2019年8月16日 (金)

新天新地 ヨハネ黙示録21:1-7 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.4

 きょうはキリスト教の救済史の完成形について学びたいと思います。建築ではパースと呼ばれる完成図とか模型があります。人々はそれを見て、「最後はこうなるんだ」と夢を抱くことができるでしょう。聖書にも、「信じた人がこのようなところで暮らすんだ」という完成形があります。それは「新しい天と新しい地」であります。このことばは、イザヤ書65章と66章にも出てきます。私たちは「死んだら天国に行く」と言いますが、天国の完成形が新天新地であります。俗にいう「天国」は、こういうところを指すのです。

1.新天新地にないもの

 ヨハネ黙示録21:4 「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」新天新地にないものは何でしょう?まず、涙です。その次は死です。悲しみ、叫び、苦しみもありません。イエス様はルカ6章で「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」とおっしゃいましたが、「やがて」がこのときです。その理由は、「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書いてあります。ギリシャ語では「以前のもの」とは、「第一のもの」「最初もの」という意味の言葉が用いられています。英語の詳訳聖書はformer orderとなっていますので「以前の秩序」と言う意味です。つまり、この世にあるものが、新天新地においてはないということです。私たちは現在この世に住んでいます。この世は罪と死と悪魔が支配しています。そのため、人間が生きていくうちに、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみが必ず伴います。「なぜ、こんなことが起るのですか?」と人々は叫んで生きています。善人であろうと悪人であろうと、災難が降りかかるのが、この世の常です。でも、新天新地においては、神さまは完全な秩序を与えて下さいます。新天新地では、「戸締り用心、火の用心」という掛け声は必要でありません。悪い人がいないので、鍵をかける必要は全くないからです。よく外出するとき、「車に気を付けて」「知らない人にはついて行かないように」と子どもに注意します。でも、新天新地では神のご支配が私たちを完全に守っていますので安心です。そこでは、アルソックもセコムも必要ありません。

 キリスト教の葬儀のときは、この箇所がよく引用されます。私は、最後の献花のとき、「さようなら」ではなく、「また会いましょう」と再会の約束をするのですと言います。でも、イエス様を信じていないなら再会できません。ですから、遠回しに「あなたもイエス様を信じて天国に行くなら、この人と再会できるのですよ」と勧めているのです。でも、多くの人たちは「そうできたら良いね」という、希望を持つくらいでしょう。葬儀は福音を語る最も、すばらしい機会です。なぜなら、そこにご遺体があり、いつかは自分もそこに横たわるからです。これは可能性ではなく、絶対性であります。絶対来る自らの死と対峙するのが、葬儀であります。私たちは単なる慰めではなく、聖書の絶対的な約束がこのところにあります。「なぜ、こんなことが起るのですか?」というのは、罪と死と悪魔が支配している以前の時代だったからです。新天新地が訪れる前、「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」(黙示録211)と書かれているからです。聖書で「海」は獣が上ってくる、不吉な場所として暗示されています。しかし、そういう場所もなくなるのです。

 他に、新天新地にないものは何でしょう?黙示録223-5「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」このところには、「のろわれるものは何もない」とあります。英語の詳訳聖書をみると、「のろわれた」「憎むべき」「汚らわしい」「不快な」とあります。そこには、神さまが忌み嫌われるものが存在しないということです。その根源は、悪魔でありサタンです。また、黙示録21章と22章に、新天新地に入れない人たちのリストがあります。3か所ありますが、共通してでてくるものがあります。人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを行う者です。この4つが重い罪であり、のろわれる者になるのではないかと思います。ということは、これらの罪は他の罪よりも神さまが好まれていない重い罪だということです。世の中には、オレオレ詐欺など、人を騙す人たちがいます。ある人は何千万円も騙し取られて、返ってこないで泣いている人がたくさんいるでしょう。神さまは真実なるお方ですから、偽りを行うものが大嫌いなのです。

 また、新天新地には、夜がないばかりか、太陽も月もありません。一体これはどういうことでしょう?私たちは他の天体に移り住むのでしょうか?Ⅱペテロ312,13「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」とあります。おそらくペテロは、世の終わりの天変地異のことを語っているのでしょう。でも、千年王国において一度、地上は回復されます。しかし、新天新地は回復ではなく、新創造です。なぜなら「以前の天と、以前の地は過ぎ去り」とありますので、現在私たちが見ているような、太陽や月が存在しないかもしれません。天文学者たちは、太陽はいつか燃え尽きると言っています。その理由が記されています。黙示録2123「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」なんということでしょう?神である主と、小羊が光源になるということです。ヤコブ117「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」アーメン。私は自然界には夜が必要だと思いますが、新天新地には不必要なのかもしれません。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。これは、私たちの時代だけではなく、やがて来る、新天新地でもそうだということです。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」のです。アーメン。

2.新天新地にあるもの

 次は、新天新地にあるものを取り上げたいと思います。「ある」というと失礼ですが、神さまがともにおられます。黙示録203「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて」。「見よ」と言われていますので、今よりも、ずっと神さまが近くにおられるということでしょう。Ⅰコリント13:12 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」と書かれています。この地上では、神さまの臨在を知ることは、とても霊的で信仰が必要です。伝道者はよく「今ここに神さまが臨んでおられます」と言います。でも、「本当かな?」と思ったりします。なぜでしょう?私たちはこの地上では、肉体の五感に頼って生きているからです。神さまは霊なので、なかなか察知できません。でも、黙示録203節には「神がともにおられる」と三度も書いてあります。「ともにあり」「ともに住み」「ともにおられる」と、あえて三度も書いてあるのは何故でしょう?ある人たちは「私は神の存在を信じています」と言います。でも、それはどこか遠くにいる神さまで、自分とは関係がありません。クリスチャンはそんな言い方はしません。「神さまは私とともにいます」と言います。「では、見せてくれ」と頼まれても、「はい、どうぞ」という訳にはいきません。でも、新天新地では、ありありと神さまがともにおられるので証明する必要はありません。「神の栄光が都を照らす」(黙示録2023と書いてありますので、霊的に鈍い人でも何も問題がないと思います。

 次にあるのは、「いのちの水の川」と「いのちの木」です。ヨハネ黙示録221-2「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」この描写は、創世記のエデンの園と非常に対照的です。エデンの園にも川が流れていました。また、園の中心には「いのちの木」がありました。アダムはいのちの木ではなく、善悪の木から取って食べたので堕落しました。その時、主なる神は「彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとエバをエデンの園から追い出しました。しかも、ケルビムという天使が回る剣を持って、いのちの木への道を守っています。しかし、新天新地ではいのちの川と、いのちの木があります。いのちの木は一本ではなく、川の両岸にあり、「十二種の実がなり、毎月、実ができる」と書いてあります。かなり、Version up されています。エゼキエル47章にもいのちの川といのちの木のことが預言されています。そこには「その実は食物となり、その葉は薬となる」と書いてあります。この地上では、木になる果物は花が咲いて実がなるので年に1回だけです。エゼキエル書47章には「その葉は枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける」と書いてあります。アーメン。

 私はこれらの記事を読んで思ったのですが、新天新地にはとてもロマンがあると思いました。私たちは、永遠のいのちが与えられているのですから、何も食べなくても生きていけそうです。でも、霊と魂は不滅かもしれませんが、肉体はそうではありません。おそらく栄光の体なのでしょうが、いのちの木から取って食べる必要があるのではないでしょうか?また、食べるというのはただ生存するためだけではありません。食べる喜びや楽しみがあります。イエス様が地上におられたとき、よく食事をしておられました。イエス様は最後の晩餐で「私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで、もはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マタイ2629とおっしゃいました。ということは、新天新地には飲んだり、食べたりすることがあるということではないでしょうか?「十二種の実がなり、毎月、実ができる」とあるので、毎月、その実が違うということです。エジプトから脱出したイスラエルの民は、天からのマナに食べ飽きて、不平不満をもらしました。でも、新天新地にはそういうことがありません。また、「飽きる」というのは罪の一種なので、いつも新鮮なのではないでしょうか?しかも、毎月、12種類の実がなりますので、マナとは違います。monthly月毎に、私たちは異なる実を食べます。マンゴー、パパイヤ、もも、梨、かき、りんご、アボガド、栗、バナナ、ドリア、これでもまだ10種類です。肉や魚はなくて、主食はこのいのちの木から採れる果実かもしれません。「木の葉にいやしがある」というのは、やはり私たちの肉体と関係があると思います。いのちの木で生命を維持していますが、肉体を持つゆえの問題があるのかもしれません。でも、その葉には癒す力があります。そのため、病院で治療を受ける必要もありません。この地上でも、木の葉にいやしの力があります。ハーブは植物ですが、シナモンとか月桂樹、メープルなどは樹木です。最近、マヌカハニーというのが健康にとても良いことが発見されています。これ以上、専門家でないので分かりません。

 詩篇16篇には主のもとには楽しみがあると記されています。この詩篇は、千年王国に住む私たちを預言しています。詩篇16:9-11「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。

3.新しいエルサレム

 新天新地のメイエベントは、新しいエルサレムでしょう。私たちはこのところに集まって、神さまの御顔を仰ぎながら、礼拝するのです。都の土台はきらびやかな宝石です。道路は透き通った純金です。神さまの栄光がその都を照らすなら、まぶしくて歩くことができないかもしれません。第三の新しいエルサレムにおいては、ウィットネス・リーが書いた本から、いくつか引用させていただきます。ヨハネ黙示録2110-12「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。」ウィットネス・リーはこのように解説しています。「黙示録14章と17章では、バビロンは大いなる都です。しかし、黙示録21章において、新エルサレムは「聖なる都」です。バビロンの原則は大いなることです。しかし、新エルサレムの原則は聖なることです。あなたは偉大さを選びますか、あるいは聖を選びますか?今日、多くの人は大説教者、大奉仕者、大伝道者であろうとします。偉大であればあるほど良いのです。これはバビロンの原則です。私たちは小さくあることを学ばなければなりません。小さければ小さいほど良いのです。私たちは聖となり、分離されることを学ばなければなりません。私たちは自分を大きくしたり、自己宣伝したりすべきではありません。小さくあるためには分離されることが必要です。しかし、大きくなろうとすると、多くの混合が必要になります。混合が多ければ多いほど、それはより大きくなります。背教のローマ・カトリックは大きいです。それは、ローマ・カトリックが大いなるバビロンとして、多くの物事の混合であるからです。教会と新エルサレムの原則は、それが聖なる都であって、大いなる都ではないということです。大いなる都は焼かれてしまうでしょう。しかし、聖なる都は主の満足であるでしょう。」なんと霊的なのでしょう。感服いたしました。私は亀有に赴任したとき「大いなるものになろう」としていたのですね。私にはあまり似合わないかもしれませんが、今後は、聖なるものになろうと努力いたします。アーメン。

 次に都の形を見て行きたいと思います。黙示録2115-17「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」都は四角であると書かれていますが、正確には立方体、正六面体です。この形のもっとも古いのが神の幕屋の至聖所です。3つの寸法が等しく、長さ10キュビット、幅10キュビット、高さ10キュビットありました(出エジプト262-8)。その後、ソロモンが神殿を造りました。神殿の至聖所は、全部が幕屋の倍で、長さ20キュビット、幅20キュビット、高さ20キュビットありました(Ⅰ列王記620)。では、新エルサレムはどうでしょう?旧約の幕屋と神殿は、聖所と至聖所に分かれていました。しかし、神の幕屋としての新エルサレムは1つの区分しかありません。これは、二つの区分の間の幕がなくなったということです。新エルサレムの寸法が3つの方向で等しいということは、それがあらゆる点で完全で完璧だということです。そして、三方向の寸法は、一万二千スタディオンです。1スタディオンを185メートルとするなら、2,220キロになります。ちなみに日本は宗谷岬から沖ノ鳥島までが約2,845㎞あるそうです。私たちが思っているほど、都は大きいということです。

 最後に城壁と門と道路です。これこそクライマックスです。黙示録2118-21「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」碧玉はjasper ですが、不純な石英で、酸化鉄や緑泥石などの不純物により赤や緑色に色づいているそうです。つまりこういうことです。都は純金であって、純粋なガラスのようです。一方、壁は分離のために、都の周りに建てられています。都は純金ですが、壁は碧玉であり、都の外観を示しています。不思議なのは土台にものすごい高価な宝石が用いられているということです。なんと道路は透き通る純金でできています。私は土木建設に携わったことがありますが、構造物の土台は砂利やコンクリートで最も安価なものが使われます。道路も砂利とアスファルトです。 アスファルトはいわば石油のカスです。神さまはどうでも良いような土台や道路に宝石や金を用いるとは何と金持ちなのでしょう。    

 さまざまな土台の宝石について、ウィットネス・リーはこのように述べています。「都そのものは金です。それは、私たちの内側の神聖な性質を表徴します。神聖な性質は、私たちの共通の分け前です。主イエス様を信じさえすれば、私たちはみな神聖な性質を持ちます。第1から第12までの宝石に関しては、私たちは異なっています。ある信者たちは、救われた時に受けた金、すなわち神聖な性質を持っているだけです。彼らには、あまり内側に建て上げられた宝石がありません。宝石は内側の聖霊の働きを表徴します。宝石は、強烈な熱と高圧を経ることによって、異なる要素が化合したものです。たとえば、木は燃えて炭素になり、それから長い期間に圧力をかけられて宝石になります。私たちは燃やされて、圧力をかけられなければなりません。この言葉に驚かないでください。私たちの多くはこのような経験があります。多くの場合、主は私たちのために『オーブン』を按配します。時には、主は高温を使います。また、別の時、主は低めの温度を使います。ちょうど姉妹が何度の熱で何を焼くべきかを知っているようにです。多くの場合、主はこのようにして私たちをオーブンに入れました。私たちの周囲の親愛な人でさえ、私たちにとって高熱になることもあります。時には、自分の妻だけでは十分でありません。私たちはまた、子どもたちに「燃やして」もらう必要があります。妻が夫を「燃やす」こともあるでしょう。それから、子どもたちもまた、彼を燃やすように努力します。しかし、姉妹たちも安楽な生活を送っているわけではありません。多くの夫は彼らの妻を燃やす強烈な熱です。私たちは、燃やすことと圧力をかけることのゆえに主を賛美します。元々、私たちは木、草、わらにすぎません(Ⅰコリント312)。ですから、私たちは宝石になるために、燃やされることと圧力をかけられることが必要です。」アーメン。城壁の土台には、12種類の宝石があります。私たち各自の内側にあるキリストの経験は、さまざまです。神聖な性質は私たちすべてに共通です。色と輝きが違う城壁の土台は、私たちのキリストの経験を表徴していることを感謝します。

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2019年8月 9日 (金)

最後の審判 ヨハネ黙示録20:7-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.8.11 

 昨年から主題説教を続けておりますが、きょうのテーマは非常に厳粛なものです。私は説教を準備しながら虚脱感に襲われ、深いため息を何度もつきました。でも、このことを語らなければ、その後に続く、新天新地もありません。「最後の審判」はミケランジェロの大作であり、ほとんどの方は何かでご覧になった経験があると思います。身の毛もよだつと申しましょうか?あまり触れたくない内容ですが、思い切って、聖書から共に学びたいと思います。

1.第二の復活

 私たちはこれまで、「よみ」、「御国(千年王国)」について学びました。よみというのは、死んだ魂が行くところですが、キリストの復活昇天によって、様子が変わりました。なぜなら、イエス様がよみの上部を引き上げて、パラダイスを作られたからです。現在、悪人と不信者はハデスにとどまっていますが、信仰者はパラダイスで安らいでいます。これから患難期を経て、御国(千年王国)がやってきます。そのとき復活があります。これは第一の復活と呼ばれています。キリストが再臨されるとき、パラダイスにいた人たちがよみがえるのです。正確に言いますと、死んだ肉体がよみがえり、パラダイスにいた魂と合体するということです。そして、この人たちは御国(千年王国)に千年間、住まうということです。御国において、ある人は褒賞という報いを、ある人は懲らしめという報いを受けるでしょう。彼らは生前の行いによってさばかれます。これを「キリストのさばき」と言います。しかし、このさばきは火の池(地獄)でないことは既に申し上げました。御国は良い行いと関係があり、信仰者たちが報いを得る場所です。その後、何が起こるのでしょう?黙示録20章後半には、千年の終わりにサタンがその牢から解放されるとあります。サタンは1000年間縛られていたことになります。でも、彼は解放されて、諸国の民を惑わします。残念ですが、神に逆らう人たちがゴグとマゴグに集まり、戦いが始まります。彼らは聖徒たちの陣営と都を取り囲みます。しかし、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くします。黙示録2010「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」「彼ら」というのは、千年王国を経ても神に逆らった人たちです。もう一度、ふるいにかけられなければならないとは、人間は何と罪深いのでしょうか。前にも言いましたが、御国に入りきれず、暗闇で歯切りしている者たちもいました。ある人たちはゲヘナの火で焼かれても、その魂がきよめられていなかったのです。私たちは春先、焼畑のシーンを目撃することがあります。焼畑は、害虫などを駆除するためのものです。草は焼かれますが、根っこが生きているので、新芽が生えます。千年王国は魂のきよめの時でもあったのです。でも、それでもきよめられない魂がいるとは残念です。

 その後、第二の復活が起こります。黙示録2013「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」第一の復活はキリストが再臨するときに起る千年王国の直前でした。しかし、第二の復活はハデスにいた人たちが復活するのです。でも、「海はその中にいる死者を出す」とは不思議な表現です。G・Hペンバーという人は「海の中にいる死人は人類ではなく、アダム以前の時代に生きていた生き物の霊(悪霊)である」と言いました。黙示録11章と17章で獣が底知れぬ所(アビス)から上ってくると書いてありますが、海がアビスの出入り口なのかもしれません。海は神の敵がいる場所ですから、神はそれを取り除かなければなりません。聖書で海は不吉なものであり、新天新地には海が存在しません。前にも言ったことがありますが、肉体は死んでも魂は生きています。そして、聖書では肉体が死ぬことを、「眠る」(Ⅰテサロニケ413-15)といいます。眠るということは、いつかは目覚めるという概念がこめられています。ヨハネ528,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」これはイエス様のことばですが、クリスチャンはキリストの贖いを信じているで、善なるものであります。罪と悪はキリストの贖いによってすっぽり覆われていると考えるべきです。でも、神のさばきを受けるために復活するというのは、気の毒なことです。一体どれだけの数が海と地から復活するのでしょうか?その数たるや何百億、何千億かもしれません。

 私たちはあまりヨハネ黙示録から学びません。難しいし、きっと先のことだろうと思うからです。私たちは「イエス様を信じたら天国に行けますよ」と伝道します。しかし、天国はあまりにも漠然としています。クリスチャンはもう少し勉強して、言い方を変える必要があります。この世ではあまりにも天国が安売りされているからです。私たちクリスチャンは死んだら、天国に行くのではなくパラダイスに行くのです。そしてキリストを信じていない人、新生していない人は、よみ(ハデス)に下るのです。ルカ16章でも学びましたが、そこは地獄の一丁目のように火炎が迫っています。しかし、それで終わりではありません。両者とも肉体が復活します。第一の復活というのは、御国(千年王国)の直前復活する人たちです。彼らの魂はパラダイスにいました。今度は、イエス様のような復活のからだをいただいて千年間御国で生活するのです。しかし、第二の復活もあります。これは御国(千年王国)の直後に起ります。地上の時間で、千年遅いということです。彼らの魂はよみ(ハデス)にいました。今度は神のさばきを受けるために、肉体が復活するのです。これを第二の復活と言います。第二の復活の人たちは希望がほとんどありません。なぜなら、自分の義によって神さまの前に立たなければならないからです。第二のポイントで学びますが「最後の審判」です。そこには弁護をしてくださるイエス様はおりません。単独で義なる神さまの前に立つということです。高木慶太師は、それを宇宙服にたとえています。宇宙は真空なので、血液が沸騰すると言われています。クリスチャンはキリストを信じているので「神の義」をすっぽりかぶっています。罪と汚れがすっぽりと覆われています。でも、キリストを信じていない人は、義の衣がありません。宇宙服のない状態で、宇宙にいるのと同じです。どうか、キリストを信じて、神の義をいただき、第二ではなく、第一の復活に預かってください。

2.最後の審判

 ヨハネ黙示録20:11,12 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」これが、「神の白い御座のさばき」と呼ばれる、最後の審判です。そこにはいくつかの巻物があることがわかります。第一の巻物は未信者の働きと行為の記録であり、第二の巻物はいのちの書です。「いのちの書」の存在は、出エジプト記32章に記されています。山から下りてきたモーセが金の子牛を拝んでいる民を見て、愕然としました。そして、神さまにこのようにとりなしています。出エジプト3232,32 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」おそらく、この書物はいのちの書であり、モーセの時代からその存在が信じられていました。イザヤ42,3「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」つまり、いのちの書には、旧約時代の人たちも含まれているということです。もちろん、キリストを信じる人たちの名も記されています。ピリピ43「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」私はいのちの書に一度でも名前が記されたら、消されることはないと信じます。昨年、公文書が改ざんされるという大事件がありました。ある部分がすっぽり抜けていたり、あるいは書き換えてられていました。でも、いのちの書にかぎってそういうことはありません。いのちの書に名前が記されたら、消されることはありません。なぜ、そんなことが言えるのでしょう?神さまの選びがあるからです。確かに信仰には私たちの意志や願いがあります。でも、神さまがそのことを受け入れ、承認して下さらないと救いはなりたちません。ある人は信じていないのに洗礼を受けるかもしれません。でも、神さまはすべてをご存じです。神さまがこの人は信じていると分かります。そして、いのちの書に名前を記すのです。救いを支えているのは私たちの信仰ではありません。神さまの選びが私たちの救いを支えているのです。だから、年とって頭がぼけて、信仰がおかしくなっても大丈夫です。

 では、なぜ、あえて最後の審判のとき、「いのちの書」が開かれるのでしょうか?彼らはすでに「キリストのさばき」を通過して永遠のいのちをいただいているはずです。私は確認であろうと思います。私たちは空港で出国審査を受けます。順番が来たら、パスポートと搭乗券を出します。パスポートの写真と顔を照合され、パスポートに出国スタンプを押されて、審査終了です。中には偽造パスポートの人もいます。だから、間違いのないように、いのちの書とその人自身を照合するのです。最後の審判がどういうものであるか分かりませんが、罪のさばきではありません。ヨハネ525「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエス様は「さばきに会うことがない」とはっきり約束しておられます。なぜなら、イエス様がその人の代わりにさばかれたからです。エペソ113,14「あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。私たちには聖霊の証印が押されているのですから、間違うことはありません。最後の審判をちゃんとパスすることができます。聖霊の証印は目には見えませんが、御使いにはきっと見えるでしょう。昔、稲毛浜海浜プールに子どもたちを連れて行ったことがあります。プールの敷地か海岸に行ける出入り口があります。そこには係員がいて手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬ひやっとしますが、目に見えません。再び海からプールに戻るとき、係員は虫めがねみたいなものを当てます。すると、手の甲にスタンプが押されていることがわかります。蛍光塗料みないたものなのでしょう。

 問題は、いのちの書に名前をしるされていない人たちです。彼らは行いによってさばかれます。義なる神さまの前に、自分の正しさで立ち尽くせる人が果たしているでしょうか?彼らは神さまの前でひとり一人申し開きをしなければなりません。「いや、そんなことはしていません」と言っても、書物に記されています。書物は複数ありますので、各方面からさばかれるのではないかと思います。罪には大きく分けて2種類あり、 行った罪と行わなかった罪があります。それらのことが克明にしるされています。人間でもコンピューターにたくさんの情報を入れることができます。何千冊の本でも、CDロム1枚に入ります。私はカシオのEX-wordを持っていますが、国語や英語の辞書はもちろん、広辞苑、ブリタニカ大辞典、図鑑、名作集…数多くの本が入っています。もし「そんなことはしていません」と言ったなら、その時の画像が「ばーっ」と出てくるでしょう。動画がばっちり出てきたら、もう言い逃れはできません。暗やみでしたことも明るみに出されるでしょう。この地上では、裁判があり刑罰があります。被害者の家族は上訴しても、刑罰が軽すぎると思っているかもしれません。また、この地上のさばきを逃れた、罪がたくさんあります。ある事件は闇に葬られ、ある事件は時効になっているかもしれません。「本当に神はいるのか」と泣いている人がたくさんいるでしょう。でも、大丈夫です。この地上でさばかれなかったものは、その分多く、神さまの前でさばかれるでしょう。私は遠山の金さんや大岡越前、必殺仕置き人などをたくさん見ました。さばきが正しく行われない人たちの悲哀があとでさばかれるようになっています。しかし、それは人間が作った物語です。でも、神の白い御座のさばきは完全です。ちゃんと決着がつけられるようになっています。

3.第二の死

 ヨハネ黙示録20:13-15「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」もう一箇所引用いたします。黙示録218「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」このところには「第二の死」と書かれています。人はだれでも一回は死にます。例外的に、世の終わりキリストが再臨したときに生きている信者は、死なないで天に移されます。しかし、それ以外の人はすべて肉体的に一度死にます。「え?死ぬのは一回限りじゃないの?」と質問されるでしょう?でも、聖書には肉体の死と、魂の死があります。私たちの魂は永遠に生きるように造られました。創世記1章に「神のかたちに似せて造られた」と書かれているのは、私たちの魂が永遠に生きるように造られたということです。でも、この魂を神さまは滅ぼさなければなりません。本来、地獄は人間のために造られたのではなく、サタンのその仲間のために造られたのです。黙示録20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」ですから、神さまの本来の目的は、サタンに最終的なさばきを下すことです。人類歴史の最初から最後までにもたらした、数かぎりない悲劇と不幸を考えると、このときは最高の歓喜の時です。天には大群衆の歌がこだまします。

 でも、残念ですが、新天新地にすべての人を迎えるわけにはいきません。黙示録21章には、このような罪を犯した者は入れないとありますが、その中に「不信仰の者」とあります。これはキリストの救いを拒んだ人であります。そして、その人はいのちの書にも名前がありません。せっかくのチャンス、神の愛を拒んだということは他の罪と同じような扱いになっています。その人は、殺人を犯したり、不品行や魔術を行っていないかもしれません。でも、サタンと同じ火と硫黄との池に投げ込まれるとあります。ある人たちは、「神さまは愛なので、地獄などは造らない。みんな救ってくださるだろう」と言います。しかし、新天新地に入れる人は、いのちの書に名前のある人たちだけです。なんと厳粛なことでしょう。ウィットネス・リーはある本で、こう述べています。「最終的に、聖書の終わりには二つの結末があります。すなわち、積極面では新エルサレムであり、消極面では火の池です。神は地から新エルサレムを生み出し、海を地に縮小させます。元々、大きい海であったものは、今、火の池の中にあります。私たちは、これを家を掃除することにたとえても良いでしょう。最初は、ゴミだらけであるかもしれませんが、私たちが掃除した後、それらは小さなゴミ箱の中に片付けられます。同様に、宇宙にある、すべての汚れ、間違ったものは、わずかな場所である火の池に制限されます。」イエス様はマタイによる福音書で地獄を「ゲヘナ」と呼んでいますが、それは焼却炉と言う意味です。

 地獄はあります。今はありませんが、千年王国が終わり、新天新地がはじまる直前にあります。まさしく、不要なものを焼き尽くすのは、新しい世界を迎えるのに必要なことかもしれません。よく私たちは「地獄のように熱い」とか「地獄のような苦しみだ」と言います。しかし、本当の地獄を一度でも見たなら、そんなことは言えなくなるでしょう。また、最大級に怒っていることを「カム着火インフェルノ」と言うそうです。インフェルノというのは、ダンテの『神曲』から来たものです。Infernoは一般に「地獄」と訳されますが、灼熱地獄です。ダンテは地獄篇を書いていますが、まるで見てきたように書いています。神曲によると地獄は逆さ円錐で9層に分かれています。地獄の門に来たとき、「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」ということばがきざまれていました。ダンテは先生に連れられて、第一から第九までの圏谷(たに)を訪れます。私も本を読みましたが、ウィキペディアから少し引用します。第一圏は「辺獄(リンボ)」です。洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす場所です。第二圏「愛欲者の地獄」です。肉欲に溺れた者が、荒れ狂う暴風に吹き流されている。第三圏は「貪食者の地獄 」です。大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれてぬかるみでたうち回っている。でも、礼拝にメッセージにふさわしくないので、最後の第九圏「裏切者の地獄」を紹介して終わります。コキュトス」(嘆きの川)と呼ばれる氷地獄。同心の四円に区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっている。裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。そこにはキリストを裏切ったユダがいます。あとはご自分で調べてください。とにかく、ダンテが言うように、地獄の門に来たなら、一切の望みを捨てなければなりません。

 『天国と地獄』という本を読んだがあります。メアリー・バクスターという人は、40日間、イエス様に連れられて天国と地獄を体験したそうです。その手の本が今、いっぱい出版されていますので、「まゆつばもの」と思うかもしれません。もちろん、聖書でないので霊感されていませんが、ポイントだけでもご紹介したいと思います。第一は地獄に下った人たちは激しい苦しみの中で、大変後悔しています。第二は、彼らはイエス様に「犯した罪を悔い改めますから」と懇願しています。しかし、イエス様は「あなたが地上にいた間、私はあなたを私のもとに来るように何度も何度も呼びました。しかし、今では遅すぎます」と答えました。第三は、サタンと悪霊がそこにいて苦しみを増し加えているということです。第四は、彼らは生前犯した罪にふさわしい場所にいます。ダンテの『神曲』と似ています。何年か前に、フランクリン・グラハムという人が武道館でメッセージしたことがあります。「あなたは今晩、心臓が止まっても天国に行ける自信はありますか?」と何度も繰り返し、語っていました。正直、この手のメッセージは好きではありません。人を脅して、信じさせようとしているように思えるからです。もちろん地獄に行かないで、天国に行くことは救いの一局面です。でも、永遠の滅びがあるからこそ、永遠のいのちもあるのです。良い面だけを語りたくなりますが、永遠の滅び、地獄は存在します。死と地獄を免れる道は、イエス・キリストを救い主、主として信じる以外にありません。

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2019年8月 3日 (土)

御国における報い マタイ19:27-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.4

 教会では「人は救われたら天国に行くことができる」と言います。この世のおいては、「天国」はあまりにも安売りされているので、私は「御国」と言ったり、「神の国」と、あえて言うようにしています。ややこしくなりますが、御国(神の国)は二段階でやってきます。第一段階は御国です。ヨハネ黙示録においては「千年王国」という名称で出てきます。第二段階は新天新地です。これは御国の完成形であり、Ⅰペテロ3章と黙示録21章に出てきます。きょうは御国、つまり千年王国における報いについて学びたいと思います。報いには二種類あり、褒賞とさばきです。

1.御国における褒賞

 マタイ1927そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「そのとき」とは、青年役員が財産を惜しんで、悲しみながら去って行った直後です。私たちは「ペテロ、報いを求めるなんて意地汚いぞ」と言いたくなります。でも、イエスさまは何と答えられたでしょうか?マタイ1928 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」イエス様は弟子たちにすばらしい約束を与えられました。このところに「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時」とありますが、いつなのでしょう?これこそ、弟子たちが待ち望んでいた御国でした。弟子たちはイエス様がローマを倒して、地上にイスラエル王国を再建して下さると信じていました。しかし、「世が改まって」と言うのは、この世が終わって、次の時代という意味です。マルコによる福音書10章では「今のこの時代」と「後の世」とはっきり分けています。ギリシャ語のアイオンは、「時代」とか「この世」「現世」という意味があります。つまりこういうことです。私たちが今、住んでいる時代がやがて終わります。その後、御国(千年王国)がやっています。さらにその後、新天新地という永遠の御国がやってきます。冒頭でも申し上げましたが、御国は二段階でやってきます。そして、ここが重要です。御国(千年王国)は行いによって報われるところです。その後に来る、新天新地は行いではなく信仰による賜物です。イエス様を信じて義と認められた人が必ず行けるところです。

 マタイ19章で言われているのは、御国(千年王国)のことです。実はマタイによる福音書で「御国」という場合、ほとんどが千年王国のことであり、新天新地ではありません。ある人たちは、「天国は平等なところだ」と誤解しています。確かにイエス様を信じたら永遠のいのちをいただき、新天新地に入ることができます。しかし、その前に来る、御国(千年王国)は平等ではありません。その人の行いによって褒賞を受けたり、さばきを受けます。また、ある者は暗闇に投げ込まれるでしょう。でも、イエス様を信じた人たちなので、地獄ではなく、やがて新天新地に入ることはできます。このことが分かると、キリストを信じるだけで救われるという「信仰義認」がよく分かります。弟子のペテロは御国における報いを期待していました。イエス様は「意地汚いぞ」とはおっしゃらず、弟子たちが受ける褒賞について語っておられます。「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」とおっしゃいました。御国の第一の特徴はイスラエルが回復するということです。エルサレムにおいて、弟子たちが12部族をさばくのです。このことはイザヤ書、エゼキエル書、ダニエル書にも預言されています。第二の特徴はすべての被造物が回復します。荒野に川が流れ、花が咲き乱れます。同時に目の見えない人が見え、耳の聞こえない人が聞こえ、足のなえた者は鹿のように飛び跳ねるでしょう。第三は報いです。きょうはこのテーマで学びますが、報いとは褒賞とさばきです。パウロはⅠコリント9章でこう言っています。Ⅰコリント924,25「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」御国は平等ではありません。「朽ちない冠」「いのちの冠」「義のかんむり」などの褒賞があります。パウロは自分が失格者にならないように、自分のからだを打ち叩いて従わせると言っています。つまり、パウロは御国において、神の栄冠を得るために努力しているのです。

 エペソ2章には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…神の賜物です。行いによるのではありません。」書かれています。しかし、これだけを強調すると、「ああ、これで死んだら天国に行ける。あとは好きなことができる。何でも赦されているから」となります。ある意味で、信仰義認は怠け者を作ってしまいます。かといって、「信じるだけではダメなんだ、良い行いも必要だ」と言うなら、キリストの十字架の贖いを否定することになります。キリスト教の異端は、みな善行を付け加えます。彼らはとても熱心ですが、根底にあるのは「恐れ」です。なんとか天国に入ることができるように頑張っています。でも、救いは賜物ですから、行ないではありません。はっきり申し上げますが、クリスチャンは神のさばきを受けることはありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりにさばかれたからです。そして、クリスチャンは必ず、新天新地に入ることができます。でも、行いによって御国における報いが違ってくることを忘れてはいけません。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」「キリストのさばき」は「神の白い御座のさばき」と違って、火の池(地獄)に投げ込まれるものではありません。いかに忠実であったかどうか、さばかれるのです。私たちは「タラントのたとえ」のように「良い忠実なしもべだ」とほめられたいと思います。また、ミナのたとえでは、十ミナ儲けた人は十の町を、五ミナ儲けた人には五つの町を治めるように言われています。このように、御国では行ないによる報いがあるということを知っておく必要があります。賜物や召命は違っても、御国において、神さまの褒賞を得るために信仰生活を送りたいと思います。

2.御国におけるさばき

 私たちは永遠の滅びという地獄ではなく、神の懲らしめとかさばきがあることを知らなければなりません。ヘブル12章に「主の懲らしめを軽んじてはならない」と書かれています。私たちはよその子どもは叱ったり、懲らしめたりはしません。自分の子どもは矯正のために、叱ったり、懲らしめたりします。しかし、それは滅ぼすためではなく、我が子を愛しているからです。御国におけるさばきは、火の池(地獄)とは違います。これは矯正であり、こらしめです。その期間を終えたら、千年王国に復帰することができるでしょう。たとえそうでなくても、やがて来る新天新地には入ることができます。なぜなら、その人たちは創造主なる神さまとイエス・キリストを信じたからです。ただ、その行いが罪深くて、神さまに対して不従順だったということです。ローマ・カトリック教会では、修行の場である煉獄を信じています。彼らは天国に直接入れなかった人たちが罪を浄化するための煉獄を考え出しました。しかし、それは聖書的ではありません。聖書には御国(千年王国)の時代が、矯正やこらしめのためにあることを示唆しています。残念ながら、そのことを認めない神学者や教会があるので、「示唆」というところで押さえておきます。これから、いくつか聖書箇所を取り上げながら、論証させていただきます。これからは、ウォッチマンニーが書いた『神の福音』第三巻を参考にさせていただきます。

 ルカ1245-48「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」この物語は世の終わりに帰ってくる主人を待つ、しもべ頭のたとえです。このところではっきりしなければならないことは、このしもべは確かに救われた人です。でも、神のしもべであるクリスチャンは、良いしもべにもなれば、悪いしもべにもなることができます。もし救われた人が、不幸にして、よこしまなしもべになったとすれば、彼の最後はどうなるでしょうか?46節「彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません」とあります。日本語は「不忠実な者」ですが原文からは、「不信者たちと同じめに会わせる」が正しい訳だと思います。でも、こらしめに差があることがわかります。主人の心を知りながら、用意もせず、働きもしなかったしもべは多く打たれます。しかし、知らないでいたしもべは、むち打たれる数が少しだということがわかります。また、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」。これが、クリスチャンが将来、神の御前で受ける懲らしめです。

 もう一つの例は、マタイによる福音書から取り上げたいと思います。マタイ5章から7章における、山上での主の教えは、天の御国について語っています。これらの主の教えは、人がどのようにして天の御国に入ることができるかを告げています。そして、マタイ5章から7章は、「天の御国」と「報い」ということばが何度も一緒に使われているのが非常にはっきりわかります。たくさんの教えが書かれていますが、報われるのは、この地上ではなく、御国(千年王国)であることを知らなければ、実行不可能な道徳論で終わってしまうでしょう。端的に言うなら、この教えを守ったからと言っても、この地上では割が合わないことがたくさんあるということです。でも、最終的に収支決算するところは御国(千年王国)です。そこでは良い報い(褒賞)もあれば、悪い報い(さばき)もあります。しかし、多くの場合この「さばき」は火の池(地獄)ではなく、懲らしめとしてのさばきです。もっともひどいさばきは、新天新地に入れるけれど、御国(千年王国)には入れない信者がいるということです。その典型的な例が、以下のみことばです。

マタイ721-23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』「あなたの名によって」と3度も述べられているので、これらの人々が主に属する人、クリスチャンであることを証明します。ところが主から「私はあなたを知らない」と言われました。なぜでしょう?彼らは救われた人でなかったということではありません。確かに彼らは預言し、悪霊どもを追い出し、多くの力あるわざを行いました。でも、父のみこころで行ったのではなく、自分の栄誉のため、自分勝手に行ったのです。今でもそういう伝道者がいます。「不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われていますが、「永遠の命から去れ」と言われたのではありません。「不法をなす者」のギリシャ語の意味は、「規則に従わない、規定に服さない人」を指します。彼は悪を行なったのではなく、神の規定、神のことばに従わなかったということです。この人は永遠の命は決して失うことはないにしても、御国においてはその地位と栄誉を失うかもしれません。

 マタイ25章では、世の終わりの備えについてのたとえ話がいくつか書かれています。5人の愚かな娘は、最後に戸を閉められて「私はあなたがたを知りません」と言われました。また、1タラント預かったしもべは「外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯切りするのです」と言われました。最も小さい人にしなかった人は、永遠の刑罰に入ることになりました。もし、信仰があっても、行ないによってさばかれて火の池(地獄)に落とされるなら、信仰義認と反します。彼らはすべて神のしもべであり、信者です。でも、彼らは御国(千年王国)に入れない人たちです。時間どおり千年かどうか分かりませんが、暗闇の中では歯切りすることになるということです。私たちは厳粛な思いで御国におけるさばきがあるということを受け止める必要があります。

3.良い行ないの意義

 第一ポイントで「御国における褒賞」、第二ポイントでは「御国におけるさばき」について語りました。両者とも報いです。良い報いと悪い報いと言った方が良いのかもしれません。肝心なのは、このさばきは、訓練とかこらしめという意味であり、火の池(地獄)ではありません。前にも引用しましたが、ウォッチマンニー著『神の福音』にはこのように述べられています。今日の教会の中には、1つの大きな誤りがあります。それは、「救われることだけが唯一のことであって、救われること以外には何も存在しない」と考えることです。そして、天の御国と永遠の命を同じものと考えています。人が信じていったん救われたなら、もはや働きについては心に留める必要がないと考えます。聖書は神の部分と人の部分とを明確に区別しています。一方は神によって与えられる救いであり、もう一方は御国(千年王国)の栄光です。救いは、人の働きと全く関係がありません。だれでもいったん主イエスを信じるなら、その人は救われます。しかし、救われた後、神はただちに第二のものをこの人の前に置かれます。そして、「救い以外に、褒賞、来るべき栄光、冠、王座が彼のためにある」と彼に告げられます。神は信者たちの前に、王座、冠、栄光、褒賞を置かれます。もし人が忠実であるなら、これらのものを得るでしょう。もし忠実でなければ、これらのものを失うでしょう。ですから、私たちは、良い行いは無益であるとは言いません。しかし、救いに関する限り、良い行いは無益であると断言します。人は良い行いによって救われるのではありません。また、悪い行いのゆえに救われないのでもありません。良い行いは、褒賞と冠と栄光と王座にふさわしい事柄です。良い行いは、救いという事柄では役に立ちません。神は行いによって人を救うことをなさいません。また神は、信仰によって人に褒賞を得させるものでもありません。

 ご理解いただけたでしょうか?簡単にまとめると良い行いは救いとは関係ありません。人は信仰によって恵みによって救われるからです。でも、いったん人が救われたなら、良い行いをすべきです。なぜなら、神は良い行いに対して、褒賞と冠と栄光と王座を備えておられるからです。聖歌687番『まもなくかなたの』という賛美があります。4節は「良いことを励み、流れのそばで、お受けいたしましょう。たまのかむりを。神さまのそばのきれいなきれいな川で、みんなで集まる日のああ、なつかしや」です。私はホーリネスの神学校基礎科で学びました。その時、教会学校担当の教師が、「4節は、信仰義認に反しているので聖書的でない」と言われました。その時は何とも思いませんでしたが、新約聖書にはいくつかの冠が出てきます。そして、その冠はみんなに平等に与えられるものではありません。私は「天国というところは不平等なところなのでは?」と思っていました。問題は「天国」を新天新地という永遠の御国に捉えていたことです。これはいわゆる「天国」ではなく、御国(千年王国)のことだったのです。ウォッチマンニーがこのように言っています。「今日の問題は、人々が救いと御国とを区別しないところにあります。聖書では、救いと御国、賜物と褒賞との間に明確な区別があります。」

 最後にこの箇所を引用して、メッセージをまとめたいと思います。Ⅰコリント311-15「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」このところで、クリスチャンが何を失い、何を失わないかを、はっきりと見ることができます。人はいったん救われれば、確かに永遠に救われるでしょう。その人は恵みによって新天新地に入ることができます。しかし、その人が褒賞を得ることができるかどうかは、今日決定され得るのではありません。それは、人が主イエスの土台の上にどのように建てるかによって決まるのです。私たちが褒賞を受けるか損失を受けるかは、私たち自身の建てる働きにかかっています。もし人が金、銀、宝石、すなわち永遠の価値あるものを用いて、主イエスの土台の上に建てるなら、彼は確かに褒賞を受けるでしょう。しかし、もし彼が木、草、わらを用いて建てるなら、神のみ前で褒賞を受けることはありません。人の前では多く得ても、神のみ前では多くを得ることはできないでしょう。このことは、人が自分の褒賞を失い、また自分の働きが焼き尽くされてしまう可能性があることを、私たちに示しています。

 私たちは行いではなく、信仰によって救われました。そして、救われた後は褒賞を得るために良い行いをすべきです。神さまのためではなく自分の名誉や欲を満たすため、汚れた動機で行うかもしれません。残念ですが、そういうものは全部焼き尽くされ、御国に入ることすらできなくなるでしょう。でも、「その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」とあります。これは御国での褒賞や冠が与えられなくても、永遠のいのち、救いは失わないということです。使徒の働き5章にアナニヤとサッピラが出てきます。彼らは持ち物を売って、その代金をささげました。ところが、一部を残しておき、まるで全部をささげたかのように振舞いました。ペテロは「人ではなく、神をあざむいた」ということで二人を叱りました。アナニヤとサッピラは即、打たれて死にました。では、彼らは罪を犯したので火の池(地獄)へ行ったかというとそうではありません。彼らはさばかれたために、肉体は死にましたが、救いは失っていません。彼らは火の中をくぐるようにして助かったのです。救いは悪い行いによって失われることはありません。ただし、御国における褒賞、冠が奪われることはあります。私たちはキリストを信じたゆえに罪の問題は解決されており、賜物として新天新地に入ることができます。ただし、現在の生活がやがて来る御国(千年王国)と密接に関係していることを忘れてはいけません。黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」命は信仰によって与えられます。命の冠を得るために忠実でありたいと思います。

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2019年7月27日 (土)

中世の教会 ヨハネ黙示録2:18-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.7.28

 テアテラにある教会は中世の教会を預言していると思われます。しかし、聖書のことだけを語ると偏ってしまうので、前半は歴史的な視野から中世の教会について説明したいと思います。1000年間のことを15分で話すというのは無理がありますが、たまには歴史の勉強も良いかもしれません。前半は歴史的な立場から中世の教会を考えてみました。後半はヨハネの黙示録から中世の教会を考えてみました。 

1.歴史における中世の教会

 一般の学校では「世界史」を学びますが、神学校には教会を中心とした、「教会史」なるものがあります。私は亀有教会の私設神学校『すずめの学校』(現在はスパローズ・セミナリー)で、教会史を教えてきました。また、教会史は牧師になるための必須科目であり、どうしても勉強しなければなりません。一般に、中世ヨーロッパは暗黒時代であり、諸悪の根源はキリスト教だと思われているでしょう。血なまぐさい宗教戦争や、十字軍、魔女狩りを連想して、「教会なんか行くもんか」と躓いている人もいるでしょう。また、多くの人はキリスト教というと、ローマ・カトリック教会を連想します。初めて来た人は「あなたは神父さんですか?」と聞きます。しかも、黒いガウンを着ていないので、「教会の召使いかな?」と思うかもしれません。当教会は16世紀に興った宗教改革の流れ、プロテスタント教会です。では、中世の教会は全く学ぶ必要はないのでしょうか?私は正直なところ、聖書の初代教会からは多くのことを学ぶべきですが、中世の教会はむしろ、キリスト教信仰の後退であり、堕落だと思っています。では、「プロテスタント教会が中世の教会から全く影響を受けていないか?」というとそうではありません。私たちは「これが当たり前だ」と思っていますが、全く聖書的ではなく、中世の教会から受け継いでいるものが多くあります。ウィットネス・リーがこのように述べています。「教会には階級があってはなりません。しかし、唯一の階級だけがあるべきであるとも言えるかもしれません。しかし、それは聖職者でも、平信徒でもなく、兄弟です。ある人たちは、今、『平信徒ミニストリー』とか、『平信徒伝道者』なとど言います。しかし、私たちは聖職者でも、平信徒でもありません。私たちは祭司であり、からだなる教会の肢体です。私たちはみなキリストのからだの肢体であり、みな神の祭司です。」アーメン。

今回は『1冊でわかるキリスト教史』(日本キリスト教団出版局)を参考にしました。第一は国王と教皇の関係についてお話しします。中世のキリスト教は、ゲルマン民族の移動によって西ローマ帝国が滅亡した時(476年)から始まったと言われています。ローマの帝権が弱くなり、そのかわりローマ司教の力が強くなりました。「大司教」と呼ばれたレオ1世とグレゴリウス1世が、ゲルマン民族を積極的に教化し、改宗に導きました。西ローマ帝国滅亡後、グレゴリウスは新生ヨーロッパの教会を主導する「教皇」の基盤形成に貢献しました。ご存じのように中世の教会は、国王と教皇の権力の凌ぎ合いが1000年間も続くのであります。最もキリスト教会に影響を与えたのが、フランク族が建立した「フランク王国」です。王様や後継者が洗礼を受けて、ローマ教会に仕えるようになります。751年ピピン三世(小ピピン)は、大司教から国王就任の塗油式を受けました。つまり、ローマ教皇が国王に油を注いで任命するようになったのです。小ピピンは敵国から奪い取った土地を教皇に寄進しました。これが、教皇領(各国にまたがって教会が持つ土地)の起源となります。やがてはイングランドとアイルランドをキリスト教化し、西ローマは東ローマを凌ぐようになりました。800年、小ピピンの子、カールが戴冠を受けると、476年に滅亡した「西ローマ帝国」の復活の瞬間でした。ちなみに、カール大帝はハートのキングもモデルです。実質的に、東ローマのビザンツ皇帝から独立し、ローマ・ゲルマン・キリスト教の3要素からなる西ヨーロッパの文化が成立していきます。しかし、カール大帝の死後、フランク王国は3つに分裂してしまいます。その後、東フランク王国が「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。今のドイツあたりです。しかし、ローマ教会は教皇権をめぐる争いが頻発し、弱体化していきます。司教職の売買、聖職者の妻帯が蔓延し腐敗の一途をたどります。叙任権闘争が起こり、国王が強くなり、逆に教皇を任命するようなことも起りました。200年に渡る十字軍の失敗によって、教皇権が弱体し、地方領主が没落して王権が強化されていきました。

第二は修道院と修道士についてです。教皇制と並んで、中世キリスト教を性格付ける重要な要素となったのは「修道制」です。キリスト教修道院の創始者は一般にエジプトのコーマ生まれのアントニウス(250年頃-356年)であると言われています。彼は「富める若者」に対するイエスの言葉に感激して自分の財産をことごとく売り、270年ごろ禁欲・断食・隠遁の生活に入りました。ただちに彼の追従者たちが現われ、4世紀の初めころシリアで急速に発展します。続いて、パコミウス(290年頃-346)は、個人的な要素を離れてそれを制度化し、発展改善して修道院の基礎を築きましした。彼は兵士でしたが、軍隊生活中キリスト教徒に出会い、徐隊後洗礼を受けキリスト者となったと言われています。小アジアではパコミウスの伝統が受け継がれ、カパドキヤのバシリウス(330年頃-76年)によって修道院規則はさらに発展をみました。カパドキヤの洞窟修道院は世界遺産になっています。東方より少し遅れて4世紀後半から、ガリア(現フランス)とアイルランドに修道院が出現しました。西方教会の修道制を決定的に方向付けたのは、イタリヤ中部で生まれたベネディクトゥスです。彼が定めた「清貧」「貞潔」「従順」の精神を説いた『戒律』が7世紀頃にはすべての修道院において規範となりました。やがて、ベネディクト会の改革から生まれたクリュニー修道院は、10世紀にはフランス、ドイツ、イタリヤ、イングランド、スペインなど全西方に約1000を数えるように至りました。13世紀に入ると、ローマ教会と教皇の腐敗の反動として、托鉢修道会が出現しました。彼らは土地や富を蓄えることを否定して、都市や農村を歩き回り、信者からの寄進のみで生活しながら、キリストの教えに忠実に生きようとする修道士たちの組織で、ドミニコ会とフランシスコ会が代表的な組織です。従来の修道会は、人里離れた地で農耕によって自活し、沈黙と観想の生活を送っていました。しかし、ドミニクスたちは都市を中心に清貧生活と説教の巧みさで民衆を教化していきました。修道士の労働も義務付けられなくなり、それに代わって、学問の研究が修道士の必須の徳目になりました。1181年、フランシスコ会の創設者アッシジのフランチェスコは、23歳のとき信仰に目覚め、すべてを捨てて主に従う生活を開始しました。彼は「小さき兄弟会」を名乗り、「清貧」「貞潔」「従順」という従来の修道誓願に従う生活を送り、各地を放浪しながら、説教を続けました。ドミニコ会同様、清貧を掲げつつも、洗練された都市民と渡り合える知的訓練を受け、巧みな説教を行なえた彼らは、中世後期の民衆キリスト教の成熟に大きな影響を及ぼしました。

第三は神学的な面です。古代キリスト教会で最大の思想家は、間違いなくアウグスティヌスでしょう。著作の量だけでなく、その扱った問題、領域は多岐にわたり、のちの西洋思想に与えた影響も計り知れません。アウグスティヌスは北アフリカのヒッポの司教でした。ところが、ゲルマンのヴァンダル族がジブラタル海峡を渡ってアフリカに来襲しました。430828日にヒッポの街がヴァンダル族に包囲される中、アウグスティヌスは亡くなりました。まもなく、西ローマ帝国が滅んで時代は中世に入ります。7世紀末、カール大帝は英国の教会から学者アルクィン(735-804年)を宮廷に迎え、王家、貴族の子弟の教育にあたらせました。宮廷学校は、ギリシア古典とキリスト教の学問上の修得に貢献しました。8世紀から「聖餐論論争」が起こりました。その頃から、パンとぶどう酒とは不死の食物であって、奇蹟によりそれらの素材はキリストのからだと血に変化すると考えるようになりました。現在のローマ・カトリックはその考えを受け継いでいます。11.12世紀にスコラ学と大学が誕生しました。「スコラ」とは、教会・修道院に属する学校(schoolの語源)のことです。スコラは元来、真理を知る方法を意味していましたが、その内容は、キリスト教信仰上の真理を理性的思考によって解き明かすことを目的としていました。神学で有名なパリ大学は、12世紀中頃、ノートルダム大聖堂付属の神学校から昇格したものです。イギリスでは、12世紀後半に神学で有名なオックスフォード大学がパリを引き上げてきた大学生によって、さらに13世紀のはじめにはオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて、ケンブリッジ大学が設立されました。今ではだれも分からないと思いますが、もともとは神学を学ぶために設立された大学だったのです。13世紀半ば、パリ大学を卒業したトマス・アクイナスがドミニコ会に迎えられ、かの有名な『神学大全』を著しました。序文の言葉によれば、「神学の初学者向けの教科書として書かれたものである」ということです。トマス・アクイナスのようなスコラ学者たちはアリストテレスの手法を用いて神学を再構成しようとしました。どちらにしても、中世の教会は「聖書をそのまま読む」というよりも、誰かの神学や哲学者の考えを基盤にしています。その当時は「ヴルガータ」と呼ばれるラテン語訳の聖書しかなく、一般の人たちには遠い存在でした。もっぱら人々は教会の礼拝に来て、短い講和と、聖餐をいただいて帰るというものでした。元来、彼らはゲルマンの神々を信じていたので、キリスト教信仰を持ったとはいえ、同時に様々な迷信を信じていたと思われます。

2.テアテラにある教会

 テアテラにある教会に与えられている注意すべきことは何でしょうか?ヨハネ黙示録220-22「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」このところに「イゼベル」という名前が出てきます。旧約聖書に書いてありますが、彼女はアハブ王の妃でした。バアル信仰をイスラエルに大々的に持ち込み堕落させた張本人です。このとき、預言者エリヤが立ち上がり、バアルの預言者と戦い、勝利して400人を切り殺しました。ところが、エリヤは、イゼベルの脅迫のことばを聞いて荒野に逃れました。大預言者がたった一人の怒った女性に恐れをなすとはどういうことでしょう?イゼベルの霊spiritは新約聖書でも働いています。バプテスマのヨハネはヘロデヤによって首を切られましたが、これもイゼベルの霊です。なぜなら、バプテスマのヨハネはエリヤの再来だったからです。また、使徒の働き16章にはテアテラ伝道のことが記されています。その町は、染色業などの取引が中心地であったようです。紫布商人のルデアが最初のクリスチャンですが、考古学的には、多くの職人組合があったようです。この職人組合には、クリスチャンは入ることができませんでした。なぜなら職人たちは、偶像礼拝をしていたからです。しかし、組合に入らなければ商売は上手く行きません。そこで教会の中にも、「偶像礼拝をしてもいいのではないか」と、妥協する人々がいたようです。その中心人物がイゼベルという女性でした。しかも、教会は、「そのイゼベルを放置して、なすがままにさせている」と非難されているようです。妥協的な信仰は、受け入れやすいので、人々に悪影響を及ぼしていきます。どんな熱心な教会、団体でも、この世と妥協したら、一度にだめになってしまいます。

 ウィットネス・リーは黙示録をこのように解説しています。イゼベルは自分自身を預言者と呼んで、主の民を教えています。新約の原則によれば、主は女が権威をもって教えることを決して許しません(Ⅰテモテ212)。同様に、教会自身は教えてはなりません。主の目には教会は女の地位にあるからです。しかし、歴史と現在の状況によれば、カトリックの人たちは言います、「教会はこう言っている」。カトリックの人たちに納得させることは困難です。もし、私たちが彼らに「聖書はこう言っている」と言うなら、彼らは「教会はこう言っている」と言います。私たちがどんなに多くの個所を聖書から引用しても、彼らは「教会はこう言っています」という1つの返事を持っているだけです。このように、彼らは聖書を顧みません。彼らは教会が言うことだけを顧みます。教会は最高の権威を持っています。教会が言うことはすべて正しいのです。この「教会」は邪悪な女イゼベルです。ローマ・カトリックは教える女です。この女の教えによって、多くの異教と異邦のものが教会の中にもたらされて、姦淫と偶像礼拝を引き起こしました。有名なローマ・カトリック教会の大聖堂は、イエスとマリヤの像だけでなく、ペテロやパウロや他の多くのいわゆる聖人の像を含む偶像礼拝で満ちています。多くの人々は、ろうそくをもって、これらの「教会」の中に入り、もっぱらこれらの偶像を礼拝します。カトリック教会内部の多くの邪悪な奥義は、過去、文書で公表されました。もし教会史を読むなら、私たちはテアテラに書き送られたこの書簡にある主の預言の実際の成就を発見するでしょう。その成就は、まさに主が預言されたとおりでした。6世紀から16世紀の宗教改革までの1000年間は、暗黒の時代でした。

 もし、私が個人的な意見をここで述べるならば、後でクレームを付けられる恐れがあります。でも、「ウィットネス・リーの本から引用しました」と言えば、少しは反感が和らぐでしょう。大体、私はカトリック教会に行ったこともなければ、カトリック信者と交わったこともありません。カトリック教会に行っている人で、私と同じように、プロテスタンンと教会に行ったこともなれば、交わったこともないという人もいるでしょう。おそらく、自分が通っている教会は正しいとだれでも思っているのではないでしょうか?数年前、「〇〇兄弟会」と呼ばれる、修道会に属している二人を教会に泊めたことはあります。その団体は、年に一度、一週間、何も持たずに国内を伝道旅行する訓練を持っていました。まさしく、イエス様の時代と同じことをしていました。数時間、二人とお話ししましたが、非常にまじめで信仰的にも間違っていないようでした。その中の一人は、平日は呉市の造船の検査技師として働いているそうです。もしかしたら、修道会は、カトリック教会と教義が違うのかもしれません。ローマ・カトリックは1962年から1965年にかけて、第二バチカン公会議を開いています。そこで教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされたようです。

 マタイによる福音書13章にこのようなたとえ話が書かれています。マタイ1333「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」このみことばの解釈は2つあり、1つは天の御国が知らぬ間に広がって行くという良いたとえです。もう1つは、聖書では多くの場合、パン種(イースト菌)は悪影響を及ぼす代名詞のように使われています。イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちの教えに気をつけるように言われました(マタイ1611)。そこでの、パン種は偽善をさしています。二人目の女性は、黙示録2章の教会を腐敗させているイゼベルです。そして、三番目の女性は黙示録17章に記されています。黙示録172「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」17:4,5「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。つまり、パン種の女、黙示録2章のイゼベル、そして黙示録17章の大淫婦バビロンも、ローマ・カトリックではないかと言うことです。

 そろそろ私たちは聖書からメッセージをいただく時を持ちたいと思います。第一は、イゼベルに対するさばきです。黙示録2:21-23「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。」このところに、不品行とか姦淫とありますが、これは多くの場合、霊的なものです。ある人たちは1つの宗教によって世界を統一しようと考えています。しかし、そこには、「必ずしもキリストでなくても良い」という妥協があるでしょう。神さまは「全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう」とおっしゃっておられます。つまり、神さまは私たちの隠された罪や偽善を知ることができます。私たちいつでも霊的な純潔、「キリストの御名のほかに救いがない」(使徒412)ことを覚えておかなければなりません。

 第二は、信仰を守る者たちへの報いです。黙示録224-26「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」道徳倫理は時代によって変わるかもしれません。しかし、私たちは相対的な考えを棄てなければなりません。神さまのことばと、キリストに対する信仰は絶対的なものです。世界には「1メートルはこの長さである」というメートル原器や「1キログラムはこの重さである」というキログラム原器なるものがあります。私たちの信仰の原器は、聖書のみことばです。教会の会議で決めたことが、基準になってはいけません。ある人たちは「聖書のみことばは解釈によって違うでしょう」と否定します。もちろん、解釈の仕方はいろいろあります。でも、これまでキリスト教会が持ち続けてきた、これが正統であるという幅があります。真理は極端な両端ではなく、真中にあります。しかも、ある程度の幅が許されています。もし、その真理の幅を超えるならば、それは異端になってしまいます。キリスト教会の歴史は、そういう意味で試行錯誤の歴史と言って良いかもしれません。でも、私たちは保守的な教会であることを喜びたいと思います。音楽や伝道の方法は新しくて構いませんが、聖書のみことばの解釈は保守的で良いと思います。なぜなら、そこには真理の研究に費やされた多くの時間と戦いのために流された犠牲の血があるからです。イエス様は何か新しいことをしなさいとはおっしゃっていません。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」今、持っている信仰を持ち続けることが大切です。

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2019年7月19日 (金)

よみ ルカ16:19-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.7.21

 人は死んだらどうなるのでしょう?生物学者は「人は死んだら無になる。なぜなら、脳が死ぬと意識もなくなるからだ」と言うでしょう。しかし、世界中どの国、どの民族においても、死後の世界を信じています。死後の世界を信じていないのは、僅かな唯物論者たちだけです。そういう人たちも、お葬儀のときは何かの宗教にお世話になります。日本でも、人が亡くなったら「他界」したと言います。どこかで魂が生きているという考えがあるからでしょう。きょうは、死後の世界を、聖書からシェオール、ハデス、パラダイスと3つのポイントでお話しします。

1.シェオール

 旧約聖書では「よみ」をヘブライ語で「シェオール(abyss深い淵)」と言います。最初にこの言葉が出てくるのが、創世記37章です。父ヤコブは息子たちから、ヨセフが獣によって裂き殺されたと告げられました。そのときヤコブは「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」(創世記3735と言いました。また、よみに下った魂には希望がないことも記されています。ヨブ記79「雲が消え去ってしまうように、よみに下る者は、もう上って来ないでしょう。」旧約聖書では善人も悪人も死んだらよみに下ると考えられています。共通して言えるのは、人が死んだ後は、魂としてよみで生きているということです。預言者サムエルは年老いて死にました。ところが、サウル王がなんとかサムエルに相談したくて、変装して霊媒師のところへ行きました。サウルは彼女に「サムエルを呼び出してもらいたい」と願いました。彼女は「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます」と言いました。サムエルはサウルに「なぜ、私を呼び出して、私を煩わせるのか」と叱った後、このように言いました。「主は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私と一緒になろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される」。サウル王はそのことばを聞いて、驚き、倒れて地上に棒のようになりました(Ⅰサムエル2820)。「私と一緒になろう」とは、サウルが敵に殺されたあと、よみでサムエルと一緒になるということです。

 伝道者の書では「生きているうちに楽しみなさい。よみに行ったら何もないから」と言っています。伝道者9:9-10 「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」伝道者の書は、「生きているうちにいっぱい楽しめ。何でもやってみなさい。でも、空しいよ」と中途半端な言い方をしています。でも、「死んだら終わりだ」とは書かれていません。伝道者119「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」死後にさばきがあると告げています。私たちはレストランでメニューを見て、何でも注文できます。ステーキでも、山海珍味、好きなものを腹いっぱい食べられます。でも、最後にレジで清算しなければなりません。死後にさばきを受けると思うとぞっとします。

 人々はよみから助けを求めています。詩篇1610「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」このみことばは、ペテロがイエス・キリストのよみがえりのときに引用しました。ホセヤ1314「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」パウロは、このみことばを引用し、世の終わりにキリスト者が復活すると預言しています。本来、よみには全く希望がないのですが、何かがきっと起こるということです。もし、よみの世界をひっくり返すお方がおられたなら何と幸いでしょう。旧約聖書は、死の問題を解決してくれるお方を待っています。よみ、シェオールの大筋の理解です。

2.ハデス

 ルカ16章で、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目をあげると」と書いています。英語の聖書にはhell地獄と訳していますが、正確には地獄でありません。ギリシャ語の「ハデス」は、ギリシャの「黄泉の神」から来ています。ハデスは死人の行くところであり、ヘブライ語のシェオールにあたります。何度も申し上げますが、よみは地獄ではありません。死者の魂が一定期間いるところです。新約聖書においては、死んだ魂が後によみがえり、神の前でさばきを受けると書いてあります。ヨハネ528,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」さばきというは、地獄のことであります。現時点において、地獄はまだ来ていません。世の終わり、キリストが来られた後に現れます。イエス様はよみがどういうところなのか、ルカ16章で教えています。ある人は「これはたとえ話だろう」と言いますが、あまりにもリアルです。恐らく、イエス様はよみに行かれたことがあるのでしょう。臨死体験をした人が、「死後の世界はある」と言っていますが、まずは聖書から学びたいと思います。このルカ福音書16章を読みますと、人は死後、よみ(ハデス)に下っても、意識や感覚があるということが分かります。

 唯物論者たちは、「死はすべての意識が停止することだ」と言います。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ1028と言われました。人はからだを殺す力を持っていますが、たましいを殺す力を持っていません。神を信じていない人たちは「意識はすべて、肉体の脳の中にあって、死ぬと止まる」と主張します。しかし、聖書の啓示から、「脳が死んでも、意識は残っているので脳が人格ではない」ということが分かります。この金持ちは肉体的に死んでから、ハデスに下りました。彼の肉体的な目はすでにありません。しかし、アブラハムのふところにいるラザロが見えました。両者の間には越えられない淵がありましたが、はるかかなたにいるアブラハムとラザロが見えました。彼がアブラハムとラザロを識別できたということは、生前の記憶があったということです。彼は熱いという感覚もあり、「炎の中で、苦しくてたまりません」と叫んでいます。「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください」と願っていますので、渇きや欲求もあります。最後に、「ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と家族のことを心配しています。彼は死にましたが、魂はハデスにおいてなおも生きています。その魂には、記憶、肉体のような五感、意志、願い、家族への思慕が備わっています。このところからも、私たちの本体は肉体ではなく、魂であることがわかります。肉体が死んでも、魂はハデスで生き続けているということです。

 そもそも死というのは何なのでしょう?ヤコブ226「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」このところから、聖書的に死は、たましいと肉体が分離することだと分かります。創世記35章には、ラケルが難産のため死ぬときの様子が記されています。「彼女が死に臨み、そのたましいが離れさろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名付けた」(創世記3518)。このところからも、死というのは、たましいが肉体から離れることであると分かります。医者や生物学者は、鼓動の停止や脳死など、生体反応がない場合、死亡を確認するでしょう。彼らは肉体的な死を確認できても、魂のことは感知できません。なぜなら、魂は目に見えないし、医療機器でも測定できないからです。医学的には証明できませんが、臨死体験をした人は、自分のからだがベッドに横たわっているのが見えるそうです。医者が蘇生を諦めて立ち去り、放置された自分のからだを天井から見たという人がたくさんいます。それで、自分の肉体に入ったときに生き返ったということです。パウロはⅡコリント5章で、肉体を幕屋(テント)にたとえています。そして、自分自身が幕屋の中に住んでいるということです。そして、死というのは、その幕屋を脱いで、主のもとに行くことだと言っています。つまり、私たちの本体は肉体ではなく、魂だということです。肉体は魂の入れ物に過ぎないということです。

 ルカ16章にもどりますが、ハデスは地獄ではありませんが、地獄の一丁目みたいなところです。彼は火炎の中で苦しんでいます。英語の聖書にはtormentと訳しています。tormentは、苦痛とか苦悩と言う意味です。しかし、古くは拷問と訳されていました。ギリシャ語はバサノイスになっており、「拷問による審問、拷問の苦痛、責苦」という意味です。彼はまだ地獄には落ちていませんが、「私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。指先一滴の水で良いから舌先を冷やしてほしい」と願っています。また、「兄弟たちがこの苦しみの場所に来ないように」と求めています。つまり、人は死んだら無になるのではなく、ハデスにおいて拷問のような苦しみがあるということです。仏教にも同じような思想があります。日本では夏のお盆のとき、死者をお迎えします。お盆ということばは略称であり、正式名称を「うらぼんえ」と言うそうです。古代インド語(梵語)の「ウランバナ」から来たもので、倒懸(とうけん)、逆さ吊りの苦しみと言う意味があります。生前の行いが悪いため「餓鬼道」や「地獄道」に落ちた人の苦しみを救うため、その人に代わり功徳を積み、その功徳を他の衆生(しゅじょう:生きとし生けるもの)に施す供養で、「逆さに吊るされるような苦しみを除く」という意味を持つ行事となっています。仏教では人は死んだら、地獄のようなところで修行しており、お盆のとき数日間だけ、お休みをいただくという考えがあります。本来、こういう考えは釈迦の教えにはありませんでした。おそらく、キリスト教の教えから来たものではないかと思います。それにしても、希望がありません。

 でも、「何故ラザロはアブラハムのふところで安らぎ、金持ちはハデスで苦しんでいるのか?」ということです。その主な原因は、金持ちは神さまのことに全く無関心であったということです。また、貧乏人ラザロが門前で施しを求めても、気にも留めませんでした。金持ちは「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました」(ルカ1619)。紫の衣や細布は高貴な人が着るものです。「毎日ぜいたくに遊び暮らす」ということから、神さまを全く礼拝していなかったことを暗示しています。おそらくラザロは貧しい中でも、神さまを礼拝していたと思われます。なぜなら、「ラザロ」と名前が憶えられているからです。彼が死んだときには、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。一方、金持ちは名前が記されていません。それは、神さまとの関係がなかったということです。彼が死んだとき、さぞ盛大な葬儀がなされたことでしょう。ところが、聖書には「死んで葬られた」と一言だけです。彼が目をあけると熱い炎の中にいました。何故、彼がそんなところに行ったのでしょう?それは、神さまに対して無関心であったからです。日本人は「宗教には関わらない」という人がいます。その人は過去に嫌な経験があったのかもしれません。積極的に福音を信じない人もいますが、この人たちの罪は無関心です。私は車で一方通行のところに入って、切符を切られたことが2,3回あります。そのとき私は「え?看板あったの?知らなかったよ」と言い訳しました。でも、許してはもらえませんでした。福音は2000年前から宣べ伝えられているのです。言い訳はできません。

 同じルカ16章の前半には、「不正な管理人のたとえ」が書かれています。主人は抜け目なくやった不正な管理人をほめています。ルカ169「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」この金持ちは多くの財産やお金を持っていました。しかし、その富を用いて神さまと関係を持つことをしませんでした。だから、永遠の住まいには迎えられなかったのです。私たちは生きているうち、キリストによって神さまと関係(コネクション)を持ちましょう。キリストによって罪の赦しをいただき、神さまと和解しましょう。そうすれば、この肉体が死んでも、行くところがちゃんとあります。アーメン。

3.パラダイス

 ルカ16章から、ハデスには上と下の階層があることがわかります。金持ちはハデスにおりました。しかし、彼が目をあげるとはるかかなたにアブラハムとラザロがいました。彼は「ラザロをよこしてください」とアブラハムに願いました。するとアブラハムは「私たちたちとおまえたちとの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」(ルカ1626と言いました。つまり、ハデスの上の階と下の階は、大きな淵があって行き来できないということです。旧約聖書のダビデなどの多くの善人は、同じハデスでも、上の階にいるのではないかと思います。また、悪人はハデスの下の階にいるのでしょう。しかも、ハデスにはさらに深いところ「pit穴」があります。イザヤ1415「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」これは、神に逆らい、堕落した御使いたちのことです。ひょっとしたら、悪霊たちがよみの魂を苦しめているかもしれません。イエス様は死んでよみに下られました。イエス様は死者の魂がいるところまで下ったということは、エペソ人への手紙、Ⅰペテロにも書かれています。ある人たちは、「これはセカンド・チャンスであり、イエス様は死んだ人に対して、もう一度、福音を語るためによみに行かれたのだ」と主張します。私はそれを否定するつもりはありませんが、本当の目的は別にあると信じます。

 では、エペソ人への手紙を引用したいと思います。エペソ48-10「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」。文脈的にはパウロが、キリストの賜物を教会の指導者たちに与えたということを述べています。しかし、詩篇68篇のみことばをイエス・キリストが成就したということも述べています。つまりこれは、「イエス様がよみにくだり、復活するとき、よみの一部を引き上げられたのではないか」ということです。多くの捕虜というのが、よみの上部にいた人たちのことでしょう。そして、そこをパラダイスにしたのではないでしょうか。パラダイスというのは、「楽園」という意味ですが、義人のたましいが復活のときまで滞在する場所であります。イエス様は十字架の片方の犯罪人に「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ2343と言われました。使徒パウロは「第三の天、パラダイスに引き上げられた」(Ⅱコリント122-4と言っています。つまりは、イエス・キリストが復活し、昇天なされてから、よみに大変革がもたらされたということです。つまり、旧約聖書の義人たち、そしてイエス様を信じて死んだ人は、よみではなく、パラダイスに行くということです。私は天国ということばはあいまいで使いたくありません。キリスト者は死んだら、パラダイスに行き、よみがえって御国(千年王国)に入るのです。そして、悪人とキリストを信じなかった不信者は金持ちと同じよみに下るのです。そこは地獄ではありませんが、火炎が足元まで迫っている苦しみの場所です。その人たちは御国(千年王国)の後によみがえり、神の前に立ち、最後の審判を受けるのです。前者を第一の復活と言い、後者を第二の復活と言います。第二の復活は、希望はほとんどありません。自分の義で神さまの前に立つことのできる人が果たしているでしょうか?

 ある人たちはセカンド・チャンスを期待しています。「福音を聞かないで死んだ魂が、もう一度、救われるチャンスがあるのではないか」と言います。私はゼロだとは思いませんが、よみに行った魂の願いだけは知ることができます。彼はアブラハムにこのように願いました。ルカ1627,28「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」ある人たちは、「私の父や母がよみにいるなら、私だけ信じて天国に行くわけにはいきません。私も父や母がいるところに行きます。だから信じません」と言います。しかし、彼らは子どもや孫たちが同じ場所に来ないように願っているのです。アブラハムは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と言いました。実際、ラザロがよみがえりました。しかし、ユダヤ人は信じないばかりか、ラザロも殺そうと相談しました(ヨハネ1210)。ゴードン・リンゼイという人が『ハデス』という本でこのように述べています。ハデスにおける金持ちの体験についてキリストが語っておられることは、とても厳粛で重要なことなのです。人間はだれでも、「その場所(ハデス)に行かない」という決心をもし今までしたことがなければすべきなのです。なぜなら、人間の魂は死んでからどこかに行かなければならないからです。そして、その場所がハデスとならないようにすることが、最も大切です。しかし人間はだれも、自分の力で自分を救うことはできません。人間はキリストのもとに行かねばなりません。キリストは、ご自身のもとに来る人をだれでも受け入れてくださる、と約束しておられます。なぜならキリストがこう言われたからです。ヨハネ6:37 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

 天国は死んでから行くところではありません。天国は神の国として、ここに来ています。神の国とは神の支配であり、キリストを信じたら直ちに入ることができます。今、地上で信じなければ、死んでからでは不可能です。救いは生命保険と似ているところがあります。生命保険は生きているうちに入らなければなりません。ある人は、「死ぬ直前に信じるから」と先延ばしにしています。でも、人は死ぬ直前になると、死を恐れて、信仰のことなど考えられないそうです。イエス様は「光あるうちに」とおっしゃいました。私は25歳でイエス様を信じて救われました。あの時から永遠のいのちを持っています。余生ということばがありますが、25歳以降は余生を送っています。なぜなら、地上の人生よりも、向こうの人生の方がはるかに長いからです。矛盾しているようですが、永遠の問題が解決したなら、短い地上の人生を楽しく、慈しみを覚えながら生きることができます。クリスチャンとは体半分を永遠の御国に入れながら生きている存在です。

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2019年7月 5日 (金)

信仰の旅路 ヘブル3:15-19 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.7.7

 きょうは、イスラエルの民の旅路を見ながら、私たちの信仰の旅路について考えたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て、荒野を通過し、カナンに向かって旅をしました。旧約聖書の出来事は私たちへの教訓であるとともに、予型(あるものを示すタイプ)でもあります。エジプトはこの世を示し、パロ王はサタンです。エジプト脱出と紅海徒渉は救いと洗礼であります。

1.エジプト

 イスラエルの民は長い間、エジプトに住んでいました。彼らの先祖はアブラハム、イサク、ヤコブでした。ヤコブが生きていた頃、ききんが襲って、彼らはエジプトにいるヨセフに身を寄せました。そのときはたった70人でしたが、400年たって、人口が100万人以上に膨れ上がりました。エジプトのパロ王は、彼らが敵に寝返ってしまうと自分の国が危ないので、彼らを奴隷として扱いました。エジプトの建造物のため彼らを働かせました。聖書には彼らは「日干し煉瓦を作っていた」と書かれています。パロはイエスラエルの民が増えるので、「男の赤ん坊はナイル川に投げ込め」と命じました。その時、民を解放するために立てられた人物がモーセです。パピルスの籠に浮かんでいる赤ん坊を、たまたま水浴に来ていたパロの娘が発見しました。彼女はヘブル人のうば(実はモーセの母)を雇って、モーセを王子として育てました。モーセが40歳になったとき、ヘブル人が痛めつけられているのを見て、エジプト人を殺して、砂の中に埋めました。後日、そのことが発覚して、モーセはパロを恐れて、ミデヤンの荒野に逃げました。王子から一介の羊飼いとして40年間ひっそりと暮らしました。ところが、ある日、芝が燃えているのを見ました。普通だったらすぐ消えるのに、消えません。不思議に思って近づいたら、炎の中から声がしました。「モーセ、モーセ」。彼は靴を脱いで地面に顔を伏せました。なんとそのお方は、主であり、モーセをエジプトに遣わすというのです。彼はすでに80歳でした。「パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出すなんて、無理!」と断りました。長い話を短くすると、モーセは兄のアロンと一緒に、パロの前に立って、イスラエルの民を解放するように説得しました。でも、モーセがいろんな災いをエジプトに下すので、パロはついに降参しました。

 イスラエルの民が解放される決め手は、10番目の「過ぎ越しの奇跡」であります。主はモーセに「一歳の羊を殺して、その血を家のかもいと2本の門柱に塗りなさい。そうすれば、主の怒りが通り過ぎるから」と仰せられました。ある夜、主の使いがエジプトを行き巡りました。エジプト人は血を塗っていなかったので、奴隷の長子からパロの長子まで死んでしまいました。血が塗ってあった家の人たちはみな安全でした。その夜、エジプトには大きな叫びが起こり、パロ王は「早く出て行ってくれ。そして俺のために祈れ」とお願いしました。なんと、100万以上の人たちは、急いで、エジプトを出発しました。その時、主はエジプト人にあわれみの心を与えたので、イスラエルの民に銀の飾り、金の飾り、着物を与えました。今まで、ただ働きをさせられていたのですから、当然といえば当然です。ほどなく、行ったとき、行き止まりになり、目の前が紅海でした。なんと、パロ王は「奴隷を逃して、もったいないことをした」と心変わりをし、全軍勢を率いて追跡しました。前は海で、後ろからはエジプト軍の戦車が追いかけてきます。イスラエルの民は、「エジプトには墓がないので、私たちを連れて来て、この荒野で死なせるのですか」と叫びました。ところが、モーセが杖を上げると、紅海が二つに割れ、イスラエルの民は渇いた地面を渡ることができました。これは『十戒』という映画で見たこのある人もいるでしょう。エジプト軍の戦車が雲の柱で立ち往生している間、イスラエルの民は全員、渡り終えました。再びモーセが海に向かって杖を降ろすと、両側の水が「ざーっ」とエジプト軍の上に覆いかぶさりました。エジプト軍はみな溺れ死にました。

 さて、物語はこのくらいにして、このことを私たちの信仰生活に置き換えたいと思います。聖書でエジプトはこの世を象徴しています。また、エジプトのパロ王はサタンです。そして、奴隷であったイスラエルの民は、救われる前の私たちです。私たちは生まれた時から、罪と死の奴隷として生きています。言い換えるとサタンの持ち物であり、なんとか生き延びている人生です。しかし、生まれてからずっとそういう生活なので、自分たちが奴隷であるという自覚がありません。先祖や親たちも「これが人生だ」と言うし、学校の先生も友達も「何か問題があるのか」と言っています。でも、聖書は「神の国がある」と書いてあります。教会の牧師やクリスチャンも「キリストによって救われる」と言っています。「どっちが本当なんだ!」と悩みましたが、幸いにイエス様を信じて救われました。その時、信じた証拠として、バプテスマ(洗礼)を受けさせられました。みんなが「ハレルヤ!ハレルヤ!」と祝ってくれました。でも、「なんで、そんなにおめでたいのか」最初は分かりませんでした。」パウロはⅠコリント10章で「みな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受けた」と解釈しています。つまり、イスラエルの民が紅海を渡ったのは、私たちが受けたバプテスマ(洗礼)の「ひな形」だったということです。つまり、イエス様を信じて、洗礼を受けるということは、この世とサタンから救われるということです。言い換えると、罪と死から解放されて、自由の身となるということです。海を渡る、つまり洗礼をうけると、もうエジプトには戻れません。私たちも一度、洗礼を受けると、この世のものではなくなります。いや、この世のサタンのところに戻ってはいけないのです。

 この中にはバプテスマ(洗礼)を受けた人、まだ受けていない人もおられるはずです。イスラエルの民が脱出できた決め手は、過ぎ越しの羊の血でした。その血が塗られた家の住民は、主の怒りが通り過ぎました。同じように、イエス・キリストの十字架の血が私たちの罪をきよめるのです。神さまはキリストの血をごらんになります。あなたにその血が塗られているか、塗られていないか、そのところが重要です。そして、イエスを主と告白して、バプテスマ(洗礼)を受けるなら、あなたはこの世から脱出し、御国の民になることができます。あなたがいくら豊かな生活をしていたとしても、そこがエジプトであったなら、サタンに全部持っていかれます。多少の喜びは与えられるかもしれませんが、身分としてはサタンの奴隷であり、持ち物です。サタンは「やめろ、牧師の言うことは聞くな。聖書なんかでたらめだ」と言うでしょう。家族や友達も「あなたは洗脳されている。やめなさい。この世で一緒に暮らそう」と言うでしょう。でも、その声を振り切って、あなたはイエスを主と告白して、バプテスマ(洗礼)を受けことができるでしょうか?人生の旅路でもっとも重要なことは、エジプトを出て紅海を渡ることです。紅海を渡れば、サタンはあなたに追いついて来ません。なぜなら、あなたはサタンのものではなく、神さまのものとなるからです。パウロは救いのことをこう定義しています。使徒26:18 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」どうぞ、キリストを信じてサタンの支配から脱出し、神の御国にお入りください。

2.荒野

 エジプトを出て、紅海を渡ることは、キリストを信じて洗礼を受けることです。でも、信仰の旅路はそれで終わりではありません。イスラエルの民はシナイ山で契約を結んだ後、約束の地に向かいました。聖書をみると、モーセは12人の斥候(スパイ)をその地に派遣し、40日間さぐらせました。みんな、大きなざくろやぶどうを持って来ました。確かにその地は、乳と蜜が流れる肥沃な地でした、ところが、その中の10人は否定的なことを言いました。「その地は人を食い尽くす地だ。城壁も高く、巨人がいた。自分たちはいなごのように見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と言いました。しかし、ヨシュアとカレブだけは「主の御心にかなえば、攻め上ることができる。主にそむいてはならない。彼らを恐れてならない」と、主張しました。ところが、イエスラエルの民は否定的な10人の言うことを聞いて、「エジプトに帰ろう」と泣いて言いました。主はイスラエルの不信仰に怒り「この民を導き入れない。荒野で死ぬのだ」と言われました。なんと、約束の地に入ることができたのは、ヨシュアとカレブだけです。イスラエルの民は40年間荒野をさまようことになり、約束の地に入れたのは、当時、20歳以下の人たちだけでした。民数記を見るとわかりますが、主に対する不平と不満が満ちています。本来なら、カディシュ・バルネアというところで、主の約束を信じていれば、約束の地に入ることができたのです。でも、彼らは不信仰のゆえに荒野で屍をさらして死ぬことになりました。だからヘブル書は、私たちに忠告しています。ヘブル37,8「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

40年後、ヨシュアが次世代のイスラエルのリーダーになって、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ることができました。これはどういうことでしょう?私たちは「エジプトを出て、紅海を渡っただけではダメなんだ」と言うことです。ヨルダン川を渡って、約束の地に入らなければなりません。言い換えると、イエス様を信じて洗礼を受けたものの、荒野でさまよっているクリスチャンがいるということです。約束の地に入り損ねた人です。神学的にはキリストを信じたのですから、死んだら天国には行けるでしょう。でも、安息の地に入っていません。不平、不満の人生です。この地において、天国の喜び、天国の豊かさがありません。なぜなら、救われたにも関わらず荒野で生活しているからです。かといって、エジプトに戻るつもりはありません。なぜなら、そこはサタンの国であり、滅びだかです。その人は滅びが何であるか知っています。かといって、その人は約束の地に入り損ねた人です。その証拠に、信仰生活に喜びがありません。かつての、イスラエルの民のように、不平と不満、つぶやきと不服従があるだけです。「〇〇がない」「〇〇がない」とつぶやいています。この人はエジプトと約束の地の間、荒野で住んでいる人です。せっかくクリスチャンになったのに、なぜ、こんな惨めな生活を送っているのでしょうか?

 では、荒野で生活している人と約束の地で生活している人の違いとは何なのでしょうか?重要なことはヨルダン川を渡るということです。そうです。クリスチャンは紅海を渡っただけではダメでその次は、ヨルダン川を渡る必要があるということです。洗礼だけではダメで、もう1つの経験をしなければならないということです。きよめ派の教会は「自我に死ぬとか、きよめられる」と言います。私は最初、ホーリネス教団の神学校に行ったので、「死ね」「死ね」と良く言われました。私はあとからウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』という本を読んで、その意味を知りました。その学校でも言われましたが、ヨルダン川を渡るとは、古い自我に死んで、きよめられる経験をするということです。米田豊著『旧約聖書講解』にはこのように書かれています。「イスラエルの紅海徒渉は世より救い出されるための水のバプテスマを表徴し、ヨルダン徒渉は聖霊のバプテスマを予表する。悪魔の奴隷であった罪人は、この二つの経験を経て全き救いにはいるのである」。聖霊のバプテスマの定義はともかく、聖霊に満たされるということでしょう。ローマ6章には「私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを認めなさい」と書かれています。きよめの経験の真骨頂なこのことばです。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 このようなテーマは何度もお話ししていますが、今回、強調したいのはこのようなことです。イエス様を信じて、洗礼を受けたのに、安息の地に入っていないクリスチャンが多いということです。イスラエルの民は紅海を渡り、エジプトから脱出できました。それがゴールかというとそうではありません。荒野を越えて今度は、カナンの地に入るべきでした。しかし、不信仰のために40年間荒野をさまよってしまいました。次の世代がヨルダン川を渡って、約束の地カナンにはいりました。ヨルダン川を渡り損ねた人というのは、民数記に記されている人たちと同じです。彼らはいつも主とモーセに逆らい、不平不満をもらしていました。ヘブル318「また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」キリストを信じて、救われてはいるのに、いつも不平不満を漏らしている人は、荒野をさまよっている人たちです。自分に死ぬとは、簡単に言うなら、イエス様をかしら、主として信じることです。ある人たちはイエス様を信じてはいますが、天国に連れて行ってくれる救い主として信じているだけです。しかし、イエス様は、主であり、王様です。ということは、たとい文句があっても、このお方に従うべきだということです。自我が砕かれるとは、自分が王ではなくて、イエス様が王なんだと、人生の主権を明け渡すことであります。まだ、自分を王としているので、「ああでない」「こうでない」と不平不満が出るのです。長い間、荒野に留まっていたイスラエルの民にモーセはこう言いました。そういう人は荒野にとどまっていないで、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入るべきです。申命記16-8「私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

3.カナン

 カナンの地というのは、さきほど引用した申命記1章の土地です。ヨシュアが新世代のリーダーになって、ヨルダン川を渡りました。そして、カナンの地を次々と征服していきました。ヘブル人への手紙ではカナンの地は「安息の地」にたとえられています。言い換えると、天国であります。しかし、ヨシュアたちが上った先は、天国ではなく、戦いの場でありました。なぜなら、そこには先住民が住んでいたからです。自動的にその土地が自分たちのものになったのではありません。先住民と戦い、先住民を追い出す必要がありました。現代のヒューマニズムから理解できませんが、彼らの全部を殺すように命じられていました。「一人も生かしてはならない」、「彼らと契約を結んでもならない」、「結婚をしてならない」、「彼らの偶像を拝んではならない」と命じられました。「神さまは愛なのに、どうしてですか?」と言ってはなりません。これはカナンの地はイスラエルの約束の地であり、神さまがある時まで彼らを住まわせていたのです。これは、神の摂理であり、また私たちに対する教えでもあります。

 どういう教えかと申しますと、カナンとはこの世の文化や宗教を象徴しています。エジプトもこの世でありましたが、ある意味では、カナンもそうであります。しかし、エジプトとの決定的な違いは、イスラエルは奴隷ではなく、自由人であり戦士だということです。そして、カナンを征服して、自分たちの領土を勝ち取るというのは、私たちクリスチャンの生き方を象徴しています。主はヨシュアに、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである」(ヨシュア13,4と約束されました。つまり、これは、私たちクリスチャンの姿であります。神さまはこれらのものをあなたに与えているから、信仰によって勝ち取りなさいと約束しておられるのです。私たちはサタンから奪われていたものを、戦って勝ち取る必要があります。カナンの地に入った人は、いわば戦士であります。パウロはテモテに「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」(Ⅱテモテ23,4と言いました。私たちは御国の戦士であり、司令官はキリストです。もし、ダビデのように前線を離れて、くつろいでいたなら誘惑にはまって倒れるでしょう。でも、イエス様と共にいれば豊かな人生を送ることができます。ヨハネ1010「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

私たちは天のエルサレムを目指している旅人です。この世においては、自己充足的な生き方ではなく、神さまの目的を果たすという、divine destinyが与えられています。イエス様は「神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。イエス様と一緒に神の国がおとずれました。その証拠に、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。次は、弟子たちにも同じことをしなさいと命じられました。現代の教会、クリスチャンの使命は何でしょう?それは「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という主の祈りを実行することであります。もちろん、世の終わり、キリストが再び来られるとき御国が完成します。しかし、イエス様は「あなたがたをこの世に派遣するから、神の国の福音を宣べ伝え、御国に入る人たちを迎えなさい」とお命じになられました。同時に、病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせなさいとお命じになられました。それは、神の国がここに来ているという証拠です。人々は神の国の現実を見ることにより、容易に、福音を信じることができるようになるからです。さらに、イエス様は「あなたがたは世の光、地の塩である」と言われました。これは、地の塩として、世の中の腐敗をできるだけ留めるということです。また、神の真理と命の光を照らして、神さまが造られた元来の姿に回復するように働きかけるということです。イザヤ22,3「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」これまで、教会は「世の終わりはますます悪くなるので、なんとか信仰を守り通す」という受身的な信仰でした。そうではなく、世の終わりは私たちが指導者となって、神さまの祝福を取り次ぐ器として用いられるのです。山々とは、政治、ビジネス、教育、芸術、医療、マスコミ、宗教、家庭のことです。私たちは、神さまの創造性と祝福を取り次ぐように召されているのです。

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2019年6月29日 (土)

古代の教会 ヨハネ黙示録2:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.6.30

 ヨハネ黙示録2章から3章までは、アジアの7つの教会が記されています。解釈にもよりますが、この7つの教会は不思議なことに教会の歴史を比ゆ的に預言しています。教会史はとても難解ですが、ヨハネ黙示録から語るとよくわかります。今日から、使徒たちが去ったあとの教会から世の終わりの教会まで、「古代の教会」から「近代の教会」まで5回に分けて学びたいと思います。毎月の最後の週の日曜日礼拝は、教会史のテーマを1つずつ取り上げていきます。

1.エペソにある教会 

 私たちが新約聖書に「〇〇人への手紙」という表題を見ますが、すべて1世紀の教会に宛てられたものです。ローマ教会やコロサイ教会を除いて、ほとんどパウロが開拓した教会です。エペソ教会は霊的戦いを乗り越え、そこからたくさんの教会が生み出されました。エペソにある教会というのは、使徒たちが召された後の教会の総称と考えられます。使徒たちの弟子である、「使徒後教父」と呼ばれる人たちが教会を指導していました。では、第二世代の教会は、どうなっているのでしょうか?黙示録22,3「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」まず、イエス様から褒められています。その当時の教会は、一代目の使徒たちのあと、教会を巡回する使徒たちがいました。でも、教会に居座り、特権を乱用していた悪い使徒もいたのでしょう。彼らの偽りを見抜くことができました。エペソにある教会はイエス様のために「耐え忍び、疲れたことがなかった」と言われています。忍耐することはとても重要です。私も30年間、亀有にいましたが、「耐え忍び、疲れたことがなかった」と言われるかもしれません。これは自画自賛ですが、後でお叱りのことばが続きます。

 黙示録24,5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」初めの愛から離れたとは、きついお言葉です。私の場合は、「あなたは初めの情熱から離れてしまった」と言われるかもしれません。ギリシャ語の「初めの」は、「第一の」とか「最高の」という意味もあります。「あなたは最高の愛から離れてしまった」と言い換えることもできます。第一代目のクリスチャンは荒削りではありますが、イエス様への愛と情熱があふれています。しかし、自分の息子や娘、つまり二代目になると信仰的に穏やかになります。悪いことはしないけれど、第一代目のような情熱はありません。教会も開拓当時は、教会員たちがすべてをささげて伝道します。やっとのことで新会堂も建てました。人々が救われて一杯になりました。でもどうなるでしょう。形式的になり、伝統的になります。教会の規則を作ります。言い換えると守りに入り、チャレンジをしなくなります。気が付いたら、初めの愛から離れてしまっていました。そういう教会に対して、イエス様は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」と警告しておられます。つまり、「あなたはイエス様を最高に愛する、正しい道に戻りなさい」ということです。もし、あなたがその一人なら、どこから落ちたのか思い出す必要があります。だれかから裏切られたのでしょうか?一生懸命やったのに報われなかったので躓いたのでしょうか?イエス様「悔い改めて、初めの行いをしなさい」と言われます。最初の頃のような純粋な信仰と愛と情熱の回復を求めておられます。

 その次にこのようなことが書かれています。エペソ2:67「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」ニコライ派というのは、「民を征服する」という意味があり、何かの異端であったと思われます。異端の場合はマインド・コントロールをして人々を支配します。人々に恐れや罪責感を与えて働かせます。初代教会の終わりの頃は、グノーシス派という神秘的な異端がありました。彼らは、肉体は汚れていて魂はきよいという二元論を唱えていました。「神の子のイエスが汚れた肉体を持たれるはずがない」とイエス様の受肉を否定しました。この考えで行くと、肉で行う罪は、魂には影響を与えないとなり、放縦な生活を送るようになります。神秘的な異端は、信仰と生活がばらばらになります。教祖が不品行を行うのはそのためです。私たちは神さまが憎まれるものを憎むべきであります。神さまが憎むことを、人間的な思いで良いと言ってはなりません。このように二代目の教会は、その出発点から異端と戦ってきました。地上のどんな教会でも、「良い麦と悪い麦」が同居していることを忘れてはいけません。そして、最後にすべてに解決がきます(マタイ1324-40)。報いとして、真のクリスチャンは禁じられていた「いのちの木の実」が与えられるのです。アーメン。

2.スミルナにある教会

 黙示録29,10「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」このところから、スミルナにある教会は、苦しみと貧しさの中にある、迫害下にある教会であることがわかります。スミルナはギリシャ語で「没薬」を意味します。没薬は、亡くなった人に用いますので、「苦難」を表徴しています。スミルナにある教会は1世紀後半から、313年のミラノ勅令までの約200年間です。私たちは皇帝ネロのことを知っていますが、それ以降もひどい迫害が起りました。ドミティアヌス帝は自らを「主にして神」と称し、公式の誓いを強要しました。そして、トラヤヌス帝のときから、迫害は組織的になってきました。外には迫害の嵐が吹き荒れ、内においては異端の活動が活発となりました。その頃、教会を指導したのが、「弁証家」と呼ばれる人たちです。当時の異端に対して、かなり哲学的ではありますが、信仰の基準や真理の基準を示しました。

 当時、スミルナの教会には、有名なポリュカルポスという教父がいました。彼はスミルナ教会の監督であり、紀元後155223日に殉教しました。そのスミルナの街には、大きな円形競技場がありました。ローマの扇動によって「ポリュカルポスを殺せ」という声が街に響き、彼は捕えられ、そこで火刑に処せられます。その時に、ローマの兵隊が、ポリュカルポスに「ローマ皇帝さえ拝めば助かるのだから、拝みなさい」と勧めました。しかし、彼はこのように答えました。「86年、私はキリストに仕えてきました。これまで一度として、主は私に間違った取扱いをなさったことはありません。それなのに、私を救ってくださった王を、どうして冒瀆することができしょうか?」と言って焼かれていきました。ローマ市当局は皇帝に対して「もう、これ以上、キリスト教徒を殺さないでほしい。そうでないと全市民がいなくなるから」と求めたそうです。なぜなら、彼らがキリスト教徒を殺せば殺すほど、キリスト教徒はもっと多くなるからです。そして、帝国規模の迫害は紀元後249年に即位したデキウス帝のときにやってきました。彼は、これまでの「キリスト教徒を探し出してはならない」という原則を破りました。皇帝礼拝を含め、偶像に供物を捧げ、礼拝した証明書(リベルス)の提示を求めたのです。これを公然と拒否するキリスト教徒は拷問にかけられ、棄教を求められました。

 ヨハネ黙示録はその背後の力が何であるか教えています。「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」ローマ皇帝の背後には、悪魔が背後にいるのです。パウロはローマ13章において「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。」と言いました。しかし、ローマ皇帝は神にしか要求できないことを、人々に要求しました。ということは、「悪魔化してしまったローマには従ってはならない。抵抗しなさい」ということです。日本も戦時中、天皇礼拝や神社参拝を強要しました。しかし、日本基督教団は、信仰を守る代わりに、偶像礼拝をしたのです。隣の韓国は血を流して抵抗しました。そのため、40年後にすばらしいリバイバルが全土に起りました。私たち日本は戦争責任を軍隊のせいにしていますが、キリスト教会が骨抜きにされていたことを悔い改める必要があります。このことはドイツも同じでキリスト教会がナチスと協定を結んだために、口出しできませんでした。私たちは、死に至るまで忠実であるということがいかに困難なことなのか知りません。ある時は、いのちを投げ出さなければならないということです。

 当時のスミルナ教会はどうだったのでしょうか?『一冊でわかるキリスト教史』と言う本にこのように書かれていました。「キリスト教はローマ、アレクサンドリア、カルタゴといった都市を中心に教会形成がなされていったが、この時の迫害で多くの棄教者を出したという。カルタゴの監督キュプリアヌスはのちに「棄教者」という説教を残しており、大勢の信徒、また聖職者も教会を去って行ったことを伝えている。ただし証明書があればよく、これを様々な手段を用いて手に入れる者もいたという。なおこの迫害を実施したデキウス帝は249年に即位しましたが、2年後の251年に戦死しました。でも、それで迫害がやんだわけではありません。数年後に皇帝となったヴァレリアヌス帝は当初寛容でしたが、のちにデキウス帝と同様の迫害を実施しました。そのとき、監督、長老、執事は処罰され、元老院議員など身分のある者も資産を失い、なおキリスト者にとどまるなら斬首、強制労働、追放されたといいます。しかし、ヴァレリアヌス帝はペルシャ戦で敗れ、やっと迫害は止みました。でも、最後にディクレアティアヌス帝の迫害があり、305年に収まりました。このように、黙示録は迫害に終わりがくることを預言しています。資料によりますと、ローマ帝国におけるキリスト教徒の数は3世紀後半、つまり迫害下の50年間で、600万人もの信徒数に膨れ上がったと推定されます。クリスチャンの数が増すのは、平和な時代ではなく、むしろ困難な時代であるということを私たちは知るべきです。「あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」苦難はいつまでも続くのではなく、その終わりがあることを感謝します。主の恵みによって、死に至るまで忠実であり、いのちの冠をいただく者となりたいと思います。

3.ペルガモにある教会

 黙示録213,14「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」ペルガモと聞くと、「カモの一種かな?」と思うかもしれませんが、そうではありません。ギリシャ語で「ペルガモ」という言葉には2つの意味があります。1つは「結婚」です。結婚は結合です。この時、教会は、この世と結合するようになり、この世的な教会となりました。「ペルガモ」のもう1つの意味は、「城壁を巡らした塔」です。その当時、教会は低いものではなく、地上で高いもの、高い塔になりました。それでは、ペルガモにある教会というのはどのような時代の教会なのでしょうか?コンスタンティヌス帝は、内乱状態の中313年にキリスト教を公認しました。これを「ミラノの勅令」と言います。伝説では、「これに勝て」という声とともに十字架が天より示され、ミルヴィウス橋での戦いにマクセンティウスに勝利したといいます。すでに311年にガリエヌス帝が病床において寛容令を出しており、キリスト教は自由を得ていました。しかし、この勅令のおかげでキリスト教はローマ社会の中で安定した立場を得、その後の発展に拍車がかかることになります。コンスタンティヌス帝は公認しただけではなく、迫害で失った財産の返還、さらに様々な特権をキリスト教に認めていったからです。かくして4世紀はキリスト教にとって大きな飛躍の世紀となります。しかし、ここにとんでもない落とし穴があったということをだれが知っていたでしょうか?

 さきほどペルガモの意味は、この世との結合であり、高い塔であると申し上げました。黙示録213「そこにはサタンの王座がある」と書いてあります。また、黙示録214「バラムの教えを奉じている人々がいる」とあり、15節には「ニコライ派の教えを奉じている人々がいる」とも書いてあります。サタン、バラム、ニコライが、まるで悪魔の三位一体のようであります。ウィットネス・リーはこのように解説しています。ペルガモにある教会には、主の目に邪悪な2つのものがありました。1つは、バラムの教えです。バラムは、神の民に淫行を犯し、偶像を礼拝させることをバラク王に教えた異邦の預言者です(民数記22章、25章)。コンスタンティヌス帝がキリスト教に入信したことは、異邦の預言者の教えと異教の教えの始まりでした。こうして、この世と結合して霊的姦淫を犯し、偶像崇拝をするようになりました。これは、主にとって邪悪でした。ペルガモのもう1つの邪悪なものとは、ニコライ派の教えでした。最初、エペソの教会ではニコライ派の働き、活動があるだけで、教えはありませんでした。しかし、第三段階の「ペルガモにある教会」になると、ニコライ派の働きは、ニコライ主義の教えとなりました。歴史の綿密な研究によって、私たちはニコライ派の教えが、聖職者・平信徒制度、階級組織、すなわち、「聖職者階級」の教えであることを知ることができます。ニコライのギリシャ語は「民を征服する」という意味です。いわゆる聖職者・階級組織は、教会の中で他の人々を征服します。

 私も「教会史」を『すずめの学校』(スパローズセミナリー)で長年教えてきました。最初の頃は、キリスト教がローマ公認の宗教になって良かったのではないかと思いました。迫害が止んだだけではなく、キリスト教がヨーロッパ全土に広がったからです。私たちの教会は、宗教改革を通過して、聖書的な教会であると思っていました。しかし、学びを続けていくうちに、国家と教会が結びついたために、初代教会が持っていたすばらしいものを失ったと言うことが分かりました。かつては、どこでも集会を持つことができました。説教する資格や免許もありませんでした。ところが、4世紀以降、国教会になってからは、礼拝は国が定める場所に集まって行い、家々で勝手に集会を持つことができなくなりました。そして、礼拝は資格をもった聖職者が導くようになりました。次第に、聖職者と一般信徒との間の区別がはっきりとなりました。本来教会は、信徒の群れだったのですが、聖職者によるピラミッド型の組織体になってきました。また、法律によって、国民であるならだれもが洗礼受けて、教会に属することが定められました。ですから、キリストを信じて新生していない人でも教会の一員でした。そのため、教会はこの世と全く区別がつかなくなりました。ニカイア公会議という「御父とキリストとの関係」を決定する重要な会議がもたれました。しかし、人々を招聘したのがコンスタンティヌス帝でした。これからも神学的な問題、あるいは異端を決める教会会議がなされましたが、国家が主導していきました。次第に、聖書よりも教会が定めたことが権威を持つようになっていきます。中世の教会ではこれらのことが確立しました。コンスタンティヌス帝が亡くなった後、皇帝になったユリアヌスは、自身キリスト教を棄て、ギリシャ・ローマの祭祀(さいし)の復興をもくろみ、キリスト教を少しずつ排除していきました。そのため、教会は異教徒の様々な風習や儀式を取り入れていくようになりました。現在、祝われているクリスマスやイースターでさえもその影響を受けています。

 ペルガモにある教会に対してどう言われているでしょうか?黙示録217「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」ここでは2つのものを与えると言われています。第一は「隠れたマナ」です。ペルガモの教会はマタイ13章の「からし種のたとえ」と一致しています。マタイ1332「それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」このたとえで「空の鳥」とは悪魔のことです。教会は大木のように、城壁を巡らした塔でしたが、そこでは、すべてのものが外面の見せかけのために人目にさらされていました。しかし、原則的に、尊いものは隠されています。この時代に、キリストは隠されたマナです。ですから、私たちは隠されて、人目にさらされないようにすることを学ばなければなりません。ペルガモの教会は、この世に妥協した結果、主イエスを失ってしまいました。教会が国家権力に守られるということは非常に危険なことなのです。勝利を得る者とは、主イエスご自身を得る者なのです。第二は「白い石」です。当時の異教徒たちは、石に文字を書いて、魔除けのために持っていたそうです。白い石とは、何も書いていないもので、そこに新しい名が書かれるのです。この「新しい」のギリシャ語は「カイノス」が使われていますが、このことばの意味は、時間的な新しさではなく、質的な新しさを現わす言葉です。ですから、この世と妥協した教会を救うのは、イエス様ご自身に立ち返るほかはないということなのです。

 きょうは、エペソにある教会、スミルナにある教会、ペルガモにある教会について学びました。これらは、初代教会の後の教会です。彼らはローマの迫害を受けても、信仰を守り通しました。多くは死に至るまで忠実でありました。その後、313年にキリスト教が公認され、国家と教会が結びついてしまいました。迫害は去りましたが、異教的なものがどんどん入り込むようになりました。今日の教会にも言えることですが、悔い改めて初めの愛に立ち返り、この世的なものを排除し、キリスト中心に生きることが必要です。イエス・キリストこそ隠れたマナであり、勝利ある御名だからです。

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2019年6月23日 (日)

イエスのミッション マタイ16:21-25 2019.6.23 亀有教会牧師鈴木靖尋

 前回は「イエスのミニストリー」と題して学びました。きょうのテーマは「イエスのミッション」です。ミッションとはどういう意味でしょうか?missionは派遣された人の使命、任務という意味です。海外宣教のことをミッションとも言うようです。ところで、mission impossibleと映画があります。主人公は絶対死なないので安心して見ていられます。では、イエス様のミッションとは何でしょう?イエス様は十字架で死ぬためにこの世に来られたのです。イエス様は弟子たちにも自分のいのちを捨て、十字架を負ってついて来るように言われました。きょうは、十字架の予告、十字架の成就、十字架の結果と3つのポイントでお話しします。

1.十字架の予告

 イエス様はご自分が十字架で死ぬということを少なくとも3回予告しておられます。その最初がマタイ16章です。このところで弟子のペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。イエス様はそのことを否定なさらず、むしろ喜ばれました。ところが、イエス様はその直後、このようにおっしゃいました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロはそのことが納得できず「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱りつけました。ペテロが言ったことばに、サタンが関わっていたということです。そういえば、公生涯に入る直前、悪魔がイエス様を誘惑したことがあります。悪魔が提示した人類救済の道は、十字架の死をバイパスするものでした。今回も、ペテロの肉の思いを借りて、サタンが十字架の死をさけるようにということを訴えています。だから、イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱りつけたのです。イエス様はこの後、少なくとも2回同じことばを弟子たちに語っています。

 では、イエス様の十字架の死は何のためだったのでしょうか?マルコ10章に、イエス様がエルサレムに上る直前にご自分が「十字架で死んで、三日の後によみがえる」とおっしゃっています。これは、三度目の予告と言えます。その予告の直後、弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。弟子たちはイエス様の死を全く理解していないのか、意識的に理解しようとしないのか、どちらかです。なぜなら、弟子たちはイエス様がエルサレムで王様になり、ローマを倒してくれると信じていたからです。その暁には、自分たちが大臣になり、だれがイエス様の右もしくは左に座るか争っていました。その直後、イエス様がおっしゃったことばがこれです。マルコ1043-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様は「仕えられるためにではなく、仕えるために来られた」とおっしゃいました。その究極な仕え方とは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。もし、「すべての人のための贖いの代価」であったなら、全人類が信じなくても救われることになります。この意味はカルヴァンの限定的な贖罪という意味ではありません。ひとことでは言えませんが、イエス様を信じる人にだけ、適用されるのではないかと思います。パウロは「私たちの罪のため」と言っており、「あなたの罪のため」とか「彼らの罪のため」とは言っていません。イエス様を信じた人たちだけが、「主イエスは、私たちの罪のため死なれた」(ローマ425と言えるのです。クリスチャンは永遠の命をイエス様からいただいたということになります。

 イエス様がこの地上にお生まれになったとき、東方から博士たちが訪ねてきました。絵本なのでは3人の博士がらくだに乗って来たように書かれています。しかし、3人と言われるのは贈り物が3つだったかだということです。でも、実際はキャラバン隊のように、大勢の従者たちを連れてやってきたと考えられます。なぜなら、当時は山賊や盗賊が跋扈(ばっこ)していたからです。それはともかく、博士たちは黄金、乳香、没薬をささげました。しかし、これはとても暗示的であります。黄金は王様にふさわしいものであり、イエス様が王であるということです。乳香は大祭司が用いるものです。イエス様が大祭司であるということです。しかし、没薬は葬りの時に用いるものです。でも、生まれたばかりの子どもに、お線香を捧げる人はいません。もちろん、そういう意味でささげたのではないと思いますが、暗示的です。まるで、イエス様が死ぬためにこの世に来られたようなイメージを与えるからです。ある人が書いた絵があります。イエス様が30歳になり、最後の大工仕事を終えました。イエス様が夕日に向かって、「ああ、きょうの日が終わった」と両手を水平に上げている絵です。しかし、地面にはイエス様が十字架にかかっている影が映っていました。明日から、公生涯に入ることになり、それは十字架への道だということを暗示しています。

 もちろん、地上に生まれた人はだれでも死にます。何故、イエス様だけが特別なのでしょうか?イエス様は本来、神なので死なないお方です。そのお方がひとたび人間の肉体をおとりになりました。不死なるお方が、死ぬことを体験するということです。しかも、死というものが罪の結果、人類に入った忌まわしいものです。神の御子が人類の罪を負って、代わりに死ぬということほど不本意なことはないでしょう。ヘブル書にその目的が書かれています。ヘブル214,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

2.十字架の成就

 イエス様は3年半の公生涯を終えて、エルサレムにおいて十字架につけられ死なれました。イエス様を十字架につけたのは、長老、祭司長、律法学者たちでした。決定的な罪は、イエス様がご自分を神としたことです。イエス様は冒瀆罪で死に渡されました。しかし、当時のユダヤはローマの支配下にあったので、罪状をカイザルに背く罪としてすり替えたのです。それで、イエス様は、当時、極悪人がかかる十字架につけられました。ある人たちは、「十の字ではなく、Tの字だったのでは」と言います。別に十の形が重要なわけではありません。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」イエス様は木にかけられ、律法の呪いとなられたのです。それは律法ののろいから私たちを贖い出すためでした。つまり、行ないでなく、信仰によって救われるということです。ガラテヤ314「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」ある人たちは、キリスト教を「外国の宗教だ」と言います。聖書で外国は異邦の国であり、外国人は異邦人と呼ばれています。もし、聖書の舞台であるイスラエルから日本人を見たなら、日本人が外国であり「異邦人」なのです。本来、私たちは「神の選び」から漏れていた民でした。ところが、キリストの十字架の贖いによって、だれでも信仰によって救われるようになったのです。これはとてもありがたいことです。

 イエス様が十字架でいくつかのことばを発したことが福音書に記されています。注目したい箇所がこれです。マタイ2750「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」イエス様が大声で叫んだことばとは何なのでしょう?ヨハネ1930「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」私はイエス様は「完了した」と大声で叫ばれたのではないかと思います。「完了した」は英語の聖書に様々なことばで訳されており、どれもすばらしいと思います。ほとんどが"It is finished!"「終了した」と訳されています。The New English Bibleは"It is accomplished!"「成し遂げられた(成就した)」という意味です。Message Bible"It’s done…complete!"「完全になされた」であります。しかし、ギリシャ語の直訳は「完済された」です。どの訳でも構いませんが、イエス様がこの地上に来られた使命(目的)は果たし終えたということです。祭司長や律法学者、長老たちは「十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じる」(マタイ3742とイエス様をあざけりました。これこそ最後で、最大の誘惑でした。イエス様は十字架から降りるつもりだったら、降りられたのです。イエス様を十字架につけていたのは3本の釘ではなく、イエス様の意志でした。「どうしても飲まずには済まされない杯」(マタイ2642だったのです。イエス様が十字架について、「なだめの供え物」になられたので、私たちに救いがやって来たのです。

 私たちは聖画とか映画から、イエス様が十字架でもだえ苦しんでいるシーンを思い浮かべることができます。確かに、イエス様は霊的、精神的、肉体的にも極限の苦しみを受けておられたことは間違いありません。イエス様は暗闇の中で、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。まさしく、イエス様が私たちの罪を負ったゆえに、父なる神さまから捨てられた瞬間であります。Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書かれているとおりです。しかし、この後、イエスさまは「完了した」と叫ばれて息を引き取りました。「完了した」は勝利と歓喜の叫びであったと思います。ヨハネ1934「しかし、兵士のうちの一人がイエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出てきた」と書いてあります。これは医学的に、イエス様の死因は、心臓が破裂したせいだと言われています。イエス様の心臓が罪の重荷に耐えられなかったという理由もあるかもしれません。しかし、「完了した(成し遂げた)」と叫んだとき、心臓が破裂したのではないかと思います。つまり、勝利と歓喜の中でイエス様は息絶えたのです。そのことを証明するみことばがこれです。ヘブル122後半「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」ヘブル書は「喜びのゆえに…十字架を忍ばれた」と書かれています。イエス様は「これで人類の罪の問題は解決する」と喜んでいたのです。

 私たちの救いは、完成した上に成り立っているということです。神さまはイエス様を十字架の上で死なせることによって、満足されました。もう、私たちの罪については裁かれません。「あなたが犯した罪のかわりに何かをしろ」とは要求なさいません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の負債を全部支払ってくださったからです。まさしくイエス様は「なだめの供え物」になられたので、神さまの人類の罪に対する怒りがひっこめられたのです。もし、救われるために、行ないも必要だというなら、十字架の完全な贖いを汚すことになります。聖書に1万タラントを借金したしもべが赦される譬えが記されています。1デナリが1日分の給与にあたります。1タラントは6,000日分の給与ですから、今で言うと6,000万円です。1万タラントとはその10,000倍ですから、6000億円です。その当時の小さな国の国家予算に相当する額だと言われました。1万年働いても返せない額を赦された人が、「お礼に100万円お返しします」と言ったら「馬鹿にするな」と言われるでしょう。同じように、神さまに「救われるために、私にも良い行いをさせてください」と言ったら、「愚か者」と言われるでしょう。私たちはとうてい返すことのできない罪を、ただで赦してもらうしかないのです。しかし、赦しの背後には、イエス・キリストの多大な犠牲があったということです。もし、このことを知ったなら、申し訳なくて、また罪を犯そうなどとは考えません。

 イエス様は十字架で贖いを完了されました。私たちの救いは完了されたものの上に立っています。キリストの十字架の贖いには、足すことも、引くこともできません。私たちは十字架でなされた罪の贖いをただで受けることしかできないのです。これを聖書では恵みと言います。

3.十字架の結果

 マルコ1043-45「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」第一のポイントのところを繰り返します。このことから、イエス様の十字架の死は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであったことが分かります。問題なのは「すべての人」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と言われたことです。イザヤ書53章にも同じようなことばが書かれています。イザヤ書53章は「苦しみのメシヤ預言」として知られています。イエス様の十字架の苦しみとその意味が赤裸々に預言されています。問題は最後の部分です。イザヤ5311「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」このところに、「多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」と書かれています。何度も繰り返しますが「すべての人」ではなく、「多くの人」であります。ここから分かることは、「全ての人は救われない、万人救済説はなりたたない」ということです。かといって、カルヴァンが言う「限定的な贖罪」というもの賛成できません。カルヴァンは「キリストの十字架はすべての人を贖われたのではなく、選ばれた者だけを確実に贖われた」と言っているからです。では、神さまは全部ではなく、多くの人が救われるということを予知しておられるということでしょうか?現実的には、信じる人もいれば、信じない人もいますので、そうであるのかもしれません。

 高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本の中でこう述べています。「贖い」という概念を示すギリシャ語には次の三通りある。①アゴラゾー。このことばは「買う」とか「代価を払う」などの意味を持っているが、正確なニュアンスは、「奴隷市場の中で奴隷の代価を払う」である。②エクサゴラゾー。これは「アゴラゾー」に「エクス(…の外へ)」という接頭語の付いたもので、ただ単に代価を払うだけでなく、「奴隷市場から外へ連れ出す」ことも意味している。③リュトゥロオー。これは、「解放する」また「完全に自由の身とする」ことを表す。つまり、「贖い」という概念の中に、①まだ解放されていないけれども、代価を支払う。②代価を払って外へ連れ出す。③完全に自由にする。の三種類があるわけである。そして、そのうち②および③は聖書の中で、救われた者についてのみ使われている。それでは、キリストが罪の支払いをされたのは、信じる者に対してであったか、というとそうではない。先述の三種類の「贖い」のうち第一の意味で、キリストはご自分の血によってすべての人の罪の支払をしてくださったのである。そのことは「アゴラゾー」が聖書の中で未信者に関しても用いられていることがわかる(参考:Ⅱペテロ21)。しかしキリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由にされたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場につながれたままなのである。キリストは、十字架上で息を引き取られるときに「完了した(テテレスタイ)と叫ばれたが、「テテレスタイ」とは商業用語で「完済した」という意味である。キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払をされたのである。アーメン。

 ということは今現在生きている人たちは、すべての救われる可能性があるということです。すべての人が救いのcandidate候補者です。私たちは人の外見を見て、「この人は救われそうだけど、この人は無理」とか判断しがちです。しかし、自分は正しいと思っている人ほど、信じにくいということも事実です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ913)と言われました。使徒パウロは私たちは神の国の大使、神との和解をもたらす大使だと言っています。大使として重要な考え方はこれです。Ⅱコリント5:15-17また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」私たちは最後の517節だけを見ますが、ポイントはそうではありません。「この人のためにも、キリストは死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。そうすれば、だれでも、新しく造られた者であり、新しくなるチャンスがあるということです。

イギリスのスポルジョンが、肺炎のためまもなく死のうとしている貧しいメイドさんの家を訪問しました。部屋に入ると隙間風をふさぐためにいろんな紙が窓や壁にべたべた貼ってありました。よく見るとその中に一枚の小切手も貼ってありました。今の価値で何十億円の額が書いてありました。彼女は長い間、大金持ちの家でメイドとして忠実に働きました。そのご主人が亡くなるとき、彼女に一枚の小切手を上げたのです。しかし、メイドさんは字が読めないばかりか、小切手の意味すら分かりませんでした。もし、彼女がもう少し前に、お金に替えていたなら、豊かな生活を送ることができていたでしょう。私はこの小切手は、イエス・キリストの贖いではないかと思います。小切手の額は、奴隷市場から自由になれる代価だけはありません。私たちが神の息子、娘として何の不自由もなく暮らせる額が記されています。つまり、天国に行くだけではなく、この地上でも王子、王女として豊かに暮らせる額です。私も仕事で小切手を使ったことが何度もあります。裏書と言って、そこに会社のはんこが押してあれば、すぐその銀行に行って、現金に換えることができます。私たちにとって、裏書の名前はイエス・キリストです。小切手は十字架の贖いで成し遂げられました。しかし、持っているだけではダメです。部屋の隙間風をふさぐため小切手を貼っているとしたら何と愚かなことでしょう。キリストを信じて、奴隷市場の外へ出ましょう。そして、神さまが願っておられる完全な自由な生活を送りましょう。

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イエスのミニストリー マタイ9:35-38 2019.6.16 亀有教会牧師鈴木靖尋

 ministryは、一般に「聖職者の任務」と訳されています。しかし、これは「神さまの働き」とか「奉仕」という意味に訳すべきであります。イエス様はこの地上に来られて主に、3つのことをなされました。3つミニストリーと言うこともできます。それがマタイ9章にある、教え、福音宣教、そして病の癒しであります。イエスさまはどこへ行っても、これら3つのことをもって神さまと人々に仕えました。さらには弟子たちにも同じことをするように命じておられます。ということは、イエス様の3つミニストリーは今日の教会も負っている使命ではないかと思います。

1.教え

マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え」とあります。イエス様は最初ユダヤ人の会堂で教えました。まもなく、イエス様は人々から「ラビ」とか「預言者」と呼ばれるようになりました。しかし、当時の宗教家たちから妬みをかって、公の場で教えることができなくなりました。そのため、人々の家や野山で教えるようになりました。マタイはイエス様の教えをまとめました。それがマタイ5章から7章まで記されており、「山上の説教」と呼ばれています。おそらく、イエス様は一回であのような説教を長時間なされたのではないと思います。マルコ福音書やルカ福音書を見るとそのことがわかります。でも、マタイはイエス様がこれらの教えを山の上で語られたということにしたかったのです。なぜでしょう?イエスラエルの人たちが最も重んじていた書物はモーセ五書でした。その中で、もっとも大事にしていたのが、モーセの十戒です。モーセは十戒をどこで得たのでしょうか?シナイ山です。シナイ山で神から直接、主なる律法をいただきました。しかし、イスラエルはその律法を守ることができませんでした。イエス様の時代はとても形式的であり、律法主義に陥り、本来の目的から逸脱していました。イエス様は山の上に登り、人々に教えを垂れました。きわだった言い方は「あなた方は…と聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」とモーセの律法を再解釈しているところです。よくみると、モーセの律法よりも、実行することが困難なくらいの崇高な教えです。たとえば、「兄弟に『ばか者』と言うだけで燃えるゲヘナに投げ込まれます。情欲を抱いて見るだけで、姦淫を犯したのと同じです」と言われています。私などいくつ命があっても足りないでしょう。

ロシア文学者トルストイは「山上の説教を小聖書と呼び、聖書は山上の説教で十分である」と言っています。さらにトルストイはこうも述べています。「すべての人間がキリストの教えを実行に移したならば、この地上に神の国が出現するだろう。私一人がそれを実行に移したならば、すべての人たちと自分のために最も良いことをしたことになるであろう。キリストの教えを実行すること無しには、救いは無いのである。キリストの教えを実行するためなら、どのような辛い目に遭わされても、どのように早死にしようとも、私は怖くない」と。トルストイは非常に純粋な人でありますが、生身の人間には実行不可能です。なぜ、マタイがモーセの律法と並べて山上の説教を書いたのでしょう。それは新しい契約における神の律法です。しかも、これは御国の律法であり、霊的に新しく生まれ変わった人が神の恵みによってできるものです。もし、これを実行しなければ救われないとしたなら、誰一人救われないでしょう?これはキリストによって救われ、神の国で生きる人が守るべき律法です。本来なら、御国が完成するときものであり、終末論的なものです。でも、イエス様は、「福音を信じて、御国に入るものはこれを守りながら生活しなさい」と勧めているのです。ですから、パウロの書簡の後半を見ると、山上の説教と同じような教えが書かれています。しかし、世の中の人は、聖書を道徳倫理の本として読むので、ますます迷路にはまってしまいます。小説『塩狩峠』の主人公の長野さんは、良きサマリヤ人のたとえの教え「あなたも行って同じようにしなさい」を実行しようとしました。給与を盗んだ同僚の隣人になろうとしました。逆に彼から「馬鹿にするな」と、恨みをかいました。長野さんは、みことばを守ることがいかに困難か知ることになりました。もし、イエス様の教えを律法として読むならば、モーセの十戒よりも実行不可能なものになり、窮地にはまるでしょう。

私たちはイエス様の教えの中心は何か、主題は何なのかを知るべきです。そうしたら、単なる教えではなく、私たちを本当に生かすいのちのことばになるでしょう。イエス様の教えの主題は「御国、神の国です」。山上の説教は、いわば御国の律法です。イエス様は弟子たちに「御名があがめられ、御国が来ますように祈れ」(マタイ69-10とおっしゃいました。また、「だから、神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらものはすべて与えられます」(マタイ633とおっしゃいました。またマタイ13章において、イエス様はたとえによって「天の御国」がどのようなものなのか教えてくださいました。私たちは天の御国に行ったことがないので、イエス様は地上でよく見かけるものを題材にして、教えてくださいました。イエス様はからし種やパン種のたとえによって、天の御国は、最初は目立たないけれど、知らない間に大きくなると言われました。さらに、天の御国を畑に隠された宝、あるいは値打ちのある真珠にたとえました。これは「天の御国に入ることが何物より、かけがえのないことである」ということです。クリスチャンは人生の半ばで、天の御国を得た存在です。一番大切なものを得たんですから、人生の目的を半分以上果たしたようなものです。地上の生活は仮住まい、この肉体も仮りの入れ物です。私たちに永遠の住まい、栄光の体は天の御国に備えられています。だから、クリスチャンはいつ死んでも良いのです。私たちは死ぬのではなく、天の御国に移り住むのです。

音楽でも、主題(テーマ)があります。聖書もそうですし、イエス様の教えもそうです。もし、主題(テーマ)を最初から知っていたなら、的外れな読み方はしなくなるでしょう。「木を見て、森を知らず」ということわざがあります。これまで多くの神学者たちが博学のゆえに、道から迷い出ました。イエス様の教えの中心は「天の御国(神の国)」です。私たちは天の御国に行ったことはありませんが、とてもあこがれています。ヘブル11:16「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

2.福音宣教

 福音とは何でしょう?英語ではgood newsです。しかし、ギリシャ語のエバンゲリオンは、戦争に勝ったという良い知らせでした。イエス様は暗闇が支配している国に、御国をもたらすためにやって来られました。そのために、イエス様は暗闇の支配者を打ち破る必要がありました。悪魔から言うなら、イエス様は侵略者invaderなのであります。福音は最初、バプテスマのヨハネが宣べ伝えました。マタイ32「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」その後、イエス様もこのように宣べ伝えました。マタイ417「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」イエス様が宣べ伝えた福音は、御国の福音でした。御国とは神の支配であります。「悔い改めなさい」とは「向きを換えよ」と言う意味です。言い換えるなら、「向きを換えて、天の御国に入りなさい」これが福音です。この福音を信じるなら人は救われるのです。私がこのように言うと、「いいえ、福音とは十字架と復活でしょう。イエス様はこのときはまだ十字架の贖いを完成していませんよ」と反論するでしょう。いいい、イエス様が十字架で死ぬ前に、人々は福音を信じて天の御国に入ることができました。マタイ2132,32イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と荒野で福音宣教を開始しました。そのとき、宗教家たちではなく、取税人や遊女たちが彼を信じました。そして、神の国に入った、つまり救いを得たということです。

 御国、神の国というのは、神の支配であります。領土はやがて目に見えるかたちでやってきます。今は、御国の招待状だけであります。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われて必要なことは何でしょう?それは服従です。なぜなら、神の国の王様は神さまです。神の国に入りたいなら、「分かりました。従います」と服従しなければなりません。こういうことを聞くと「え?服従なんて嫌です。必要なのは信仰でしょう?」と答えるかもしれません。確かに人は福音を信じて救われます。でも、信じることと服従はコインの裏表であります。神を信じるなら、神に服従すべきなのです。イエスさまがエリコの町を通過されようとしました。そのとき、取税人ザアカイが先回りして木の上に隠れていました。イエス様は上を見上げて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたのところに泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は身勝手です。ザアカイの都合も聞かないで、「きょうあなたの家で泊ることにしている」と告げました。もし、ザアカイが手帳を出して、「きょうは予定がふさがっています。それに急に客を連れて行くと家内に嫌な顔をされます。来週だったら大丈夫です」と言ったらどうでしょう。イエス様は来週なら、十字架にかかって死んでしまいます。今しかチャンスはありません。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えました(ルカ196)。あとでイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。では、ザアカイはいつ救われたのでしょう?ザアカイは十字架と復活の福音を信じて救われたのでしょうか?そうではありません。ザアカイは「急いで降りて来なさい」ということばを聞いて、「急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えたとき」救われたのです。厳密に言うなら、木から降りる途中です。つまり、イエス様の命令に従ったときです。このように、人が救われるためには、イエス様のことば(福音)に従う必要があるということです。なぜなら、神の国とは神のご支配だからです。

 では、イエス様の十字架と復活は不要なのかというとそうではありません。十字架と復活以前は、神の国の門はせまくてよく分かりませんでした。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」まるで、狭いドアから人々が神の国に入ろうとしているようであります。ところが、イエス様が十字架で贖いのわざを終了されてから、神の国の門がぐっと広く開けられたのです。それを案じするみことばがこれです。マタイ2750-52「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」アーメン。イエス・キリストの十字架の死は贖いの死でありました。キリスト以前は、大祭司が年一回、犠牲を携えて至聖所に入ることができました。しかし、キリストは一回で永遠の贖いを成し遂げてくださり、キリストの血によって大胆に恵みの座に近づくことができるようになったのです。また、十字架の死は、サタンのかしらを打ち砕きました。それによって、サタンは自分が所有していた死と陰府が敗北したために、捕えていた魂を吐き出してしまったのです。私たちの時代は完成した福音を宣べ伝えることができます。パウロもガラテヤ書で「異邦人も福音を信じるだけで救われる」と言っています。ガラテヤ1:8「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」世の終わり、いろんな異端がはびこり、「信じるだけではダメだ。行いも必要だ」と主張しています。もし、「行ないが必要だと言う」なら、イエス様の十字架と復活を否定することになります。私たちが救われるために信じる他に、一体、何ができるというのでしょう。

 福音を信じるということをもう一度確認したいと思います。福音とは御国の福音であり、神のご支配がやって来たと言うことです。私たちは方向転換をして、神のご支配を受け入れる必要があります。なぜなら、神の国の王様は神さまだからです。世の終わり、イエス・キリストが十字架と復活によって、贖いの道を完成してくださいました。ですから、私たちは私のために十字架にかかり三日目によみがえられた救い主キリストを信じるのです。キリストを信じた時から、私たちは神の国に入りました。「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ320)。アーメン。

3.病の癒しと悪霊追い出し

 イエス様のミニストリーの三分の一は、病の癒しと悪霊の追い出しでありました。しかし、今日の教会は、このことを排除し、教えと福音宣教しか行っていません。では、なぜ、イエス様はこの地上に来られて、病を癒し、悪霊追い出されたのでしょうか?ルカ1120「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」他の福音書から「神の指」とは、聖霊であることが分かります。つまり、人々から悪霊が追い出されていると言うことは、彼らの国が打ち負かされているということです。同時にそれは、神の国が来ているしるしだということです。イエス様は病の癒しばかりではなく、目の見えない人や手のなえた人を癒し、死人さえよみがえらせました。それらも同じで、神の国がこのところに来ているという証拠だったのです。本来、そういうことが起るのは、御国が完成された、千年王国のことであると信じられていました。イザヤ書354-6心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」イザヤ書は第五福音書とも呼ばれ、good newsがたくさん預言されています。その一つが世の終わりの出来事です。世の終わり、メシヤが来て、このようなことが起るということを預言しています。バプテスマのヨハネが、牢獄から「来るべき方はあなたですか?」と弟子たちを送って、イエス様に尋ねました。イエス様は「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き…だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ115,6)と言われました。病の癒しや奇跡は、来るべきメシヤのしるしであり、同時に神の国が来ていることのしるしでもありました。なぜなら、御国には病気や障害がないからです。

 イエス様はラザロの墓の前で涙しました。人類が死によって、飲みこまれているからです。でも、イエス様は「憤りを覚えた」と二度も書かれています。これは、これはイエス様が「この死を何とかしなければならない」と死に対して憤っていると言うことです。その後、イエス様は「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうすると、ラザロは布で巻かれたまま、墓から出てきました。これも同じで、世の終わりに起ることを、今現在、イエス様がなされたということです。つまり、イエス様が御国を持ってこられたので、死が打ち負かされたということです。つまり、病の癒し、悪霊の追い出し、障害者の回復、死人のよみがえり…これら全部は神の国がイエス様によってこの世にやって来たということのしるしだったのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションされたのです。デモンストレーションというのは、展示販売です。私はいつもスーパーマーケットの売り場の話をします。でも、テレビ・ショッピングでもやっていることに気づきました。電化製品とか、便利な器具など、視聴者の前で、実際にやっています。周りの人々が「わー」とか言ってもりたてます。「今ならこのお値段です。30分以内、オペレータを増やしてまっています。ダイヤルはこちら、お間違えないように」とか言います。デモンストレーションです。肉体の癒しを体験した人々は、「私もメシヤを信じて、神の国に入りたい」と思ったことでしょう。ただ福音を宣べ伝えただけだと、信じる人々はそんなに起こされないでしょう。なぜなら、神の国は目に見えないからです。イエス様は「ちょっとでも、神の国を見せてほしい。神の国の前味を味わせてほしい」という人々の願いに応えられたのです。

 しかし、今日の福音宣教はデモンストレーションなしのことばだけの福音宣教です。だから、救われる人が少ないのです。人々は神の国が本当に来ているかどうか分かりません。使徒パウロは自分の福音宣教のことを語っています。Ⅰコリント23,4「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」パウロはコリントに来る前にアテネに寄りました。でも、伝道はかんばしくありませんでした。なぜなら、パウロはことばだけで伝道しようとしたからです。アテネは「ああいえば、こういう」という哲学の本拠地でした。パウロはことばだけではダメだ「御霊と御力の現れ」が必要であると反省しました。残念ながら、現代の教会は「目覚ましい奇蹟やしるしは聖書が完成してからは不要になった」と言っています。それは、「現在そういうことがないので、そうなんだ」と自分たちの体験に神学を合わせているだけなのです。言い換えると、自分たちの不信仰を弁明しているだけなのです。イエス様は天にお帰りになる前、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちにお命じになれました。さらに「 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し…病人に手を置けば病人はいやされます」と保証されました。つまり、福音宣教に「病の癒しと悪霊追い出し」は付随するものだということです。ランディ・クラークは「病の癒しはおまけではなく、クリスチャンの主要なミニストリーである」と言っています。ビルジョンソンは”The supernatural power”でこう述べています。「イエスは、悪魔が働いているこの地に、神の国の力をどのようにもたらすか見せるためにミニストリーされました。私たちのミニストリーもイエスを同じことをすべきです。私たちは、神の国がもたらす奇跡から離れて、奉仕することはできないのです。」イエス様は病人を見て、「天国に行けば癒されるから我慢しなさい」とは言われませんでした。「弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書いてあります。イエス様からあわれみの心がほとばしり出て、癒しを行ったのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ937と言われました。「働き手」の「働き」は「行い」「わざ」「活動」と同じ意味のことばです。イエス様は3つの働き、教え、福音宣教、そして病の癒しと悪霊追い出しをされました。そのイエス様はご自分と同じことをする働き手を求めておられます。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。私たちは収穫のことを心配しなくても良いのです。働き手を送ってくださるように祈れと言われています。御国の拡大のために、私たちが主の働き手になりましょう。 

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2019年6月 7日 (金)

御霊に導かれる ローマ8:9-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.6.6

 ローマ89節をそのまま読むならば、クリスチャンとは「神の御霊」がうちに住んでおられる存在です。その直後に、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言い直されています。11節の「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」というのは、聖霊です。聖霊は「神の御霊」であり、「キリストの御霊」であり、そして「御霊」です。そして、私たちの「霊」があります。新解釈聖書は「御霊」と丁寧に訳していますが、新共同訳はすべて「霊」です。だれの霊なのか分けるのが難しいのです。旧約聖書の時代は聖霊が人の内側に住むということがありませんでした。一時的に、特別な人の上に留まっていただけです。イスラエルの民は、神さまの御声を聞くために、預言者や祭司のところに行かなければならなかったのです。彼らは、神さまの代弁者になって、「主はこう言われます」と民に告げました。つまり、しかし、これだと限界があります。そのため、エゼキエル3626,27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…私の霊をあなたがたの内に授け、私のおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる」と預言しました。つまり、人が霊的に生まれ変わり、聖霊が内に住むということです。このことを言っているのがヨハネ3章です。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。この預言が成就したのが、ペンテコステの日です。例外的に10人の弟子は復活の夜、イエス様から聖霊を内側に受けました。ペンテコステの日120人の弟子たちは、内側からも外側からも聖霊を受けたのです。ペンテコステ以来、キリストを信じる人の内側に、聖霊が住むようになったのです。これは、最もすばらしいことです。なぜなら、神が私たちと共に住むということが実現したからです。クリスチャンの内側には聖霊がいらっしゃいますので、預言者や祭司に聞く必要はありません。確かに教師や牧師も教えるために召されていますが、真理の御霊がその人におられますので、ちゃんと教えてくれます。それなのに教会は、「牧師に指導してもらわないと、間違えてしまう」みたいなことを言います。クリスチャンは、教理的に教えられていなくても、救いに関する知識は、みことばを読むとき、聖霊がちゃんと与えてくださいます。聖書を読めば基本的なことは内側におられる聖霊が教えてくれるのです。

 これまで、私はペンテコステのメッセージをするとき、聖霊が内側に住むことよりも、上から力を着せられて神の働きができると強調してきました。しかし、旧約聖書にはなかった、聖霊が私たちの内側に住んでくださるというすばらしいことが成就したのですから、もっと強調すべきであります。ところで、多くのクリスチャンが誤解していますが、私たちが新しくなるのは、私たちの霊であります。霊がイエス様を信じたとき、生まれ変わるのです。生まれかわるのは、肉体でもなく、また魂でもありません。霊が生まれ変わるのです。soulということばがありますが、欧米では、魂と霊の区別がはっきりしていません。特に、心理学を学んだ人はそうです。Ⅰテサロニケ523「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」人間は3つでできており、しかも、この順番が大切です。最も内側にあるのは霊です。人がキリストを信じると、霊が生まれ変わり、そこに神の御霊が臨在してくださいます。そして、神の御霊は、私たちの霊を通して私たちを導かれるのです。第二は魂です。魂は知性、感情、意志を司っています。しかし、この魂は生まれ変わりません。この魂は神に逆らい霊の言うことも聞きません。だから、ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。魂が砕かれ、変革されることによって、霊の言うことを聞くようになります。第三は肉体です。肉体は5感をもってこの世界と触れ合ってています。しかし、肉体と魂の境目に肉が宿っているので、罪を犯してしまいます。古い人は十字架につけられていますが、私たちがすべきことは自分の意思をもって肉を十字架に付けることです。パウロはローマ121「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と言いました。だれがあなたのからだをささげるのでしょうか?あなた自身がささげるのです。あなたがそれを扱わなければ、それは決して少しも扱われることはありません。私たちは天国に行くまで、私たちのからだは悪いことをしたがります。私たちが肉の中に住んでいる限り、罪の問題を持つことになります。しかし神に感謝すべきことに、悪魔を取扱い、肉を取り扱う方法や力や権威は、神のことばを通して私たちに与えられています。人間を外側からまとめていうとこうなります。①あなたがたの、からだをささげなさい。②魂に対しては、心を一新にすることによって変えられなさい。③私たちの霊はどうでしょう?神の命と性質は、あなたの霊の内にあります。その内側の人を霊によって支配者にしてください。霊の内に住んでおられる御霊に耳を傾けてください。神があなたを導かれるのは、あなたの霊を通してなのです。きょうは、神の御霊は私たちを具体的にどのように導かれるのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.内なる証し

 箴言2027「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す」とあります。このみことばを現代的に訳すと、「人間の霊は主のランプ、ライト」となります。神さまは私たちの霊を通して、私たちを照らし、私たちを案内してくださるという意味です。私たちは、自分のからだの感覚が言うことによって、神がどう導かれるか判断することがあります。しかし、神さまは私たちの感覚によって私たちを導かれるとはどこにも書いてありません、また、私たちは知的な視点から物事を見て、それに理屈をつけようとするところがあります。しかし、神さまが私たちの知性を通して私たちを導かれるとは、聖書のどこにも書かれていません。聖書は、人間のからだが主のともしびであるとは言っておらず、人間の知性が主のともしびであるとも言っていません。「人間の霊が主のともしびである」と聖書は言っているのです。私たちの内に住んでおられる神の御霊が、私たちの霊を通して働かれるのです。「内なる証し」とは、神の御霊が私たちの霊を生まれ変わらせたのち、神の御霊が私たちの霊に語るということです。その後、私たちの霊が魂に語るのです。言いかえると、御霊ご自身が直接、私たちの魂に語るよりも、生まれ変わった霊が私たち語りかける方がはるかに多いということです。だれが何もなくても、自分は神の子どもであると言うこと知っています。ローマ816 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ある教会では、洗礼証明書を発行している教会もあるそうです。その人が救われているかどうか、調べる方法はとても簡単です。「あなたは救われていますか?あなたは天国に行ける自信はありますか?」と聞けば良いです。御霊ご自身が、あなたの霊とともに「あなたは神の子です。救われていますよ」と証ししてくださいます。これは「内なる証し」です。

 ケネス・ヘーゲンに、イエス様が現れてこのようなことを教えてくれたそうです。「私が私のすべての子どもたちを導く第一の方法、主要な方法は、内なる証しによってです。もし、あなたがその内なる証しに従うことを学ぶなら、私はあなたを豊かな者としましょう。私は、霊的なことと同様、経済的なことも、生活のあらゆることであなたを導きましょう。私は、私の子どもたちが豊かになることに反対ではありません。私は、彼らが貪欲になることに反対です。」ケネス・ヘーゲンは、今まで、その内なる証しに従ってきました。だれかが、「あなたは百万長者ですか?」と先生に尋ねました。「豊か」ということばの意味を正しく理解していない人々がいます。「それは十分な供給」という意味です。それは「豊かに備えがある」という意味です。ケネス・ヘーゲンは、友人の「百万長者」のことを書いていました。だれかがアイディアを持ってきて、投資をしてほしいと言う時、その人は初めは頭で考えます。イエス様が「あなたは祈るとき、自分の奥まった部屋に入りなさい」と言われました。彼はこの意味は、物事を心の中から締め出すという意味だと思っています。自分の霊が何というか聞くまで待ちます。時には断食もします。三日間待つときもあります。ほとんどの時間、自分が何をすべきかを内なる証しによって内側で知るまで、ただ待っているのです。頭が「おい、そんなことにお金をつぎ込むなんて、おまえは馬鹿じゃないか。一文なしになってしまうぞ」。けれども、自分の心はこう言います。「前進して、それに投資しなさい」。自分はそのようにするのです。そして、今まで長年の間、私は1ダイム(10セント)も損をしたことがありません。彼は言いました。「私はいつも、私の霊に耳を傾けています。私の霊がせよということを、私はします。私はその内なる証しに従っています。」アーメン。

 詩篇1828「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」主がともしびをともされるのは、外なる人としてのあなたにではなく、内なる人、内側の人に対してなのです。何度も言いますが、神があなたを導いてくださる第一の方法は、その内なる証しによってなのです。私は1987年に、当亀有教会に赴任させていただきました(昔は来てやったと思っていましたが、今は砕かれたのでこう表現しています)。2つ目の神学校が卒業真近なとき、当亀有教会の山崎長老さんから大川牧師のもとに「だれかいないか、新しい血を入れたい」とラブコールがありました。当時、亀有は日本基督教団でした。神学校では、基督教団はリベラルで信仰がないと教えられていました。家内は「あなた一人で行って」と言いました。しかし、大川牧師が「日本基督教団から招聘を受けることはまずないから行ってみろ!」と言うのです。「先生、私が不要なのですか?」と悲しくなりました。祈るとイザヤ61章のみことばが来ました。でも、それはイエス様のメシヤ預言なので、私とは程遠いことだと跳ね飛ばしました。でも、追っ払っても、またそのみことばがやってきました。ついには、降参し、二歳と五歳の子どもを連れて家内とやってきました。頭と感情では来るつもりはありませんでした。しかし、「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」というみことばに、私の霊が従いました。ケネス・ヘーゲンのことばです。「あなたはどんな超自然的なしるしも必要ありません。異言と解き明かしも必要ありません。あなたはどんな預言も必要ありません。あなたはあなたの内側で、何をすべきかを知っています。内なる証しは、幻などと同じくらい超自然的な導きなのです。それはあまり目を見張らせるものではありません。が、多くの人々は、目を見張らせるものを捜していて、いつもずっと存在している超自然的なものを見逃してしまっているのです。」つまり、導きを得るために、だれか預言者のところに行く必要はないということです。預言はあります。しかし、多くの場合、すでにあなたに語っていることへの確認を与えるためです。

2.内なる声

 ローマ91「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」御霊が私たちを導かれる第二の方法は、内なる声によってです。この内なる人の声を私たちは「良心」と呼んでいます。あなたの霊には声があります。あなたの霊はあなたに語りかけます。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこのように書いています。「霊は良心、交わり、直覚からなっている3つの部分あるいは機能があります。良心は容易に理解できます。私たちはだれでもこれを良く知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。」アーメン。でも、ここで1つの問題が生じます。「イエス様を信じていない人でも、良心があるか?」ということです。実は良心はほとんど機能していないというのが、本当です。でも、良心がないわけではありません、ヘブル1022「私たちは、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ」と書かれています。この世では「あなたに良心のかけらでもあるなら」と言うような言い方があります。でも、生まれ変わっていない人の良心は神の目から見たら「邪悪な良心」なのです。ですから、イエス様を信じて、霊的に新しくなるとき、良心もはじめて機能するようになるのです。もし、あなたの霊が新しくされ、神のいのちの性質を内に持っているなら、それは安全な案内役なのです。Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」「持っている」というのは、現在形です。私たちは永遠の命を、今持っているのです。あなたが新しく生まれたクリスチャンなら、あなたは自分の霊の中に、今、神の命を持っているのです。あなたは自分の霊の中に、今、神の性質を持っているのです。人が自分の霊に従うことを学ぶなら、それは何とすばらしいことでしょう。Ⅰコリント216「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 ケネス・ヘーゲンは、ただ死を待つだけの少年でした。医学が「私にはこれ以上何もしてあげられない」と言ったとき私はどうしたでしょう?私は「もし、私に助けがあるとすれば、それは聖書の中にある」と考えました。時間があまりなかったので、新約聖書から始めることにしました。マルコ1123,24にたどり着きました。私の外側の何者かが、どこからか私の知性に言いました。「それはあなたが肉体的に、物質的に、あるいは経済的に願うものは何でも」という意味ではない。「あなたがたが霊的に願うものは何でも、という意味である。病気のいやしのことは除外されている」と言いました。私は牧師に来てもらってマルコ1124を教えてもらおうとしました。ようやく一人の説教者が来てくれました。彼は私の手をさすり、専門家のような口調で言いました。「がまんするんだよ。あと二、三日もすれば、すっかり良くなるからね」。私はその意見を受け入れて、死を予期しつつ、そこに横になっていました。それから二か月たって、私は聖書を開き、マルコ1123,24を読みました。私は言いました。「主よ、僕は、だれかに助けてもらおうとしましたが、できませんでした。僕は、あなたのおことば通りにあなたを受け入れます。あなたがこの地上におられた時、あなたはそのみことばを言われました。僕はそれを信じようと思います。あなたがそのことで嘘をつかれたのでなければ、僕はこのベッドから出られるでしょう」。私の霊が私にこう言いました。「あの節で『信仰の祈りが病人を救う』と言っていることに気づきましたか?」私は大きな声で言いました。「はい、その節でそう言っています!」その時、私の内側でこういうことばが語られました。「その祈りはだれででもできるし、あなたにもできます」ハレルヤ!私はもう九か月かかりましたが、「私は健康であると信じています」と言いました。その内なる声が言いました。「では、起き上がりなさい。健康な人々は、午前1030分には起きているべきです」。私はそれまで体が麻痺していました。それは1つの戦いでした。私は自分の体を引っ張るように動かしました。突然、私は真っ直ぐに立っていたのです。それ以来、私は今までずっと真っ直ぐになっているのです。私は私の霊に耳を傾けたのです。信仰は霊から出るのです。

3.聖霊の声

 使徒101920「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』」聖霊が私たちを導かれる方法は3つあります。第一は「内なる証し」です。神の御霊が私たちの霊に直接話しかけることによって私たちを導かれます。第二は「内なる声」です。私たち自身の霊が私たちに語る、静かな声です。第三は「聖霊の声」です。聖霊があなたの内側で語られる時は、もっと威厳があります。その声があまりにもはっきり聞こえるので、耳に聞こえる声であるかのように思われることもあります。そういう時、だれが話したんだろう、と周りを見回すことさえするかもしれません。耳にはっきりと聞こえたように思われるので、だれかが後ろから何かを言ったのだろうと思うかもしれません。けれども、自分の内に語られたのだと、後で分かるのです。旧約聖書の中で、あの少年サムエルが「サムエル、サムエル」と自分の名前を聞いたことがあります。彼はエリが自分を呼んでいるのだと思いました。しかし、そうではなく、主がサムエルに語っていることを後で知りました。私も信仰生活40年たちますが、イエス様の声を聞いたのが2回あります。私が第二礼拝で証をする番だったのに、直前になって大川牧師から「第一礼拝で証した田中伝道師にしてもらうから」と言われました。私は礼拝堂の一番、後ろで座っていました。田中伝道師が証をし始めた時、「馬鹿野郎、ふざけるな!」と叫ぼうとしました。その時、イエス様の声が聞こえました。「お前はだれのために証をするのか」と。あの時、叫んでいたなら、今日の私はありません。

 ケネス・ヘーゲンは「御霊の声をみことばによって吟味する」ということを教えています。聖書は、神の御霊と神のことばは一致すると教えています。神の御霊が語られる時は、それは常にみことばと調和しているはずです。人々はさまざまな『声』を聞き、考えられるあらゆる種類の『啓示』を受けています。しかし、「私は声を聞いています」といつも主張している極端な人たちもいます。神さまが初代のクリスチャンたちを導かれたのと同様に、神さまは今日も私たちを導いておられます。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ですから、私たちは神の御霊がどのように、彼らを導かれたかを知るために、使徒の働きや聖書の他の箇所を調べる必要があります。ある人たちは幻を通して導きを受けたことがありました。御使いが現れて、何をすべきかを告げることにより、導きを受けた人々もいました。しかし、そのような現象は、そういう人々の人生で毎日起ったわけではありません。ですから、そのようなことは、神さまが導かれる通常の方法ではないのです。私たちは、ほとんど毎日、天使がだれかに現れて、人々に何かを告げているかのような印象を持っています。そうではありません。神さまが私たちの霊と一緒に証しし、神がご自身のみことばで言われている通りの方法で私たちを導びこうとしておられるのです。それなのに、私たちは幻とか天使の出現とかのようなもの望んでいるために、耳を傾けないことが多くあるのです。

ケネス・ヘーゲン師がこのように勧めています。あなたの人生を夢や幻、預言の上に建て上げてはいけません。あなたの人生を、みことばの上建て上げてください。それ以外のものは、二の次にしてください。あなたが内なる証ししか持っていなくても、その内なる証しに従うことに満足してください。あなたの霊を教育し、訓練し、開発し、内なる証しがあなたにとってますます現実のものとなるようにしてください。もし、超自然的な訪れや現れを神がよしとして、それをなしてくださったなら、神にただそのことを感謝してください。あなたの霊がみことばを思い巡らし、みことばを実行し、みことばを第一にするという特権にあずかっているなら、あなたの霊は権威ある案内役なのです。…2000年前のペンテコステの日以来、キリストを信じる者の内に聖霊が住むようになりました。この聖霊はキリストの御霊であり、神の霊です。私たちは聖霊の宮であるとも言えます。すでに、大いなる導き手である聖霊が私たちの内におられるのですから、聖書を読みつつ、このお方の声に耳を傾けましょう。聖霊はあなたに他の人々には、隠されている道を教えてくれます。知恵を与え、創造力を与え、あらゆる解決を与えてくださいます。そして、キリスト様のようなきよい心を与え、柔和で愛の人にしてくださいます。私たちはもっとすばらしい神さまご自身を心の中に有していることを忘れないようにしましょう。

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