神の国とその義 マタイ6:25-34
解放のキャンプのお証をありがとうございます。クリスチャンになっても、けっこう私たちは縛られているものですね。解放のキャンプは一気に手術するようなスタイルです。時間をかけてゆっくりという道もありますので、出席できなかった方は心配しないでください。きょうのメッセージの第一のポイントは…
1.心配するな
マタイ6章の後半には、「心配するな」と6回も言われています。「心配するな」といわれても心配するのが人間であります。心配は不安と置き換えても良いかもれませんが、何か原因があるから不安なのです。だから、私たちはそれをもたらす原因と向き合って、解決していく必要があります。問題が解決しますと、自然と心配や不安は消えてなくなります。この聖書では「心配するな」ですが、キングジェームス訳は、Don’t worryになっています。少し前の、口語訳や文語訳は「思い煩うな」と訳しています。ギリシヤ語の「心配する」は、分けるとか分裂するという言葉と関係があります。ですから、心が「あのことはどうしょう」「このことはどうしょう」と引き裂かれている状態を表しています。みなさんの心は、あのことと、このことに引き裂かれているでしょうか。その当時の人々は、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配していました。32節で、イエス様は「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです」と言われました。異邦人とはまことの神を知らない人たちのことです。テレビ、新聞、雑誌、最近ではインターネットに、さまざまな公告やコマーシャルが出てきます。ほとんどが、何を食べるか、飲むか、着るかであります。衣食住が満たされると、もっと贅沢なもの、たとえばセレブに走ります。洪水のように流れるコマーシャルのもとで、「これも欲しいなー、あれも買いたいなー」と思うようになります。しかし、どんなに社会が複雑であろうと、だれがこの世界を動かし、だれがこの世界の被造物を養っていか考えるべきであります。それは、天の父であります。
イエス様は、一番身近なものを題材にしてそのことを教えられました。1つは、空の鳥であります。26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」。種蒔きと刈り入れは、労働を意味します。イエス様は怠惰になることを勧めておられるのではありません。鳥だって、朝早く起きて虫をついばんでいます。しかし、鳥は人間のように思い煩ってはいません。私は毎朝、中川に散歩に出かけます。冬は鳥たちにとって、厳しい季節かなーと思います。鵜は冷たい川にもぐって魚を捕っています。すずめとか鳩は、枯れ草の間のわずかな種をついばんでします。カラスはゴミをあさったりしながら、なんでも食べて生きています。イエス様は、「あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と言われました。これは、「すべての被造物に勝っている人間を神が顧ないことがあろうか」と言う意味です。野のゆりはどうでしょうか?パレスチナには、アネモネ、ゆり、けし、グラジオラスが咲くようであります。砂漠から熱風が吹いてくると、1日で枯れる場合もあります。そういう花でも、神は装ってくださる。ソロモンの栄華もその美しさにはかないません。イエス様は「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」と言われました。
なぜ、人間は思い煩うのでしょうか?それは、アダム以来、人間は神から離れ、自分の力のみに頼って生きているからです。しかも、土地は呪われ、苦しんで食を得なければならなくなりました。エデンの園では、人はおそらく、思い煩う必要はなかったでしょう。でも、イエス・キリストは私たちを贖うために地上に来られました。イエス様は、罪を贖い、神様と私たちを結びつけてくださいました。そのことによって、私たちは天の父を持ち、子としての立場が回復されたのです。神様が父であるならば、子どもを養ってくれるのは当然であります。しかし、現実は厳しいです。私たちは神の子ではありますが、神を離れたこの世で生きています。イエス様は「信仰の薄い人たち」と言われました。やはり、この世で神の子として生きていくためには、信仰が必要であります。思い煩いと信仰は両極のものであります。信仰が来れば思わずらいは消えてなくなり、思い煩いが来れば信仰が消えてなくなります。
では、私たちは何を信じるべきなのでしょうか。第一は、天の父がすべての必要の根源者であるということです。詩篇121「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」とあります。天と地を作られた神様に目を向ける。そこから、助けがやって来る。世の中の構造はものすごく複雑です。「とは言ったって、どこからお金が降ってくるのか?」「とは言ったって、結婚相手がどこから降ってくるのか?」「とは言ったって、仕事がどこから降ってくるのか?」と言いたくなります。でも、元旦の礼拝で申し上げましたように、問題から目を上げて、天地を造られた主を仰ぐのです。そうしますと、神の視点から問題を見ることができ、信仰がやってきます。とにかく、神様に期待するのです。神様は天地の創造者であり、私たちのすべての必要を持っていらっしゃいます。
第二番目に私たちはイエス・キリストの御名を持っています。ピリピ4:19「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。天の御倉を開ける鍵は、イエス・キリストであります。現実を先に持って来ては、列車は動きません。先頭は、約束のみことばです。その次に信仰です。すると、現実があとから付いて来ます。信仰は列車の釜を燃やす火であります。空気は祈りです。「主よ、信じます!信じます!信じます!」と願うなら、列車が走り出します。最初はゆっくりです。出だしはものすごく力がいります。でも、走り出しますと、少しずつ結果が見えてきます。思い煩いは信仰の火を消してしまいます。そうではなく、神様を見上げ、約束のみことばいただきなら求めるのです。最後に、ピリピ4:6を引用いたします。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。
2.神の国とその義を求めよ
6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。「だから」というのは、父なる神様が私たちのすべてのことを面倒見てくださるからであります。イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めるなら、衣食住の問題は解決するよ」と教えておられます。ところで、「神の国とその義」とは何でしょうか。リビングバイブルには「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えてくださいます」となっています。これは明らかに、優先順位の問題であります。衣食住をはじめ、この世のすべてことよりも、神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をする。わー、なんとなく気持ち良いですね。でも、しばらく前の教会は、神様を第一にすることは、教会の奉仕を第一とすることだと教えました。確かに神様を愛する人は、教会を愛するということが成り立つかもしれません。でも、神様イコール、教会となると様々な問題が生じてきます。仕事や家事をしないで、教会の集会や奉仕に専念したらどうなるでしょう。家族は「何やっているんだ!」と怒り出すでしょう。昔は、教会の集会を守り、奉仕をすることが神様を第一にすることだと教えたようであります。特に、きよめ派の教会はそうであります。世の人は「熱心だけど、付いていけないなー」と冷めた目で見るでしょう。私は神様と教会の奉仕とはイコールではないと思います。
岸義紘先生も、岡山県のきよめ派の教会でお育ちになられました。その岸先生が、クリスチャンの優先順位をいうことを何かの本に書いておられました。第一は神様です。第二は何がくるでしょうか?家庭です。第三が仕事です。第四が教会の奉仕。第五が趣味や娯楽、となっていました。教会が第四番目になっています。わぉー、牧師たちは「それでは困る」と文句を言いたくなるかもしれません。私は神様を第一にするとは、神様との交わりを持つことだと思います。そのためには、聖書を読み、祈り、感謝をささげ礼拝します。多くの場合、それらを教会という建物でやってしまいます。教会で聖書を読み、教会で祈り、教会で感謝をささげ神様を礼拝します。もちろん、そういう時間も大切です。公同の礼拝や祈祷会を大切にしたら良いと思います。でも、教会とは建物ではありません。教会とはあなた自身なんです。あなたがいるところはイエス様がおられます。教会という建物に来なくても、家でも、学校でも、職場でも神様と交わることができます。むしろ、そちらの方が大切なのであります。なぜなら、あなたがそうすることによって、家や学校、職場が照らされ、祝福されるからです。教会の中はクリスチャンが集まりますので、これ以上、照らす必要はありません。まぶしいです。むしろ、私たちは暗い世の中に出て行く必要があります。たとえ小さな光でも、世の中が暗すぎるので結構、明るいと思います。当教会の姉妹方がある病院の研究室でパートタイム・ジョブをしているようです。病院の研究室って、標本なんかあったりして、結構、殺伐としているんじゃないでしょうか。そこに、3人もクリスチャンが集まり、祈るならどうなるでしょう。きっと、その場が照らされ、病院内に祝福が臨むでしょう。ですから、教会を建物として考えないで、生きた体としてダイナミックなものに考えるのです。ですから、奉仕は家庭でも、職場でも、もちろん教会の建物内でもできるわけです。ついでに、お掃除が足りないので、教会内のご奉仕もよろしくお願いしまーす。
私たちの生活に優先順位を付けるということはものすごく重要なことであります。時間の優先順位、価値観の優先順位、労力をかける優先順位、お金を使う優先順位、愛することの優先順位があると思います。「愛することに優先順位があるんですか?」とお聞きになるかもしれません。マタイ10章でイエス様「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われました。私は家内を第一に愛さなければなりません。もし、他の女性を家内よりも愛するならば、問題になります。おお、危ない、危ない。男性諸君はどうでしょうか?仕事と家庭どちらを愛しますか?男は仕事中毒になりやすいんです。「俺はこんなに夜遅くまで働いているんだ!」といばる男性がいます。しかし、それは仕事を愛しているのではなく、中毒になっているのに過ぎないのです。奥さんにお聞きします。子どもとご主人、どちらを第一に愛しておられるでしょうか。「もう主人は諦めたので、子どもにします」。それではいけません。広島の植竹先生がおっしゃっていました。「子どもは夫婦の愛のおこぼれで充分である。夫を脇にどけて、子どもを愛しすぎると、子どもはそれに耐えることができない。子どもは風呂の手桶で充分だ」と。先週、共依存のことを石原先生がおっしゃっていました。母親と娘がべったりになって、夫は蚊帳の外。これを親子パックと言います。日本には、親子パックが多いです。そういう人は結婚できないし、もしも、結婚したら問題のある家庭を作るでしょう。愛の優先順位が狂っているからです。
私たちは神の国の価値観をもって優先順位を決めるべきであります。趣味やギャンブルを優先順位の第一にすると生活が成り立たなくなります。神様や他の人よりも、自分の生活が第一になると自己中心的な生活になります。仕事、家事、教会の奉仕、ディボーション、趣味や娯楽など全部を攪拌機にかけて、重要なもの、そうでないもの、どうでも良いものと分けたら良いですね。そして、一日の生活、あるいは一週間でも良いですが。一番重要なことを最初にやるということです。それは神様のことですね。神様との交わりを第一にする。その次に家庭が来るか、仕事が来るか問題です。仕事も重要です。しかし、人間関係作りもとても大事ですね。神様から与えられたミニストリーもあるでしょう。最後には趣味とか娯楽がやってきます。でも、人間関係作りと合体させると効果的かもしれません。あなたの生活に、一日の生活に優先順位を立てましょう。優先順位をたてていない人はいつも忙しくて人々に振り回さされている人です。優先順位を建てるなら、主とともに主体的に生きることができます。ですから、神と共に交わり、神が喜ばれる優先順位たてて、価値ある毎日を送りましょう。もう一度リビングバイブルから引用します。「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えてくださいます」。アーメン。
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