもはとても素直です。しかし、お姉ちゃんやお兄ちゃんが、「だめだ」とか、「よくない」などとさばくとどうでしょう。もう、一変して、タメ口になり悪い言葉が機関銃のように出てきます。なんで、こんなに変わるのかなーと驚きます。不思議な法則があります。さばれていると、自分の中にある反抗心とか怒りが自動的に反応します。逆に、受け入れられていると、素直な自分が出てきます。「裁くと裁かれる」、これは、神が定めた宇宙の法則です。この世界にはたくさんの法則があります。作用反作用の法則、万有引力の法則、ボイルの法則…いろいろ学校でならいました。たとえば、父親もしくは母親を裁くと、あなたもいずれさばかれることになります。独身のときはわからなくても、自分が親になったとき、「どばーん」と来ますね。今、皆さんの中で刈り取りをしている人はいないでしょうか。兄弟姉妹の中でも裁きやすい人がいます。人の悪口や批判をする人がいます。なぜでしょう?それは、自分がかつてさばかれ、その傷が癒されていないからであります。

私の父は本当に人をさばく人でした。酒を飲んでは政治家から村の人たち、そして親戚、家族中をさばきました。だから、私たち子どもは父の悪いことばによって、いっぱい汚されて育ちました。だから、私が学校に入ると友達のことを平気でさばきました。会社に入ると同僚や上司をさばきました。私がクリスチャンになってまもなく、大川牧師は「お互いに裁き会わない教会を作りましょう」と言われました。「なぜなら、聖霊様はご人格をもっていらっしゃいますから、お互いに裁き合うと居心地が悪くなって消えてしまわれる。しかし、お互いに裁き合わないで愛し合うなら、聖霊様が喜び、救いのみわざを進めてくださる」。そんな風に教えられました。と、言われても、簡単に変えられる訳がありません。25年間の垢が染み込んでいますから…。だから、結婚してからかなり訓練されたかなーと思います。家内が「どうしてそんなに批判的なの?」と私をさばいてくれました。さばかれて育ってきた人は、さばきに対して過剰反応します。1発やられたら倍に返さないと気がすまない。あるいは、自分がさばかれないように、先制攻撃する場合もありますね。しかし、そうなると信仰生活は砂漠化してしまいます。人を裁くと、砂漠化する。これが、作用反作用のような絶対的な法則であります。人をさばいていると、今度は神様からも憐れみを求められなくなってしまいます。「神様、私のことはお赦しくださいね」とは、言えなくなります。やがて、霊的に枯渇していきます。

②裁きの破壊力

 イエス様はさらに、どう教えておられるでしょうか?3,4節、「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか」。イエス様が大工さんだったから、こんなたとえを用いたのかもしれません。ちりというのは小さなほこりですが、梁というのは、柱どうしを支える横の木材です。こんな何メートルもあるような木材が目にあるなんで、ものすごい皮肉であります。繰り返し申し上げますが、ここで言う「兄弟」とは、神様をお父さんと呼ぶ信仰者の仲間のことです。私たちは外部の人たちには寛容ですが、仲間に対しては厳しくなってしまいます。でも、イエス様はまず自分の梁に気づくようにと勧めておられます。岸義紘先生はある本で、裁き合いのことを「ちり梁戦争」とおっしゃっておりました。その本の挿絵にはお互いの目から、梁が「ボーン」と、飛び出しています。もうあぶなくてしょうがないですね。どうも、私たちは「自分の欠点や失敗には寛容で、兄弟姉妹に対しては厳しい」という罪の性質が宿っているようです。イエス様は教会という共同体を健康に保つために、このような教えをなされたのだと思います。使徒パウロは、エペソ4:29で「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」と言われました。悪い言葉とは、非難する、中傷、ゴシップであります。私たちは殺人とか盗みが大きな罪じゃないかと思います。しかし、共同体を壊すもっとも大きな武器は、悪いことば、中傷、ゴシップであります。サタンは悪いことばを、共同体を刺し殺す、矢のように用いるからです。ですから、私たちは極力、兄弟姉妹をさばく、悪いことばを発しないように気をつけなければなりません。
 先週のディボーションの箇所はマルコ福音書の後半でした。マルコ15章は十字架のシーンです。聖書には「彼らはイエスを十字架につけた」とたった1節で終わっています。しかし、それよりもずっと、ずっと多く書いているのは、人々がイエス様をなじったり、嘲笑したことばであります。群衆、ローマ兵、ふたりの強盗、宗教家たちが次々を悪いことばをあびせています。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」「他人は救ったが自分は救えない」とか、めちゃくちゃなことを言っています。十字架という肉体の苦しみも大きかったかもしれませんが、イエス様にとって、おそらく、そういう悪いことばの方かダメージを与えたのではないかと思います。これから、ユダヤ人と世界の人たちのために贖いの死を成し遂げるときに、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。そうしたら信じる」なんて言われたのです。もちろん、私もその場にいたら、それ以上の悪いことばをあびせていたかもしれません。だけど、私たちが気づかなければならないのは、悪いことばで、人をさばいたりしたときは、イエス様の心を痛めているということです。イエス様が贖い、イエス様が愛している人をさばくわけですから、当然であります。考えてみると、私たちも同じムジナであります。私たちも罪赦され、あわれみの中に置かれているわけです。天国に向かっている教会という箱舟の中で、悪口を言い合うなら、問題であります。神様から見たら、私たちは同じ罪びとであり、同じ傷ものであり、同じ欠点を持っている者同士です。これはやっぱり赦し合い、受け入れ合っていくしかないなーと思います。

③裁きに対する癒し

 では、どのようにしたら私たちは裁き合わないで、赦し合うことができるのでしょうか。「裁くんじゃないよ」と言われても、そうできないのが私たちであります。解決の第一は、過去において自分を見下げた人、馬鹿にした人、中傷した人たちを赦すことです。なぜ、私たちが大人になって、裁きは悪いことだけどやってしまうのか。それは私たちのインナーチャイルド、内なる子どもが傷ついているからです。体が大きくなっても、内なる子どもは怒りに満ちている。だから、同じような状況になったとき、反応してしまうのです。だから、子どものときに遡って、あなたが赦せないと怒った人たちを「赦します」と宣言すべきです。ある人がこんな絵を描きました。被害者と加害者がいます。被害者の手かせ(ブレスレット)から1本の鎖がのびています。その鎖は、加害者の首かせにつながっています。被害者の手首は痛んで血が出ています。もし、被害者が赦さないというブレスレットをはずしたら、加害者の首かせもはずれます。あなたは、赦さないという手かせ、ブレスレットをつけてはいませんか。そのままでは怒りの奴隷です。あなたはイエス様によって罪赦され、神の子どもとなったのですから、喜んで、手かせをはずしましょう。加害者を解放してあげましょう。第二は、聖霊の水によって洗い流してもらうことです。あなたは、両親や友達、学校の先生などの悪いことばによって汚されたのです。ですから、慰め主である聖霊によって、洗い流してもらう必要があります。汚れがいっぱいついていたんですから。洗濯しなければなりません。テレビのCMでもあります。真っ白になって、どこに洗濯物があるか分からないで突っ込んでしまうほど白くなる。そして肌にふれて、気持ち良いくらいに回復されます。第三は、裁きの構造を十字架につけることです。裁きやすい体質はもう性格になっています。性格はなかなか変えられません。これは十字架につけるしかないんです。裁きの構造を十字架に釘付けしましょう。解放のキャンプでは「私がイエス様を十字架につけました」という証として一人ひとりが5寸釘を十字架に打ち込みます。しかし、あるセミナーでは自分の罪を書き記した紙を釘で打ちつけていました。実際にやる、やらないはともかく、信仰によって、裁きの構造を十字架に釘付けしましょう。そうすると性格に変革がやってきます。

 私はある牧師のスポンサーをしたことがあります。その牧師は教会員の欠点ばかり見え、「まだ、だめだ、まだだめだ」と裁いていました。同じ教団の牧師たちをも裁いていました。「お父さんはどういう人でしたか?」と聞きました。お父さんは紡績工場の社長で、よく従業員の悪口を家庭で言っていたそうです。「あいつは見かけはこうだけど、こういうところがなっていない」と子どもたちの前でしょっちゅう裁いていた。それが、知らず知らずのうちに、子どもの頭の中に入っていったのです。お父さんのようにはなるまいと思ってはいましたが、気がつくと、お父さんのように周りの人たちを裁いていたということです。ああー、私と同じだなーと共感しました。私は日本の国、全体が否定的な国だと思います。学校のテストでも○よりも、×の方が力が入ります。その子には長所がたくさんあるのに、短所だけを指摘するところがあります。アメリカ人がベリーグッド、ワンダフルとほめてくれても、「ほんとかな?うそだろ?」と素直に喜ぶことができません。そういう家庭や学校で育った人が、教会に来て一ぺんに変わるわけがありません。考えてみると、教会は工事現場であります。だれでも、天国に行くまで工事中です。側に近づくと穴ぼこに落ちたり、石が上から落ちてくるかもしれません。工事現場の看板は、ヘルメットをかぶった人が、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ペコリ」となっています。私たちも、「ペコリ」の名札が必要であります。また、教会はコインランドリーかもしれません。みんな、洗濯をしています。ごろごろ、とドラムが回っています。汚い水から、きれいな水へと入れ替え中かもしれません。こりゃーどうしようもない頑固な汚れだなーというのもあるかもしれません。どうぞ、裁きあわないで赦し合う共同体を作りましょう。

癒しだけで終わってはいけません。最終段階があります。それは訓練を受けるということです。みなさん、裁きと訓戒や忠告とは違います。訓戒や忠告は聖書的であります。これは成長するために必要不可欠です。私たちは子どものままではよくありません。成長するためには堅い食物も必要なのです。いつまでも、「ありのままで良いよー、そのままで良いよ」というのは、まだ離乳食の段階です。大きくなるためには訓練が必要なんです。スポーツや音楽をやっている人は分かると思いますが、上達するためにはトレーニングが必要です。そうすると腕や足の筋肉がつきます。いろんな技術が身に付きます。天の父は私たちが成長するために、試練も与えます。とても辛いこともあります。でも、後になると義の実を結ぶことができます。「ああー、あのとき訓練されたから今の私があるんだ!」と良い思い出になります。癒しはゴールではありません。癒しは成長のための第一歩です。癒されたら、訓練を受け、成長を目指すのです。ハレルヤ!ゴールは何でしょう。ゴールは、イエス様に似た者となることです。イエス様のように愛と寛容と忍耐に満ちた人になることです。お祈りいたしましょう。

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2006年1月15日 (日)

神の国とその義     マタイ6:25-34

 解放のキャンプのお証をありがとうございます。クリスチャンになっても、けっこう私たちは縛られているものですね。解放のキャンプは一気に手術するようなスタイルです。時間をかけてゆっくりという道もありますので、出席できなかった方は心配しないでください。きょうのメッセージの第一のポイントは…

1.心配するな

 マタイ6章の後半には、「心配するな」と6回も言われています。「心配するな」といわれても心配するのが人間であります。心配は不安と置き換えても良いかもれませんが、何か原因があるから不安なのです。だから、私たちはそれをもたらす原因と向き合って、解決していく必要があります。問題が解決しますと、自然と心配や不安は消えてなくなります。この聖書では「心配するな」ですが、キングジェームス訳は、Don’t worryになっています。少し前の、口語訳や文語訳は「思い煩うな」と訳しています。ギリシヤ語の「心配する」は、分けるとか分裂するという言葉と関係があります。ですから、心が「あのことはどうしょう」「このことはどうしょう」と引き裂かれている状態を表しています。みなさんの心は、あのことと、このことに引き裂かれているでしょうか。その当時の人々は、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配していました。32節で、イエス様は「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」と言われました。異邦人とはまことの神を知らない人たちのことです。テレビ、新聞、雑誌、最近ではインターネットに、さまざまな公告やコマーシャルが出てきます。ほとんどが、何を食べるか、飲むか、着るかであります。衣食住が満たされると、もっと贅沢なもの、たとえばセレブに走ります。洪水のように流れるコマーシャルのもとで、「これも欲しいなー、あれも買いたいなー」と思うようになります。しかし、どんなに社会が複雑であろうと、だれがこの世界を動かし、だれがこの世界の被造物を養っていか考えるべきであります。それは、天の父であります。

イエス様は、一番身近なものを題材にしてそのことを教えられました。1つは、空の鳥であります。26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」。種蒔きと刈り入れは、労働を意味します。イエス様は怠惰になることを勧めておられるのではありません。鳥だって、朝早く起きて虫をついばんでいます。しかし、鳥は人間のように思い煩ってはいません。私は毎朝、中川に散歩に出かけます。冬は鳥たちにとって、厳しい季節かなーと思います。鵜は冷たい川にもぐって魚を捕っています。すずめとか鳩は、枯れ草の間のわずかな種をついばんでします。カラスはゴミをあさったりしながら、なんでも食べて生きています。イエス様は、「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と言われました。これは、「すべての被造物に勝っている人間を神が顧ないことがあろうか」と言う意味です。野のゆりはどうでしょうか?パレスチナには、アネモネ、ゆり、けし、グラジオラスが咲くようであります。砂漠から熱風が吹いてくると、1日で枯れる場合もあります。そういう花でも、神は装ってくださる。ソロモンの栄華もその美しさにはかないません。イエス様は「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」と言われました。

 なぜ、人間は思い煩うのでしょうか?それは、アダム以来、人間は神から離れ、自分の力のみに頼って生きているからです。しかも、土地は呪われ、苦しんで食を得なければならなくなりました。エデンの園では、人はおそらく、思い煩う必要はなかったでしょう。でも、イエス・キリストは私たちを贖うために地上に来られました。イエス様は、罪を贖い、神様と私たちを結びつけてくださいました。そのことによって、私たちは天の父を持ち、子としての立場が回復されたのです。神様が父であるならば、子どもを養ってくれるのは当然であります。しかし、現実は厳しいです。私たちは神の子ではありますが、神を離れたこの世で生きています。イエス様は「信仰の薄い人たち」と言われました。やはり、この世で神の子として生きていくためには、信仰が必要であります。思い煩いと信仰は両極のものであります。信仰が来れば思わずらいは消えてなくなり、思い煩いが来れば信仰が消えてなくなります。

では、私たちは何を信じるべきなのでしょうか。第一は、天の父がすべての必要の根源者であるということです。詩篇121「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」とあります。天と地を作られた神様に目を向ける。そこから、助けがやって来る。世の中の構造はものすごく複雑です。「とは言ったって、どこからお金が降ってくるのか?」「とは言ったって、結婚相手がどこから降ってくるのか?」「とは言ったって、仕事がどこから降ってくるのか?」と言いたくなります。でも、元旦の礼拝で申し上げましたように、問題から目を上げて、天地を造られた主を仰ぐのです。そうしますと、神の視点から問題を見ることができ、信仰がやってきます。とにかく、神様に期待するのです。神様は天地の創造者であり、私たちのすべての必要を持っていらっしゃいます。

第二番目に私たちはイエス・キリストの御名を持っています。ピリピ4:19「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。天の御倉を開ける鍵は、イエス・キリストであります。現実を先に持って来ては、列車は動きません。先頭は、約束のみことばです。その次に信仰です。すると、現実があとから付いて来ます。信仰は列車の釜を燃やす火であります。空気は祈りです。「主よ、信じます!信じます!信じます!」と願うなら、列車が走り出します。最初はゆっくりです。出だしはものすごく力がいります。でも、走り出しますと、少しずつ結果が見えてきます。思い煩いは信仰の火を消してしまいます。そうではなく、神様を見上げ、約束のみことばいただきなら求めるのです。最後に、ピリピ4:6を引用いたします。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

2.神の国とその義を求めよ

 6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。「だから」というのは、父なる神様が私たちのすべてのことを面倒見てくださるからであります。イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めるなら、衣食住の問題は解決するよ」と教えておられます。ところで、「神の国とその義」とは何でしょうか。リビングバイブルには「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えてくださいます」となっています。これは明らかに、優先順位の問題であります。衣食住をはじめ、この世のすべてことよりも、神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をする。わー、なんとなく気持ち良いですね。でも、しばらく前の教会は、神様を第一にすることは、教会の奉仕を第一とすることだと教えました。確かに神様を愛する人は、教会を愛するということが成り立つかもしれません。でも、神様イコール、教会となると様々な問題が生じてきます。仕事や家事をしないで、教会の集会や奉仕に専念したらどうなるでしょう。家族は「何やっているんだ!」と怒り出すでしょう。昔は、教会の集会を守り、奉仕をすることが神様を第一にすることだと教えたようであります。特に、きよめ派の教会はそうであります。世の人は「熱心だけど、付いていけないなー」と冷めた目で見るでしょう。私は神様と教会の奉仕とはイコールではないと思います。

 岸義紘先生も、岡山県のきよめ派の教会でお育ちになられました。その岸先生が、クリスチャンの優先順位をいうことを何かの本に書いておられました。第一は神様です。第二は何がくるでしょうか?家庭です。第三が仕事です。第四が教会の奉仕。第五が趣味や娯楽、となっていました。教会が第四番目になっています。わぉー、牧師たちは「それでは困る」と文句を言いたくなるかもしれません。私は神様を第一にするとは、神様との交わりを持つことだと思います。そのためには、聖書を読み、祈り、感謝をささげ礼拝します。多くの場合、それらを教会という建物でやってしまいます。教会で聖書を読み、教会で祈り、教会で感謝をささげ神様を礼拝します。もちろん、そういう時間も大切です。公同の礼拝や祈祷会を大切にしたら良いと思います。でも、教会とは建物ではありません。教会とはあなた自身なんです。あなたがいるところはイエス様がおられます。教会という建物に来なくても、家でも、学校でも、職場でも神様と交わることができます。むしろ、そちらの方が大切なのであります。なぜなら、あなたがそうすることによって、家や学校、職場が照らされ、祝福されるからです。教会の中はクリスチャンが集まりますので、これ以上、照らす必要はありません。まぶしいです。むしろ、私たちは暗い世の中に出て行く必要があります。たとえ小さな光でも、世の中が暗すぎるので結構、明るいと思います。当教会の姉妹方がある病院の研究室でパートタイム・ジョブをしているようです。病院の研究室って、標本なんかあったりして、結構、殺伐としているんじゃないでしょうか。そこに、3人もクリスチャンが集まり、祈るならどうなるでしょう。きっと、その場が照らされ、病院内に祝福が臨むでしょう。ですから、教会を建物として考えないで、生きた体としてダイナミックなものに考えるのです。ですから、奉仕は家庭でも、職場でも、もちろん教会の建物内でもできるわけです。ついでに、お掃除が足りないので、教会内のご奉仕もよろしくお願いしまーす。

 私たちの生活に優先順位を付けるということはものすごく重要なことであります。時間の優先順位、価値観の優先順位、労力をかける優先順位、お金を使う優先順位、愛することの優先順位があると思います。「愛することに優先順位があるんですか?」とお聞きになるかもしれません。マタイ10章でイエス様「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われました。私は家内を第一に愛さなければなりません。もし、他の女性を家内よりも愛するならば、問題になります。おお、危ない、危ない。男性諸君はどうでしょうか?仕事と家庭どちらを愛しますか?男は仕事中毒になりやすいんです。「俺はこんなに夜遅くまで働いているんだ!」といばる男性がいます。しかし、それは仕事を愛しているのではなく、中毒になっているのに過ぎないのです。奥さんにお聞きします。子どもとご主人、どちらを第一に愛しておられるでしょうか。「もう主人は諦めたので、子どもにします」。それではいけません。広島の植竹先生がおっしゃっていました。「子どもは夫婦の愛のおこぼれで充分である。夫を脇にどけて、子どもを愛しすぎると、子どもはそれに耐えることができない。子どもは風呂の手桶で充分だ」と。先週、共依存のことを石原先生がおっしゃっていました。母親と娘がべったりになって、夫は蚊帳の外。これを親子パックと言います。日本には、親子パックが多いです。そういう人は結婚できないし、もしも、結婚したら問題のある家庭を作るでしょう。愛の優先順位が狂っているからです。

 私たちは神の国の価値観をもって優先順位を決めるべきであります。趣味やギャンブルを優先順位の第一にすると生活が成り立たなくなります。神様や他の人よりも、自分の生活が第一になると自己中心的な生活になります。仕事、家事、教会の奉仕、ディボーション、趣味や娯楽など全部を攪拌機にかけて、重要なもの、そうでないもの、どうでも良いものと分けたら良いですね。そして、一日の生活、あるいは一週間でも良いですが。一番重要なことを最初にやるということです。それは神様のことですね。神様との交わりを第一にする。その次に家庭が来るか、仕事が来るか問題です。仕事も重要です。しかし、人間関係作りもとても大事ですね。神様から与えられたミニストリーもあるでしょう。最後には趣味とか娯楽がやってきます。でも、人間関係作りと合体させると効果的かもしれません。あなたの生活に、一日の生活に優先順位を立てましょう。優先順位をたてていない人はいつも忙しくて人々に振り回さされている人です。優先順位を建てるなら、主とともに主体的に生きることができます。ですから、神と共に交わり、神が喜ばれる優先順位たてて、価値ある毎日を送りましょう。もう一度リビングバイブルから引用します。「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えてくださいます」。アーメン。

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2006年1月 1日 (日)

「御国が来ますように」 マタイ6:9-15

新年明けましておめでとうございます。きょうは、元旦と聖日が重なっております。喜んで良いのか、悲しんで良いのか分かりません。でも、一年の初めに、神様を賛美し、神のことばを聞いて、感謝と願いをささげるということはすばらしいことではないかと思います。そして、今日の聖書箇所がまた、タイムリーで「主の祈り」であります。主の祈りというのは、イエス様が弟子たちに「こう祈りなさいよ」と教えた祈りです。ですから、主の祈りは、祈りの模範であり、私たちが時あるごとに祈るべき内容であります。

1.神様のための祈り

 まず、「主の祈り」を見て、びっくりすることは、最初に、神様のための祈りがあるということです。普通、祈りというのは「神様、○○してください。○○を与えてください」と、自分の願いや求めが最初に来るものです。でも、イエス様はそうではなく、「御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころが行なわれますように祈れ」とおっしゃいました。本日は元旦ですから、日本では初詣が始まります。多くの人たちが、この三ケ日、どこかの神社に初詣に行きます。日本は宗教を持っている人が人口の2倍いるといわれるのはそのためです。しかし、どうでしょうか。神様のために祈っている人が一人でもいるでしょうか。おそらく一人もいないでしょう。みんな「このことが叶いますように、あのことが叶いますように」と自分の必要だけであります。しかし、クリスチャンも対象は違うかもしれませんが、自分のことしか求めないとすれば、五十歩、百歩であります。神様は本当に、ご自分のために祈ってもらいたいのでしょうか?ご自分の名があがめられ、ご自分の思いがなされることを願っておられるとしたら、ちょっとわがままな感じがします。でも、神様が神様としてあがめられ、神様の思いがなされることが私たちにとって、一番幸いなことだ分かったらどうするでしょうか?
 この世では「発想の転換」ということがよく言われます。ものごとを違った方向から見るということはとても大切です。同じような意味で「パラダイムシフト」ということばがあります。これまで当たり前だと考えられていたことを逆から考えることです。一番有名なのは、コペルニクスの地動説です。それまでは、みんな天が動いているんだと考えていました。コペルニクスは「いや、地球が動いているんだ」と提唱しました。これが、パラダイムシフトであります。イエス様は、祈りのパラダイムシフトを弟子たちに教えたわけです。自分のことのために祈るのではなく、まず神様に目をとめなさいということです。村上宣道先生が「PBAだより」でこのようなことを述べていました。「一年の初めにはいろいろと計画を立てたり、目標を掲げたりするというのも、それはそれで大切なことに違いありません。ただ、『私の計画』『私の目標は』と言う前に、神のご計画に思いを向けていくことが、より大切なのではないでしょうか」。ああ、本当にそうだなーと思いました。イエス様は、6章の7,8節で「異邦人のようにくどくど祈らなくてもよい。父なる神様は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられる。だから、こう祈りなさい」と言われたのであります。
 もし、「主の祈り」の順番ではなく、私たちの必要とか、私たちの問題ばかりに目を留めて祈ったらどうなるでしょうか。「主よ、お金を与えてください。でも、お金は一体どこから来るでしょうか」。「主よ、この病気を癒してください。でも、現実、なかなか治りません」。「主よ、子どもが良くなるようにしてください。でも、とても反抗的で手に負えません」。問題に目を留めると、問題がますます大きくなり、神様が小さく見えてきます。しまいには、神様が見えなくなります。ある人は「10円玉2枚でお先、真っ暗になる」と言いました。そうですね。10円玉を目に近づけると、最後には視界が閉ざされてしまいます。同じように、問題をぐーっと近づけると、問題しか見えなくなり、信仰がどこかに行ってしまいます。ペテロという人物はそれと同じ経験をしました。イエス様が海を歩いて渡って来ました。ペテロは勇敢にも、「主よ、私に水の上を歩いてここまで来いと命じてください」と言いました。ペテロは舟から降りて、水の上を2,3歩、歩いたんです。人類史上、水の上を歩いたという人はおそらくいないでしょう。ペテロはそれをしたんです。ところが、波しぶきが顔にかかると、風を見てこわくなりました。ペテロはイエス様から目をそらし、吹いてくる風を見たんです。そのとたんに、沈みかけたのであります。ここに大切なことが言われています。私たちは問題とか障害に、目をとめると、信仰がなくなり疑いが心を支配してしまいます。そして、沈んでいくのです。
 では、どうしたら良いのでしょうか。神様を通して、問題を見るのです。そのためには、神様がどんなお方か?神様の力はどれほどか?神様のみこころとは何なのか?神様に、焦点をあてていくと、信仰が大きくなり、問題がだんだん小さくなっていきます。クリスチャンの佐々木弁護士はある本の中でこのように言いました。「どんな問題でもなんとかなる!全知全能の父なる神が、どんな問題でも解決してくれる。もちろん、必ずしもすべての問題が自分の願い通りに解決するわけではない。けれど、その人にとってもはや『問題が問題でなくなる』という確信を持ち続けていくと、ほとんどの場合、願いどおりに問題は解決してしまう。願ったとおりでないときには、神の永遠にして無限の視点からよく考えてみると、願った以上の良い解決が与えられていることがわかってくる」。ハレルヤ!要するに、神様に目を留めていくと、信仰が大きくなっていきます。なぜ、信仰が大切なんですか?神様は私たちの信仰を通して働くお方だからです。昨年、というか先週、「ああ、自分は信仰的に弱っているなー」と気がつきました。なぜでしょう?問題に目を留めていたからです。しまいに、問題にねじ伏せられていました。プライドのリングではありませんが、問題が私の上に乗っかって、ボカボカやられている状態です。ところが、「主の祈り」を備え始めたとたん、「ああ、神様から目をそらしていたなー」と気づいたんです。そして、自分の不信仰を悔い改めました。おお、そうしますと、形勢逆転です。今、問題はリングのあちら、こちらへと、逃げ回っています。
 イエス様が「まず神様のために祈れ」とお命じになられた理由は、結局は、私たちのためだったのです。私たちが自分の問題から目を神様に移し、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈ることが、結局は、私たちを問題から自由にするのです。結構、この地上では神様から目をそらすものが満ちています。必ずしも、悪いとは言えないけど、灰色のものがたくさんあります。
そういうものに、時間やエネルギーを取られて、気がついたらがんじがらめになっているときがあります。そのとき、「このことは御名があがめられていることだろうか。このことは御国が来ることとどういう関係があるだろうか。このことは神のみこころなのだろうか?」と問いを発するならどうでしょうか?神のみことばは鋭い諸刃の剣であると聖書に書かれています。その剣が、束縛のロープあるいは、共依存のベルトを断ち切ってくれるでしょう。私たちは主にあってもっとシンプルにならなければなりません。使徒パウロは、Ⅰコリント10:31で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」と言いました。ですから、積極的には、すべてのことを神の栄光を現わすことと何の関係があるのか問うてみるということはものすごく大切であろうと思います。一年には、52週の聖日礼拝があります。この聖日礼拝は、神様を見上げるときとなります。神様からの視点で自分の生活や問題を見つめるときとなります。もし、このような礼拝がなければ、たとえクリスチャンであっても、不信仰と疑いで地を這う生活を送るでしょう。ですから、私たちは定期的に神を見上げ、「御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころがなりますように」と願う必要があります。私たちそうやって身軽になって、御国に向かって進んで行くことができるのです。

2.私たちのための祈り

 主の祈りの後半は、私たちのための祈りです。「待ってました」と言いたいですが、内容がとても地味なのに驚きます。日毎の糧、罪の赦し、試みから守られるようにという祈りです。普通、私たちの祈りというのは、今、持っていないものを求めるところがあります。「新しい車が与えられますように」「昇給できますように」「素敵な人と巡り合うことができますように」「志望校に入れますように」「大勢の人が救われますように」とか。最初の話題に戻りますが、初詣に行って「日ごとの糧を与えてください」と祈っている人が一人もいるでしょうか。恐らく、いないと思います。私たちは日ごとの糧ぐらいでは、満足できないのです。そうではなく、「10年分の糧を与えてください。入院保証も与えてください」と祈りたくなります。なぜ、イエス様が「日毎の糧をきょうも与えてくださいと祈れ」と、おっしゃったのでしょうか?それは、6章の後半にありますように、天の父が、空の鳥や野の花を養う以上に私たちを養ってくださるからです。6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と書いてあります。何と私たちは、明日の糧、将来の糧のために思い煩っているのでしょうか。私たちの命は父なる神様の御手にあるのですから、一日一日、安んじて生きていけば良いのですね。今日の食べ物が与えられたら、主に感謝すべきであります。ああ、それなのに、きょう食べられることが当たり前ぐらいに思い、10年先のことを心配して生きています。
 昨年の暮れ、12月29日でしたが、ピンポーンと教会のドアホーンが鳴りました。受話器をとると、「2日も食べてないんです。何かお恵みください」という声でした。無視しようかな、と思いましたが、「お恵み」という言葉に感動しました。大の男が頭を下げて、「お恵みください」と言えるだろうか?パンとかバナナ、みかんを袋に入れ、ポケットにあった千円を上げました。顔を見たら、まだ40、50代。顔もツヤツヤしているし、「2日間も食べてないなんて嘘だろう!」と思いました。「でも、せっかく来たんだし、演技料も含めて、あれくらいいいや」と自分で納得しました。でも、「お恵み」ということばが、しばらく私のうちに残っていました。夕方になって、私はそのまま夕食の買い物に出かけました。「育ち盛りの息子にはやっぱり肉かなー」とあれこれ、籠に入れました。レジにならんで、ポケットに手をつっこむと、1700円あるはずなのに、1000円しかない。後で発見したのですが、700円はテレビの前に落ちていました。横になってテレビを見たからですね。さらに、思い出しました、「ああ、あの男にやったんだ!ああ、そうか」。籠の中から、肉とか飲みのものを棚に戻しました。残ったのが、「もやし3袋、わかめ、豆腐、納豆」計780円。買うのが、いやー、恥ずかしかったですね。だけど、ちゃんと食べられました。「日ごとの糧をきょうも与えてください」と祈る意味がわかりました。戦中・戦後の人たちは、「明日のことはともかく、きょう食べられるか」で、生きてきたんですね。だから、「主の祈り」がいかに大切か十分わかっておられると思います。問題は、40代以下の人たちですね。日毎の糧が与えられていることを感謝しましょう。
 私たちの祈りの2番目は、罪の赦しです。ここには負い目と書かれていますが、罪の赦しです。私たちは日々、罪の赦しを神様からいただく必要があります。罪は神様との関係を悪くし、私たちを霊的に窒息させるからです。イエス様が弟子たちの足を洗ってあげました。しかし、「全身は洗わなくても良い。すでに清いから」とも言われました。全身が清いとは、キリストの贖いによって罪が赦され、清い者とされているということです。ところが、私たちはこの世に足をつけて生きていますので、足が汚れてしまう。つまり、個々の罪を犯すということです。いわば、足の汚れは、地上で犯す個々の罪であります。これをイエス様から定期的に洗ってもらう必要があるということです。「私は大丈夫」という人がいますが、そういう人は一人もいません。洗わない足がどんなに臭くなるかご存知でしょう。同じように、独善と自己義認の臭いはたまりません。だから、気がついたらすぐ、「主よ。私の罪をお赦しください」と告白すべきです。クリスチャンにとって何が一番幸いか、それは神様から罪が赦されているということです。罪が赦されていない魂には平安がありません。いろんな問題があったとしても、罪が赦されていれば、ゆっくり眠ることができます。赦しの中を歩める、これはクリスチャンの特権です。
 しかし、問題になるのは他者の罪です。他の人が私に対して、犯した悪いことであります。私に対してひどい事を言ったとか、だました、あるいは損害を与えたという事柄です。マタイ18章にありますように、話し合いをした結果、赦すということであります。中には、相手が非を認めず、謝らないこともあるでしょう。そういう場合ですらも、こちら側は「赦す」のであります。しかし、「いや、絶対に赦せない。なんてひどいことをしたんだ。謝ってもらわなければ気がすまない」ということもあります。しかし、そういう時こそ、私たちは神様のことを考えなければなりません。私たちは神様から赦されていますが、赦しは簡単じゃないということです。「ああ、自分の罪が赦されることも容易なことじゃないんだなー」と気づくべきです。私は昨年の9月セミナーで、ある兄弟から「あなたは業績志向で生きています。だから、何かをしていないと気がすまないのです」と預言を受けました。「5年前ならまだしも、私は今は恵みの中で生きています!何をずけずけと、勝手なこと言いやがって!」と腹が立ちました。頭では赦していても、いやーな思いがずっと残っていました。ところが、11月インドネシヤに行って、ベン・ウオンの話を聞きました。あなたは関係作りのためにとる時間を無駄だと思ってはいませんか。子どもや奥さん、教会員とはどうだろうか?と言われて、ドキンとしました。電話も、日常会話も要件だけで済ましていました。そのとき、「9月にあの兄弟から言われたことが、やっぱり当たっているんじゃないのか」と気がつきました。そうか…、そういうことだったのか!その瞬間、赦せないという「感情のしこり」が取れました。神様が教えてくれたんだと思います。今は分からないがあとで分かるということがあるんです。ですから、あなたにも「あのことは赦せない!あいつがしたことは絶対赦せない」ということがあるかもしれません。それを神様に委ねましょう。きっと時が来たら、神様が教えてくださいます。私たちはできる限り、赦しの中で生きることにしましょう。神からの赦しは一番大きな恵みであることを忘れないように致しましょう。
 私たちの祈りの3番目は、試みから守られるようにという祈りです。「悪からお救いください」とありますが、これは一般的な悪ではなく、悪い者であります。悪い者の張本人はだれでしょうか?それは悪魔です。悪魔が私たちを試みに会わせるのです。イエス様ははっきり、「悪い者がいる、悪魔がいる!」と警告しています。罪のないイエス様ですら誘惑を受けたのですから、私たちはどうでしょうか?昨年の新聞を思い返すと、天災から事故、様々な事件がありました。小さな子どもたちも危険です。マンションを買った人たちも気の毒です。ぜんぜん、関係のない通り魔殺人もありました。電車や車、歩行者も危ない。ご老人をだます悪徳リフォーム会社。地震や津波もありました。先日、温泉に行ってガスを吸って亡くなった家族もいました。クリスチャンだからと言って、のほほーんとしていられないですね。だから、イエス様は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈れ、とおっしゃったのです。これは一年に一回やれば良いというものではありません。日毎の糧と罪の赦しと同じように、日々、祈るべきであります。私も6歳の有悟を送り出すときも必ず祈ります。車を運転するときも祈ります。もし、祈らないで車庫から出たなら、人とか車にぶつかっていたなーということがよくあります。一呼吸置くということはとても大切ですね。
 詩篇の91篇は危険なこの世で生きる私たちへの約束の言葉です。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」ヨハネには「1粒の麦」という言葉もありますので、この世の命を失うことがあるいはあるかもしれません。しかし、クリスチャンは死んだら、主のみもと、天国です。その時が来たら、潔く「ハレルヤ!」と言いましょう。でも、主が生かしてくださる限りは、ずぶとく生きましょう。
私たちは今、世の終わりの時代に生きていることを忘れてはいけません。世の終わりは地球全外が裁きに会うのです。私たちもその中に巻き込まれるかもしれません。でも、世の終わりは収穫の時でもあります。私たちの命は主の懐に中にあります。しかし、日本の99%は滅びの中にあります。なんとか一人でも多くの人が神との和解を受け入れ、救いに預かるようにお祈りいたしましょう。私たちは究極的にはどんなことがあっても救われます。しかし、イエス様を持っていない人はそうではありません。私たち教会は、この年も燈台として、命の光をこの世に向かって照らして行きたいと思います。

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