2011年2月20日 (日)

健康な教会の8つの要素    マルコ4:26-32

前回まで信仰のDNAシリーズを49回で終えることができました。きょうは、そのおまけ50回目です。50というのは、ヨベルの年と関係があり、まことにめでたい数字です。来週からはヤコブの手紙からメッセージしたいと思いますので、どうぞご期待ください。クリスチャン・シュワルツという人が、世界32カ国の教会に関わり、420万もの回答を分析処理しました。いかにもドイツ人らしいですね。そして、「文化や神学的教理に左右されない正しい教会成長の原則とは何か」という答えを出しました。その鍵になったみことばが、マルコ4章の「人手によらず」あるいは「おのずと」であります。つまり、教会の成長は作物の成長に共通しているということです。人の手によるものが人為的方策であるならば、「おのずと」は、神様が与えた生物的可能性です。彼は「成長している教会には、成長していない教会にはない独特な資質特徴がある」と主張し、以下の8つの項目をあげています。

1.能力付与的なリーダーシップ

 能力付与は英語ではempoweringですが、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。簡単に言うと、牧師一人がスパー・スターになるのではなく、他の人を育てて、任せていくということです。長年、牧師をやっていますと「自分ほど聖書的知識のある人はいない」「自分ほど経験を積んだ人はいない」と思うようになります。そして、若い人が未熟に見えてきて、任せることができなくなります。能力付与的なリーダーシップとは、一般の聖徒たちを建て上げて、奉仕を任せていくというものです。つまり、自分の権威や能力を独り占めするのではなく、聖徒たちに分散させ、委任させていくということです。そういうリーダーは上から命じるのではなく、下から支えるサーバント・リーダーです。各自が、かしらなっるキリストに聞いて従うことを求めます。かといって、丸投げ式ではありません。私はこれまで、丸投げ式であったことを深く反省しています。やはり、学びや訓練、見習い期間を経て、序々に任せていく必要があります。そのためには、弟子訓練とかコーチングがとても有効です。今、韓国の『二つの翼』を学んでいますが、働き人を再生産するプログラムが必要であると気付かされました。これから、養育プログラムのシステムを立ち上げる必要があると思います。私はこれまで何でもやってきました。しかし、今は、全く音楽関係はタッチしていません。お掃除や会計も任せています。これからは、説教や伝道牧会も任せていけたら良いと思います。「失敗を恐れずに、いろんなセルを作り、自主的にやってください」と、言うつもりです。そうなったら、もう、私のすることがなくなります。教会は牧師のものではありません。教会はみなさん、聖徒たちのものです。牧師はいつか教会から去りますが、みなさんはずっと教会に残ります。牧師が主役ではありません。みなさんが主役なのです。もし、牧師がどうしてもしなければならないものを上げるとしたら、ビジョンと方向性を示すということです。そして、「かしらなるイエス様は何とおっしゃっているでしょう。みなさん、イエス様に聞き従いましょう」と言うことです。

2.賜物に基いたミニストリー

 従来の奉仕は、使命でやっていました。自分にそういう賜物がなくても、やる人が他にいないのでやってきました。もし、使命感だけでやっていると、疲れて、いつかは燃え尽きます。しかし、神様が与えてくださった賜物で奉仕するなら疲れないし、幸福感もあって楽しいのではないでしょうか?動物たちが、未来に良い指導者を輩出するために学校を作り、かけっこ、木登り、飛び、水泳を学ばせました。入学した全ての動物たちは、例外なくこの4つの科目を受講し、全科目に合格しなければなりませんでした。アヒルは水泳では水泳の先生よりも上手でした。しかし、かけっこと木登りは全然だめでした。かけっこで成績が悪かったため、放課後もかけっこの練習をしました。時には水泳の授業をサボって、かけっこの練習をしたりもしました。かけっこを続け、木登りをしたため、彼の水かきはすり減って切れ、水泳ができなくなりました。結局、得意だった水泳のテストもDという成績しかとれませんでした。この物語はさらに続きますが、不得意な科目を上達させようとしたために、優秀な賜物がダメになったという内容です。創造主なる神さまはみなさん一人ひとりを独特に創造されました。それぞれ、何に関心を持っているのか、どんな賜物があるのか、そして性格も違います。関心、賜物、性格、これら3つを合わせると、あなたがどんな奉仕に向いているか分かります。ですから、それぞれの賜物を発見するテストを受けて、主の与えてくださった賜物にあった奉仕をすれば良いと思います。そうすると、疲れないし、楽しいし、燃え尽きることもありません。教会はキリストのからだであり、みなさん一人ひとりはからだの各器官です。手の人もおれば、足の人、耳の人、口の人、ハートの人、頭脳の人、いろいろいて良いのです。上から命令されてやるのではなく、神さまから与えられた賜物によって奉仕をする。これが一番、長続きする方法です。どうぞ、それを発見して、神さまに用いてもらいましょう。

3.霊的な熱心さ

この意味は、カリスマ的かカリスマ的でないかではなく、「この教会のクリスチャンは燃えているか」です。アントニオ猪木が「元気ですかー、元気があれば何でもできる」と言っているようなことです。律法主義・形式主義的な教会は、たいていの場合、霊的な熱心さは平均以下です。成長する教会の人たちは、イエス様と教会を愛しています。教会の歴史を見ますと、何かムーブメントが起きたときは非常に熱心です。でも、ある人たちが「極端になるのは良くない」と神学的にまとめたり、組織を作るとどういうわけか火も消えてしまいます。いわゆる、死せる正統主義になります。海の水をバケツにくんできて、「これが海の水です」とは言えません。ジャンプするかえるを解剖して、「これがかえるです」とも言えません。霊的な熱心さとは、言い換えれば「いのち」です。いのちというものは、ことばで定義することができません。子どもに「生きていますか?」と聞くと「もちろん、生きているよ」と答えるでしょう。また、熱心さと関係があるのが祈りです。祈りというと、「教会で祈祷会を持っているか」という所にすぐ行ってしまいます。調査によると、ひとりのクリスチャンが祈りに費やす時間の量とは関係ありません。それよりも、祈りが生き生きとした経験となっているどうかです。私がインドネシアのアバラブ教会に行ってわかったのは、彼らはイエス様との交わりを喜んでいることです。さらに彼らは共に祈り合うことを喜んでいます。これまでは、祈りと言うと祈祷山にこもって、何日間も断食するような悲壮感がありました。でも、24時間、共におられるイエス様と交わることによって、聖霊が自然に情熱を与えてくれます。その上に、兄弟姉妹が共に祈るとき、「薪は1本よりも、数本集まった方が良く燃える」という相乗効果が起こります。これから当教会で祈祷会を持つことは反対しません。ぜひ、持ったら良いと思います。でも、大事なのは、義務感で祈るのではなく、イエス様との交わりを喜んでいるかどうかです。日々、イエス様と交わる。問題があっても、なくても、共に祈る。これが大事なんです。

4.機能的な組織

 人為方策的な教会は、「役員会」や「委員会」を設けて、「ああではない、こうではない」と議論します。議決機関はあっても、実行する人たちがいないのです。「役員会で決めましたので誰か、奉仕をお願いします」と言うのはあまり効果がありません。世の中の構造は、お金とか権力ゆえに、上部が決めたことに、いやでも従うしかありません。でも、教会はボランティアですから、「役員が決めたからやる」いうのは、情熱がわかないでしょう。決めた人たちがやるというのが一番です。そして、役員会はそれに予算を出したり、励ましたりして後押しするという組織構造です。でも、多くの場合、役員会は「そんなのはやったことがない」と水を差します。「前例がないから」とは、どこかで聞いたことのあるようなセリフです。クリスチャン・スワルツは「伝統主義は機能的組織と正反対なものである」と言っています。韓国では一番保守的な機関が3つあるそうです。軍隊、公務員、教会です。日本では相撲協会かもしれません。デジタルの時代なのに、今だに変わらない。数十年も前から、同じ組織を立てています。いつも会議、ミーティングをしています。機能的な組織とは何でしょう?それは、それぞれの部門の働きをそれぞれの部門が決めてやれば良いということです。もちろん、それぞれの部門にはリーダーが必要です。しかし、部門ごとにやれば、無駄な会議を少なくすることができます。最も大事なのは、組織よりも本質です。本質にあっていない組織は、思い切って捨てるべきです。特に男性は、会議になると会議モードになってしまいます。会社でやっていることを教会にも求めたりします。会社と教会は違います。私たちは左脳ではなく、右脳を働かせて、神様に聞く必要があります。私は「組織はできるだけシンプルにして機能的にする」これが一番であると思います。イエス様は福音書で「新しいぶどう酒はあたらしい皮袋に入れなければならない」と言われました。皮袋とは組織とか伝統です。私たちはそういうものを、神さまに聞いていつも柔軟なものにしなければならないということです。

5.霊的感動あふれる礼拝

 礼拝が、典礼的か、自由な形式かとも関係がないというデーターが出ています。私は自由な形式を好みますが、ある方々は典礼的な方が恵まれるようです。でも、重要なことは、礼拝が参加者にとって「霊的に鼓舞し、活気を与える経験であるかどうか」です。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて「教会に行くことが楽しい」と言います。私たちは訓練されたアッシャーや有能な司会者、あるいは音楽のテクニックと考えます。それも大切ですが、もっと大切なのは、私たちが聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に対して従順であることです。セルチャーチは小グループの集まりと、大勢で集まる祭典的な礼拝を持っています。小グループの集まりは家族のような親しい交わりです。互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うグループです。もちろん、そういう親しい交わりも大切です。でも、大勢の人が集まり、たくさんの楽器のもとで、大きな声で賛美して、神さまをお祝いする。そういう祭典的な礼拝も必要です。大勢で賛美したら、「うぁー、天国みたいだなー」と思うでしょう。最後の主の祈りのときは、みなさんが大きな声で賛美しているので、「天国みたいだなー」と思います。聖日礼拝は、神さまを体験することができるすばらしい機会です。どうぞ、みなさんもそのために祈って、期待してお越しください。30年くらい前、チョー先生のヨイド純福音教会の礼拝に出たことがあります。ロープが張ってあって、みんな1時間待ちです。私たちは日本人だったので、脇からはいることができましたが、2万人くらいの人たちがひしめきあっていました。礼拝は1時間で終りますが、出る人と入る人が、ごったがえしして、迷子になるのではないかと思いました。必ずしも人数ではありませんが、主の復活をお祝いするにふさわしい祭典的な礼拝が良いと思います。

6.全人的な小グループ

 全人的とは、英語でホーリスティックと言います。ホールとは全部、全体という意味です。ケーキ丸ごとを、ホール・ケーキと言います。イエス様が病人に対して「癒されるように」と命じるとき、英語の聖書ではbe wholeと書いてあります。「完全になるように」という意味になります。つまり、ホーリスティックは、霊、心、体、物質、社会性を包括した、「全人的な」という意味です。では、全人的な小グループが教会にあるとどうでしょうか?そこでは、聖書のみことばを分かち合うだけではなく、身近な事柄や疑問を分かち合います。頭の考えだけではなく、感情や心の傷さえも分かち合うのです。伝統的な教会が、家庭集会を開いても、それは礼拝を小さくしたものです。先生が語ったあと、お茶を飲んで、少し交わって帰ります。交わりがおまけになっています。私たちはセル(細胞)と呼んでいますが、この小グループは集会だけではなく、生活を分かち合っているのです。自然に成長している教会では「私たちの教会には、個人的に自分の問題を話し合えるグループがある」「私たちの教会は小グループの増殖を意識的に進めている」というアンケート結果が出ています。そして、小グループの交わりは集会のときだけではなく、日々、日常的に助け合い、励まし合う親しい関係になるべきです。私たちの周りはほとんど未信者です。信仰的な問題を打ち明けても、的外れな意見しか返ってきません。私たちは滅びから救われ、永遠の御国まで続く、いわば運命共同体です。ですから、何でも腹を割って、打ち明け、共に祈る仲間が必要です。生身の人間と生身の人間ならぶつかり、傷つけ合うでしょう、しかし、贖い主なるイエス様を間に置くならば、兄弟姉妹の交わりが可能になります。多くの場合、私たちは人間関係で傷ついてきました。人間関係の傷を治すのは、やっぱり主にある人間関係しかありません。

7.ニーズ志向的伝道

ニーズ志向とは人々の必要を尊重するということです。教会はこれまで、「神・罪・救い」を伝道という名で押し付けてきました。相手の必要よりも、「あなたは、まず、救われなければならない」と、こちら側の主張を押し付けてきました。人が亡くなるという緊急の場合は、それも必要でしょう。でも、いつでもそれが良いとは限りません。聖書を見ると、イエス様のところに霊的な必要を求めてきたのは、ニコデモくらいです。多くの人は、病を癒してほしいとか、目を開けてくれとか、お腹がすいたという理由で近づいてきました。彼らは具体的な必要を満たされた後、自らの霊的な必要に気づいたのであります。ですから、隣人が何を必要としているかということに気づき、愛して仕えていくということが重要です。その人がイエス様を信じようとしなくても、教会に来なくても、福音の愛で愛するのです。そうすると、聖霊様が臨んで、その人たちに飢え渇きを与えてくださいます。だから、それまで、多くの投資をする必要があります。伝道の書111に「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」と書いてあります。私たちは伝道というと、全く知らない人たちを教会に連れてくることだと思うかもしれません。「私は未信者の人たちとほとんど接触がない」と嘆いているかもしれません。しかし、そうではありません。今、すでに持っている人間関係から始めることが重要です。あなたの家庭や親族、会社、地域社会の人たちを数えたら10人くらいはいるでしょう。その人たちが何を求めているのか?あなたがそこを満たすように仕えていくとき、その人はあなたが持っている福音をも求めるようになるのです。

8.互いに愛する関係

 自然に成長する教会のアンケートに「愛の測定値」というものがあり、そこには12の質問があります。例えば、「教会員が教会の行事以外で、どれくらいお互いに時間を過ごしているか」。「どれくらいお互いに食事やお茶に接待し合っているか」。「教会がどれほど心を開いて祝福の挨拶をしているか」。「牧師は教会員の個人的な問題を知っているか」。その中の、「教会に笑い声があふれているかどうか」という質問は、その教会の質と成長に深くかかわっているということです。当教会のように、笑い声がある教会は、良い教会なのです。教会に怖い人がいたり、プレッシャーを与える人がいると笑い声は途絶えてしまいます。ある教会では、子どもが説教中に騒ぎ出すと講壇から「子どもを連れ出すように」と、叫ぶ牧師がいるようです。箴言144「牛がいなければかいば桶はきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」とあります。教会に子どもたちがいなくて静かであるなら、教会の将来がありません。子どもたちの声であふれている、それは将来性のある教会です。また、教会がミニストリー、奉仕中心になると、愛がなおざりにされます。何をするかも大切ですが、円滑な人間関係を築くことはもっと大切です。「無駄なー」と思う時間が、かえって良い場合があるのです。人間には仕事重視の人と関係重視の人が2種類いるそうです。仕事重視の人は仕事をバリバリやりますが、人間関係はなおざりにしがちです。関係重視の人はおしゃべりばかりして、仕事がはかどらない傾向があります。教会は利益をあげる会社ではありません。ですから、どちらかと言うなら奉仕よりも関係を大事にすべきです。イエス様は弟子たちとよく食事をしていました。取税人や罪人たちとも食事をしました。ザアカイに、今から家に食べに行くからと言いました。死ぬ前も食事をしました。復活の朝もテベリヤ湖で食事をしました。世の終わりも、「私の声を聞いて戸を開けるなら、私は入って、共に食事をする」と約束しています。イエス様は、イーティング、ミーティング、イーティング、ミーティング。食べながら、教え、教えながら食べていました。おそらく、イエス様のまわりには笑い声がいつもあふれていたと思います。

 大切なのは、これらの8つが、バランスがとれていることです。8つの資質は桶の8枚の板みたいなものです。水は一番低い板のところまでしか、満たされないからです。ですから、8つの中で、どれが不足しているかをチェックして、そこに力を注ぐことが大切です。教会が健康になると、自然に成長するのです。ある人たちは「教会の成長と私の生活と何の関係があるんだ」と思うかもしれません。教会の本当の意味は、「神さまによって召しだされた人々」という意味です。つまり、クリスチャン一人ひとりが教会なのです。教会とは建物や組織ではなく、クリスチャン一人ひとりです。教会と自分たちとが別ものではなく、全く同じなのです。イエス様がご自身の血をもって買い取られたのが教会です。イエス様は教会を愛しておられます。そして、イエス様を愛している人は、教会をも愛すべきです。

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2011年2月13日 (日)

福音の管理      マタイ16:16-19、Ⅱテモテ4:1,2

これまで信仰の12のDNAについてお話してきましたが、きょうが最後です。教会がこの世において教会として存在している理由は何でしょう?私たち教会は、結局、何を管理しなければならないのでしょうか?それは、福音の管理であります。福音を宣べ伝えることによって、魂が救われる。このことは、神さまが最も教会に願っていることです。弟子訓練とか、セルチャーチとか言っても、魂が救われないと何も始まりません。伝道して、新しい魂が救われて、はじめて養育とか弟子訓練があるのです。教会は、いろんなことをすべきですし、いろんな活動をしても構いません。しかし、忘れてはならないのは、伝道、魂の救いつながっているかどうかです。教会がこのことを忘れてしまうと、老化して、やがては死に絶えてしまいます。日本の教会は伝道を忘れ、社会活動や神学ばかりやってきました。今、その付けがまわっていると言っても過言ではありません。

1.最大の使命

福音を宣べ伝えることは教会の最大の使命です。なぜでしょう?それは、イエス様が天にお帰りになるときに残した命令だからです。遺言と言っても良いかもしれません。マルコ1615,16それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」これはどういう意味でしょうか?福音を信じる者は救われ、信じない者は裁かれて永遠の滅びに行くということです。私たちは福音を提示されたとき、信じるか、信じないか、2つに1つしか選択肢がありません。確かに、「考えておきます」とか「もう、少し待ってください」という返事もないわけではありません。しかし、問題は、今後の残りの生涯において、福音を提示される機会があるかどうかです。一生において1回しか福音を聞いたことのない人もいれば、100回くらい聞いた人がいるかもしれません。どっちが神さまの前のさばきが重いでしょうか?100回聞いても信じない人の方が重いのです。ある人たちは、死ぬ直前に信じれば良いと思っているかもしれません。しかし、信じるというのは自分の意志だけではありません。聖霊様の助けがあるとき、人は初めて信じることができるのです。多くの場合、死が直前に迫っている場合、死の方が恐くて、信じるなどという余裕はないそうです。だから、イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ1236と言われたのです。

教会の歴史を見ますと、リバイバルという大勢、救われるすばらしい時がありました。18世紀にはイギリスのリバイバル、19-20世紀には南北アメリカ大陸にリバイバルがありました。そして、20-21世紀は中国、韓国、インドネシア、アフリカにリバイバルが起こっています。現在、リバイバルまでとはいきませんが、タイ、インド、モンゴル、ネパールもクリスチャン人口が増えています。日本はどうでしょうか?でも、日本にだけ、どうしてリバイバルが起こらないのでしょうか?今、日本の多くの教会は失望落胆の中にいます。リバイバルではなくて、サバイバル、生き残りをかけています。日本の教会は高齢化がとても進んでいます。日本基督教団は洗礼を受ける人よりも、召天する人の方がはるかに多いのです。福音派の人たちの口癖は「リバイバルが来なければどうしようもない」でした。私もその一人でした。昨年、エディレオ師と奥様が私にこのような預言をくださいました。「あなたは何度も、『神さま、どこにリバイバルがあるのですか?』と聞いています。『なぜ、そんなに時間がかかるのですか?主よ、きょうも祈ります。私に理解を与えてください』。しかし、今、主はこのように言われます。私は、私のしもべであるあなたの心を知っています。私はあなたの祈りを知っています。私はあなたの日本に対する心を知っています。あなたの祈りは私が答えます。でも、1つ知ってもらいたい。私には私の時があることを。主は、あなた自身を備えよとおっしゃっています。あなたが自分自身を備えたなら、私のリバイバルをあなたの人生の中で見るだろう。私はあなたをひとりぼっちにはしない。あなたをミニストリーに召したのは私だから。あなたは何回もミニストリーのために祈った。『神さま、どうしてたくさんの実を見ることができないのですか?』しかし、私のしもべよ、あなたの心が分かる。あなたが私に頼るなら。あなたの人生にこのことを成就する。」アーメン。

もちろん、私たちはリバイバルを求めるべきであります。しかし、パウロはテモテになんと言ったでしょうか?Ⅱテモテ41,2「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「時が良くても悪くても」というのは、ある英語の訳では、「シーズン、オア、アンシーズン」となっています。私たちは季節であろうと、季節でなかろうと、こつこつと福音を宣べ伝えるべきなのです。使徒パウロはローマ1章で「返さなければならない負債を負っている」と言いました。私たちはだれかから借金したら、返さなければなりません。パウロは福音を宣べ伝えることは、借金を返すことと同じであると言いたいのです。福音は宣べ伝えても、宣べ伝えなくても良いものではありません。クリスチャンであったなら、だれもが返さなければならない負債、借金だからです。自分の救いのことを考えるならどうでしょう?あの人が福音を伝えてくれたから、私は救われたのです。もし、私たちが救われていなかったならどんな生活をしていたでしょう?本当に、空恐ろしくなります。私のために福音を伝えてくださり、私のために祈ってくださった人がいたのです。だから、私たちは救われたのです。私たちも今度は、だれか別の人に福音を宣べ伝えなければなりません。そうです。借金を返すつもりで、宣べ伝えなければならないのです。

2.正しい福音

教会は正しい福音を管理していなければなりません。教会の歴史を振り返りますと、10~16世紀までは、中世の暗黒時代でした。国家と教会がくっつき過ぎて、堕落してしまったのです。神の国の拡大よりも、自分たちの国と権勢が目的でした。1517年に宗教改革が起こりました。「信じるだけで救われる」という福音の真髄が再確認されました。閉ざされていた福音が聖書と共に、復興したのです。でも、17世紀から啓蒙主義が起こり、福音が聖書と共に次第に捻じ曲げられるようになりました。本来、福音と聖書とは分離することは不可能なのです。なぜなら、正しい福音は聖書の中にあるからです。でも、啓蒙主義の影響を受けたキリスト教会は、「聖書にも誤りがある」ということを言い始めました。それを唱えるのが、リベラルという人たちです。しかし、うまく妥協した人たちがいました。「たとえ、聖書には誤りがあっても、キリストと出会ったならば、人は救われるんだ」と言いました。悪く言うと、ウソも方便です。私たちは聖書が真実でなければ、キリストも福音も真実でないと答えるしかありません。終わりの時代、福音に対する混ぜ物が横行しています。ひどいものになると、「他の宗教にも神さまが啓示されているのだから、キリスト以外にも救いがある」と言います。使徒パウロは何と言ったでしょうか?ガラテヤ18「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」「私たち」とはだれでしょう?私たちとは、パウロをはじめ使徒たちが宣べ伝えた福音です。使徒ペテロは何と言ったでしょう?使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「この方」とは、イエス・キリストです。使徒ヨハネは何と言ったでしょう?ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。

つまり、教会というのは使徒の教えに立っていなければなりません。これを使徒的教会と言います。使徒が言ったことに反することを教えているならば、それは本当の教会ではありません。偽物です。エペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」時代が進み、人々の科学や学問が発達しようとも、私たちは使徒たちの教えをどかすことはできません。どうぞ、ドイツやアメリカのどんな神学者が新説を唱えても信じないでください。使徒たちの教えに留まってこそ、本当の救いが保たれるからです。イエス様はペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。天の御国のかぎとは何でしょう?いろんな解釈があります。でも、私は福音ではないかと思います。なぜなら、人は福音を信じて、天の御国に入ることができるからです。福音を信じないなら、決して天の御国に入ることはできません。つまり、教会は福音という鍵をイエス様から預かっているのです。この福音という鍵を神さまは政府に預けたのではありません。大学の研究機関に預けたのでもありません。財界でも、マスコミでもありません。そうです。イエス様は教会に預けたのです。○○教団の創立100年の歴史ある教会にも預けました。しかし、看板も出していないような家の教会にも福音の鍵を預けておられるのです。使徒の働き11章には、名もない人たちが、アンテオケで福音を宣べ伝えました。福音の鍵を用いたのです。すると、アンテオケに群ができ、やがて異邦人教会のセンターになりました。みなさん、鍵というのはそんなに力がなくてもドアを開けることができます。鍵なしで力づくでやろうとすると大変です。鍵を回すのには、そんなに勉強する必要はありません。ある人が福音を熱心に宣べ伝えたので、1年で10人も20人も導かれました。その人が、神学校で3年間勉強しました。いろんな勉強を積んだんだから、もっとすばらしく伝道できるかと思いました。しかし、全く逆です。知識が増した分、恐れが増し、熱心さもなく、全く伝道ができなくなったのです。神学校を出たために、そういう人が結構いるようです。勉強も大事ですが、福音宣教は魂への愛と祈りと確信です。「今、福音を宣べ伝えなければ、この人は滅びてしまう。」だから、宣べ伝えるのです。一番の愛は何でしょうか?いろんな助けや親切も愛です。でも、そのままでは、死んで滅びてしまいます。イエス様の福音を伝えて、その人が救われたらどうでしょう。それが一番の愛ではないでしょうか?どうぞ、聖書の中に書かれている、正しい福音を単純に宣べ伝えてください。聖霊様が、あなたのことばを用いて、その人に回心を与えてくださいます。

3.商売せよ

福音を管理するとは、どういう意味でしょう。ただ、正しい福音を守るというだけではありません。福音をさらに拡大していくということです。ルカ19章にはミナのたとえが書かれています。ミナのたとえは、タラントのたとえと似てはいますが、違うところがあります。タラントのたとえは、それぞれ人によって神さまからゆだねられた量がそれぞれ違います。しかし、ミナのたとえは、みんな1ミナです。みんな1ミナ。ミナとは何でしょう?私は福音ではないかと思います。どんな人でも、平等に1個の福音を神さまからゆだねられています。たとえ話を見ますと、ある人は1ミナで10ミナもうけました。また、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、もう一人の人は、風呂敷に包んでしまっておきました。彼は、そのままご主人に渡しました。彼は「悪いしもべだ」と叱られ、持っていた1ミナまでも取り上げられてしまいました。このたとえの中心テーマは何でしょう?主人が帰るまで、商売するということです。商売とは、それを元手にして増やすということです。あずかった1ミナを、そのままご主人に返すのは怠惰なしもべであり、悪いしもです。もし、ミナが福音であるならば、商売するとはどういう意味でしょう?神さまからゆだねられた福音を一人でも多くの人に宣べ伝えて、救われる人を増やすということではないでしょうか?しかし、商売というのは厳しいもので、決して楽なことではありません。セールスで人に売ろうとすると、大体の人が「いらないよ」「間に合っています」「結構です」と断ります。しかし、本当にセールスに長けた人は、「断られてから本当の商売が始まる」と理解しているようです。それに比べ私たちクリスチャンはどうでしょうか?非常に打たれ弱い。10人に宣べ伝え、10人から断られると「日本は難しい!」と言います。日本のクリスチャン人口は1%ですから、50人に宣べ伝えて1人信じたら、大成功になります。だけど、49人も断られたら、本当にめげてしまいます。何か、もっと、確立の上がる伝道の秘訣でもあるのでしょうか?

これまでの教会の伝道方法は大衆伝道と個人伝道が主流でした。大衆伝道というのは、クルセード方式とも言って、広い会場に人々を集めます。すばらしい音楽を聞かせ、有名な伝道者からお話してもらいます。最後に「みなさん、目をつぶってください。きょうイエス様を信じる人は手をあげてください」と招きます。ある人たちが決心します。しかし、教会につがなる人は1%いないそうです。個人伝道も結構、勇気が必要です。また、ある程度の技術も必要です。私は、今か申し上げるこの2つこそが古くて新しい伝道スタイルではないかと確信しています。第一はあかし伝道です。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」これは大変有名なみことばです。御国の福音は全世界に宣べ伝えられることが第一です。しかし、それだけではありません。「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。福音宣教とあかしとは少し違います。あかしとは、その人の体験談を通して、神様のことを伝えることです。あかしは、インフォーマルで主観的です。「自分にこんなことがあったよ」と分かち合えば良いのです。相手がそれを受け入れるかどうかは別です。相手がそういうあかしを何度も聞くと、「イエス様、信じてみようかな?」と思うくらいまでは行きます。最後の刈り取りを自分でできなければ、教会の誰かにお願いしても構いません。でも、あなたが仲介者としてそこにいれば、とても簡単です。イエス様は種まきのたとえを話されました。硬い心であれば、愛の行ないによって耕す必要があります。石の心であれば、色んな話をして、偏見を取り除く必要があります。いばらが生えた心であれば、クリスチャン生活がどんなにすばらしいか体験させる必要があるでしょう。とにかく、畑を耕して、福音の種を蒔く必要があります。1回でうまく行くようなケースはまずありません。何度も蒔いていくうちに、芽が出て、成長し、実をならせるのです。どうぞ、可能性のある人を10人くらい選んで、祈りながら、あかし伝道をしましょう。

もう1つは、個人ではなくチームで行うということです。教会はキリストのからだです。からだの中にはいろんな器官があります。口の人もいれば、手の人もいます。足の人もいれば、耳の人もいます。耳、つまり人の話を聞くということは意外に重要です。人は自分の話しを聞いてくれたら、こんどは聞いてみようかなと思うからです。祈っている人が入院していたとします。一人よりもだれか友人と一緒に行きます。その友人が何か賜物やアイディアを持っているかもしれません。マッサージが得意とか、薬に対して知識があるとか、具体的な助けができるかもしれません。これをボディライフと言います。ボディライフとはからだの生活という意味です。一緒に生活を共にしながら、自然に福音を伝えていく方法です。ある人はもてなすことが得意です。また、ある人は語ることが得意です。また、ある人は手足を使って奉仕ができます。また、ある人は一生懸命とりなしの祈りをします。魚を捕まえるのにいろんな方法があります。個人伝道は一本釣りです。これは技術が必要です。熟達するのに、10年、20年かかるかもしれません。でも、網はどうでしょうか?地引網、はえ縄、底引き、投網…いろいろあります。網の方が、一本釣りよりも多くの魚が捕れます。みんなでやるので、個人の技量もそんなに高くなくても良いかもしれません。それでいて、多くの魚が取れるんだったら申し分ないと思います。ただし、「ぶらさがっていてば、なんとかなるかなー」という他人任せでは困ります。良いたとえかどうかわかりませんが、おみこしを担ぐ場合、どうでしょう?一生懸命担ぐ人もいれば、時にはかけ声ばかりで、担いでいない人も出てきます。一番、大切なのは、「自分は一体、どのからだの器官として働いているのかな?」という意識です。その次に大切なのは、それらを組み合わせるということです。たとえば、ゴスペルではいろんな人が奉仕しています。音楽を指導する人、伴奏する人がいます。後ろから歌ってあげる人もいます。会計さんとか新来者を歓迎する人、「上手!」と励ます人もいます。近所だったら友人になることも可能です。何かのため、祈ってあげることもできます。そうやって、チームで伝道することをボディライフ、あるいは網による魚捕りです。

網、ネットはいろんな意味があります。もし、網の目が大きすぎるならば、大きな魚しか捕れません。網の目がもっと細かいならば、小さい魚も捕れます。でも、問題なのは、網が破れている場合です。せっかく網に入ったけれど、途中から出て行ってしまう。網の破れとは何でしょう?それは、網自体に問題があるということです。内部で争っていたり、愛が欠乏している場合です。何かの罪が放置され、躓きを与えているかもしれません。牧師やリーダーは特に責任があります。Ⅰコリント13章には「愛とはどんなものか」について記されています。どんな賜物や能力があっても、愛がなければ無に等しいとまで書いています。この世は賜物や能力が最も重要視されます。仕事ができるかできないか、知識があるかないか、技術があるかないかです。しかし、キリスト教会、からだの教会は、愛の方がもっと重要になります。Ⅰコリント135-7「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」私たちは「ああー、自分にはないなー」と愕然としてしまいます。でも、「愛」をイエス様に置き換えたらどうでしょう?「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。」アーメン。イエス様を知り、イエス様にとどまり、イエス様に現れていただくときに、愛が出てくるのです。イエス様の愛とイエス様の福音がマッチするとき、人々が救われていくのではないでしょうか?

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2011年2月 6日 (日)

金銭の管理    ルカ16:10-13、Ⅱコリント9:6-8

信仰のDNAシリーズの最後の部分では、様々な管理について学んでいます。管理の中でも金銭は最も重要なテーマの1つです。教会がお金のことについて話すのは、意地汚いみたいに思われるかもしれません。一般的に宗教と言えばお金が付き物ですが、教会もそうなのでしょうか?お断わりしますが、キリスト教会は信者さんからお金を巻き上げるための宗教団体ではありません。でも、お金は非常にデリケートなものであることは確かです。なぜなら、お金のことで躓いて、教会に来なくなる人もいるからです。恐らくそこには、いろんな誤解があるのではないでしょうか?きょうは「金銭の管理」と題して、献金のことについて聖書から学びたいと思います。

1.献金の意味

 聖書で最も古いのは、創世記4章のカインとアベルが神さまに捧げものをしている記事です。カインはいくつかあるものの中から神様に捧げました。しかし、アベルは羊の群れから最上のものを捧げました。神様はアベルの捧げものに目を留められました。ヘブル11章では「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と書いてあります。つまり、信仰がなければ、神さまには捧げられないということです。創世記15章にはアブラハムが十分の一を祭司であるメルキゼデクに捧げた記事があります。民数記18章にはイスラエルの民が十分の一を奉納物として主にささげることが命じられています。その十分の一は神さまに仕えるレビ人のものとなりました。旧約聖書には、農業あるいは牧畜で得たものの十分の一は神さまにお返しすべきであると記されています。そして、十分の一については、マラキ3章が最も有名です。マラキ3:8-10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってであるあなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 このように十分の一は神の律法として、旧約聖書に記されています。では、新約聖書の私たちはこの律法を守らなくてはいけないのでしょうか?マタイ23章でイエス様がこのように言われました。マタイ2323「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」イエス様は律法学者やパリサイ人らに「十分の一よりも、正義とあわれみと誠実が大切である」と教えました。しかし、最後に「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」とおっしゃっています。つまり、イエス様は十分の一献金を認めておられるということです。しかし、旧約と新約で聖書全体が教えているメッセージがあります。それは何でしょう?すべては創造主なる神さまのものであるということです。詩篇241「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」ハガイ28「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。万軍の主の御告げ。」とあります。つまり、神さまが所有者で、私たち人間は管理者だということです。その証拠に、金銭や土地は死んだら手離さなければなりません。1坪の土地すらも、天国に持っていくことはできません。金銭や土地だけではありません。私たちの命、賜物、時間、家族、家、すべての持ち物は、神さまから預かっているのです。ですから、私たちはこれを正しく管理する必要があります。ルカ福音書1612-13「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。他人のものに忠実であるとは、神さまのものに忠実であるということです。もし、神さまのものに忠実であるなら、天国で私たち自身に豊かなものが与えられるということです。

では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とは、どういう意味でしょうか?富は中立的な存在です。しかし、私たちは神さまよりも、富に仕えることもあるということです。イギリスの古い格言に「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」というのがあります。もし、あなたがお金に支配されるなら、お金があなたを奴隷にするでしょう。主人であるお金にビシバシ打ち叩かれます。しかし、あなたがお金を良く管理すれば、お金はあなたに仕えるしもべになってくれます。あなたはお金の主人になりたいですか?それともお金のしもべになって打ち叩かれたいでしょうか?この世の中では、お金の奴隷になっている人がたくさんいます。では、どうしたらお金の主人になって、お金を正しく管理できるのでしょうか?それは、神さまを主人にするならば、お金の奴隷になることはないということです。では、具体的にどうすれば良いのでしょうか?聖書に、十分の一献金が数多く記されているのはそのためです。あなたが十分の一を捧げるとき、このようなことを神さまに告白していることになります。「神さま。この地上のすべての資源はあなたのものです。私の労働力もその賃金もあなたのものです。私は金銭を神さまとしません。あなたが私の主人です。その証拠に、十分の一をあなたに捧げます。これからも豊かにお支えください。アーメン」。十分の一を神さまにささげるということは、自分のすべての価値の源を神さまに置いているということです。マラキ書は「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と述べています。聖書で唯一「神さまを試せ」と言われている箇所です。どうぞ、本当に神さまが生きておられるのか、あなたご自身が試してください。

2.献金の仕方(心構え)

 献金を捧げるためにはいくつかの順番があります。一番、最初に来るものは何でしょうか?そうです。私たちは受けなければ与えることはできません。ジョン・ウェスレーはAll you can get,

all you can save, and all you can give.「できるだけ多く得なさい。できるだけ多く蓄えなさい。そして、できるだけ多く与えなさい」と言いました。捧げるためにはまず、受けなければなりません。そのために、私たちは神さまから知恵、労働力、導き、資源を得るべきです。残念ながら、私たちはお金や物質という目に見えるものを第一に求めがちです。しかし、神さまが私たちに一番与えてくださるのは、知恵とかアイディアなど目に見えないものです。今は天に召されましたが、当教会に山崎長老さんがいました。山崎さんは戦後、北朝鮮から引き上げてこられ、ゼロから会社を興されました。肺結核を患ったため体力的には限界がありました。しかし、山崎さんには知恵がありました。朝、静まっていると「こうしなさい」と神さまから知恵がやってくるとよく言っていました。もう一人、教会には、戸叶長老さんもおられました。戸叶長老は真面目な方で、奥様は知恵者でした。ご両人とも若い頃、肺結核を患ったので体力がありませんでした。しかし、奥様には知恵がありました。商売の知恵です。だから、戸叶さんもゼロから会社を興すことができました。山崎さんも戸叶さんもよく捧げてくださいました。よく捧げるので、神様はさらにお二人の事業を祝してくださいました。ハレルヤ!ある人は「お金をもうけることは悪いことだ」と言います。しかし、聖書には「神から与えられたもので、商売をしなさい」というたとえ話がいくつもあります。どうぞ、「自分は貧しいから何もできない」と自己憐憫に陥らないでください。神さまに創造力と知恵とアイディアを求めてください。神様は創造者ですから、私たちにクリエィティブなアイディアを与えてくださいます。

 ケンタッキー・フライドチキンといえばカーネル・サンダースです。彼はクリスチャンとして、もてなしの精神でいろんなお仕事をしました。ハイウェーの建設で、町で営業していたカフェがつぶれました。彼はそのとき65歳でしたが、ふっとアイディアが与えられました。それは、町の繁華街ではなく、郊外のフリーウェイの入口にお店を設けるということでした。彼が持っていた唯一の財産は、お母さん直伝のフライドチキンの特別な製法でした。その製法で売れたら、1羽につき5セントで売るという、フランチャイズにしました。そういう考えは、当時は全くありませんでした。カーネルおじさんが、神さまから知恵をいただいたとしか考えられません。もう1つ、ドミノピザというのがあります。これはトーマス・モナハンという黒人の孤児が始めたものです。彼も人に仕えようとしたクリスチャンです。当時、ピザの宅配というものがありませんでした。「手作りならではの味を食卓へ届ける」、「30分を超えた場合は50セント引き」というシステムが、アメリカでたくさんの支持を集めました。今や世界中で親しまれ、現在55ヶ国に8,500店以上に拡大しています。これも、すばらしいアイディアではないでしょうか?また、山崎パンのことも語らなければなりません。今、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメントを読んだら』」という本がブレークしています。山崎パンの創立者はアメリカに渡り、ピーター・ドラッカー博士から経営理論を学びました。しかし、社長と弟と息子の意見の相違が対立し、深刻化していきました。そのとき、3人で教会へ通い、洗礼を受けました。神さまの力で3人が心を一致させることができました。ところが、受洗して11日後、主力工場の武蔵野工場が全焼。その時、彼らは「火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めである。これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈りを捧げました。今は息子さんが会社を継いでいますが、毎日、3つのことを問うそうです。ドラッカーの経営理論の中からですが、第一は私のミッションは何か、第二は私の顧客は誰か、第三は私の顧客にとっての価値は何か、という3つです。デフレや消費不況とよく言われます。その中にあって山崎製パンの業績が伸びているのは、その証のように思います。

 神さまからいただいたものを、私たちはどうしたら良いのでしょうか?その一部を蒔く種として捧げるのです。Ⅱコリント9:6,7「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」大きく分けて献金には2種類あります。1つは十分の一献金です。これは神さまから預かった一部をお返しするという意味があります。そうすると、マラキ3:11「私はあなたがたのために、いなごを叱って、作物を滅ぼさないようにする」と書いてあります。神さまは私たちの土地の周りに柵をもうけてくださり、泥棒や事故、災いから守ってくださいます。それだけではありません。私たちがその土地に種を蒔くことができます。それは神の国のために投資する献金です。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金なのです。1粒の種から1粒の実が得られるとはだれも思いません。多くて100倍、60倍、少なくても30倍の実を期待して良いのです。しかし、献金の原則、正しい心構えがあります。それは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」ということです。だれかから強制されて、いやいやする場合もあるでしょう。「しょうがないから、仕方がないので…」と捧げてはいけません。「心で決めたとおり」、つまり信仰をもって積極的にささげるということです。そういう人を神さまは祝福して豊かな報いを与えてくださるのです。多いか少ないかではありません、イエス様はささげる人の心を見てくださるのです。イエス様はレプタ2つをささげたやもめが、だれよりも多くささげたとおっしゃいました。どうぞ、神さまから多くいただき、その次は、信仰と感謝をもって種を蒔きましょう。

3.献金の用い方

 最後に兄弟姉妹から集められた献金を教会がどのように使うかという、金銭の管理についてお話したいと思います。献金は会費とかお布施ではありません。すべてを与えてくださった神さまに、感謝して捧げたものです。神さまは私たちのささげる心を見てくださいます。そして、神さまはその献金によって教会の働きをするように私たちに託してくださいます。注意すべことは、私たちの献金が直接、教会の働きのために用いられるのではありません。もし、そうだとしたら、それは会費になります。この世の中ではそういうサークルやカルチャースクールがいっぱい存在しています。そうではなく、献金はまず、神さまに私たちがささげます。その後、神さまが「教会の働きのために」と私たちに託してくださるのです。もし、会費であれば、「私たちに還元されていないじゃないか、儲けているんじゃないか」みたいな文句が出ます。実際、新興宗教はそういうところがあるかもしれません。しかし、キリスト教会は人件費、伝道費、集会費、建物の維持、保険等にあてられます。神さまに献金をしたのですから、紐つきはダメです。「神さまの御用のためにお使いください」と委ねる気持ちが大切です。だからと言って、牧師や役員が献金で投資をしたり、土地をころがしたりしてはいけません。しかし、教会によっては実際、そういうことをしたために、元金を失って、躓きを与えているところもあるようです。「新しい会堂建築のために」とみなさんにお願いしながら、全く別の用途に回したりする教会もないわけではありません。他の宗教団体ならともかく、教会では金銭のトラブルは大きなダメージを与えてしまいます。ですから、牧師と役員は金銭に対して、潔白でなければなりません。それでないと信用を失ってしまいます。

 牧師は「信仰があれば、神さまが与えてくださる。ビジョンが大切だ」と大きな予算をたてがちです。でも、役員や教会員は「でも、現実はこれしか予算がないのですよ」と言います。こういう戦いが、教会に必ずあるものです。信仰があるかないかではなく、両方とも正しいのです。大切なことは、信仰が一致するまで神さまに求めることです。セルチャーチで親しくしている、本郷台キリスト教会は、2年前8000坪のサッカー場を買うために9億円の借金をしました。今は7億円くらいのようです。彼らは20年くらい前、「神さま。ビジョンを達成したいので、1万坪の土地を与えてください」と祈りました。その後、ダイヤモンドチャペルの2000坪が与えられました。そうしたら、2年前、8000坪のサッカー場が売りに出されました。合わせて、1万坪になります。その当時、サッカー・スクールの生徒が300人くらいいたそうです。もし、持ち主の会社が外部に売却したらもうサッカーはできません。サッカー・スクールの親御さんたちから「私たちも献金しますから、なんとか教会さんであの土地を買ってもらえませんか?」とお願いされたそうです。それで、教会が立ち上がってその土地を購入しました。昨年、「サッカー場を境内地にできないでしょうか?」と県庁にお願いしに行ったそうです。もし、あの広大な土地に固定資産税がかかったら大変な額になります。本郷台キリスト教会はサッカー・スクールの他に、身障者のための働き、ご老人たちへの弁当作り、託児所、チャーチスクールいろいろやっています。宗教課の職員が何と言ったでしょう。「一般に教会さんは自分のことしか考えないけど、おたくさんは社会のためにいろんなことをしていますね。よろしいでしょう」とサッカー場を境内地に認めてくれたそうです。皆さん、借金も信仰とビジョンがあればしても良いと思います。でも、信仰とビジョンだけが先走り、教会員がついていかない場合はダメです。会堂建築もそうですが、金銭問題は分裂の原因によくなります。ですから、できるだけ信仰の一致を求める必要があります。

 私たちはこれから単立、独立になる予定です。今までは、教団と教区に年間、100万円以上の献金をささげてきました。「これからその浮いたお金をどうするか?」であります。ここ何年間か、人件費、伝道費、集会費を削ってきました。少し補充したい気持ちもあります。しかし、私は教会のビジョンのために用いていけたらと思います。私が願っている10年のビジョンは、「350名礼拝、50人の信徒リーダー、5人の牧師、5つの枝教会」です。人材というか、後継者を育てることも必要です。また、枝教会ができるように建物を借りるかもしれません。つまり、教会の成長と宣教のために用いるということです。どうぞ、神様の導きが与えられますようにお祈りください。教会によっては献金のアピールばかりするところがあります。「十分の一を」「会堂献金を」とか言います。私は極力、献金の話はしません。その箇所が来たら話します。もし、献金が足りないならば、教会はそれなりの予算でやるしかありません。では、どうしたら献金が増えるのでしょうか?それは、恵まれて人々が増えれば良いのです。人々が神さまによって祝福を得たならば、喜んで捧げます。献金は恵みの結果なのです。恵まれれば人は捧げます。捧げるとまた恵まれます。恵まれるとまた捧げます。捧げるとまた恵まれます。ハレルヤ!教会はおめでたくなくてはいけません。なぜでしょう?神さまは王様、キングです。私たち教会はキング・ビジネスをしているのです。神さまはすべてを所有しておられます。私たちの神さまは決して貧しくはありません。もし、教会が神さまに忠実に、伝道牧会をしていたならどうでしょう?必ず必要は与えられます。だから、心配することはありません。それは私たちの生活でも同じことです。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ハレルヤ!私たちが神さまのことを第一にしていけば、必要は与えられます。献金は神さまを第一にしていることの証です。もう1つの法則があります。それは与えたら、与えられるという「山びこ」の法則です。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」何故、貧しいのでしょう?それは与えないからです。独り占めしているからです。もし、私たちが信仰に立って与えるならどうでしょう?与えたら、与えられます。同じ量ではありません。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」アーメン。イエス様は十字架で、私たちのために、尊い命を与えてくれました。罪の代価を払ってくださったのです。私たちはその感謝を具体的に表していくべきです。

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2011年1月30日 (日)

真理(教え)の管理       Ⅰコリント13:9-13

 私たちは一般的に、真理の反対は偽りであると言います。あるいは善の反対は悪であると言うでしょう。真理と偽り、善と悪がまるで両極にあるように考えます。しかし、そうではありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、それらの両端に偽りとか悪があるのです。たとえば、悪霊について考えてみましょう。ある人は「悪霊などいない」と言います。また、ある人は「何でも悪霊のせいにします」。「車をぶつけたのは悪霊のせいだ」とか「風邪をひいたのも悪霊のせいだ」と言います。もちろん、そういう時もあるでしょう。でも、本人の不注意だったかもしれません。聖書は悪霊の存在をちゃんと明記しています。真理というものは、ちょうど真中くらいにあるのです。キリスト教会においても、神さまの真理に対して極端があります。自転車で狭い道を走るときのことを想像しましょう。みなさんは、農道を走ったことがあるでしょうか?左の溝にもはまってはいけません。また、右の溝にもはまっていけません。道の真中を走るべきです。真理や善というものは、真中にあるのです。クリスチャンの生活とはバランスをとりながらやっていく、スリルある過程であるということができます。

1.哲学と神秘主義 

初代教会の頃の極端は哲学でした。コロサイ28「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」当時の哲学といえば、ストア学派の禁欲主義でした。パウロはコロサイ2章の後半で言っています。「すがるな。味わうな。さわるなというさだめに縛られているのですか?肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言っています。また、それとは反対のエピクロスの影響を受けた快楽主義がありました。彼らは「肉体はどうせ悪なのだから、悪をしても魂には何の影響もない」と考えました。ギリシャ哲学は終ったように思えましたが、中世のトマス・アクイナスは、アリストテレスの形而上学で神学を構築しました。また、17世紀、啓蒙主義においてもう一度、復活し、キリスト教神学を土台から揺るがすほどの脅威になりました。神の啓示よりも、人間の理性が万物の尺度になったのです。キリスト教会の多くが、批評学を取り入れて、みことばの権威を失わせました。もちろん、哲学的に物ごとを考えたり、論理的に証明するという作業は大事です。しかし、神さまの啓示を否定する神学は「砂の上に建てられた家」であります。人間は被造物であり、無限であられる神さまご自身と神さまのみわざを推し量ることなど不可能です。詩篇の記者は、このように言っています。詩篇84,5「人間とは何ものでしょう?…あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶせられました」。人間は確かに尊い存在です。なぜなら、神さまがご自身のかたちに似せて造られたからです。でも、所詮、人間ですから、「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコブ414)。

哲学と両極をなすものが神秘主義です。初代教会の頃はグノーシスが強敵でした。グノーシスとは「隠れた知恵」という意味です。彼はいろんな儀式を通して神秘的な体験を求めました。肉体を取られたキリストを否定したために、救いの概念まで異なりました。彼らにとっては、霊的な存在と合一することが救いなのです。近代においては、宗教的な体験を強調したシュライエル・マッハーがその部類に入るかもしれません。現代においては、一部のペンテコステ教会、神の幕屋、イエスの御霊、小羊の群れ、韓国のベレヤが問題視されています。彼らを異端であると言う人もいますが、私は神秘主義という極端の溝にはまっていると思います。奇跡とか聖霊体験を否定はしません。聖書にもそういうものがたくさん記されています。しかし、イエス様のところに「しるしを見せてください。そうしたら信じます」と言う人たちがたくさん来ました。イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12:39)と答えられました。神のみことばを信じることが何よりも第一です。そのときは、何の体験もないかもしれません。それでも良いのです。しかし、神さまは、神のみことばに対してしるしを伴わせてくださいます。奇跡とか聖霊体験は伴うものですから、二番目だということです。いわばグリコのおまけです。昔はおまけがほしくてキャラメルを買いました。どうぞ、神のみことばよりも、奇跡とか聖霊体験を第一に求めないでください。極端の溝には悪魔、悪霊が待ち構えているからです。バランスが必要です。これまでのキリスト教は知的一辺倒でした。知性にだけ訴えてきました。みことばは適用して、身につきます。また信仰は体験してみて、より成長していきます。聖霊や霊的賜物は体験してみなければ分かりません。だから、知識と体験のバランスが必要なのです。

2.物質とアニミズム 

 物質は自然とも言い換えることができます。ヨーロッパは合理主義の影響を受けました。目で見えるもの、計ることのできるものがリアル(現実)だと考えました。産業革命以来、ものすごく自然科学が発達しました。その反動として、「聖書の奇跡や霊的な存在は迷信である」と排除しました。なんと、キリスト教会までも霊的な世界を排除してしまいました。「悪魔とは悪を具現化した神話であって、実際は存在しないんだ。天使もかつてはいたけど今はいないんだ」と言います。彼らは三位一体は唱えますが、聖霊を人格的なお方として認めていません。だから、聖霊のことはほとんど口に出しません。もちろん、聖霊の賜物や、癒しや奇跡も信じません。そういう教会もあるのです。聖書を誤りなきことばであると信じている福音派の教会にもあります。なぜでしょう?それは西欧の衣を着た、キリスト教だからです。西欧の教会は、合理主義を取り入れて、聖書から霊的なものをすべて排除しました。そういう神学教育を受けた宣教師たちがやって来て、日本の各地に伝道して教会を建てました。日本人ほど、真面目で、忠義な人たちはいません。100年間も、同じ教義、同じ考えを踏襲しているのです。日本には数百のミッション・スクールがあります。しかし、そのほとんどがキリスト教という宗教教育になっています。そのためキリストと出会うこともなく、新生することもありません。宗教と実際の生活とは別なのです。ある学校の先生がクリスチャンになりました。教会では創造主なる神を信じています。しかし、彼は学校では進化論を教えています。教会では「神さまが人間を造った」と言い、学校では「人間は猿から進化した」と言います。「どうしていい加減なことを言うのですか?」と聞くと、「いやー、食べるためには仕方がない」と答えます。聖書が書かれたのはヨーロッパではなく、アジアです。だから、悪魔、悪霊、天使、聖霊の働き、癒し、奇跡、預言、夢、まぼろしが当然あるのです。

 物質(自然)と対極をなすのがアニミズムです。精霊崇拝とも言いますが、霊の世界と物質の世界の境目がありません。山や海、動物、大木、死んだ人間も神さまになります。彼らにとって、霊的なものがリアルであり、物質は影なのです。東洋のシャーマニズム、仏教、ヒンズー教がそのような考えです。物質を否定するので、科学や産業は発展しません。世界でどのような国が富んでいるでしょうか?物質の存在をちゃんと認めるキリスト教の世界が富んでいます。なぜでしょう?科学的に物質をとらえ、加工して、生産しているからです。日本人はどうでしょう?頭は西洋の教育を受けています。ところが心はシャーマニズムです。頭では「神なんかいない、迷信だ」と言います。しかし、大学に入るために天満宮に行ったりお守りを持っています。さっきまで生きていた人間が死んだら礼拝の対象になります。西洋の人たちは、全く考えられないそうです。アニミズムの影響を受けたキリスト教はどうなるでしょうか?そういう人たちは、何でも悪霊のせいにします。昔、キリスト教聖霊刷新に属していた頃があります。神奈川県のある兄弟から時々電話がかかってきました。「私は悪霊からこんな妨げを受けました。娘もこういう攻撃を受けました。先生も気をつけてください。」彼のことばの中には、イエス様がほとんどありません。いつでも、「悪霊がどこにいるか、悪霊が何をしているか」に関心があります。もちろん、悪霊はいます。しかし、私たちは悪霊よりも強いイエス・キリストに焦点を合わせるべきです。

 バランスが大切です。悪魔や悪霊もいます。そして、神さまも聖霊もおられます。私たちは霊的存在ですから、両者の影響を受けます。知らないで悪魔によって欺かれている時もあります。だから、私たちは聖書のみことばを読み、神さまと交わる必要があります。そして、祈って聖霊に満たされるならば、悪魔の策略を見破り、勝利できるのです。聖霊の賜物の中に、霊を見分ける力というのがあります。これは精神的、肉体的な病なのか、それとも悪霊から来たものなのか見分ける必要があります。ある人たちはすべての病気が悪霊によるものだと言います。しかし、そうではありません。新約聖書でははっきりと分けています。寒いところにいれば風邪になります。暴飲暴食をすれば腹痛を起すでしょう。不注意で車をぶつけるときもあります。すべてを悪霊のせいにしないでください。それは、私たちの責任です。神さまはそのために、知恵と導きを与えてくださいます。だから物質と霊的なもののバランスが必要なのです。

3.神学と心理学

 イエス様の時代の神学者というのは、律法学者やパリサイ人でした。彼らは律法を厳格に守り、「律法を守れない人は罪人である」とさばきました。ケンブリッジやオクスフォード大学の創設の頃、神学は哲学と並んで、とても重要な科目でした。現代においても、神学は教義を学ぶためにとても重要視されています。神学はどちらかと言うと、神さまとの関係、霊的な面を取り扱います。教会は神学の助けを借りてきました。しかし、心の問題というものが、おろそかになっていたように思います。人間には感情がありますし、人間関係も忘れてはいけません。これまでの神学ではあまり触れられてきませんでした。

神学と対極にあるのが心理学です。心理学は人間の心を取り扱う学問です。フロイトは心理学の基礎を築いた人です。彼は「理性の下には無意識の世界がある。意思よりも無意識にある本能的な欲求が人を動かしている」と言いました。ユングは内向と外向、思考と感情ということを研究しました。アドラーは人間を取り巻く環境が人間を作ると言いました。そこには、コンプレックスの問題があります。これまでは悪霊のせいにしてきましたが、精神的な障害や病気があるということも分かってきました。近年は、良い人間関係を成立するために、カウンセリングの助けが有効であると分かってきました。しかし、キリスト教会は心理学を否定しました。なぜなら、心理学者のほとんどが無神論者だからです。彼らは神さまの存在はもちろん、人間が霊的な存在であることも認めません。彼らは人間をヒトと言って、生物学的に見ています。最も、聖書と違うのは、罪の問題です。その人が悪いことをしたのは、環境や社会のせいだとします。罪を犯したという罪責感が人を病気にしているのであり、「そういうものはないほうが良いんだ」とまで言います。ですから、彼らは患者が教会に行くことを好みません。なぜなら、もっと罪責感がひどくなるからです。そして、恐れや不安の原因を取り除くために、いろんな薬を投与します。

ある姉妹が不慮の事故で子どもを死なせてしまいました。それから、謎の病気になりました。お父さんは彼女をいろんな病院、心療内科のところへ送りましたが全く癒されませんでした。カウンセラーのところへも送りました。カウンセラーは「あなたは悪くないよ。気にしないで、早く忘れなさい」と言いました。しかし、一人の牧師のところへ行ったらたった30分で癒されました。牧師はこのように言いました。「あなたは不注意でした。だからあなたにも罪があります。しかし、イエス・キリストはあなたの罪のために十字架におかかりになりました。イエス様があなたの罪を負ってくださったので、あなたは赦されたのです。」今まで、だれも「あなたのせいではない、あなたの罪ではない」と言いました。しかし、彼女の中には深い罪責感があったのです。それが、彼女を病気にさせたのです。でも、罪を悔い改めて赦され、病も癒されたのです。現代、キリスト教カウンセリングが徐々にではありますが、市民権を持つようになりました。教会は「ああ、カウンセリングなんて!無神論者がやることだ」と目を細めてきました。人は罪を悔い改めることにより新生します。救われたので、確かに霊的には新しくなりますが、心の問題が解決されていない場合があります。その人の深いところにある考えがゆがんでいる。そのために、怒りや恐れ、不安などの悪い感情が出てくるのです。ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」の「こころ」は、思いのことであります。霊は新しく生まれても、思いや考えが古いままのことがあるのです。霊だけではなく、思いや考えも福音化される必要があります。そのために、キリスト教カウンセリングやインナーヒーリング、さまざまな解放のミニストリーが必要なのです。つまり、神学と心理学とのバランスが必要なのです。

4.貧しさと功利主義

 イエス様の時代、エッセネ派という人たちがいました。彼らは荒野や洞窟で生活していました。中世においては、汚れた世を離れ隠遁生活をした人たちがいました。修道士フランチェスコは清貧ということを強調しました。プロテスタント教会ではピューリタンがその影響を受けています。現代ではホーリネスとかきよめ派の教会がそういう傾向があります。聖書には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ610であると書かれています。確かに、お金は偶像になります。でも、貧しいことが清いということにはなりません。「お金がない。お金がほしい。お金をください」と言っている人も、結局、お金が偶像になっています。なぜなら、その人の関心がいつもお金だからです。教会は聖徒たちがささげる献金によってなりたっています。その中から牧師給、伝道費、設備費がまかなわれます。お金がなければ宣教師も送ることができません。なのに、教会が「貧しいことは良いことです」と言うなら、あきらかに矛盾しています。

 貧しさと対極にあるものが功利主義です。アメリカ教会において、功利主義が説かれました。確かに、聖書を読むとアブラハムなどの族長はみな裕福でした。ダビデもソロモンも富んでいました。パウロも「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ419と言っています。私たちはこの地上においても、天国の豊かさを味わうことができます。しかし、功利主義は明らかに行き過ぎています。富が全てであり、成功をお金の大きさではかります。教会も大きい教会が良い教会で、小さい教会は良くない教会です。功利主義がもたらす弊害は何でしょう?祝福が目的になります。「神さまを信じたら豊かになりますよ。神さまを信じたら病気が治りますよ」と言います。しかし、主のために貧しくなる場合もあります。あるときは、病気になってしまうときもあるでしょう。そういう人たちは神さまから呪われているのでしょうか?韓国の教会も以前は貧しかったのですが、70代にリバイバルが起き、国も豊かになりました。韓国のGNPが11位ですが、どうでしょう?豊かになりましたが、離婚率、堕胎率はアメリカに継いでいます。富も必要ですが、富は人を狂わせてしまうことも事実です。箴言308,9貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。ですから、貧しさと富とのバランスが必要なのです。

5.まとめ

 これまで、哲学と神秘主義、物質とアニミズム、神学と心理学、貧しさと功利主義と4つの分野をみてみました。他にも両極端があると思います。真理というのは真中にあると言えます。しかも、真理にはある程度の幅があり、右へ行っても左へ行っても極端という溝にはまります。上へ行っても下に行っても極端になります。極端にはまりこみますと、それは間違った教え、異端のということになります。現代も様々なキリスト教の異端があります。私たちは彼らの教えを受けてはいけません。あの愛の使徒であるヨハネがとても厳しいことを言っています。Ⅱヨハネ1:10「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」私たちは真理という枠の中に、とどまる必要があります。あるときは、左に寄ったり、あるときは右に寄ったりします。また、あるときは上の方に、あるときは下の方に寄ったりするかもしれません。行き過ぎていた場合は修正する必要があります。そういう意味で、クリスチャン生活は、両極端の中から自分のバランスを保ち続けるスリルある過程であると言うことができます。

もうひとつは、独善的にならないということです。自分のところの教義を強調するあまり、「私の教団は正しくて、他は間違っている」という場合があります。そして、お互いがキリストのからだなる教会に属していることを忘れてしまっています。分裂と分派こそが現代のキリスト教会に存在している大きな問題です。Ⅰコリント13:9「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」人は、所詮、盲人が象を手さぐりするように、「神さまがどんなお方か?」と言っているようなものです。ある教団は「神さまの選び」を強調し、ある教団は「人間の自由意志」を強調します。ある教団は「聖霊による聖さ」を強調し、ある教団は「聖霊の力」を強調するでしょう。また、ある教団は「霊的階層」を強調し、ある教団は「民主主義」を強調するかもしれません。しかし、両方、当たっているのです。教団が、片方だけを強調するなら、信仰が偏ってしまいます。私たちは、賜物は違いますが、キリストにあって1つなのです。いろんな器官があって良いのです。でも、おなじキリストにつながり、おなじ御霊をいただいています。私たちの知るところは一部なので、他者からも謙遜に学ぶ必要があるのです。お互いに補い合うことによって、より完全な奉仕、より完全な信仰生活になるのです。

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2011年1月23日 (日)

罪の管理        マタイ18:15-20

 教会は天国を目指していますが、天国ではありません。そこにいる人々は、確かにイエス様を信じて新しく生まれ変わっているかもしれません。しかし、罪の性質が残っていたり、考え方の違いがあります。私たちは霊的なところもあれば、肉的なところもあるのです。そういう人たちが集まるとどうなるでしょうか?「互いに愛し合いなさい」という大事な戒めを忘れて、互いにさばきあったり、傷つけあったりします。それがエスカレートすると、教会が分裂して、人々が散らされてしまいます。そのために、私たちはクリスチャンが犯した罪に対して、正しく管理しなければなりません。旧訳聖書、新約聖書、そして教会の歴史を見ると、いろんなトラブルがあったことがわかります。確かにそれらは躓きのもとではありますが、私たちはそれらを乗り越えて、より良い教会形成を目指していくように召されているのではないでしょうか?

1.国家と教会 

国にはさまざまな法律があります。その中の刑法に触れると重い罰則を受けることになります。一方、教会はどうなのでしょうか?教会に法律というものがあるのでしょうか?旧約時代は、イスラエルの民はモーセの律法によってさばかれました。律法の中には、いわゆる刑法も民法も、そして宗教的な法律も含まれていました。偶像礼拝は最も重い罪であり、石で打ち殺されることもありました。しかし、イスラエル中が偶像礼拝に陥ったので、重い処罰を受けないようになりました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということになったのです。でも、人が罪を犯すならば、たとい人間が裁かなくても、神さまが裁くのだという思想はありました。新約時代になりますと、ローマがイスラエルを支配しました。そのため、ローマの法律の中に、イスラエルが置かれることになりました。イスラエルは宗教的な罪はさばくことはできても、刑法、特に死刑を下すことができませんでした。当時の考え方からすると、イエス様が十字架に付けられたのは、ローマに反逆した罪のためです。教会は200年間くらいものすごい迫害を受けましたが、西暦313年にローマの国教になりました。それから、国家の法律の中に、宗教に関する法律も含まれるようになったのです。中世では、宗教裁判で死刑になることも多々ありました。プロテスタント教会になっても、それは続きました。イギリス、ドイツ、スイスなどは、国が教会を運営していたので、いろんな弊害もありました。しかし、バプテスト教会が「政教分離」を訴えてから、国家と教会を分けて考えるようになりました。それが、今、現在に至っています。

では、教会においてどのような罪に対する管理があるのでしょうか?教会には、「戒規」というものがあります。戒規とは、誤った教理、罪の行ないに対して行使されるキリスト教会の教育、訓練です。教会戒規には訓戒、倍餐停止、除名と、三段階あります。サッカーでも、ファールをすると、最初はイエロー・カードですが、2回目はレッド・カードです。ある場合は、一発、退場ということもありえます。中世の教会では「破門」というのがありました。教会から破門されるとは、その人はもう救われないということです。今は、そういう考えはありません。戒規は英語で、disciplineですが、訓練する、しつけるという意味があります。つまり、罪を断罪するのではなく、罪を犯した人が悔い改め、正しい道を歩めるように訓練するということが目的です。ジョン・カルバンは、教会政治にとても長けた人でありまして、長老会でそういうことを審議するように決めました。現代の教会の半分くらいは、彼の長老制度を受け継いでいます。私たちの教会は、長老会はありませんが、牧師を含む役員会があります。宗教法人法にも、こういう組織を持つように定められています。私は当教会に赴任して、23年になりますが、倍餐停止とか除名を下したことは一度もありません。ただし、訓戒を与えたことは6回くらいあります。訓戒を与えて、半分は「牧師が何を言うか?」と反発を受けましたが、半分は「はい、分かりました」と悔い改めました。ある人は訓戒を受けたことにより、神の愛を感じて、正しい道に戻ることもできたようです。現代は、牧師が権威を用いるということはとても微妙な時代です。戦後、日本では「すべての権威は悪である!すべての権威をぶちこわせ」と言った時代があります。ですから、教会で「権威」と言うとものすごく、反発する人がいます。しかし、教会の中にも権威は存在しています。ローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」しかし、聖書で言う権威は、神さまから委ねられたもので、壊すためではなく、建て上げるためにあるということです。神の権威も同じですが、私たちが権威のもとで生きるとき、守りと助けが与えられるのです。「私は権威なんか否定する」と言って、権威の外に出るならば、守りと助けも得られないということです。もちろん、全ての権威が正しいとは思いませんが、教会には秩序を守る権威が神さまから与えられていることは確かです。権威に対して何だかんだ言っても、最終的には、神さまがさばくのです。私たちは神を恐れなければなりません。これが最も重要なことであります。

2.何を裁くのか?

 では、教会はどのような罪を裁くのでしょうか?「イエス様はさばいてはいけません。さばなれないためです」と言われました。しかし、イエス様がおっしゃるさばきは、人を罪にさだめ、赦さないということです。しかし、本日のテーマは罪があるなら罪を悔い改め、正しい道に立ち返るということです。前のポイントでも言いましたように、誤った教えを裁く必要があります。しかし、このことは「真理の管理」という題で次回にお話しします。今回は道徳的な罪、あるいは教会を汚す罪について話したいと思います。パウロは、コリント教会に対して何通か手紙を送りました。なぜなら、コリント教会おいて、様々な争いや性的な罪があったからです。コリント教会はそれらの罪を自分たちで処理しないで、いきなりこの世の機関に訴えたのであります。パウロは彼らに何と言っているでしょうか?Ⅰコリント61-6抜粋「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。…この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。」使徒パウロは、教会内で起きた問題を、ただちに世の裁判に告訴するのではなく、教会内で裁きなさいと言っているのです。特に、道徳的、宗教上の問題はそうです。世の中では不品行や姦淫はほとんど咎められません。「不倫」ぐらいでおしまいです。それでも最近は「セクハラ」という罪も多くなりました。でも、世の中と教会の基準は決して、同じではありません。パウロはⅠコリント512-13で、このように結論付けてします。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」つまり、教会内で、さばくべき罪があるということです。そして、すぐに世の中に訴えるのではなく、みことばのもとで判断すべきだということです。

では、教会内でさばくべき罪とは何でしょうか?それはキリストのからだ、共同体に犯す罪です。Ⅰコリント616,18「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりは一体となる』と言われているからです。…不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」文脈的には、性的罪は個人のからだに対して犯す罪です。しかし、その罪は個人のからだに留まらず、夫婦関係を壊し、家庭を壊し、教会のからだにも影響を及ぼすということです。私たちは主にある、兄弟姉妹として交わっています。でも、結婚していないのに、そういう関係を持つようになればどうでしょう?同じ、からだとしてつながっている兄弟姉妹に影響を与えない訳がありません。もし、牧師がだれかと姦淫を犯しているのに、「それは個人的な罪ですから」という訳にはいきません。残念ながら、そういう風に処理している教会もあると聞いています。かなり前に、クリントン大統領がそういう罪を犯しました。そのとき、アメリカ政府は「あれはクリントン個人として罪を犯したのであり、大統領としてではない」と言いました。それ以降、アメリカの国は霊的にとてもダウンしたことは確かです。もちろん、そういう罪も神さまの前では赦されます。どんな罪であっても、イエス・キリストの十字架の血しおによって赦されるからです。あのダビデ王も、姦淫と殺人を悔い改めたら赦されました。しかし、どうでしょう?「主の敵に大いに侮りの心を起させました」。そのため、ダビデの家系には剣と性的な罪が入りました。告白したなら、罪は赦されますが、代償も大きいということです。

エペソ4章には、共同体を壊す、その他の罪が記されています。悪意、中傷、そしり、憤り、怒り、苦しみ、悪いことばがあります。エド・シルボソ著『神はひとりも滅びることを望まず』でこう教えています。クリスチャンの間に、多くの怒りが引き起こされる原因は何でしょうか。それは多くの場合、語られた言葉です。エペソ4:26に記されている怒りを誘う引き金は、29節に記されている「悪い言葉」なのです。この「悪い言葉」という引き金は、非常に巧妙な変装をする高度な策略です。しばしば私たちは、言葉の影響力を過小評価します。「おしゃべりは軽いものだ」と私たちは言いますが、人間関係の悲劇は大部分この「悪い言葉」によって引き起こされているのです。これらの言葉は、海の底で発見されずに残っている津波のように、やがて私たちのサタンに対する対抗する力を破壊することになります。「悪い言葉」をエペソ4:29から定義すると、建て上げるかわりに引き降ろす言葉―すなわち恵みのない真理です。人の徳を養うのに役立たない真理を語ることです。真理は偽り以上に人を傷つけることがあります。誰かが私たちについて偽りを言うと、私たちは傷つきますが、心の底ではその言葉に内容がないことを知っているので、平安に眠ることができます。けれども、誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなるのです。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ、責められているように感じます。それは私たちが変わる必要のある弱点であり、自分で直すことができずに絶えず抑圧してきた面に関することかもしれません。しかし、恵みのない真理をあからさまに語ることは、裁きを下すのに相当することです。…「悪いことば」は共同体を壊します。夫婦関係も壊します。どうか私たちは愛をもって真理を語る、人の徳を養うのに役立つことばを語りたいと思います。

3.どのように裁くのか?

マタイ18章は「二人でも三人でも、私の名において集まるところに、私もその中にいる」という教会の最小単位を教えている有名な箇所です。しかし、マタイ18章は「もし、兄弟が罪を犯したならどうするか」ということが重要なテーマになっています。そこには罪を裁くための3つのステップが記されています。この順番が大切なのです。日本人は多くの場合、1と2を飛ばして、3に行ってしまいます。そうすると人間関係にものすごい大きなダメージを与えます。最初に申し上げたジョン・カルバンが考え出した長老主義は組織的に申し分ありません。でも、何でも会議で決めると、人間関係を無視することになり、大きな傷を残すことになります。日本基督教団な大阪万博がきっかけで、紛争がおこりました。その当時、安保反対とか学生運動も重なり、教会と言う教会が荒れていた時でもありました。暴力沙汰になったため、教会に警察が入りました。それがこじれて、東京教区は19年間、総会を開くことができませんでした。感情的なもつれが、なかなか消えませんでした。会議には限界があります。人間関係を修復するための、ステップがなければなりません。いや、人間関係を基盤とした罪に対するさばきが必要なのです。私たちはそれがめんどうなので、会議で、議論して決めるところがあります。教会は、この世と同じようなシステムをとってはいけません。この世は、訴訟に満ちて、互いに訴え合っています。私たちは人間関係を基盤とした、罪に対する解決が重要なのです。

では、どのようなステップが必要なのでしょうか?マタイ1815「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」第一のステップは、二人です。つまり、罪を犯した人と、それを正す人です。もしかしたらなら、被害を受けた人かもしれません。被害者と加害者というのは、微妙な関係なので、第二のステップですべきかもしれません。でも、とにかく当事者のところへ行って、二人きりで話すべきです。私が20歳のときでしたが、現場監督をしている時、自動車学校に通いました。確かに仕事中でしたが、上司に断り、現場の段取りをして行っていました。あるとき、現場の会議があり3つの現場が集まり、そこに20人くらいいました。所長が何を言うかと思ったら、「鈴木君は現場を放棄している」と、みんなの前で言いました。事務の人が助け舟を出してくれましたが、大勢の前で恥をかかせられました。親が子どもを叱るときもそうですが、他の人がいる前で叱ると、ものすごく傷つきます。みんなの前では、弁明もできません。良い悪いではなく「恥をかかせられた」という怒りだけが残ります。勇気も必要ですが、二人で、話してみるということです。二人で話す機会が何度もあったのに、いきなり会議にかけるのは良くないということです。第二のステップは何でしょう?マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」その人に話したけど、聞き入れてくれませんでした。認めもせず、悔い改めもしなかったのでしょう。そこで、他にひとりか二人を一緒に連れて行くということです。聖書には「ふたりもしくは三人は証人である」と書かれています。ふたり三人は小グループ、セルです。小グループであるなら、まだ、まだ安全です。「実はこうだったんだ」と構えないで告白できるかもしれません。中学校のときは、学校へ行きたくなくなるときがあります。ちょっとしたことで、3日も4日も休むときがあります。すると級長が「どうしたの?」と訪ねて来てくれる。その後、2,3人の友だちが「みんな待ってるよ」と訪ねて来てくれる。そうすると、家にいても退屈なので、学校に行きます。友達って本当にありがたいものです。聖書は「ふたり三人の中にイエス様が共におられる」と書いてあります。

 第三のステップは何でしょうか?マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」ここでやっと教会ということばが出てきました。当時の教会はそんなに大きくありません。おそらく、十数名から百人未満だったでしょう。300名の教会総会ではありません。ここで言う、教会とは長老と牧師で組織されている団体です。権威をもって、はっきりと「戒規」をくだすところです。第一、第二のステップを踏まえたのち、教会に訴えたのです。ある教会の信徒は教会も飛ばして、教団に訴えるところもあるそうです。中には、全国の教会に手紙を送りつける人もいます。そうなったら、収拾がつかなくなるばかりか、キリストの名前に傷がつきます。教会にはイエス様の権威が与えられています。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」アーメン。共同体を壊す罪をそのままにしておきますと、悲惨なことになります。教会が中傷と争い、分裂に陥るなら、サタンの思う壷です。やがて、世の人たちも「あれでもクリスチャンか」と言うようになります。私たちは多少の考えの違いがあるかもしれません。感情のもつれがあったかもしれません。しかし、イエス様の十字架のもとで和解しなければなりません。もし、それでも罪を悔い改めず、罪の中に留まるならどうなるでしょう?神さまご自身がさばきます。「では、その人は地獄へ行くのか?」というとそうではありません。イエス様を信じていたなら、確実に天国に行くことはできます。信仰義認だからです。でも、その人が生前犯した罪を悔い改めないならば、神さまが肉体の命を取ります。そして、そのことによって罪が帳消しになり、霊においては天国に行くことができるのです。聖書には、信仰があるのに、罪を犯したために、死んだ人が何人も書かれています。でも、その人たちがキリストを信じているなら、ちゃんと天国に入ることができるのです。

 教会の旗印は神の愛ですが、「神さまが愛ならば何でも赦されるか」というとそうでもありません。神さまは愛ですが、同時に義なるお方です。義なるお方だからこそ、私たちの罪を赦すために御子を十字架につけたのです。神さまの愛は無条件です。しかし、神さまの祝福は条件付きです。神さまはさまざまな法則を設けられました。宇宙万物に法則があります。科学や物理の法則もあります。しかし、道徳的な法則も神さまは作られました。聖書で、それは律法と呼んでいます。十字架で律法の呪いは確かに砕かれました。では信じた後、律法は不要なのでしょうか?そうではありません。神さまは恵みによって律法の内を歩むように願っています。なぜなら、律法を犯したり、律法の外に出るならば、私たちの生活、命、人間関係が壊されるからです。私たちはキリストによって救われましたが、天国に行くまでは不完全です。ですから罪を犯したならば素直に悔い改めましょう。そして、互いに赦し、互いに愛し、互いに建て上げあう教会を作りたいと思います。この世と教会の違いは何でしょうか?この世は互いに裁き合い、互いに訴えあっています。しかし、教会は互いに赦し、互いに愛し合うようにします。そして、もし、そこに罪があるならば勇気をもって対処し、和解をもたらしていくのです。教会が神の愛と神の義がバランスよく支配されるところとなりますように求めていきたいと思います。

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2011年1月16日 (日)

執事と長老      使徒6:1-6

 初代教会には執事と長老がいました。現代においても同じ名称で、組織している教会もあれば、そうでない教会もあります。長老派の教会はわりとがっちりしていますが、バプテスト教会などは民主主義的です。カリスマ的な教会は、牧師のリーダーシップが強くて、ワンマンになる傾向があります。これは教団の歴史がありますので、一概に、これが良いとは言えません。当教会はこれからどうするのでしょうか?10年くらい前に、『健康な教会へのかぎ』という本がベストセラーになりました。その本の英語の題名は、The purpose driven church.です。教会を何が動かすのかということです。伝統が動かす教会、役員が動かす教会、牧師が動かす教会、プログラムや行事が動かす教会があります。しかし、この本は「教会の目的こそが教会を動かすべきである」という主題で書いています。ある教会は、組織が手かせ足かせになっている場合があります。それで教会の存在目的を果たすことができないのです。

1.最初の執事

 まず、使徒の働き6章から最初の執事について学びたいと思います。執事がどうして任命されたのでしょうか?それは、やもめたちの毎日の配給で問題が生じたからです。あるグループはいっぱいもらって、あるグループはなおざりにされていたようです。不平等が生じたので、7人の執事が任命されました。その条件が、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たちでした。」おそらく、彼らが教会の実務的なことをしたのだと思います。ここで、ペテロの発言に注目したいと思います。使徒62,4そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。…そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この箇所から、教会ではこのようなことがよく言われます。「牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきである。」お聞きになられたことはないでしょうか?つまり、牧師がいつも霊的なことができるように、信徒が雑用を一手に引き受けるべきであり、「牧師に掃除させたり、送り迎えをさせるなんてとんでもない」ということです。私は掃除もしますし、送り迎えもしますけど、牧師としての権威がないのでしょうか?牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきなのでしょうか?そのとき、7人の執事が選ばれました。彼らはおそらく、毎日の配給が平等になるように奉仕したと思います。でも、そういう雑用だけではありません。使徒7章を見てみると、執事の一人ステパノは議会で、使徒顔負けの大説教をしています。イスラエルの歴史をパノラマ的に語った後、ユダヤ人の罪を糾弾しました。そのため、ステパノは教会の、最初の殉教者になりました。もう一人の執事ピリポはどうでしょうか?使徒の働き8章を見てみると、彼はサマリヤに出かけ福音を宣べ伝えました。病を癒し、悪霊を追い出しました。「それでその町に大きな喜びが起こった」(使徒88と書いてあります。使徒たちがエルサレムに留まっている間、サマリヤの町に下って行って、リバイバルをもたらしました。

 ということは、「ペテロが行ったことは本当に神のことばなのか、つまり霊感された神のことばなのか」ということが問題になります。もし、ペテロが言ったことばが神からのことばなのであれば、ステパノもピリポも余計なことをしたことになります。何と言いましょうか?まことに僭越なこと、身分を越えた振る舞いということになるでしょう。しかし、そうではありません。使徒の働き9章を見ますと後のパウロであるサウロが救われます。そして、名もない信徒たちによって、アンテオケ教会ができます。アンテオケ教会から世界宣教がなされていくのです。イエス様の12使徒はほとんど記されていません。ペテロは「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と言いました。悪いことではありません。使徒だから、そうするべきです。しかし、「信徒や執事が祈りやみことばの奉仕に携わるべきではない」ということではありません。ステパノやピリポは大胆にしていました。つまり、今日的に言いますと、祈りやみことばは牧師の占有物ではないということです。そして、祈りやみことばのレベルが上で、毎日の配給は雑用ということではありません。大体、雑用という表現自体が間違っています。主の働きに雑用というものはありません。また、ある牧師たちは「牧師はプロ意識を持たなければならない」と言います。では、牧師はプロであり、信徒はアマなのでしょうか?「信徒の奉仕はアマなんだから仕方がない」みたいになります。私は主の奉仕をするのに、プロもアマもないと思います。みんながキリストのからだに属して、それぞれの働きをしているのです。それを玄人とか素人というのは失礼です。

 執事を英語でディーコンといいますが、ギリシャ語のデァコネオゥ、「奉仕する」から来ています。ですから、奉仕は身分ではなく、賜物と関係しています。キリストのからだなる教会においては、教える賜物もありますが、管理する賜物も備えられています。身分の違いではなく、それは機能の違いです。ローマ12章には奉仕の賜物や指導の賜物が記されています。また、Ⅰコリント12章には助ける賜物、治める賜物が記されています。Ⅰペテロ310「それぞれが賜物を受けているのですから、神さまのさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」とあります。ですから、そういう賜物を持った人に、執事とか長老の役職が与えられるのであります。人間のからだを見ると、脳以外にからだを管理している器官がいくつかあります。たとえば、肝臓は3つの働きをしています。食べた物をエネルギーに変える働き、体に取り入れた物の解毒作用、いらないものを排泄する胆汁の生成。肝臓は体内の化学工場と呼ばれるそうです。脊椎はどうでしょうか?脊椎も3つの働きをしています。脊髄などの大切な神経を保護する、上半身を支え下半身を動かす、肋骨との組み合わせで内臓を保護する。脊椎がないとナマコみたいになります。私たちは頭脳とか心臓だけを注目しますが、肝臓や脊椎もものすごく大事です。使徒の働きにおける、ステパノやピリポは12弟子を越えていたところがあります。ステパノやピリポこそが、本当の執事ではないでしょうか?日常的なこともしましたが、霊的な働きもしたということです。

2.最初の長老

 新約聖書に「教会における長老」というのはどういう存在なのか、そんなに詳しくは書いていません。ほとんどの場合、使徒たちの代わりに、預言や伝道、牧会や教えをしていたものと思われます。使徒パウロが教会ごとに長老たちを選んで、主の働きをゆだねています。今でいう、牧師の役割をしていた長老もいました。いわゆる教会の指導者であります。宗教改革者ジョン・カルバンは、教会を組織した優れた神学者です。彼の考えをもとに長老主義、長老派というものが生まれました。今で言うなら、代議員制であります。現代では小会、中会、大会と区分されています。大会は全国レベルの会議であります。いわゆる、教団総会みたいなものです。残念ながら、長老教会の特徴は何でも会議で決めるところがあります。ある場合は、牧師対長老という不毛の戦いが繰り広げられるときもあります。ですから、毎月一度、開かれる役員会、あるいは年に一度開かれる教会総会が牧師にとっては頭痛の種です。あるときは牧師が槍玉にあげられるときがあります。私も個人的ではありますが、長老制度が果たして聖書的だろうかと疑問に思っています。イエス様を十字架につけたのは、律法学者や長老たちでした。それはともかく、初代教会のころは、組織的にかなりゆるやかではなかったかと思います。彼らは祈りつつ、聖霊の導きを絶えず仰いだからです。いざ、会議モードに入りますと、左脳ばかり使う議論になってしまいます。政治とか会社は、それで良いかもしれませんが、キリストのからだなる教会ではそうであってはなりません。大体、役員に選ばれる人というのは、信仰よりも、この世で地位のある人たちです。彼らは会社を経営するように、教会を運営したくなります。「教会は組織的になっておらん!」と言う訳です。

 当教会は役員とか責任役員というふうに呼んでいます。宗教法人法には何名か責任役員がいなければなりません。私は責任役員がいることは悪いことだと思っていません。代表役員である牧師の責任を一緒に担うという役目があるからです。牧師が逸脱した行為をしたり、牧師が何らかの理由で職務を果たせない場合は、責任役員が必要でしょう。しかし、多くの場合は、役員会というのはボード、評議会のようなものです。牧師とビジョンを共有し、伝道牧会におこる問題を一緒に協議する必要もあります。私は当教会に赴任して、23年になります。私を座間キリスト教会から招聘してくれた人たちが当時の役員会です。山崎長老さんと、戸叶長老さんもその中におられました。長老制度の長老ではなく、当初の頃から教会を支えてこられたので「長老さん」と愛称で呼んでいました。その頃、教団に無認所の牧師が6人いました。なのに、「他の血を入れたいので、大川牧師の弟子を」ということで単立の教会からスカウトしたのです。すばらしい信仰ではないでしょうか?赴任して5年目くらいでしょうか?役員さんの世代交代がありました。そのとき役員会で、いろんな提案やアイディアを出す人がいました。「教会はこういうことをしたら良い。ああいうことをしたら良い」と言うのです。最初の頃は、「そうですね」とできるだけ答えてがんばりました。しかし、教会が小さいこともあって、多くのことはできないということが分かりました。あるセミナーで「差別化」ということを教えられました。つまり、デパートのような総花式ではなく、「これだけを売る」という専門店を目指しました。私は「福音を分かり易く語る」ということをモットーにしました。それでも、あれやこれやと言われました。そのとき、牧師として役員さん方に提示したことがあります。「役員会で、提案やアイディアを出すだけというのはお断わりします。アイディアを出した人が率先してやるならばいくら出しても結構です」と。それ以来、理想論は減って、実行可能なことが話し合われるようになりました。

 教団教派によってはいろんな組織があります。日本基督教団のように、長老会で教会を運営している教会もあります。牧師も長老の一人です。また、聖公会やメソジスト系は監督制で、教団や牧師に力があります。バプテスト教会や組合教会は、民主主義的で牧師も信徒の一人です。単立の教会は、牧師がカリスマ的でリーダーシップが強いかもしれません。このように、牧師の権限が大中小と分かれており、そこには長所も短所もあります。しかし、私は教会運営においても、セルチャーチの概念を取り入れています。セルチャーチとは何かと言うと、牧師も役員も信徒もみんなかしらなるキリストにつながっているということです。牧師だけではなく、それぞれがキリストに聞くことができるということです。その次に問われるのは霊的な賜物です。指導の賜物や管理の賜物、あるいは使徒的な賜物があります。牧師でリーダーシップの強い人もいれば、強くない人だっています。牧師が教師的なタイプである場合は、牧会や教会運営は他の人がやっても良いのです。ですから、賜物に応じて、生きた組織を作っていけば良いのです。教会はこの世の組織とは違います。この世の組織はトップダウン的です。何かを決める偉い人と実際に行う下の人たちがいます。教会はキリストのからだです。生物的、有機的な存在です。働きも賜物も違う者どうしが、かしらなるキリストにつながっています。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それを行う。そういうからだをイメージした教会を目指したいと思います。

3.牧師と役員会

 最後にまとめをしたいと思います。こういうことを礼拝説教で語っても果たして恵まれるだろうかという疑問があります。いわば教会の裏話みたいなものです。信仰のDNAシリーズの最後の段階ですのでお聞きください。牧師と役員とはどのような関係であるべきなのでしょうか?ある教会では、役員会を労働組合のように思っています。経営者側と労働者側と分けるように、教会側と信徒側みたいに考えます。「役員会というのは信徒の意見を吸い上げて、それを牧師にぶつけるんだ」と考えています。でも、役員会は団体交渉のためにあるのではありません。役員会は牧師のビジョンをになうリーダー的な人たちで構成されています。聖書全体を見てわかりますが、神さまは特定の人にビジョンを与えます。牧師にビジョンがない場合は、他のリーダーに与えます。ブラックゴスペルは11年前に、3人の兄姉が言い出しました。「私は日本人には無理なんじゃないかな?でも、セルによってみなさんが自主的にやるんだったら良いよ」と言いました。私にはブラックゴスペルのビジョンが来ませんでした。でも、牧師も役員会もそのビジョンが実現するように助けるようにしました。しかし、教会によっては牧師や役員会が信徒のビジョンを受け入れないばかりか、潰すところもあります。エリヤハウスという内面の癒しをするグループがあります。やっぱり、牧師の承認にかかっています。牧師がノーと言えば、教会にエリヤハウスを導入できません。でも、牧師だけが「セルチャーチを目指す。二つの翼をやる」と言ってもなかなか実現しません。では、教会をだれが動かすのでしょうか?牧師でしょうか?役員でしょうか?伝統でしょうか?それともプログラムでしょうか?私は神さまから与えたビジョンが教会を動かすと信じます。かしらなるキリストから与えられたビジョンによってみんなが動く、これが大事だと思います。箴言に幻(ビジョン)のない民は滅びると書いてあります。神からのビジョンがあるのか、ないのか、これが生命線だと思います。それを牧師と役員とみなさんが一緒に担う有機的な組織が教会です。

 多くの場合、牧師が「こうしよう、ああしよう」と言います。会堂建築、教会の開拓、あるいはこういう伝道プログラムをしようと言います。牧師はあっちのセミナー、こっちのセミナーにでかけ、「ああ、これだ!これしかない!」と言います。しかし、役員や信徒は「ああ、また先生はじまった。何回失敗すれば良いんだ。前も、これしかないとか言って、ダメだったじゃないか」と結構、冷めています。牧師だって馬鹿じゃありません。心の奥底に「前も失敗したので、今度はどうかな?」という迷いがあります。それを押し切って、「ああ、これだ!これしかない!」と言うのです。では、役員の人たちはどうすれば良いのでしょうか?みなさん、車にはブレーキがあります。スピードの出る車には、ちゃんとしたブレーキがなければ危ないです。スピードが出たけど、ブレーキがきかない。危なくて仕方がありません。ある意味では、役員の人たちは車のブレーキです。牧師は「ビジョンだ、信仰だ!お金は神さまが与える」と言います。しかし、役員は常識で物ごとを考えます。「とは言うけど、予算がない。どこからそのお金が出てくるのだろうか?」。牧師は「祈れば、神さまが与えてくださる!」と言うでしょう。両方正しいのです。牧師は役員の反対があれば、もっと神さまの導きを求めるので、より実行可能なビジョンになるのです。牧師がカリスマ的で超ワンマンな教会もあります。カルトとは言いませんが、役員さんはみなイエスマンです。牧師に反対できません。牧師がわき道にそれたり、罪を犯すときもあります。それを抑制できない、止めることもできない。問題が大きくなって、教会が分裂したり、信徒が散らされる場合もあります。一度、壊れた教会を修復するのは大変です。誰が、その後を継ぐのでしょうか?牧師のビジョンと役員の常識、牧師のリーダーシップと役員の抑制力、そういうバランスが必要だということです。でも、どうか役員がビジョンの火ばかり消すことにエネルギーを使わないようにしてください。一緒に、神さまのビジョンを担う者となりましょう。

 また、教会によっては牧師を雇い人のように考えている教会もあります。どこの教会とは言いませんが、幼稚園のお庭に教会の建物があります。幼稚園はとても立派で、園長さんはみんなから慕われています。でも、幼稚園のお庭に教会が間借りしている状態です。子どもたちが、教会の牧師を「おじさん」と呼んでいるそうです。それは良くないですね。幼稚園の経営も大切ですが、霊的な指導者として牧師を立てるべきであります。それは極端ですが、教会が牧師を招いた場合、牧師はサラリーをいただく立場になります。つまり、教会はその牧師をいくら、いくらで雇っているかたちになります。そうすると、役員会は牧師にいろんな要求をするし、牧師は言うことを聞かなければならないと思うでしょう。「俺たちが給料を払っているんだから、新しい人よりも、今いる人たちを世話しなさい」と言います。しかし、これは間違いです。牧師は確かにその教会から招聘されました。でも、神さまがその教会にその牧師を送ったのです。ですから、牧師のボスは役員会ではなく、イエス・キリストです。イエス様が大牧者で、その牧師は中牧者です。イエス様が、その牧師を教会の霊的指導者として派遣したのです。そういう信仰を教会の役員さんや信徒が持たなければなりません。ある教会の牧師から「雇われ牧師からオーナー牧師になれ」と教えられたことあります。オーナー牧師とは、牧師が教会を仕切るというニュアンスがあります。確かに、長い間、忠実に勤めることにより、教会員からの信頼を勝ち得る必要はあると思います。しかし、自分の思うとおりに教会を動かすというのは、行きすぎです。韓国の教会は牧師の地位がものすごく高いです。しかし、日本の教会はものすごく低いです。牧師給も低いので成り手がいません。一人の魂を救いに導いたら、いくら位の値打ちがあるのでしょうか?永遠の滅びから、永遠の御国ですよ?1億円でも足りないのではないでしょうか?Ⅰテモテ517,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。…「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。今のは、フルタイムで仕えている牧師へのことばです。では、執事や長老、役員さんはどうなんでしょうか?好きでもないのに、役員に選ばれて、責任ばかり押し付けられるのでしょうか?いわゆる、貧乏くじをひかされるようなものなのでしょうか?そうではありません。Ⅰテモテ313「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」「良い地歩」とは、財産,権利などを取得する、手に入れるという意味です。ハレルヤ、神さまの報いが、この地上でも豊かにあるということです。韓国は現在とても豊かな国になりました。どうしてでしょうか?最初に教会が祝福されたからです。教会の長老さんや執事が行なっているビジネスが祝福されたからです。日本の教会も、教会が豊かに祝され、リーダーや役員さんが祝されますようにお祈りしましょう。

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2011年1月 9日 (日)

「心を満たせ」      ヨハネ7:37-39

イエス様は「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れる」と約束されました。そして、その約束はペンテコステの日に成就されました。ペンテコステの日に御霊が注がれ、120人の人たちが聖霊に満たされました。それ以来、イエス様を信じるものはだれでも、聖霊を受けることができます。イエス様を信じたら、同時に聖霊を受けるのです。しかし、聖霊に満たされるとは違います。聖霊に満たされるためには、神さまに求めなければなりません。神さまは私たちが望む以上に、私たちを聖霊で満たしたいのです。なぜなら、私たちが聖霊に満たされることによって、神さまに従い、勝利ある信仰生活を送ることができるからです。でも、ある人たちは、聖霊に満たされるという特別な体験だけを追い求めます。異言の伴う聖霊のバプテスマ、聖霊による油注ぎを求めます。すばらしい神秘的な体験を持つことも良いです。でも、これは信仰の世界なので、体験があってもなくても、神さまに「私を聖霊で満たしてください」と祈れば、もう満たされたのです。体験はあとからついてきます。

1.御霊に満たされるとは?

 ヨハネ4章でイエス様は「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ414と言われました。これはイエス様を信じるときに、永遠のいのちが与えられる新生の体験です。そのときの聖霊の働きはたとえて言うなら、泉であります。でも、ヨハネ7章の場合は、ちょっと違います。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れる」とおっしゃいました。川は泉よりも、水の量がもっと豊かです。ちなみに、この川は原文では複数形riversとなっています。ですから、原文に忠実に訳すなら「その人の心の奥底から、生ける水が川々となって流れる」となります。かなり、前にチョーヨンギ先生が日本に来られたとき、「川はすごい」というお話をされたことがあります。世界の4代文明は川の流域から始まりました。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、黄河、インダス川の流域です。つまり、川の流れるところに、町ができ、文化ができるということです。でも、聖書ではもう1つの川があることを教えています。エゼキエル書47章に、神の川について記されています。エゼキエル478,9「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」アーメン。神の川が流れるところには、町ができ、新しい文化、新しい文明ができます。それが神の国です。この亀有教会も神の川の支流の1つです。今まで、生まれも育ちも違った人たちが、神さまのもとに集まり、1つのコミュニティができました。わざわざ、千葉県、埼玉県、足立区から来られる兄姉もおられます。教会を中心とした生活になっています。そして、日本の文化を越えた、神の国の文化を作っています。

では、聖霊に満たされるとはどういう意味でしょうか?それは心が聖霊によって支配されるということです。イエス様を信じて新生した頃は、泉なので、自我とイエス様が王座を競っている状態です。でも、聖霊に満たされると、心の奥底から、生ける水の川が流れ出てくるので全然違います。生ける水の川が「ばぁーっ」と流れると、どうなるでしょう?上にたまっていたゴミが流されます。赦せない心、反抗心、プライド、トラウマ、悲しみのゴミが「ばぁーっ」と流されます。その代わり、聖霊の実が現れます。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ522,23)。聖霊によって満たされた状態とはどういう状態でしょうか?心が聖霊によって導かれる。心が聖霊によってコントロールされている状態のことです。みなさん、心とは何でしょうか?英語では心を機能的に3つに分けることができます。1つはintellect、知性、知識です。mind(思い、頭脳)と言って良いかもしれません。2つはheart、感情、情緒的な面です。3つ目はintention、意思です。「こうしよう、ああしよう」と決断するところです。みなさん、神さまから離れた私たちの心は不安定で、正しく機能していません。知性は肥大化し、感情は不安定、意思は独りよがりです。それぞれの心の機能に、聖霊様のコントロール、ご支配が必要です。聖霊に満たされるとは、この3つの分野をご支配していただくということです。そうすると、神さまの力と能力が、そしてキリストの品性が心の底から流れ出てくるのです。ハレルヤ!どうでしょうか?泉の人生で我慢していて良いでしょうか?「森と泉に囲まれて…」ロマンがあるかもしれませんが、自分一人しか影響を与えることができません。どうでしょう、川、川々の人生が良いのではないでしょうか?この川の流れ行くところものみな生きる人生です。

2.キリストにあって生きる

 聖霊に満たされた生き方とは、表現を換えるならば、キリストにあって生きるということです。多くの牧師たちは、聖霊に満たされることを教えても、何か漠然としていたのではないでしょうか?私の場合は、インドネシアのエディ・レオ師からすばらしい教えをいただいていますので、こういうところがよく分かります。あるクリスチャンたちは、神のいのち、聖霊様が与えられているにも関わらず、まるでいないかのように生きています。たとえば、「私は神さまのために、イエス様のために生きます!」と言います。多くのクリスチャンは「神さまは天におられ、クリスチャンは地上にいる」と信じています。クリスチャンは上を見上げて、「神さま、あなたのために生きたいです」と言います。「神さま、あなたを愛します。神さま、隣人を愛します。神さま、あなたのみことばに従います」と言います。これは動機について言っているのではありません。もちろん、私たちはキリストのために生きたいという動機を持っています。しかし、「キリストのために生きる」とは動機について語っているのではありません。「どのように生きるのか」ということを語っているのです。私が「おお、神さま、あなたのために生きたいです」と願ったとします。動機はすばらしいですが、単独で、神さまのために生きようとしています。単独で「神さまを愛します」「隣人を愛します」「みことばに従います」と願っています。でも、それは不可能です。何故、不可能なのでしょうか?私たちにはそのような強い意志がないからです。代わりに、肉の思いが邪魔して、やろうとすればするほど、変な方向に行ってしまいます。パウロがそのことをローマ7章で表現しています。ローマ7:18,19「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」これこそが、私たちの意志の限界です。聖書ではこれを肉、うまれつきの力と言います。多くのクリスチャンは救われているのに、旧訳の時代に住んでいます。「神さまを愛する」「隣人を愛する」「みことばに従う」。これは、律法です。旧約の時代の人は、これを自分の力で守り行おうとして失敗しました。私たちは新約のクリスチャンなのに、旧約の時代の人の生き方をしています。せっかくイエス様を信じて救われたのに、世の中よりも、もっと細かい律法に縛られます。世の中では悪いことを思っても実行しなければ罪ではありません。でも、クリスチャンの場合は、思っただけでも罪になります。人を憎しむことは殺人に等しく、情欲で女性を見ることは姦淫です。「わぁー」、なまじっかクリスチャンになったばっかりに、苦しむことになります。「ああ、してはいけない。こうしなければならない」と言っている人は、律法主義的なクリスチャンです。自分の力や意志でやろうとしているからです。

 パウロはその代わり何と言っているでしょうか?ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロは、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言われました。どうでしょう?クリスチャンの方々にお聞きします。クリスチャンは、自分がいないのでしょうか?自分の意思や考え、感情を捨てるべきなのでしょうか?これはそういう意味ではありません。自分の意思や考え、感情を、自分のうちにおられるキリスト様に従わせるということです。表現を換えますと、自分の肉の力ではなく、イエス様の力、聖霊によって生きるということです。パウロがこのことを表現するために、最も表現したことばは、エン・クリストウです。新約聖書では「キリストにあって」「キリストの内に」「キリストの中に」「キリストによって」と訳されています。エンは英語のinとも訳せますが、もっと生命的な意味があります。エンは「霊的、神秘的交わり、結合」「人物の中に内在し、活動すること」「霊の働きの支配下にある」という意味があります。私たちはまさしく、イエス様と霊的に結合し、イエス様が私たちの中に内在し、活動しています。そして、私たちはイエス様の働きの支配下にあります。つまり、本当のクリスチャンは、自分の力ではなく、イエスさまを私たちの原動力として生きるということです。このように言うと、「ああ、それじゃ自分の力はいらないのか?」と考える人もいます。そういうことではありません。私たちは決断したり、考えたり、手足を動かす責任があります。でも、そのすべての源がキリストにあるべきです。前回、W.W.J.D「イエス様だったらどうする?」という生き方は、律法的で疲れ易いと申し上げました。なぜなら、「イエス様だったらどうする?」と言う度に、イエス様と自分を切り離して考えるからです。プロミスキーパーズという世界的な団体があります。彼らは婚前交渉、妊娠中絶、同性愛、ポルノを禁じます。とっても良いことだと思います。あるとき、プロミスキーパーズがワシントンDCに集まり、大きな大会を開いたそうです。おそらく、さきほどのことを絶対にしないぞ、と宣言したに違いありません。しかし、その夜、ポルノのウェブサイトのアクセス数が何倍にも膨れ上がったそうです。その原因は何でしょうか?大会に集まった人たちが、夜、ホテルに帰ってからこっそり見ているからです。これが、人間の肉の限界です。悪いと分かっていても、それを止める力がないのです。

 では、どうすれば良いのでしょうか?前の人は、単独で神さまのために生きようとしていました。だから、うまくいかないのです。クリスチャンの中には、すでにイエス様が住んでおられるのです。私たちが神様のために生きるとしたら、だれが生きるでしょうか?自分が生きていることになります。もし、自分が生きているのであれば、どっちの命の力が発動するでしょう?肉の命、肉の力です。肉の命は、ビオスとかサルクスと呼ばれています。私たちにはもう1つの命の力があります。それはゾエーの命であり、聖霊の力です。多くのクリスチャンがノンクリスチャンとほとんど変わらない生き方をしているのはなぜでしょうか?それは、自分の力、肉の力で生きているからです。もし、あなたが生きていれば、肉の力が働きます。神さまのために生きようという意志はあると思いますが、自分の力で独立して生きています。うまくいく時もあるでしょうが、失敗する時のことが多いでしょう。うまくいったとしても、非常に疲れます。私たちクリスチャンは、「キリストにあって、キリストの内に、キリストの中に、キリストによって」生きなければなりません。キリストにあって生きるなら、私たちがなすべきことができて、私たちがやってはいけないことをしなくなるのです。私たちがすべきことは、たえず、「イエス様、一緒に行きましょう」「イエス様、このことを一緒にやりましょう」「イエス様、これをしたいのですが、力を与えてください」とイエス様により頼みながら、生活すれば良いのです。

3.キリストを現す生き方

クリスチャンの理想的な生き方は、私たちを通してキリストが現れてくださることです。私たちを通してキリスト様の愛が現れる。私たちを通してキリストの力が現れる。ということは、キリスト様は器である私たちを必要としています。私たちはキリストのからだです。キリスト様は私たちのからだを通して、ご自身を現したいのです。ハレルヤ!でも、その前に1つだけ知るべきことがあります。イエス様がこの地上でどのようにして生きておられたかを知るべきです。なぜなら、イエス様が御父に対して生きた生き方と、私たちがイエス様に対して生きる生き方が共通しているからです。多くのクリスチャンはキリストのために生きようとしています。イエス様は御父のために決して生きませんでした。イエス様はどのように生きたのでしょう?ヨハネ6:57「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」イエス様は「私は父によって生きている」と言われました。これは、イエス様は御父の中に生きたということです。また、御父がイエス様の中に生きていたということです。他のところでは「私が御父の中にとどまり、また、御父が私の中にとどまり」と書いてあります。

では、イエス様はどのように生きたのでしょうか?ちょっと想像してみたいと思います。ある朝、イエス様が目覚めました。「ああ、なんとすばらしい一日でしょう。父よ、きょう、私はあなたのために生きます。あなたのために、もっとすばらしい生活をします。父よ、昨日よりも、もっとあなたに仕えます。だから、あなたのためにもっとすぐれた生活を計画します。きょうはペテロの家で聖書研究をします。今までよりも、もっとすぐれたものにしたいです。ペテロの家のまわりには病気の人がたくさんいます。一人ひとりをあなたのために癒して来ます。それだけではありません。あなたのために、悪霊を追い出します。それだけではなく、私のミニストリーの頂点となるものがあります。きょうの夜はどこかのお葬式に出かけ、死人をよみがえらせます。父よ、すべてあなたのためにいたします。きょうの一日、全部、計画しました。あなたのための計画です。ここにサインしてください。」イエス様はこのように生きたでしょうか?そのようなわけがありません。では、イエス様はどのように生きたのでしょうか?イエス様は「自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5:19)と言われました。イエス様は神さまでありながら、ご自分の力を制限されました。「私がするすべての働きは、私から出るものではなく、私の中で生きている御父がすべてを行っているのです」と言われました。だから、イエス様は御父の中に生きました。あるいは、御父がイエス様の中に生きたと言っても構いません。イエス様が父の中にいただけではなく、御父もイエス様の中にいたことが、イエス様のすべてでした。イエス様こそが、永遠の命の模範です。イエス様は「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネ6:57)と言われました。つまり、イエス様が御父によって生かされていたように、私たちもイエス様を信じることによって、イエス様によって生かされることが必要です。だから、イエス様にあなたの命になっていだだくようにしなければなりません。イエス様があなたのすべてになった時に、永遠の命というものを見ることができるのです。そして、あなたの人生が変わったことを知ることができるでしょう。

神さまは私たちに永遠の命を生きることを願っておられます。永遠の命はライフ・スタイルです。それはイエス様の内に生きるということです。イエス様は私たちの中に生きておられます。イエス様は私たちの命、永遠の命になってくださいました。イエス様が私たちの内に生きておられるとは何と力強いことでしょう。もし、あなたが永遠の命を生きることを学ぶなら、あなたは多くの実を結ぶことができます。イエス様があなたの中に生きておられることを想像してみましょう。イエス様が私たちの内に生きておられるなら、何が起こるでしょうか?たとえば、サッカーはとても愛されています。本田選手は日本のベスト・プレイヤーです。たとえば、本田選手があなたの中に生きていたらどうなるでしょう?想像してみましょう。本田選手が私たちの中に生きていたら、私たちはサッカーの専門化になれます。私たちは、そこでサッカーを1から覚えなければならないでしょうか?本田選手が私たちの中に生きているので、サッカーを覚える必要がありません。なぜなら、その道の専門家が私たちの中に生きているからです。それでも、私たちは3つのことを学ばなければなりません。第一は私たちの中に生きている本田選手を知ることです。第二はどのように本田選手の中に留まるのかを学ばなければなりません。第三はサッカーをするとき、どのように本田選手を現すかです。それはイエス・キリストにおいても全く同じことです。イエス様が私たちの中に住んでいれば、どうなるでしょう?それはイエス様が専門としたものに、あなたも専門家になるということです。あなたも、サタンを倒すのに専門家になれます。あなたも聖い生活をする専門家になれます。あなたもみことばに従う専門家になれます。あなたもミニストリーの専門家になれます。あなたはそれらを1から覚えなくても良いのです。なぜなら、その道の専門家があなたの中に住んでおられるからです。では、何を学ばなければならないのでしょう?3つのことです。第一はイエス様を知ること。第二はイエス様の中に留まること。第三はイエス様を外に現すかです。みなさん、それが永遠の命を生きるということです。

キリスト教は、自分の力で、キリストを真似ることではありません。「イエス・キリストが愛しておられるので、私も愛さなければならない」。真似をするけど、自分の力でそれをする。しかし、キリスト教とはそのような方法ではありません。では、どういうものがキリスト教なのでしょう?自分自身の力では愛することはできないことを理解することから始まります。なぜなら、私たちの愛には限界があります。私たちの愛は人間的な愛です。ビオス(肉の命)の愛です。神の愛、アガペーの愛ではありません。しかし、イエス様はアガペーの愛を持っておられます。あるクリスチャンが「クリスチャンは大変です。本当に難しいです」と言いました。私は「難しいのではなく、不可能です」と答えるでしょう。自分の力では、それは不可能です。唯一、愛する方法は、自分の愛と神様の愛を交換しなければなりません。イエス・キリストの愛によって愛する。そのために、私たちはイエス・キリストをよく知らなければなりません。第一はイエス様を知ること。第二はイエス様に留まること。第三はイエス様を現すことです。そうすれば可能になります。私たちも、御霊に満たされる、つまり、イエス様の命に満たれて歩みたいと思います。

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2010年12月26日 (日)

五職の意義    エペソ4:11-15、Ⅰコリント14:23-31

 聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と書いてあります。この5つの聖霊の賜物を「五職」とか「職務の賜物」と呼んでいます。五職は教会を整えるために神さまが特別にお与えになったものです。しかし、現代の教会において、真っ向から対立する考えがあります。ある人たちは、「聖書が完成したときから、使徒や預言者はもういない」と言います。しかし、ある人たちは、「終わりの時こそ、これらの五職を回復しなければならない。使徒や預言者は存在している」と主張します。ある人たちは、「私は使徒○○である」とか「私は預言者の○○である」と自分に称号を付けて呼んでいます。ちょっと行き過ぎている感じがします。しかし、教会に牧師と教師しか存在していないと主張するならば、バランスを欠いてしまうでしょう。

1.五職の意義

 では、五職あるいは、職務の賜物が教会に与えられた目的は何なのでしょうか?エペソ4:12、13「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」教会に五職が与えられた目的が2つあります。第一は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」だということです。奉仕の働きをするのはだれなのでしょうか?聖徒たちです。聖徒というのは、教会のクリスチャンです。クリスチャンが、第一線で奉仕の働きをするのです。しかし、奉仕の働きができるためには、整えられる必要があります。「整える」は、英語でequipping と言います。これは装備させるとか、能力を養うという意味があります。第二の目的は、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。これは、信仰、知識、人格的な面が強調されると思います。技術もさることながら、精神面の強さや協調性も必要です。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。キリストのからだとはどういう意味でしょうか?私たち一人ひとりが器官だということです。心臓や手足がからだから独立して存在できないように、私たち一人ひとりはからだにつながらなければ、まともな働きができません。

 五職の人たちは、いわば教会の指導者です。聖徒たちがキリストのからだをちゃんと建て上げることができるように指導するように、キリスト様が立てたのです。しかしながら、現代、使徒とか預言者、あるいは伝道者と呼ばれる人たちは、キリストのからだなる教会を無視して、自分のミニストリーをしています。「私は使徒○○です」「私は預言者の○○です」「私は伝道者○○です」。そういう人たちは、どこかでセミナーを開いたり、大会を開いて人々を集めます。彼らはだれを指導するのでしょうか?牧師を指導すれば良いのですが、教会の枠を超えて、一般信徒にミニストリーをします。一般信徒たちは、あっちのセミナー、こっちの大会に行って、新しいことを学びます。霊的賜物もいただくかもしれません。そういう人たちが教会に帰って来ると、「うちの牧師は遅れている。霊的賜物について無知で力がない」と裁きます。そうすると、牧師はむかっと来て、その信徒を追い出すか、あるいは使徒、預言者、伝道者のミニストリーを批判します。そういう問題がかなり前から起きています。五職の人たちが教会に仕えるのではなく、教会を越えて自分のミニストリーをすると変になるのです。エリヤハウスもある意味では、預言者的な働きです。でも、ちゃんと教会の牧師の理解を得ながら、ミニストリーをしています。それが大事です。

 また、もう1つは新約聖書で言われている教会のサイズです。初代教会のサイズはどれくらいだったのでしょうか?さきほどⅠコリント14章をお読みしました。彼らはそこで、預言を話したり、異言を話したり、あるいは、賛美したり、教えたりしています。100人くらいでしょうか?私はもっと小さな集会ではないかと思います。みなが学んだり、みなが預言したり、その預言を吟味するくらいの大きさです。初代教会はたくさんの家の教会がありました。私たちのような教会堂というのはおそらくなかったでしょう。ですから、Ⅰコリント14章の集会は20人、多くて50人くらいではないかと思います。このところで言われているのは、コリントの町全体のクリスチャンの集まりではないと思います。五職の人たちは、町にある教会を行き巡って奉仕をしていたのではないかと思います。何のためでしょうか?聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。そして、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。五職の人たちが各々教会に関わるときに、キリストのからだとして、バランスの取れた働きとバランスの取れた成長ができるのです。

2.五職の働き

 後半は、それぞれの五職の賜物がキリストのからだなる教会でどのような働きをするのかをお話しいと思います。順番は、預言者、伝道者、牧師、教師、使徒にさせていただきます。第一番目は預言者です。旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。新約聖書にはアガボという預言者がいました。預言者はどのような働きをするのでしょう?教会に神の御心や将来の方向を示してくれます。ある時は、厳しく罪を糾弾するかもしれません。預言を受けた人は、「パァー」と信仰と希望が出てきます。また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。彼が按手すると、御霊に満たされたり、御霊の賜物を直接授けることができます。リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、信徒がびくびくして近寄ることができません。では、預言者はキリストのからだなる教会に何をさせるのでしょう?それは、互いに預言することを勧めます。使徒パウロは、Ⅰコリント14章でみなが預言することを強調しています。しかし、ここで言われている預言と預言者の預言とは違います。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」一般にだれでもが話せる預言は3つの働きがあります。第一は徳を高める。人々の人格や信仰を建て上げるということです。第二は勧めです。これは励ましとも言えますが、人々がさらに神さまに近づくことができます。第三は慰めです。神さまは預言を通して、私たちの心を癒してくださいます。この預言は未来を予知したりするものではありません。励まし程度の預言ですから、安心してください。そして、神さまは3つの方法で語ってくださいます。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」第一は耳ではなく、霊の耳に語ってくださいます。耳で聞こえる肉声ではありません。霊に1つか2つのことばが与えられます。完全な文章ではありません。1つか2つの単語です。浮かんだことばを口に出すと、次のことばが出てきます。預言のギリシャ語は「湧き上がる」と意味があります。勇気を出して、そのことばを口に出すと、次のことばが出てきます。さらにことばが出てくると、物語になります。第二は目ですが、肉眼ではなく霊的な目です。霊に絵やビジョンがはっと見えます。第三は心です。これは印象、あるいは直感です。私たちは「ああ、これは自分の感情だ」と思って退けるかもしれません。しかし、聖霊が与える印象があります。預言者は何をするのでしょうか?キリストのからだの中で、互いに預言をして、徳を高めるように指導するのです。

第二は、伝道者です。この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、また個人でも、いつどんな時でも、福音を語って人々を救いに導こうとします。彼のメッセージはとても単純です。でも、彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、前に出てきます。多くのリバイバリストは、伝道者です。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、ビリー・グラハムがそうです。天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。伝道者が教会に来ると、「あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」とチャレンジします。教会が内向きになっているとき、伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つようになります。伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか?外にばかり出て行って、牧会が留守になります。いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。栄養失調がちになります。でも、教会が外向きになって魂を捕らえることのため、とても重要な賜物です。これまで、私たちは伝道というと、伝道者を呼んで特別集会を開いたり、大きなクルセードに人々を誘いました。昔はともかく、現代ではそういう方式はあまり効果的ではありません。多額の予算をかけても、人々が来ません。では、「四つの法則」使って誰か人を捕まえて、個人伝道できるかというとこれも無理です。どうすれば良いのでしょう?今は人間関係を通して、福音を伝えることが効果的だと分かってきました。教会はキリストのからだです。一人ではなく、からだを通して伝道すれば良いのです。からだの中にはいろんな器官(賜物)があります。福音を語れなくても、もてなしたり、仕えたりして関係を持つことができます。他に、口の達者な人が語れば良いのです。でも、その前に人間関係が築かれている必要があります。一人ではなく、からだの伝道、関係中心の伝道が今、注目されています。伝道者の賜物人は、教会の人たちを失われた魂に関心を持たせます。私たちは、いろんな賜物を提供して、失われた人に福音を伝えるべきです。

第三は牧師です。牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、羊飼いのようです。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。神学校でも、みことばによって、人々を慰め、人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「真の牧師とは、人々を整え、彼らが奉仕できるようにすることなんだ」と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるということです。もし、牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、電話から離れられず、しょっちゅう出かけて、火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、そういうことも必要でしょう。でも、教会員が訓練され成長し、自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

牧師一人では限界があります。神さまは、キリストのからだなる教会において、互いにケアーをするように願っておられます。聖書には「互いに励まし、互いに勧め、互いに慰め合い、互いに助け合い、互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに赦し合いなさい」とたくさんの「互い」が記されています。昔の教会は、牧師にみんながぶらさがっている。まるで、長良川の鵜飼いのようです。一人、いったいどれくらいの鵜を操作できるのでしょうか?ある人は「牧師が50人、牧師夫人が50人と100名まで行ける」と言いました。そして、自分に教会員を依存させることによって、満足する。牧師はお世話することに喜びを感じ、教会員はお世話されることに喜びを感じる。これは、キリストのからだなる教会ではありません。からだの中で、互いにケアーする。互いに重荷を負い合う。エディ・レオ先生は、「ボディ・ライフ(からだの生活)」であると言いました。初代教会は毎日、だれかと合って、毎日、祈り合っていました。教会の兄弟姉妹が、肉親以上に親しかったのです。ボディ・ライフ(からだの生活)これが、理想的な教会です。

第四は、教師です。教師は聖書を学問的に良く学び、それを体系的教えることができます。教師は書斎にこもって本を読むのが大好きです。ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、みことばを解き明かします。「そんな問題は、重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、全く意に介せず、とことん研究します。こういう人は、神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、教え過ぎるということです。そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、その教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、自分が発見した真理を実践し、適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

それでは、キリストのからだなる教会において、教師はどのようなことをさせる必要があるのでしょうか?教師の賜物は、自分も確かに教えるでしょう。しかし、それだけだと教会員は真理を自分のものにすることができません。ある人は、「口で教えられたことを聞くだけだと3%しか残らない」と言いました。しかし、自分で教えるならばどうでしょう?50~100%残るのではないでしょうか?コロサイ3:16「知恵を尽して、互いに教え合いなさい」と書かれています。では、どのように教え合うのでしょうか?セルチャーチで最も多いのが、講師が語った後、小グループで分かち合う時を持ちます。そこで、最も教えられたこと、あるいは理解できなかったところなどを分かち合うのです。そうすると、教えが頭から心の中に入ってきます。また、小グループでテキストを用いて、これはどういう意味なのか、どう適用したら良いのか、互いに教え合うのです。そういう場合、一人の人が一方的に教えるというよりも、みんなの意見や考えを引き出すようにしなければなりません。教える賜物のある人は、自分一人で語る傾向があるので要注意です。私は聖契神学校に入ったとき、ピーターソン校長先生というすばらしい教師に出会いました。これまでの先生は自分が得た知識を学生たちに提供するというものでした。しかし、ピーターソン先生は逆に質問して考えさせます。また、自分で調べて来るように課題を出します。そのとき、「イエス様の教え方は、むしろ、こうだったんじゃないか?」と思いました。西洋の教え方は頭脳だけに偏っています。しかし、東洋の教え方、イエス様もそうですが、考えさせて体験的に教える。自分で考えて、答えを出していくようにする。「私などはまだ、まだだなー」と本当に思います。とにかく、教師の賜物の人は、キリストのからだなる教会で互いに教え合うように勧めます。

最後は使徒です。本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、聖書では使徒と呼ばれています。使徒の賜物は何でしょうか?使徒はまだ伝道されていない新しい地に出かけ、福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、キリスト教の教理を分かり易く教え、教会の基礎を作ります。使徒は、5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、小指、どれにも接することができます。他の指でそれをするなら、できても2つか3つくらいです。うまく動きませんし、顔までゆがみます。でも、親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。同じところにずっと留まっていることができません。教会ができたら、新しいところに出かけて、また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、1つの教会だけではなく、日本の教会、世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」。これが彼のキーワードです。

 では、キリストのからだなる教会において、使徒の賜物はどういう働きをするのでしょうか?そうです。使徒的な人が来ると、人々の視野が広くなります。私たちはいつも、自分の教会、自分の群のことしか考えません。使徒的な人は、「今、日本の教会はどうなのか?世界の教会はどうなのか?」ということを教えてくれます。そして、教会が持つべきビジョンとか、いろんな戦略を与えてくれます。教会はどうしても、保守的になり、停滞してしまいます。しかし、使徒的な人が教会に来ると、カンフル剤が打たれたように、「おおー!」と奮い立ちます。日本では奥山実先生、草加の天野先生、それから天に召されましたけど石原先生がそうではないかと思います。使徒的な牧師は、牧師を指導する牧師でもあります。だから、そういう人は、教会を行きめぐり、教会を活性化する使命があります。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。それは教会を健全に建て上げるためです。牧師は教会の指導的な立場におりますが、牧師の中にも5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、かならず偏りが出てしまいます。もし、自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、視野が広くなります。当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、神様はキリストのからだなる教会が、バランスを取りながら成長できるように、5つの職務の賜物を与えておられるということです。最後に、五職の賜物を矢印で説明するならばどうなるでしょう。ここに1つの教会があるとします。預言者は人々を神さまに向けさせようとします。「神さまに祈り、神さまから知恵と賜物を得なさい」と言うでしょう。ですから、預言者はからだを上に向かわせる人です。伝道者はどうでしょうか?伝道者はキリストを知らないこの世の人たちのところへ、からだを向けさせます。ですから、外向きであります。牧師は教会員を育てつつ、互いにケアーし合うようにさせます。ですから、それは内向きであります。教師は人々を教えて、成長させるように仕向けます。ですから、からだを前向きにさせます。では、使徒はどうでしょうか?使徒的がいないと、大きな絵、ビジョンが見えません。神さまの目的も分かりません。でも、使徒は建築科のように全体を見せてくれます。英語ではwholeです。ケーキを丸ごと、ホール・ケーキと言います。五職の賜物は、私たちを上向き、外向き、内向き、前向き、そして、全体に目を向けるように導いてくれます。このように、五職の賜物がキリストのからだなる教会に関わるとき、バランスよく成長できるのです。

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2010年12月19日 (日)

わがたましいは    ルカ1:46-55

クリスマスおめでとうございます。暦の上では、25日がクリスマスなのですが、教会は日曜ごとに礼拝がありますので、少し前ですが「クリスマス礼拝」をしてしまおうということです。ところで、何故、教会には女性が多いのでしょうか?日本の教会の平均は、6割から7割が女性だといわれています。どうして、教会には女性が多いのでしょうか?いろんな答えがあると思います。イエス様が男性だから。男性よりも女性の方が内面をよく見るから。男性は「俺、俺で生きて」プライドを捨てることができないから。いろいろあると思いますが、マリヤの賛美から2つのことをお伝えしたいと思います。第一は、なぜマリヤなのか?第二は、どこへ救いが行くのか?

1.なぜマリヤなのか?

ローマ・カトリックでは、マリヤは神格化されています。メシヤを生んだ母、聖母マリヤ。罪がなくて、永遠の処女であるということです。イエス様と同じように、昇天したとも言われています。それだけではなく、聖母マリヤに祈るならば、マリヤが神さまに執り成してくださるということです。中世の絵を見ると、赤ん坊のイエス様を抱いたマリヤが目立ちます。ある人たちは、今でも、イエス様よりも、マリヤを慕っているのであります。私たちプロテスタントはマリヤも一人の女性であり、立派なクリスチャンであるとは思っています。しかし、どうしてそれほどメシヤを生んだ母として神格化されてしまったのでしょうか?いろんな説がありますが、キリスト教がローマの国教になってしばらく後、数え切れないほどのゲルマン民族が南下してきました。ローマの町中がゲルマンにあふれてしまいました。そのとき、ローマ帝国は武力で追い出すのではなく、彼らをキリスト教化したのです。ゲルマンの人たちは、難しい教理を教えられても分かりません。それで、信仰を目に見えるような形にしました。十字架のロザリオを与え、それに向かって祈るようにさせました。また、ゲルマンの人たちは、男性のメシヤよりも、母性、母マリヤを求める傾向があったようです。優しい母マリヤを通して、神さまに近づく。こういう信仰が、彼らには合っていたようです。そういうこともあってか、ゲルマン民族のほとんどがキリスト教化されました。中世になると、聖母マリヤとして1つの教理として建てられていくのであります。日本の場合も、聖母マリヤに心を開いて、多くの人たちがキリシタンになったのではないかと思います。

しかし、きょう私は、聖母マリヤの話をするのではなく、「なぜ、女性なのか?」ということを一緒に考えてみたいと思います。先週も話しましたが、最も古い、救い主に関する預言は創世記3章にまで遡ります。一番、最初に罪を犯したのは、女性であるエバの方です。エバが木の実をまず食べ、それをアダムに与えたのです。アダムが「そんなにおいしいのか。では、私も一口」とやったのです。木の実に毒があったという訳ではありません。食べてはならない木から取って食べるとは、神の主権を侵す、つまり、自分が神になるということでした。そして、人類全体に罪とのろいが下ってしまいました。しかし、神さまは救いの約束も与えられました。それが、創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえとは、サタンであり、女の子孫とは、イエス・キリストであります。なぜ、ここで男の子孫と言わなかったのでしょう?キリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫と言われます。でも、ここでは「女の子孫」であります。なぜでしょう?「女性であるエバが最初に罪を犯したので、女性の子孫がその汚名を返上しなければならない、罪を贖わなければならない。」そのように考えることはできないでしょうか?だから、イザヤ書7:14 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と書かれています。ユダヤ人は否定しますが、マタイによる福音書1章には、このみことばがイエス・キリストにあって成就すると書いてあります。やはり、ご自分の民を罪から救うためには、女のすえでなければならなかったのです。マリヤは処女でありましたが、それで罪がないということではありません。もし、男性との自然な関係で救い主が生まれたならば、アダムの罪が転嫁されるからです。神さまはそれを避けるために、聖霊によって超自然的に、メシヤが生まれるようにされたのです。でも、肉体をもってメシヤが生まれるためには、一人の女性が必要だったのです。

女性には子どもを生むという能力があります。神さまは人を男と女に創造してから、このようにお命じになりました。創世記1:28 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」神さまは、人間が、特に神のこどもが増えることを願っておられます。この世の人たちは産児制限をしても良いですが、クリスチャンは子どもをできるだけ増やさなければなりません。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」。これは、神さまの命令だからです。でも、生むためには女性の助けがなければなりません。女性は神のこどもを増殖する能力があります。サタンがこのことがとってもイヤなのです。神のこどもが増えては困るのです。それでどうしたでしょうか?サタンは2つのことをしました。1つは女性蔑視です。女性は男性よりも劣るという考えを吹き込みました。女性蔑視はローマ時代にもありました。ローマの兵士が、国にいる妻に送っている手紙があります。「もし、男の子が生まれたなら生かしておけ、女の子だったら殺せ」と言うのです。なぜなら、男性は戦力になるからです。聖書にも、「20歳以上の男性を数えよ」というのが、出エジプト記にもあります。新約聖書でもパンが増えたとき、「男性だけでも、5000人いた」と書かれています。昔は、戦争に出て戦える男性の数を数えたようであります。だからと言って、女性蔑視ということではありません。それは、やはり罪から来ているものです。違うのは、能力ではなく、機能であります。男性と女性は神さまから与えられた機能が違うんです。このところを理解すると、男女が争うことはなくなります。もう1つサタンがしかけた罠は性の問題です。女性が子どもを生めるので、そこをなんとかしなければなりません。それで、サタンは性を汚れたものであると思わせました。男性には不品行、汚れ、姦淫への罪の傾向があります。サタンは男性を誘惑し、女性の性を不当に求めるようにさせるのです。世の中には、痴漢、セクハラ、強姦、売春、ポルノ等がありますが、性がゆがめられているところから来ています。明らかに、サタンが女性の性を攻撃し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」という命令を果たせなくしているのです。

救い主の誕生の際、マリヤがこのように歌っています。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」アーメン。讃美歌98「あめにはさかえ」という賛美があります。2節目は「いやしき賎(しず)の処女にやどり」となっています。賎(しず)というのは、賎民と同じ文字です。賎しいという古い表現です。讃美歌21では差別用語ということで、変えています。私は「卑しいはしため」というのは、神さまと比べて、よりへりくだった表現だと思います。でも、明らかにマリヤは女性を救った人ではないかと思います。メシヤを生むことによって、女性としての大切な使命を果たしたということです。しかし、そのためにマリヤはいくつか失ったものがありました。それはヨセフとの婚約が破談になるかもしれないということです。また、結婚前に子どもを宿したということは、姦淫であり、石打ちの刑です。また、生まれた子どもも、私生児と呼ばれるかもしれません。今の時代も「処女から子どもが生まれるだろうか?」とクリスチャンでも疑う人がいます。それは、2000年前とて、同じことです。マリヤはベツレヘムへ行って、なぜ馬小屋で生まなければならなかったのでしょうか?当時は親戚同士が宿を分け合って、泊まるそうです。マリヤは私生児を宿したと噂され、親戚からも排斥されていたのではないかという考えもあります。実際、福音書では「マリヤの子」と呼ばれています。マリヤはそういう誤解や嘲笑を覚悟して、信仰によって「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と告白したのです。そして、そのようになりました。

ハレルヤ!そういう訳で、クリスマスは女性の回復のためにもあるということです。マリヤが救い主を生むために、ご自分をささげられた。これは、すばらしい信仰と献身の証しです。ここにも、大勢の女性がおられますが、クリスマスおめでとうございます。女性の方々、ありがとうございます。どうか、これで牧師や夫をあまり攻撃しないようにお願い申し上げます。

2.どこへ救いが行くのか?

 ルカ1:50-53「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」この箇所を見ると、神さまがお嫌いな者と神さまが好まれる者と2種類に分けることができます。神さまがお嫌いな者とはどういう人でしょうか?第一に「心の高ぶっている者を追い散らす」と書いてあります。神さまは高ぶり、高慢がお嫌いです。今、聖書日課ではⅡ歴代誌を読んでいます。歴代誌には、歴代のユダの王様が記されています。アサ王、ヨシャパテ、ヨアシュ、ウジヤ王、最初はみな良い王様でした。ところが、富と誉れが豊かに与えられるとどうでしょう?神さまよりも軍隊を、神さまよりも他の国と同盟を結びました。そうすると預言者が出てきて「やめなさい。主に信頼しなさい」と告げます。しかし、王様は「やかましい、ひっこんでろ」と退けます。そうすると、敵国が侵入し、王宮から宝物が奪われます。ある場合は病気になってしまいます。高慢が、滅びに先立つことが教訓としてよくよく述べられています。神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます」。第二は富む者です。聖書は富自体が悪いとは言っていません。アブラハムやソロモンは富んでいました。悪いのは、神さまよりも富を信頼するということです。新約聖書にありますが、ある金持ちの畑が豊作でした。彼は心の中で、「もっと大きな倉を建てて穀物や財産はみなそこにしまっておこう。魂よ。これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。神さまは「愚か者、お前の魂は、今夜、お前から取り去られる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言われました。金持ちの青年役員も悲しい顔をしてイエス様のもとを去りました。ヤコブ書では「金持ちたちの上に、悲惨なことが迫る」と警告しています。富やお金は中立ですが、それが増してくると、偶像になるということです。お金はあればあるほど、もっと欲しくなるそうです。私は、ないよりはあった方が良いと思いますが、誘惑の度合いが増すことも確かです。

では、神さまが好まれる人とはどういう人でしょうか?第一は低い者です。低い者とは、直訳すると身分の低い者です。イエス様がこの地上に来られたとき、どのような人たちと交わったでしょうか?政治家や高級官僚、あるいはライオンズクラブに集うような名士たちでしょうか?そうではありません。イエス様は「食いしん坊の大酒け飲み、取税人や罪人の仲間」(ルカ734と言われました。当時の宗教家はそういう人たちと一緒に食事をしませんでした。しかし、イエス様は取税人のマタイやザアカイと一緒に食事をしました。また、イエス様の弟子のほとんどが、ガリラヤ湖の漁師でした。イエス様のところには、病人や問題を持っている人たちがよく集まりました。しかし、今日の教会はどうでしょうか?「イエス様は罪人を招かれましたが、刑を犯すような本当の罪人は困ります。イエス様はあらゆる病人を癒されましたが、精神的に病んでいる人は困ります。できれば、社会的に影響のある人、お金持ち、能力のある人が良いです。」口には言いませんが、どこかで思っているのではないでしょうか?教会はだれでも来ても良いところです。しかし、気をつけなければならないこともあります。神さまの愛は無条件で絶対的です。これは確かです。しかし、私たち教会には絶対的な愛はありません。もちろん、できる限りのことはします。私たちは最低限度のルールを設けながら、どんな人でも歓迎するのです。それをしないと、弱い人が王様のようになって、奉仕者が燃え尽きたり、教会が荒らされてしまいます。ここで言われていることは、へりくだるということです。イエス様は神さまであったのに、しもべの姿になるまで、へりくだられました。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」とかかれています。神さまの恵みと水は高い所から低い所へ流れます。逆流はしないのです。へりくだり、謙遜こそが、神さまの恵みを受ける性質なのであります。

もう1つ神さまが好まれる人は「飢えた者」です。ルカ621「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」と書いてあります。私は自慢ではありませんが、結構、貧しい家に育ちました。ですから、粗食と言いましょうか、ある程度のもので満足できます。しかし、外食するときは、腹いっぱい食べないと満足しません。家でいたらそんなことはないのですが、セミナーとか会議では別です。ある教会でセミナーをするときは、いつも弁当です。サンドイッチのときもありました。女性でしたら、それで良いかもしれませんが、「これだけ?」という感じがします。それで、この間は、「弁当ではなく、外食しましょう」と提案しました。その時は、ラーメンの大盛を食べました。私の心の奥深くに、満足しきれていないところがあるのかもしれません。韓国では、今はどうか分かりませんが、「ご飯食べましたか?」とあいさつするそうです。そして、おもてなしをするときは、テーブルの足が折れるくらいのご馳走でもてなすそうです。たくさん残るくらいが良いそうです。でも、それは貧しかった時の傷から来ているかもしれません。とにかく、そういうひもじさ、貧しさの傷はいやされる必要があります。福音書を見ますと、イエス様は常に食べています。イエス様は取税人や罪人とよく食事をされました。ザアカイには、呼ばれていないのに、「こちらから行くから」と言いました。十字架につけられる、最後の夜も弟子たちと一緒に食事をされました。復活してからは、ガリラヤ湖で魚を一緒に食べました。黙示録を見ると、世の終わり、「わたしの声を聞いて戸を開けるなら」何とおっしゃっているでしょうか?「私は彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」と言われます。どうぞ、貧乏の霊、ひもじさの霊から解放されましょう。神の国は盛大な晩餐会にたとえられています、主は豊かに与える方です。私の杯はあふれるのです。

でも、これは、実際に飢えているという意味もありますが、神さまに対する飢え渇きです。私たちの信仰生活において、霊的な飢え渇きということがとても重要です。私たちはこの地上で住んでいますと、満ち足りた喜びというものが永続しません。「いや、これは最高だ!」と大喜びしても、明日になると冷めてしまいます。「ここまでやったなー」と思っても、「もうちょっと」と願うところがあります。これは私たちの罪の性質です。この世ではどんなものでも、飽きたり、慣れっこなるということがあります。霊的な世界でも同じで、私たちは常に信仰の高嶺へと登るように召されているのです。天国へ行ったらそういうことはありません。信仰は生き物です。そして、教会も生き物です。「昔は霊的に満たされていた、盛んだった」という教会が今ではどうでしょうか?50年たつと全く、様変わりします。教会だけではなく、この世のビジネスでも同じです。私たちは時代を見極める目を持ちながら、同時に、神さまに貪欲に求める必要があります。きのうの恵みときょうの恵みは違うといっても過言ではありません。もちろん、過去の恵みを覚えて、それを数えることも重要です。でも、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むように召されているのです。ですから、私たちはたえずチャレンジ精神が重要です。「前例がない」とか伝統や歴史に縛られているなら、どんどん減っていきます。教会はたえず祈り、信仰を高くあげて、チャレンジすることがとても重要です。20年くらい前、教会で結婚式をあげることがものすごく流行しました。しかし、多くの教会は「未信者の挙式はしない」とはねつけました。それでホテルがチャペルをたくさん作って、チャペル結婚式をしました。その後、ブラックゴスペルが流行りました。しかし、かなりの教会は「未信者を講壇にあげるのは良くない」と会堂も貸しませんでした。幸い亀有教会は、牧師に理解があるので、牧師も一緒に加わって賛美しています。私のことですが…。現代は心の病んでいる人が大勢いますので、カウンセリングとかコーチングが求められています。福音の内容は変えられませんが、伝え方は時代によって変えていかなければなりません。

最後には、私たち自身の霊性です。神さまに対する飢え渇き、霊的な飢え渇きということがとても重要です。どこかの聖会やセミナーに行くと、聖霊に満たされて帰ってきます。でも、次の週になるとぱーっと引いていきます。ですから、私たちは毎日、こつこつと聖書を読み、イエス様と親しく交わる必要があります。「どこかで落ちたかなー」と思ったら、そこまで引き返し、悔い改める必要があります。そして、さらにさらに、神さまに求めるのです。これまでいろんな癒しや奇跡を体験しました。「もっと、与えてください。もっと、体験させてください」と祈り求めるのです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」は有名です。しかし、原文は、「求め続けなさい」という継続形になっています。満足することはとても重要です。でも、さらなる飢え渇きをもって、神さまに期待する。私たちと神さまとの関係は生きた関係です。私たちの霊性は上がったり下がったりします。体調や気分も上がったり下がったりします。そこで、大切なことはどういうことでしょう?霊性が高いとき、体調や気分が上がっているとき、イエス様が会ってくれるのでしょうか?もちろん、会ってくださると思います。でも、イエス様は天の御座から低き所に下って、なんと陰府にまで下られたお方です。私たちがどん底に落ちたとしても、陰府には永遠の腕(申命記33:27)があります。クリスマスというのは、イエス様が地上に降りて生まれて下さったことを覚える日です。だから、私たちはそこでイエス様と出会い、イエス様が私たちを引き上げて下さるのです。主はどんなお方でしょうか?「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせて」くださるお方です。

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2010年12月12日 (日)

久しく待ちにし     イザヤ25:7-9 

「久しく待ちにし」という讃美歌がありますが、救い主の到来はどれほど、待たれたのでしょうか?前半は、旧訳聖書から、救い主の到来について、預言されている箇所を上げたいと思います。イエス・キリストに関する預言は、あまりにも多いので、代表的なところだけを取り上げたいと思います。後半は、何のためにキリストが来られたのか、その目的について学びたいと思います。イエス・キリストは何を成し遂げるために、この世に生まれたかであります。クリスマスといえば、冬の寒い日、馬小屋に生まれたイエス様というロマンチックなイメージがあります。決して、間違いではありませんが、聖書はもっと、遠大な計画について語っています。もし、遠大な計画が私の救いのためだったということを知るならば、信仰は簡単にぐらつかなくなるでしょう。救いは主観的なものでありますが、同時に、全時代の全世界の人々に対する招きでもあるということを忘れてはなりません。

1.預言されて来られた方

救い主の誕生が最も早く叫ばれたのは、いつ頃でしょうか?創世記3章、人間が堕落した直後です。ですから、いつ頃なのか、はっきりとした年代は分かりません。「人類の最初の時」と言っても良いかもしれません。創世記3章に救い主を預言するみことばがあります。創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ここで言われている「女の子孫」とは、イエス・キリストであります。「おまえ」であるサタンは、イエス・キリストのかかとにかみつきます。が、女の子孫であるイエス様は、サタンの頭を踏み砕くのです。これは最も古い、イエス様に関する預言です。この預言は、十字架の上で成就されました。かなり前に、「パッション」という映画がありました。サタンはユダを用いて、イエス様を十字架につけることに成功しました。ところが、逆に、十字架はサタンの頭を砕き、致命傷を負わせる結果となったのです。なぜなら、十字架の贖いによって、サタンは人類の罪を告白する権利がなくなったからです。サタンの武器は、人間の罪を告発することです。もう、それができなくなっているということです。

さらには、アブラハムも関係します。アブラハムはイスラエル民族の先祖であり、信仰の父とも呼ばれています。創世記17章で、神さまはアブラハムに「あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける」と言われました。実際はアブラハムの子孫であるイスラエルによって、地の諸民族はみな祝福を受けなかったのです。彼らは罪を犯したために、祭司としての役目が果たせませんでした。では、本当のアブラハムの子孫とはだれなのでしょう?イエス・キリストであります。マタイ11「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあるのはそのためです。ガラテヤ書3章にあるように、イエス・キリストによって、アブラハムへの祝福が、異邦人に及ぶようになったのです。さらに、救い主はユダの部族から出ると預言されています。創世記4910「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。

さらに時代が進んで、モーセも救い主について預言しています。モーセは紀元前1400年くらいの人です。申命記1815「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」この聖句は、ペテロがペンテコステの日に引用しました。イエス様はモーセのような預言者として、来られました。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出しました。パロ王がイスラエルの民を離しませんでした。しかし、過ぎ越しの羊の出来事により、イスラエルを手放しました。イエス様は神の小羊です。人類をエジプトならぬ、罪の奴隷から救い出してくださったのです。私たちは救われる前は、罪とサタンの奴隷でした。不思議なことに、イエス様を信じて救われてから、「ああ、私は奴隷だった!」ということが分かります。私たちは奴隷の中に生まれ育ったので、麻痺していたのです。あなたは罪とサタンの奴隷から解放されているでしょうか?

こんどはダビデに与えられた預言からです。イエス様はダビデの子と呼ばれました。なぜでしょう?Ⅱサムエル712-13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」そうです。救い主はダビデの子孫から出て、とこしえの王国を建てるのです。同じような預言が、母マリヤにも与えられました。ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」アーメン。ダビデはイスラエルの王様でした。そして、イエス・キリストは御国の王様なのです。ハレルヤ!みなさんは、イエス・キリストの王国の民なのです。父なる神さまは御子イエスのために、永遠の御国をご用意されました。私たちは御国が完成した暁には、そこに迎えられるのです。まだ、御国の席は開いています。だから、世の終わりが来ていないのです。でも、締め切りが迫っています。どうされますか?

預言書にはイエス様の生涯にわたる預言が記されています。どこで生まれて、何をして、どのように死ぬかまで預言されています。ミカ52「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」これは、博士たちがエルサレムを訪れたとき、律法学者たちが彼らに示した聖書箇所です。ヨセフとマリヤはナザレに住んでいました。ところが、ローマ皇帝によって「人口調査をするので、生まれた町に帰って登録せよ」という勅令が出ました。身重のマリヤは遥々ベツレヘムに来て、馬小屋でお産することになります。マリヤはローマ皇帝によって動かされたような感じがしますが、神さまがローマ皇帝を動かしたのです。救い主をベツレヘムで誕生させるためです。

イザヤ書は最も、イエス・キリストについて預言している書物です。ですから、学者たちは第五福音書と呼んでいます。イザヤ7章、9章、11章に誕生の預言が記されています。「処女が身ごもっている」「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」「エッサイの根株から新芽が生え」と書いてあります。そして、最も有名なのはイザヤ53章です。このところには、救い主は全類の罪のために身代わりとなって死ぬとはっきり書かれています。イザヤ5345「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。私が救われた頃、イザヤ書53章を読んだとき、あまりぴんときませんでした。「なんと暗い箇所だろうな?」と思いました。でも、その一字一句が、十字架による罪の赦しと私たちの心の癒しについて語っていることに驚きました。イエス様は自分の罪のために死なれたのではなく、私たちの罪、私たちの咎のために死なれたのです。イエス様はまさしく、死ぬためにこの世に来られたのです。

ダニエル書には、いつメシヤがいつ殺されるか預言されています。ある計算によると、AD32年4月6日となります。ゼカリヤ書にはメシヤがろばの子に乗るとか、からだを突き刺されるという預言があります。マラキ書にはメシヤが来る前にエリヤが道を備えるためにやってくると預言されています。旧約聖書、最後のマラキの預言から、新約聖書の間は400年間あります。400年間預言が途絶えていたということになります。イスラエルのほとんどが、メシヤが来るという預言を忘れていました。ですから、「久しく待ちにし、主よとく来たりて」は短くて400年、長くて人類が堕落した時に遡ります。イエス・キリストは突然来られたのではなく、生まれる何千年も前から聖書の中で詳しく預言されていました。歴史上、世界的な「聖人」と言われる人は何人かいます。しかし、生まれる前からその生涯が預言されていた人はキリスト以外しかしません。この数限りない預言を満たすお方は歴史上、たった一人しかしません。仮に、「私がキリストです」と名乗る人がいたとしても、聖書の預言をいくつ満たすことができるのでしょう?ですから、私たちは安心して、イエスこそ、メシヤ、キリストなんだと信じて良いのです。イザヤ25:9その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」アーメン。

2.来られた目的

イエス・キリストが人間としてこの地上に来られた目的とは何でしょうか?何のために来られたのでしょうか?イザヤ257,8「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」この箇所から、3つ取り上げることができると思います。第一は顔おおい、つまり罪を取り除くためです。おおいというのは、顔にかけるおおいのことです。顔おおいのかけられた人は、裁きのもとにおかれているということです。これからさばきをうける人間を象徴しています。エステル記にありますが、ハマンはユダヤ人を撲滅しようと考えていました。しかし、謀反のかどで王様からさばかれました。そのとき、ハマンの顔はおおわれました。その後、彼は木にかけられて殺されました。一方、顔おおいを取り除かれた人とはどういう意味でしょうか?それは、単に「取り除く」というよりも「引き裂く」という意味があります。イエス様が十字架で叫ばれた直後、神殿の幕が上から下まで裂けました。神さまとの隔ての壁がなくなったということです。罪が赦され、もう裁かれないということです。また、おおいとは心のおおいをも意味しています。罪人は心におおいかがかけられ、神さまのことが分かりません。しかし、聖霊によって、「顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くのです(Ⅱコリント3:18)。テレビで死刑を待つ人のドラマがありました。死刑が確定した人というのは、何をやっても良いそうです。訓練も作業もありません。部屋の中で好きなことをして過ごしています。中には、3年間、執行されない人もいます。最も恐いのは、朝、突然、執行が知らされることです。ですから、彼らは朝が最も恐いのです。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。私たちは死んだらおしまいではなく、神さまの前に立ってさばかれる運命にありました。ところがどうでしょう?しかし、この27節の前後にすばらしい福音があります。ヘブル926「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」28節、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」そうです。イエス様はご自分をいけにえとしてささげ、罪を取り除くために来られたのです。多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられたのです。イエス様を信じている人は、神さまのさばきを恐れることはありません。いつ死んでも大丈夫です。なぜなら、イエス様が代わりにさばかれたからです。

キリストが来られた第二の目的は永遠に死を滅ぼすためです。ヘブル214,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。イエス様が何故、肉体を取ってこの世に来られたのでしょう?それはご自分が人間と同じように一度、死んで、その死を滅ぼすためです。この死に対してはだれも勝利することはできません。だれしもが死ぬ運命にあります。ある村で、一人の子どもが死にました。そのお母さんは、死んだ子どもを抱いて、お釈迦様のところを訪れました。「何とか死んだこどもを生かしてください」とお願いしました。お釈迦様が言いました。「分かりました。では、この村の、先祖代々続いている家々に行きなさい。そして、死者を出したことがない家があったならば、その家のかまどの灰を持ってきなさい。その灰をかけたら子どもは生き返ります」と。彼女は一軒、一軒「これまで死者を出したことはありませんか」と、尋ねて歩きました。しかし、すべての家には死んだ者がいました。お母さんは帰ってきて「どの家にも死んだ者がいました。死者を出したことのない家など一軒もありませんでした」と悲しげに報告しました。お釈迦様は「人というものはそういうものです」と言われたそうです。しかし、イエス・キリストは死を受け入れず、人類の敵とみなしました。イエス・キリストは死によって死を滅ぼしたのです。十字架について死の原因である罪を贖い、3日目に墓からよみがえりました。そして、二度と死なない栄光のからだを与えると私たちに約束されたのです。黙示録21章には永遠の御国のことが記されています。そこにないものが幾つか記されています。それらは、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみです。永遠の御国には、死はないのです。ハレルヤ!私たちのこの肉体は滅びますが、やがて復活し、栄光のからだに変えられます。この福音を信じている人は、死の恐れから解放されます。パウロのように、早く、主のもとへ行きたいと思うようになるのです。

第三は「涙とそしりが取り除かれる」ということです。そしりとは何でしょう?人から悪く言われること、非難されたり、けなされることです。日本人はそしりよりも、恥の方が多いかもしれません。ですから「涙とそしりと恥が取り除かれる」と言っても良いでしょう。イエス様はナインのやもめに、「泣かなくても良い」と言われました。ナインのやもめは一人息子を失ったばかりで、その棺が町から出されるところでした。イエス様は棺に手をかけ「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われました。死んだ息子を生き返らせて、母親に返されました。私たちの多くの涙は喪失の悲しみから来たものです。大事なものを奪われた、かけがえのないものをなくしてしまった。父や母、子ども、あるいは自分自身、大切な持ち物、地位や名誉かもしれません。「弁償してくれ、取り返してくれ」と泣いたかもしれません。この世では、取り返し不可能です。でも、イエス様はそれを弁償し、それを回復してくださるお方です。イエス様にあって、手遅れとか、取り返し不可能はありません。私は天国に行ったら必ず償われる、報いられると信じています。同じものかもしれないし、それ以上のものかもしれません。それが、あまりにもすばらしいので、失った過去の悲しみを忘れるのです。もちろん、そしりも恥も取り除かれます。なぜなら、直接、イエス様が慰め、イエス様が癒してくださるからです。

私たちはもう「久しく待ちにし」を歌う必要はありません。なぜなら、救い主が既に来られたからです。私たちは救いを受けるのに、天国まで待つ必要はありません。私たちは「御国が来ますように」と祈ります。御国と天国は違います。天国は死んだのち行く場所です。しかし、御国は神の支配です。御国が来ますようにとは、「神のご支配が来ますように」という意味です。神の支配が来たなら、この地上でも天国のような喜び、天国のような豊かさを味わえるということです。あるクリスチャンは、救いとは天国へ行くことだと思っています。私たちがこの世の人に、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道します。しかし、今はそれが通じなくなりました。テレビでは有名人が死ぬと、「天国へ行った」と平気で言います。ですから、多くの人は死んだらみんな天国に行くのだと勘違いしています。天国の大安売りで、天国のありがたみがなくなりました。ですから、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道すると、「俺を殺す気か!俺はまだ死にたくない」と言われるかもしれません。私たちも気をつけなければなりません。イエス様を信じて天国に行くことだけが救いであるなら、洗礼を受けたあとは、自由気ままに暮らすでしょう。イエス様を信じたら確かに死後、天国へ行けます。でも、天国に行くことだけが救いではありません。私たちはこの地上で、救いを味わい、喜びながら生きることができるのです。では、どうすれば良いのでしょう?天国ではなく、御国、あるいは神の国と言うべきなのです。つまり、イエス様を信じた瞬間、その人は神の国に入るということです。私たちはこの地上で暮らしながら、神の国の住民なのです。私たちは神の国、神のご支配が生活のすべての分野に臨むように祈るべきです。もう1つは、信じたら、神の命、復活の命が与えられるということです。私たちは肉体的に生まれたら、生物学的な命はだれしもがもっています。肉の命はギリシャ語でビオスと言います。バイオロジー(生物学の語源です)。肉の命は猫も犬も、植物も持っています。しかし、クリスチャンは、神の命、復活の命を持っています。この命はギリシャ語でゾエーと言います。神さまの命ですから、永遠で豊かな命です。神の命、永遠の命は天国に行ってからいただくのではありません。イエス様を信じているならば、今、持っているのです。私たちは神の命、ゾエーに頼るべきです。この神の命を用いるときに、快活で聖い生活ができるのです。

今、ハイブリッド・カーが流行しています。ハイブリッド・カーはガソリンと電気で走ります。走りながら、充電します。そして、自動的にガソリンから電気で走ります。電気のときは、とても静かです。私たちも肉の命と神の命の両方を持っています。生物学的な肉の命も必要です。でも、神さまのみこころを行なおうとしたり、神さまの奉仕をするときは、肉の命では限界があります。ぶつぶつ、不平不満が出ます。疲れてやる気がなくなります。でも、神の命、ゾエーを用いるとどうでしょう。神の命、ゾエーが私たちを動かしてくれます。私も奉仕で疲れるときがあります。そのときは祈ります。神さまの命、神さまの力で満たしてくださるように祈ります。すると、急にやる気が出てきます。キリストの救いは天国に行くためだけのものではありません。救いは、この地上でも効き目があるのです。「効き目がある、具合良くいく」ことを英語でwork wellと言います。救いはwork well、効き目があります。そのためにはこのことを理解しなければなりません。クリスチャンは、この世に生きてはいますが、神の国に属し、神の命を持っているんだということを。神のご支配がどの分野にも来るように、神の命がどの分野にも発揮されるように祈りましょう。

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