裁き合わない マタイ7:1-6
6節に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはいけません」というみことばがあります。世の中でも「豚に真珠」「猫に小判」というような格言にもなっています。これは、神様からの恵みとか訓戒を与えても足で踏みにじり、向かってくる人たちのことであります。私たちは、主の御声に聴き従う砕かれた魂を持ちたいと思います。本日は、「裁き合わない」という1つのポイントでお話したいと思います。
①裁きの法則
「裁く」というギリシヤ語は、肯定的には「分析する」「評価する」「価値判断を下す」という意味があります。また、「見下げる」「批判する」「非難する」「中傷する」という否定的な意味もあります。ここで言われている「裁き」は、後者の方であります。これは、法廷で有罪判決を下すというような状況で言われているのではありません。そうではなく、共同体の中で仲間と交わっていく中で起こる出来事です。裁き合う対象が外部の人ではなく、教会内の兄弟姉妹なんです。おお、教会は同じ価値観、同じ使命観で生きていますので、小さな違いにも敏感に反応してしまうところがあります。世の中では、たいしたことのない問題も、教会では一大事、みたいに思われるわけです。対象が牧師、献身者、役員であるならば、測る尺度がとりわけ厳しくなります。「あれでも牧師?」「あれでも神学生?」なんて、よくありがちです。これが、お坊さんとか、どこかの会社の社長だったら「しょうがないなー」で終わりです。教会の人たちは「みことば」という、ものすごく鋭い両刃の剣を持っています。これがまたよく切れるんです。しかし、両刃の剣ですから、相手を切った拍子に、自分の足を切ってしまうこともあります。
ですから、イエス様はこのように言われました。1節、2節。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。リビングバイブルでは同じ箇所をこのように訳しています。「人のあら捜しをしてはいけません。自分もそうされないためです。なぜなら、あなたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです」。私には6歳になる子供がいます。私たちは「頭良いねー」とか「よくできたねー」とほめます。そういう場合、子どもはとても素直です。しかし、お姉ちゃんやお兄ちゃんが、「だめだ」とか、「よくない」などとさばくとどうでしょう。もう、一変して、タメ口になり悪い言葉が機関銃のように出てきます。なんで、こんなに変わるのかなーと驚きます。不思議な法則があります。さばれていると、自分の中にある反抗心とか怒りが自動的に反応します。逆に、受け入れられていると、素直な自分が出てきます。「裁くと裁かれる」、これは、神が定めた宇宙の法則です。この世界にはたくさんの法則があります。作用反作用の法則、万有引力の法則、ボイルの法則…いろいろ学校でならいました。たとえば、父親もしくは母親を裁くと、あなたもいずれさばかれることになります。独身のときはわからなくても、自分が親になったとき、「どばーん」と来ますね。今、皆さんの中で刈り取りをしている人はいないでしょうか。兄弟姉妹の中でも裁きやすい人がいます。人の悪口や批判をする人がいます。なぜでしょう?それは、自分がかつてさばかれ、その傷が癒されていないからであります。
私の父は本当に人をさばく人でした。酒を飲んでは政治家から村の人たち、そして親戚、家族中をさばきました。だから、私たち子どもは父の悪いことばによって、いっぱい汚されて育ちました。だから、私が学校に入ると友達のことを平気でさばきました。会社に入ると同僚や上司をさばきました。私がクリスチャンになってまもなく、大川牧師は「お互いに裁き会わない教会を作りましょう」と言われました。「なぜなら、聖霊様はご人格をもっていらっしゃいますから、お互いに裁き合うと居心地が悪くなって消えてしまわれる。しかし、お互いに裁き合わないで愛し合うなら、聖霊様が喜び、救いのみわざを進めてくださる」。そんな風に教えられました。と、言われても、簡単に変えられる訳がありません。25年間の垢が染み込んでいますから…。だから、結婚してからかなり訓練されたかなーと思います。家内が「どうしてそんなに批判的なの?」と私をさばいてくれました。さばかれて育ってきた人は、さばきに対して過剰反応します。1発やられたら倍に返さないと気がすまない。あるいは、自分がさばかれないように、先制攻撃する場合もありますね。しかし、そうなると信仰生活は砂漠化してしまいます。人を裁くと、砂漠化する。これが、作用反作用のような絶対的な法則であります。人をさばいていると、今度は神様からも憐れみを求められなくなってしまいます。「神様、私のことはお赦しくださいね」とは、言えなくなります。やがて、霊的に枯渇していきます。
②裁きの破壊力
イエス様はさらに、どう教えておられるでしょうか?3,4節、「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか」。イエス様が大工さんだったから、こんなたとえを用いたのかもしれません。ちりというのは小さなほこりですが、梁というのは、柱どうしを支える横の木材です。こんな何メートルもあるような木材が目にあるなんで、ものすごい皮肉であります。繰り返し申し上げますが、ここで言う「兄弟」とは、神様をお父さんと呼ぶ信仰者の仲間のことです。私たちは外部の人たちには寛容ですが、仲間に対しては厳しくなってしまいます。でも、イエス様はまず自分の梁に気づくようにと勧めておられます。岸義紘先生はある本で、裁き合いのことを「ちり梁戦争」とおっしゃっておりました。その本の挿絵にはお互いの目から、梁が「ボーン」と、飛び出しています。もうあぶなくてしょうがないですね。どうも、私たちは「自分の欠点や失敗には寛容で、兄弟姉妹に対しては厳しい」という罪の性質が宿っているようです。イエス様は教会という共同体を健康に保つために、このような教えをなされたのだと思います。使徒パウロは、エペソ4:29で「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」と言われました。悪い言葉とは、非難する、中傷、ゴシップであります。私たちは殺人とか盗みが大きな罪じゃないかと思います。しかし、共同体を壊すもっとも大きな武器は、悪いことば、中傷、ゴシップであります。サタンは悪いことばを、共同体を刺し殺す、矢のように用いるからです。ですから、私たちは極力、兄弟姉妹をさばく、悪いことばを発しないように気をつけなければなりません。
先週のディボーションの箇所はマルコ福音書の後半でした。マルコ15章は十字架のシーンです。聖書には「彼らはイエスを十字架につけた」とたった1節で終わっています。しかし、それよりもずっと、ずっと多く書いているのは、人々がイエス様をなじったり、嘲笑したことばであります。群衆、ローマ兵、ふたりの強盗、宗教家たちが次々を悪いことばをあびせています。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」「他人は救ったが自分は救えない」とか、めちゃくちゃなことを言っています。十字架という肉体の苦しみも大きかったかもしれませんが、イエス様にとって、おそらく、そういう悪いことばの方かダメージを与えたのではないかと思います。これから、ユダヤ人と世界の人たちのために贖いの死を成し遂げるときに、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。そうしたら信じる」なんて言われたのです。もちろん、私もその場にいたら、それ以上の悪いことばをあびせていたかもしれません。だけど、私たちが気づかなければならないのは、悪いことばで、人をさばいたりしたときは、イエス様の心を痛めているということです。イエス様が贖い、イエス様が愛している人をさばくわけですから、当然であります。考えてみると、私たちも同じムジナであります。私たちも罪赦され、あわれみの中に置かれているわけです。天国に向かっている教会という箱舟の中で、悪口を言い合うなら、問題であります。神様から見たら、私たちは同じ罪びとであり、同じ傷ものであり、同じ欠点を持っている者同士です。これはやっぱり赦し合い、受け入れ合っていくしかないなーと思います。
③裁きに対する癒し
では、どのようにしたら私たちは裁き合わないで、赦し合うことができるのでしょうか。「裁くんじゃないよ」と言われても、そうできないのが私たちであります。解決の第一は、過去において自分を見下げた人、馬鹿にした人、中傷した人たちを赦すことです。なぜ、私たちが大人になって、裁きは悪いことだけどやってしまうのか。それは私たちのインナーチャイルド、内なる子どもが傷ついているからです。体が大きくなっても、内なる子どもは怒りに満ちている。だから、同じような状況になったとき、反応してしまうのです。だから、子どものときに遡って、あなたが赦せないと怒った人たちを「赦します」と宣言すべきです。ある人がこんな絵を描きました。被害者と加害者がいます。被害者の手かせ(ブレスレット)から1本の鎖がのびています。その鎖は、加害者の首かせにつながっています。被害者の手首は痛んで血が出ています。もし、被害者が赦さないというブレスレットをはずしたら、加害者の首かせもはずれます。あなたは、赦さないという手かせ、ブレスレットをつけてはいませんか。そのままでは怒りの奴隷です。あなたはイエス様によって罪赦され、神の子どもとなったのですから、喜んで、手かせをはずしましょう。加害者を解放してあげましょう。第二は、聖霊の水によって洗い流してもらうことです。あなたは、両親や友達、学校の先生などの悪いことばによって汚されたのです。ですから、慰め主である聖霊によって、洗い流してもらう必要があります。汚れがいっぱいついていたんですから。洗濯しなければなりません。テレビのCMでもあります。真っ白になって、どこに洗濯物があるか分からないで突っ込んでしまうほど白くなる。そして肌にふれて、気持ち良いくらいに回復されます。第三は、裁きの構造を十字架につけることです。裁きやすい体質はもう性格になっています。性格はなかなか変えられません。これは十字架につけるしかないんです。裁きの構造を十字架に釘付けしましょう。解放のキャンプでは「私がイエス様を十字架につけました」という証として一人ひとりが5寸釘を十字架に打ち込みます。しかし、あるセミナーでは自分の罪を書き記した紙を釘で打ちつけていました。実際にやる、やらないはともかく、信仰によって、裁きの構造を十字架に釘付けしましょう。そうすると性格に変革がやってきます。
私はある牧師のスポンサーをしたことがあります。その牧師は教会員の欠点ばかり見え、「まだ、だめだ、まだだめだ」と裁いていました。同じ教団の牧師たちをも裁いていました。「お父さんはどういう人でしたか?」と聞きました。お父さんは紡績工場の社長で、よく従業員の悪口を家庭で言っていたそうです。「あいつは見かけはこうだけど、こういうところがなっていない」と子どもたちの前でしょっちゅう裁いていた。それが、知らず知らずのうちに、子どもの頭の中に入っていったのです。お父さんのようにはなるまいと思ってはいましたが、気がつくと、お父さんのように周りの人たちを裁いていたということです。ああー、私と同じだなーと共感しました。私は日本の国、全体が否定的な国だと思います。学校のテストでも○よりも、×の方が力が入ります。その子には長所がたくさんあるのに、短所だけを指摘するところがあります。アメリカ人がベリーグッド、ワンダフルとほめてくれても、「ほんとかな?うそだろ?」と素直に喜ぶことができません。そういう家庭や学校で育った人が、教会に来て一ぺんに変わるわけがありません。考えてみると、教会は工事現場であります。だれでも、天国に行くまで工事中です。側に近づくと穴ぼこに落ちたり、石が上から落ちてくるかもしれません。工事現場の看板は、ヘルメットをかぶった人が、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ペコリ」となっています。私たちも、「ペコリ」の名札が必要であります。また、教会はコインランドリーかもしれません。みんな、洗濯をしています。ごろごろ、とドラムが回っています。汚い水から、きれいな水へと入れ替え中かもしれません。こりゃーどうしようもない頑固な汚れだなーというのもあるかもしれません。どうぞ、裁きあわないで赦し合う共同体を作りましょう。
癒しだけで終わってはいけません。最終段階があります。それは訓練を受けるということです。みなさん、裁きと訓戒や忠告とは違います。訓戒や忠告は聖書的であります。これは成長するために必要不可欠です。私たちは子どものままではよくありません。成長するためには堅い食物も必要なのです。いつまでも、「ありのままで良いよー、そのままで良いよ」というのは、まだ離乳食の段階です。大きくなるためには訓練が必要なんです。スポーツや音楽をやっている人は分かると思いますが、上達するためにはトレーニングが必要です。そうすると腕や足の筋肉がつきます。いろんな技術が身に付きます。天の父は私たちが成長するために、試練も与えます。とても辛いこともあります。でも、後になると義の実を結ぶことができます。「ああー、あのとき訓練されたから今の私があるんだ!」と良い思い出になります。癒しはゴールではありません。癒しは成長のための第一歩です。癒されたら、訓練を受け、成長を目指すのです。ハレルヤ!ゴールは何でしょう。ゴールは、イエス様に似た者となることです。イエス様のように愛と寛容と忍耐に満ちた人になることです。お祈りいたしましょう。
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