「御国が来ますように」 マタイ6:9-15
新年明けましておめでとうございます。きょうは、元旦と聖日が重なっております。喜んで良いのか、悲しんで良いのか分かりません。でも、一年の初めに、神様を賛美し、神のことばを聞いて、感謝と願いをささげるということはすばらしいことではないかと思います。そして、今日の聖書箇所がまた、タイムリーで「主の祈り」であります。主の祈りというのは、イエス様が弟子たちに「こう祈りなさいよ」と教えた祈りです。ですから、主の祈りは、祈りの模範であり、私たちが時あるごとに祈るべき内容であります。
1.神様のための祈り
まず、「主の祈り」を見て、びっくりすることは、最初に、神様のための祈りがあるということです。普通、祈りというのは「神様、○○してください。○○を与えてください」と、自分の願いや求めが最初に来るものです。でも、イエス様はそうではなく、「御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころが行なわれますように祈れ」とおっしゃいました。本日は元旦ですから、日本では初詣が始まります。多くの人たちが、この三ケ日、どこかの神社に初詣に行きます。日本は宗教を持っている人が人口の2倍いるといわれるのはそのためです。しかし、どうでしょうか。神様のために祈っている人が一人でもいるでしょうか。おそらく一人もいないでしょう。みんな「このことが叶いますように、あのことが叶いますように」と自分の必要だけであります。しかし、クリスチャンも対象は違うかもしれませんが、自分のことしか求めないとすれば、五十歩、百歩であります。神様は本当に、ご自分のために祈ってもらいたいのでしょうか?ご自分の名があがめられ、ご自分の思いがなされることを願っておられるとしたら、ちょっとわがままな感じがします。でも、神様が神様としてあがめられ、神様の思いがなされることが私たちにとって、一番幸いなことだ分かったらどうするでしょうか?
この世では「発想の転換」ということがよく言われます。ものごとを違った方向から見るということはとても大切です。同じような意味で「パラダイムシフト」ということばがあります。これまで当たり前だと考えられていたことを逆から考えることです。一番有名なのは、コペルニクスの地動説です。それまでは、みんな天が動いているんだと考えていました。コペルニクスは「いや、地球が動いているんだ」と提唱しました。これが、パラダイムシフトであります。イエス様は、祈りのパラダイムシフトを弟子たちに教えたわけです。自分のことのために祈るのではなく、まず神様に目をとめなさいということです。村上宣道先生が「PBAだより」でこのようなことを述べていました。「一年の初めにはいろいろと計画を立てたり、目標を掲げたりするというのも、それはそれで大切なことに違いありません。ただ、『私の計画』『私の目標は』と言う前に、神のご計画に思いを向けていくことが、より大切なのではないでしょうか」。ああ、本当にそうだなーと思いました。イエス様は、6章の7,8節で「異邦人のようにくどくど祈らなくてもよい。父なる神様は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられる。だから、こう祈りなさい」と言われたのであります。
もし、「主の祈り」の順番ではなく、私たちの必要とか、私たちの問題ばかりに目を留めて祈ったらどうなるでしょうか。「主よ、お金を与えてください。でも、お金は一体どこから来るでしょうか」。「主よ、この病気を癒してください。でも、現実、なかなか治りません」。「主よ、子どもが良くなるようにしてください。でも、とても反抗的で手に負えません」。問題に目を留めると、問題がますます大きくなり、神様が小さく見えてきます。しまいには、神様が見えなくなります。ある人は「10円玉2枚でお先、真っ暗になる」と言いました。そうですね。10円玉を目に近づけると、最後には視界が閉ざされてしまいます。同じように、問題をぐーっと近づけると、問題しか見えなくなり、信仰がどこかに行ってしまいます。ペテロという人物はそれと同じ経験をしました。イエス様が海を歩いて渡って来ました。ペテロは勇敢にも、「主よ、私に水の上を歩いてここまで来いと命じてください」と言いました。ペテロは舟から降りて、水の上を2,3歩、歩いたんです。人類史上、水の上を歩いたという人はおそらくいないでしょう。ペテロはそれをしたんです。ところが、波しぶきが顔にかかると、風を見てこわくなりました。ペテロはイエス様から目をそらし、吹いてくる風を見たんです。そのとたんに、沈みかけたのであります。ここに大切なことが言われています。私たちは問題とか障害に、目をとめると、信仰がなくなり疑いが心を支配してしまいます。そして、沈んでいくのです。
では、どうしたら良いのでしょうか。神様を通して、問題を見るのです。そのためには、神様がどんなお方か?神様の力はどれほどか?神様のみこころとは何なのか?神様に、焦点をあてていくと、信仰が大きくなり、問題がだんだん小さくなっていきます。クリスチャンの佐々木弁護士はある本の中でこのように言いました。「どんな問題でもなんとかなる!全知全能の父なる神が、どんな問題でも解決してくれる。もちろん、必ずしもすべての問題が自分の願い通りに解決するわけではない。けれど、その人にとってもはや『問題が問題でなくなる』という確信を持ち続けていくと、ほとんどの場合、願いどおりに問題は解決してしまう。願ったとおりでないときには、神の永遠にして無限の視点からよく考えてみると、願った以上の良い解決が与えられていることがわかってくる」。ハレルヤ!要するに、神様に目を留めていくと、信仰が大きくなっていきます。なぜ、信仰が大切なんですか?神様は私たちの信仰を通して働くお方だからです。昨年、というか先週、「ああ、自分は信仰的に弱っているなー」と気がつきました。なぜでしょう?問題に目を留めていたからです。しまいに、問題にねじ伏せられていました。プライドのリングではありませんが、問題が私の上に乗っかって、ボカボカやられている状態です。ところが、「主の祈り」を備え始めたとたん、「ああ、神様から目をそらしていたなー」と気づいたんです。そして、自分の不信仰を悔い改めました。おお、そうしますと、形勢逆転です。今、問題はリングのあちら、こちらへと、逃げ回っています。
イエス様が「まず神様のために祈れ」とお命じになられた理由は、結局は、私たちのためだったのです。私たちが自分の問題から目を神様に移し、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈ることが、結局は、私たちを問題から自由にするのです。結構、この地上では神様から目をそらすものが満ちています。必ずしも、悪いとは言えないけど、灰色のものがたくさんあります。
そういうものに、時間やエネルギーを取られて、気がついたらがんじがらめになっているときがあります。そのとき、「このことは御名があがめられていることだろうか。このことは御国が来ることとどういう関係があるだろうか。このことは神のみこころなのだろうか?」と問いを発するならどうでしょうか?神のみことばは鋭い諸刃の剣であると聖書に書かれています。その剣が、束縛のロープあるいは、共依存のベルトを断ち切ってくれるでしょう。私たちは主にあってもっとシンプルにならなければなりません。使徒パウロは、Ⅰコリント10:31で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」と言いました。ですから、積極的には、すべてのことを神の栄光を現わすことと何の関係があるのか問うてみるということはものすごく大切であろうと思います。一年には、52週の聖日礼拝があります。この聖日礼拝は、神様を見上げるときとなります。神様からの視点で自分の生活や問題を見つめるときとなります。もし、このような礼拝がなければ、たとえクリスチャンであっても、不信仰と疑いで地を這う生活を送るでしょう。ですから、私たちは定期的に神を見上げ、「御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころがなりますように」と願う必要があります。私たちそうやって身軽になって、御国に向かって進んで行くことができるのです。
2.私たちのための祈り
主の祈りの後半は、私たちのための祈りです。「待ってました」と言いたいですが、内容がとても地味なのに驚きます。日毎の糧、罪の赦し、試みから守られるようにという祈りです。普通、私たちの祈りというのは、今、持っていないものを求めるところがあります。「新しい車が与えられますように」「昇給できますように」「素敵な人と巡り合うことができますように」「志望校に入れますように」「大勢の人が救われますように」とか。最初の話題に戻りますが、初詣に行って「日ごとの糧を与えてください」と祈っている人が一人もいるでしょうか。恐らく、いないと思います。私たちは日ごとの糧ぐらいでは、満足できないのです。そうではなく、「10年分の糧を与えてください。入院保証も与えてください」と祈りたくなります。なぜ、イエス様が「日毎の糧をきょうも与えてくださいと祈れ」と、おっしゃったのでしょうか?それは、6章の後半にありますように、天の父が、空の鳥や野の花を養う以上に私たちを養ってくださるからです。6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と書いてあります。何と私たちは、明日の糧、将来の糧のために思い煩っているのでしょうか。私たちの命は父なる神様の御手にあるのですから、一日一日、安んじて生きていけば良いのですね。今日の食べ物が与えられたら、主に感謝すべきであります。ああ、それなのに、きょう食べられることが当たり前ぐらいに思い、10年先のことを心配して生きています。
昨年の暮れ、12月29日でしたが、ピンポーンと教会のドアホーンが鳴りました。受話器をとると、「2日も食べてないんです。何かお恵みください」という声でした。無視しようかな、と思いましたが、「お恵み」という言葉に感動しました。大の男が頭を下げて、「お恵みください」と言えるだろうか?パンとかバナナ、みかんを袋に入れ、ポケットにあった千円を上げました。顔を見たら、まだ40、50代。顔もツヤツヤしているし、「2日間も食べてないなんて嘘だろう!」と思いました。「でも、せっかく来たんだし、演技料も含めて、あれくらいいいや」と自分で納得しました。でも、「お恵み」ということばが、しばらく私のうちに残っていました。夕方になって、私はそのまま夕食の買い物に出かけました。「育ち盛りの息子にはやっぱり肉かなー」とあれこれ、籠に入れました。レジにならんで、ポケットに手をつっこむと、1700円あるはずなのに、1000円しかない。後で発見したのですが、700円はテレビの前に落ちていました。横になってテレビを見たからですね。さらに、思い出しました、「ああ、あの男にやったんだ!ああ、そうか」。籠の中から、肉とか飲みのものを棚に戻しました。残ったのが、「もやし3袋、わかめ、豆腐、納豆」計780円。買うのが、いやー、恥ずかしかったですね。だけど、ちゃんと食べられました。「日ごとの糧をきょうも与えてください」と祈る意味がわかりました。戦中・戦後の人たちは、「明日のことはともかく、きょう食べられるか」で、生きてきたんですね。だから、「主の祈り」がいかに大切か十分わかっておられると思います。問題は、40代以下の人たちですね。日毎の糧が与えられていることを感謝しましょう。
私たちの祈りの2番目は、罪の赦しです。ここには負い目と書かれていますが、罪の赦しです。私たちは日々、罪の赦しを神様からいただく必要があります。罪は神様との関係を悪くし、私たちを霊的に窒息させるからです。イエス様が弟子たちの足を洗ってあげました。しかし、「全身は洗わなくても良い。すでに清いから」とも言われました。全身が清いとは、キリストの贖いによって罪が赦され、清い者とされているということです。ところが、私たちはこの世に足をつけて生きていますので、足が汚れてしまう。つまり、個々の罪を犯すということです。いわば、足の汚れは、地上で犯す個々の罪であります。これをイエス様から定期的に洗ってもらう必要があるということです。「私は大丈夫」という人がいますが、そういう人は一人もいません。洗わない足がどんなに臭くなるかご存知でしょう。同じように、独善と自己義認の臭いはたまりません。だから、気がついたらすぐ、「主よ。私の罪をお赦しください」と告白すべきです。クリスチャンにとって何が一番幸いか、それは神様から罪が赦されているということです。罪が赦されていない魂には平安がありません。いろんな問題があったとしても、罪が赦されていれば、ゆっくり眠ることができます。赦しの中を歩める、これはクリスチャンの特権です。
しかし、問題になるのは他者の罪です。他の人が私に対して、犯した悪いことであります。私に対してひどい事を言ったとか、だました、あるいは損害を与えたという事柄です。マタイ18章にありますように、話し合いをした結果、赦すということであります。中には、相手が非を認めず、謝らないこともあるでしょう。そういう場合ですらも、こちら側は「赦す」のであります。しかし、「いや、絶対に赦せない。なんてひどいことをしたんだ。謝ってもらわなければ気がすまない」ということもあります。しかし、そういう時こそ、私たちは神様のことを考えなければなりません。私たちは神様から赦されていますが、赦しは簡単じゃないということです。「ああ、自分の罪が赦されることも容易なことじゃないんだなー」と気づくべきです。私は昨年の9月セミナーで、ある兄弟から「あなたは業績志向で生きています。だから、何かをしていないと気がすまないのです」と預言を受けました。「5年前ならまだしも、私は今は恵みの中で生きています!何をずけずけと、勝手なこと言いやがって!」と腹が立ちました。頭では赦していても、いやーな思いがずっと残っていました。ところが、11月インドネシヤに行って、ベン・ウオンの話を聞きました。あなたは関係作りのためにとる時間を無駄だと思ってはいませんか。子どもや奥さん、教会員とはどうだろうか?と言われて、ドキンとしました。電話も、日常会話も要件だけで済ましていました。そのとき、「9月にあの兄弟から言われたことが、やっぱり当たっているんじゃないのか」と気がつきました。そうか…、そういうことだったのか!その瞬間、赦せないという「感情のしこり」が取れました。神様が教えてくれたんだと思います。今は分からないがあとで分かるということがあるんです。ですから、あなたにも「あのことは赦せない!あいつがしたことは絶対赦せない」ということがあるかもしれません。それを神様に委ねましょう。きっと時が来たら、神様が教えてくださいます。私たちはできる限り、赦しの中で生きることにしましょう。神からの赦しは一番大きな恵みであることを忘れないように致しましょう。
私たちの祈りの3番目は、試みから守られるようにという祈りです。「悪からお救いください」とありますが、これは一般的な悪ではなく、悪い者であります。悪い者の張本人はだれでしょうか?それは悪魔です。悪魔が私たちを試みに会わせるのです。イエス様ははっきり、「悪い者がいる、悪魔がいる!」と警告しています。罪のないイエス様ですら誘惑を受けたのですから、私たちはどうでしょうか?昨年の新聞を思い返すと、天災から事故、様々な事件がありました。小さな子どもたちも危険です。マンションを買った人たちも気の毒です。ぜんぜん、関係のない通り魔殺人もありました。電車や車、歩行者も危ない。ご老人をだます悪徳リフォーム会社。地震や津波もありました。先日、温泉に行ってガスを吸って亡くなった家族もいました。クリスチャンだからと言って、のほほーんとしていられないですね。だから、イエス様は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈れ、とおっしゃったのです。これは一年に一回やれば良いというものではありません。日毎の糧と罪の赦しと同じように、日々、祈るべきであります。私も6歳の有悟を送り出すときも必ず祈ります。車を運転するときも祈ります。もし、祈らないで車庫から出たなら、人とか車にぶつかっていたなーということがよくあります。一呼吸置くということはとても大切ですね。
詩篇の91篇は危険なこの世で生きる私たちへの約束の言葉です。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」ヨハネには「1粒の麦」という言葉もありますので、この世の命を失うことがあるいはあるかもしれません。しかし、クリスチャンは死んだら、主のみもと、天国です。その時が来たら、潔く「ハレルヤ!」と言いましょう。でも、主が生かしてくださる限りは、ずぶとく生きましょう。
私たちは今、世の終わりの時代に生きていることを忘れてはいけません。世の終わりは地球全外が裁きに会うのです。私たちもその中に巻き込まれるかもしれません。でも、世の終わりは収穫の時でもあります。私たちの命は主の懐に中にあります。しかし、日本の99%は滅びの中にあります。なんとか一人でも多くの人が神との和解を受け入れ、救いに預かるようにお祈りいたしましょう。私たちは究極的にはどんなことがあっても救われます。しかし、イエス様を持っていない人はそうではありません。私たち教会は、この年も燈台として、命の光をこの世に向かって照らして行きたいと思います。
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