2019年6月 7日 (金)

御霊に導かれる ローマ8:9-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.6.6

 ローマ89節をそのまま読むならば、クリスチャンとは「神の御霊」がうちに住んでおられる存在です。その直後に、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言い直されています。11節の「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」というのは、聖霊です。聖霊は「神の御霊」であり、「キリストの御霊」であり、そして「御霊」です。そして、私たちの「霊」があります。新解釈聖書は「御霊」と丁寧に訳していますが、新共同訳はすべて「霊」です。だれの霊なのか分けるのが難しいのです。旧約聖書の時代は聖霊が人の内側に住むということがありませんでした。一時的に、特別な人の上に留まっていただけです。イスラエルの民は、神さまの御声を聞くために、預言者や祭司のところに行かなければならなかったのです。彼らは、神さまの代弁者になって、「主はこう言われます」と民に告げました。つまり、しかし、これだと限界があります。そのため、エゼキエル3626,27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…私の霊をあなたがたの内に授け、私のおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる」と預言しました。つまり、人が霊的に生まれ変わり、聖霊が内に住むということです。このことを言っているのがヨハネ3章です。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。この預言が成就したのが、ペンテコステの日です。例外的に10人の弟子は復活の夜、イエス様から聖霊を内側に受けました。ペンテコステの日120人の弟子たちは、内側からも外側からも聖霊を受けたのです。ペンテコステ以来、キリストを信じる人の内側に、聖霊が住むようになったのです。これは、最もすばらしいことです。なぜなら、神が私たちと共に住むということが実現したからです。クリスチャンの内側には聖霊がいらっしゃいますので、預言者や祭司に聞く必要はありません。確かに教師や牧師も教えるために召されていますが、真理の御霊がその人におられますので、ちゃんと教えてくれます。それなのに教会は、「牧師に指導してもらわないと、間違えてしまう」みたいなことを言います。クリスチャンは、教理的に教えられていなくても、救いに関する知識は、みことばを読むとき、聖霊がちゃんと与えてくださいます。聖書を読めば基本的なことは内側におられる聖霊が教えてくれるのです。

 これまで、私はペンテコステのメッセージをするとき、聖霊が内側に住むことよりも、上から力を着せられて神の働きができると強調してきました。しかし、旧約聖書にはなかった、聖霊が私たちの内側に住んでくださるというすばらしいことが成就したのですから、もっと強調すべきであります。ところで、多くのクリスチャンが誤解していますが、私たちが新しくなるのは、私たちの霊であります。霊がイエス様を信じたとき、生まれ変わるのです。生まれかわるのは、肉体でもなく、また魂でもありません。霊が生まれ変わるのです。soulということばがありますが、欧米では、魂と霊の区別がはっきりしていません。特に、心理学を学んだ人はそうです。Ⅰテサロニケ523「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」人間は3つでできており、しかも、この順番が大切です。最も内側にあるのは霊です。人がキリストを信じると、霊が生まれ変わり、そこに神の御霊が臨在してくださいます。そして、神の御霊は、私たちの霊を通して私たちを導かれるのです。第二は魂です。魂は知性、感情、意志を司っています。しかし、この魂は生まれ変わりません。この魂は神に逆らい霊の言うことも聞きません。だから、ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。魂が砕かれ、変革されることによって、霊の言うことを聞くようになります。第三は肉体です。肉体は5感をもってこの世界と触れ合ってています。しかし、肉体と魂の境目に肉が宿っているので、罪を犯してしまいます。古い人は十字架につけられていますが、私たちがすべきことは自分の意思をもって肉を十字架に付けることです。パウロはローマ121「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と言いました。だれがあなたのからだをささげるのでしょうか?あなた自身がささげるのです。あなたがそれを扱わなければ、それは決して少しも扱われることはありません。私たちは天国に行くまで、私たちのからだは悪いことをしたがります。私たちが肉の中に住んでいる限り、罪の問題を持つことになります。しかし神に感謝すべきことに、悪魔を取扱い、肉を取り扱う方法や力や権威は、神のことばを通して私たちに与えられています。人間を外側からまとめていうとこうなります。①あなたがたの、からだをささげなさい。②魂に対しては、心を一新にすることによって変えられなさい。③私たちの霊はどうでしょう?神の命と性質は、あなたの霊の内にあります。その内側の人を霊によって支配者にしてください。霊の内に住んでおられる御霊に耳を傾けてください。神があなたを導かれるのは、あなたの霊を通してなのです。きょうは、神の御霊は私たちを具体的にどのように導かれるのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.内なる証し

 箴言2027「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す」とあります。このみことばを現代的に訳すと、「人間の霊は主のランプ、ライト」となります。神さまは私たちの霊を通して、私たちを照らし、私たちを案内してくださるという意味です。私たちは、自分のからだの感覚が言うことによって、神がどう導かれるか判断することがあります。しかし、神さまは私たちの感覚によって私たちを導かれるとはどこにも書いてありません、また、私たちは知的な視点から物事を見て、それに理屈をつけようとするところがあります。しかし、神さまが私たちの知性を通して私たちを導かれるとは、聖書のどこにも書かれていません。聖書は、人間のからだが主のともしびであるとは言っておらず、人間の知性が主のともしびであるとも言っていません。「人間の霊が主のともしびである」と聖書は言っているのです。私たちの内に住んでおられる神の御霊が、私たちの霊を通して働かれるのです。「内なる証し」とは、神の御霊が私たちの霊を生まれ変わらせたのち、神の御霊が私たちの霊に語るということです。その後、私たちの霊が魂に語るのです。言いかえると、御霊ご自身が直接、私たちの魂に語るよりも、生まれ変わった霊が私たち語りかける方がはるかに多いということです。だれが何もなくても、自分は神の子どもであると言うこと知っています。ローマ816 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ある教会では、洗礼証明書を発行している教会もあるそうです。その人が救われているかどうか、調べる方法はとても簡単です。「あなたは救われていますか?あなたは天国に行ける自信はありますか?」と聞けば良いです。御霊ご自身が、あなたの霊とともに「あなたは神の子です。救われていますよ」と証ししてくださいます。これは「内なる証し」です。

 ケネス・ヘーゲンに、イエス様が現れてこのようなことを教えてくれたそうです。「私が私のすべての子どもたちを導く第一の方法、主要な方法は、内なる証しによってです。もし、あなたがその内なる証しに従うことを学ぶなら、私はあなたを豊かな者としましょう。私は、霊的なことと同様、経済的なことも、生活のあらゆることであなたを導きましょう。私は、私の子どもたちが豊かになることに反対ではありません。私は、彼らが貪欲になることに反対です。」ケネス・ヘーゲンは、今まで、その内なる証しに従ってきました。だれかが、「あなたは百万長者ですか?」と先生に尋ねました。「豊か」ということばの意味を正しく理解していない人々がいます。「それは十分な供給」という意味です。それは「豊かに備えがある」という意味です。ケネス・ヘーゲンは、友人の「百万長者」のことを書いていました。だれかがアイディアを持ってきて、投資をしてほしいと言う時、その人は初めは頭で考えます。イエス様が「あなたは祈るとき、自分の奥まった部屋に入りなさい」と言われました。彼はこの意味は、物事を心の中から締め出すという意味だと思っています。自分の霊が何というか聞くまで待ちます。時には断食もします。三日間待つときもあります。ほとんどの時間、自分が何をすべきかを内なる証しによって内側で知るまで、ただ待っているのです。頭が「おい、そんなことにお金をつぎ込むなんて、おまえは馬鹿じゃないか。一文なしになってしまうぞ」。けれども、自分の心はこう言います。「前進して、それに投資しなさい」。自分はそのようにするのです。そして、今まで長年の間、私は1ダイム(10セント)も損をしたことがありません。彼は言いました。「私はいつも、私の霊に耳を傾けています。私の霊がせよということを、私はします。私はその内なる証しに従っています。」アーメン。

 詩篇1828「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」主がともしびをともされるのは、外なる人としてのあなたにではなく、内なる人、内側の人に対してなのです。何度も言いますが、神があなたを導いてくださる第一の方法は、その内なる証しによってなのです。私は1987年に、当亀有教会に赴任させていただきました(昔は来てやったと思っていましたが、今は砕かれたのでこう表現しています)。2つ目の神学校が卒業真近なとき、当亀有教会の山崎長老さんから大川牧師のもとに「だれかいないか、新しい血を入れたい」とラブコールがありました。当時、亀有は日本基督教団でした。神学校では、基督教団はリベラルで信仰がないと教えられていました。家内は「あなた一人で行って」と言いました。しかし、大川牧師が「日本基督教団から招聘を受けることはまずないから行ってみろ!」と言うのです。「先生、私が不要なのですか?」と悲しくなりました。祈るとイザヤ61章のみことばが来ました。でも、それはイエス様のメシヤ預言なので、私とは程遠いことだと跳ね飛ばしました。でも、追っ払っても、またそのみことばがやってきました。ついには、降参し、二歳と五歳の子どもを連れて家内とやってきました。頭と感情では来るつもりはありませんでした。しかし、「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」というみことばに、私の霊が従いました。ケネス・ヘーゲンのことばです。「あなたはどんな超自然的なしるしも必要ありません。異言と解き明かしも必要ありません。あなたはどんな預言も必要ありません。あなたはあなたの内側で、何をすべきかを知っています。内なる証しは、幻などと同じくらい超自然的な導きなのです。それはあまり目を見張らせるものではありません。が、多くの人々は、目を見張らせるものを捜していて、いつもずっと存在している超自然的なものを見逃してしまっているのです。」つまり、導きを得るために、だれか預言者のところに行く必要はないということです。預言はあります。しかし、多くの場合、すでにあなたに語っていることへの確認を与えるためです。

2.内なる声

 ローマ91「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」御霊が私たちを導かれる第二の方法は、内なる声によってです。この内なる人の声を私たちは「良心」と呼んでいます。あなたの霊には声があります。あなたの霊はあなたに語りかけます。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこのように書いています。「霊は良心、交わり、直覚からなっている3つの部分あるいは機能があります。良心は容易に理解できます。私たちはだれでもこれを良く知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。」アーメン。でも、ここで1つの問題が生じます。「イエス様を信じていない人でも、良心があるか?」ということです。実は良心はほとんど機能していないというのが、本当です。でも、良心がないわけではありません、ヘブル1022「私たちは、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ」と書かれています。この世では「あなたに良心のかけらでもあるなら」と言うような言い方があります。でも、生まれ変わっていない人の良心は神の目から見たら「邪悪な良心」なのです。ですから、イエス様を信じて、霊的に新しくなるとき、良心もはじめて機能するようになるのです。もし、あなたの霊が新しくされ、神のいのちの性質を内に持っているなら、それは安全な案内役なのです。Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」「持っている」というのは、現在形です。私たちは永遠の命を、今持っているのです。あなたが新しく生まれたクリスチャンなら、あなたは自分の霊の中に、今、神の命を持っているのです。あなたは自分の霊の中に、今、神の性質を持っているのです。人が自分の霊に従うことを学ぶなら、それは何とすばらしいことでしょう。Ⅰコリント216「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

 ケネス・ヘーゲンは、ただ死を待つだけの少年でした。医学が「私にはこれ以上何もしてあげられない」と言ったとき私はどうしたでしょう?私は「もし、私に助けがあるとすれば、それは聖書の中にある」と考えました。時間があまりなかったので、新約聖書から始めることにしました。マルコ1123,24にたどり着きました。私の外側の何者かが、どこからか私の知性に言いました。「それはあなたが肉体的に、物質的に、あるいは経済的に願うものは何でも」という意味ではない。「あなたがたが霊的に願うものは何でも、という意味である。病気のいやしのことは除外されている」と言いました。私は牧師に来てもらってマルコ1124を教えてもらおうとしました。ようやく一人の説教者が来てくれました。彼は私の手をさすり、専門家のような口調で言いました。「がまんするんだよ。あと二、三日もすれば、すっかり良くなるからね」。私はその意見を受け入れて、死を予期しつつ、そこに横になっていました。それから二か月たって、私は聖書を開き、マルコ1123,24を読みました。私は言いました。「主よ、僕は、だれかに助けてもらおうとしましたが、できませんでした。僕は、あなたのおことば通りにあなたを受け入れます。あなたがこの地上におられた時、あなたはそのみことばを言われました。僕はそれを信じようと思います。あなたがそのことで嘘をつかれたのでなければ、僕はこのベッドから出られるでしょう」。私の霊が私にこう言いました。「あの節で『信仰の祈りが病人を救う』と言っていることに気づきましたか?」私は大きな声で言いました。「はい、その節でそう言っています!」その時、私の内側でこういうことばが語られました。「その祈りはだれででもできるし、あなたにもできます」ハレルヤ!私はもう九か月かかりましたが、「私は健康であると信じています」と言いました。その内なる声が言いました。「では、起き上がりなさい。健康な人々は、午前1030分には起きているべきです」。私はそれまで体が麻痺していました。それは1つの戦いでした。私は自分の体を引っ張るように動かしました。突然、私は真っ直ぐに立っていたのです。それ以来、私は今までずっと真っ直ぐになっているのです。私は私の霊に耳を傾けたのです。信仰は霊から出るのです。

3.聖霊の声

 使徒101920「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』」聖霊が私たちを導かれる方法は3つあります。第一は「内なる証し」です。神の御霊が私たちの霊に直接話しかけることによって私たちを導かれます。第二は「内なる声」です。私たち自身の霊が私たちに語る、静かな声です。第三は「聖霊の声」です。聖霊があなたの内側で語られる時は、もっと威厳があります。その声があまりにもはっきり聞こえるので、耳に聞こえる声であるかのように思われることもあります。そういう時、だれが話したんだろう、と周りを見回すことさえするかもしれません。耳にはっきりと聞こえたように思われるので、だれかが後ろから何かを言ったのだろうと思うかもしれません。けれども、自分の内に語られたのだと、後で分かるのです。旧約聖書の中で、あの少年サムエルが「サムエル、サムエル」と自分の名前を聞いたことがあります。彼はエリが自分を呼んでいるのだと思いました。しかし、そうではなく、主がサムエルに語っていることを後で知りました。私も信仰生活40年たちますが、イエス様の声を聞いたのが2回あります。私が第二礼拝で証をする番だったのに、直前になって大川牧師から「第一礼拝で証した田中伝道師にしてもらうから」と言われました。私は礼拝堂の一番、後ろで座っていました。田中伝道師が証をし始めた時、「馬鹿野郎、ふざけるな!」と叫ぼうとしました。その時、イエス様の声が聞こえました。「お前はだれのために証をするのか」と。あの時、叫んでいたなら、今日の私はありません。

 ケネス・ヘーゲンは「御霊の声をみことばによって吟味する」ということを教えています。聖書は、神の御霊と神のことばは一致すると教えています。神の御霊が語られる時は、それは常にみことばと調和しているはずです。人々はさまざまな『声』を聞き、考えられるあらゆる種類の『啓示』を受けています。しかし、「私は声を聞いています」といつも主張している極端な人たちもいます。神さまが初代のクリスチャンたちを導かれたのと同様に、神さまは今日も私たちを導いておられます。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」ですから、私たちは神の御霊がどのように、彼らを導かれたかを知るために、使徒の働きや聖書の他の箇所を調べる必要があります。ある人たちは幻を通して導きを受けたことがありました。御使いが現れて、何をすべきかを告げることにより、導きを受けた人々もいました。しかし、そのような現象は、そういう人々の人生で毎日起ったわけではありません。ですから、そのようなことは、神さまが導かれる通常の方法ではないのです。私たちは、ほとんど毎日、天使がだれかに現れて、人々に何かを告げているかのような印象を持っています。そうではありません。神さまが私たちの霊と一緒に証しし、神がご自身のみことばで言われている通りの方法で私たちを導びこうとしておられるのです。それなのに、私たちは幻とか天使の出現とかのようなもの望んでいるために、耳を傾けないことが多くあるのです。

ケネス・ヘーゲン師がこのように勧めています。あなたの人生を夢や幻、預言の上に建て上げてはいけません。あなたの人生を、みことばの上建て上げてください。それ以外のものは、二の次にしてください。あなたが内なる証ししか持っていなくても、その内なる証しに従うことに満足してください。あなたの霊を教育し、訓練し、開発し、内なる証しがあなたにとってますます現実のものとなるようにしてください。もし、超自然的な訪れや現れを神がよしとして、それをなしてくださったなら、神にただそのことを感謝してください。あなたの霊がみことばを思い巡らし、みことばを実行し、みことばを第一にするという特権にあずかっているなら、あなたの霊は権威ある案内役なのです。…2000年前のペンテコステの日以来、キリストを信じる者の内に聖霊が住むようになりました。この聖霊はキリストの御霊であり、神の霊です。私たちは聖霊の宮であるとも言えます。すでに、大いなる導き手である聖霊が私たちの内におられるのですから、聖書を読みつつ、このお方の声に耳を傾けましょう。聖霊はあなたに他の人々には、隠されている道を教えてくれます。知恵を与え、創造力を与え、あらゆる解決を与えてくださいます。そして、キリスト様のようなきよい心を与え、柔和で愛の人にしてくださいます。私たちはもっとすばらしい神さまご自身を心の中に有していることを忘れないようにしましょう。

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2019年6月 1日 (土)

~ゼパニヤ書の喜び~     亀有教会副牧師 毛利佐保 2019/6/2

◆聖書箇所: ゼパニヤ書3章14-17節 (聖書引用:新改訳2017)

 

3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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5/29水曜日に鈴木先生が入院、頭部の血腫を取り除く手術をされました。

昨日無事退院なさったということで、ほっとしました。鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。

術後ということですので、先週に引き続き私が礼拝メッセージを担当させていただきます。

 

今月は6/30に私がメッセージ担当する予定でしたが、本日と入れ替わる形になりましたので、12の小預言書の続きとなります。

 

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」と続きました。

今日は9番目の預言書、「ゼパニヤ書」の一書説教です。

 

ゼパニヤ書は3章から成り立つ小預言書です。

1章-3章8節までは、ユダ、エルサレム、近隣諸国へのさばきの宣告について語られています。

3章後半は、異邦人を含めた回復と祝福、主の日がやって来た後の喜びについて語られています。

それまでの厳しいさばきの宣告をすべてひっくり返して、民だけではなく、主がともに喜びをもって楽しんでくださる様子が預言されています。

 

前回のハバクク書もそうでしたが、主は、どん底とも言える気の遠くなるような長い苦難の末に、驚くほどの、大いなる祝福を与えてくださるというU字型の希望を見せてくださいます。

ゼパニヤ書は、どん底から引き上げられた時の喜びが、半端なくはじけた感じで語られている書なので、今回は「ゼパニヤ書の喜び」と題しました。それではゼパニヤ書を見て行きましょう。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

①神のさばきは民を愛するがゆえ。(1-2章、3章1-8節)

 

ゼパニヤの名前の意味は、「主は隠される」です。彼はその名の通り、主からの隠されたメッセージをユダの民たちに伝えましたが、彼の預言に耳を傾ける者は少なかったようです。

 

ゼパニヤが活動した時代は、前回語ったハバククやエレミヤとほぼ同時期のヨシヤ王の時代です。

冒頭でゼパニヤは、自分の家系をわざわざ四代も遡って、自分はあの偉大なる王ヒゼキヤの子孫であると語っています。これは、ユダの民たちに、この預言が王家の血統である者が語る権威あるものだということを示したかったからだと考えられます。

 

おそらくヨシア王は、ゼパニヤ預言の影響を受けて、宗教改革を行なったのではないかと考えられます。

しかしヨシヤ王の宗教改革も虚しく、最後の善王だったヨシア王が戦死したときから、南ユダ王国は70年間のバビロン捕囚へと突き進んでいきました。

 

1章では、ユダとエルサレムのすべての住民に下された神のさばきが語られています。

ユダの罪は、1:4-6に書かれています。

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1:4

わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。

その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。

1:5

そして、屋上で天の万象を拝む者どもを、また、主に誓いを立てて礼拝しながら、

ミルコムに誓いを立てる者どもを、

1:6

主に従うことをやめた者ども、主を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」

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ここに【ユダの罪】をピックアップしてみます。

  • バアル神崇拝(カナン人の神)
  • 天体礼拝
  • ミルコム神崇拝(アモン人の神)

※マナセ王の時代には、人身犠牲を伴う偶像崇拝を行なったという記述もあります。

 

このようにユダの民は、聖書の神以外のものを神のように崇拝しました。

それゆえ、「主に従うことをやめた者、主を尋ねず求めない者を断ち切る」と主は怒りをあらわにしました。

 

「主はねたむ神」と聖書の随所に書かれていますが、これは対人関係の「ねたみ」とは質が違います。

神はイスラエルの民を、まるで自分の妻であるかのように愛してくださっています。

ですから民は、真の神の愛に応えて、神のみを夫として愛し仕えなければなりません。

 

しかし民の偶像崇拝によって神との契約関係が破られてしまいました。

神は民を愛するがゆえにねたまれ、さばかれます。神が最も嫌われる罪は偶像崇拝です。

モーセが神から与えられた十戒には、神が何についてねたまれるかについてはっきり語られています。

 

<出エジプト20:4-6>

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20:4

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

20:5

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神

わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

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ユダの民はこのモーセの律法を何代にも渡って語り継ぎ、熟知していたはずです。

それなのにユダとエルサレムの住民たちは偶像崇拝の罪を犯し続けましたので罪深いです。

 

特に、ヒゼキヤ王の息子マナセ王が55年もの長きに渡って及ぼした悪影響は、民たちを罪に対して鈍感にさせました。その罪は息子アモン王に引き継がれ、その息子ヨシヤ王が宗教改革を行なっても、残念ながら回復しなかったということです。罪に鈍感になるということの恐ろしさを、私たちもここから学びましょう。

 

またゼパニヤ2章では、近隣諸国の罪とさばきについて言及しています。

「彼らはわたしの民をそしり、自分の領土のことで高ぶった。」(2:8,10)と語られている通り、近親諸国に対するさばきは、反ユダヤ主義に対するさばきでもあります。

 

神は民をねたまれ、ことごとく滅ぼすと言われます。

しかしそれは、主が民たちを愛するがゆえであり、主は完全に滅ぼし尽すことはなさいません。

このような状況にあっても、信仰をもち続け、主を慕い求める者たちには希望を与えてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

②神は残りの者、散らされた者を集めてくださる。(3章9-13節)

 

ここに神のご計画があります。

神は人間の罪が増長して、パンパンに膨らんで、もうどうしようもなくなったときに、すべてを散らされることがあります。そして、神様が定められた御計画のときに、残りの者、散らされた者を再び集めてくださいます。

 

<ゼパニヤ3:9>

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3:9

そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。

彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。

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「唇を変えて清くする。」は、英語の聖書(NKJV)では a pure language (純粋な言語)と書かれています。

この「唇、言語」と訳されたヘブライ語は、「שָׂפָה(サーファー)」と言いますが、この「שָׂפָה(サーファー)」が聖書で初めて使われているのは、創世記11章1~9節の「バベルの塔」の出来事の箇所です。(11:1, 6, 7, 7, 9)

 

バベルの塔の話を要約します。人は知恵をもち、おごり高ぶり、天にも届くようなバベルの塔を築こうとしました。しかし神はそれを阻止されました。神は、それまでひとつであった言語をバラバラにして混乱させ、コミュニケーションを取れなくしました。彼らには一致がなくなり、バベルの塔や町を築くことはできませんでした。

 

ゼパニヤ3:9では、バベルの時代からバラバラになったまま現在にいたる世界中の言語を、a pure language (純粋な言語)に変えてくださり、与えてくださると語っています。「彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。」創世記11章のバベルの塔の出来事が、終末の主の日に見事に回収されていきます。

 

「言語」というと、現在使われているヘブライ語にも、神様の不思議な導きがあります。

ご存知の方もおられると思いますが、実は、旧約聖書の古典ヘブライ語は、ユダヤ人が紀元70年にローマから世界各地に散らされてから二千年近く、日常語としては使われていませんでした。

 

聖書や書籍でしか使われなくなった古典ヘブライ語は、なんと、20世紀に日常語として復活しました。

その立役者は、ロシアで暮らしていたユダヤ人の学者、エリエゼル・ベン・イェフダー(1858年 - 1922年)という人です。

彼はロシアからパレスチナに移り住み、古典ヘブライ語を現代ヘブライ語に直して日常語として使いました。

彼は、使われなくなっていた単語を文献から探し出し、現代的な概念を表す新語を編み出しました。

そして、全16巻からなる、『ヘブライ語大辞典』を編集し、彼の死後それは出版されたそうです。

 

そのようなユダヤ人たちの努力によって、現在ヘブライ語はイスラエルでは公用語として使われています。

このように、一度日常語として使われなくなってしまった古代の言語が再び復活して使われるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけだそうです。

ここには確かに神のご計画があり、イスラエルのために散らされた言語を集めてくださったと考えられます。

 

このように、聖書には隠された啓示があります。ユダヤ人の文学者に、エリック・アウエルバッハという人がいます。彼は、ホメロスのオデッセイと旧約聖書の物語の対照についてこう語りました。

 

「聖書の物語はホメロスのように数時間、読者の現実を忘れさせようとするのではなく、現実を乗り越えさせようとする。自分たちの人生はこの世界の一部であり、世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくれる。」

 

聖書の預言通り、現実にイスラエルの民はバビロンに捕囚され、70年後にはエルサレムに帰還しました。

そして紀元70年にはローマ帝国からの迫害によって散らされました。

しかし神はすべてを滅ぼすことはなさらず、残りの者、散らされた者を集めてくださいました。

1948年にイスラエル国はついに再建され、散らされた残りの者たちが戻ってきました。

まさにこの出来事は、聖書の隠された啓示であり、世界の歴史を形造る出来事となっています。

 

主の素晴らしいところは、このような歴史上の大きな出来事だけではなく、私たちの日常の小さな出来事にも聖書のみことばを通して介入してくださることです。

主のみことばは、私たちを励まし、強くしてくださり、現実を乗り越えさせ、私たちの人生もこの世界の一部であり、私たちは世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

③シオンの娘よ。喜び歌え。(3章14-20)

 

<ゼパニヤ3:14-16>

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3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

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※新改訳2017では、3:14 「喜び勝ち誇れ」が「喜び躍れ」になっています。

 

「主の日」「その日」というのは、ゼパニヤの時代においては、バビロン捕囚と帰還のことであり、歴史としてのイスラエルの回復を表しています。

しかし「主の日」が真に意味するのは、終末の時、イエス様の再臨の時、メシア王国の実現の時です。

 

「主の日」は、ギリシャ語で「καιρός(カイロス)」と言います。カイロスは、通常の時間の流れの中に突如介入される神の時を表します。終末の主の日には、さばきと祝福が同時に起こります。

そしてそれは、とんでもないほどの喜びに満ち溢れるときであると、ゼパニヤは語っています。

主の日には、イスラエルの民だけではなく、主を慕い求める異邦人もともに、喜び歌い、喜び叫び、喜び躍ります。まるで、ダビデの幕屋での礼拝の状態とも言えます。

 

ダビデは主の箱をエルサレムに運び入れるとき、妻のミカルがさげすむほど、力の限り踊って神を褒め称えました。そして、幕屋の中の至聖所に主の箱を置き、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げました。

ダビデは、レビ人のアサフとその兄弟たちを主の箱の前で仕えさせました。

 

<Ⅰ歴代誌16:5-6>

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16:5

かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは琴や竪琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。

16:6

祭司ベナヤとヤハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた。

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そのエキサイティングな礼拝は、ダビデがエルサレムで王になって死ぬまでの33年間、24時間絶え間なく続いたと言われています。(礼拝を司っていたレビ人たちは、大変だったろうな~と、ちょっと思います。)

 

この日本においても、ダビデの幕屋の回復を目指す「国家的ダビデの幕屋の回復」という運動があります。

その運動には私たちがよく知っているワーシップリーダーとか若い牧師が賛同して参加しています。

内容としては、活動に賛同する全国の牧師や信徒が、日本の国家規模のダビデの幕屋の回復のために、24時間祈りを繋ぎ、断食祈祷をして、賛美と祈りをもつというものです。

 

2014年~2015年にかけてとても盛りあがっていたようです。

その年は、多くの月食が起こり、日食も起こり、ユダヤの祭儀も重なったことから、「主の日」が来るのではないか、何か大きな世界的な変化が起こるのではないかと言われていました。

 

結果的には世界的な変化は起こりませんでしたが、おそらく本当に主の日が来たときは、花嫁が、待ちわびた花婿を迎えるように、ダビデの幕屋以上の素晴らしい喜びが満ち溢れることでしょう。

ずっと賛美しても、叫んでも、躍っても、祈っても全く疲れない。まさにそれは神の国の完成です。

 

その神の国の完成についてですが、「神の国は既に到来し、未だ到来せず。」とよく表現されます。

「既に到来」とは、イエス様が受肉し公生涯を歩まれ、十字架の贖いと復活を遂げられたことで既に到来したという意味です。

「未だ到来せず」は、イエス様の再臨(主の日)において神の国が完成するので、その意味では未だ到来していないということです。

 

私たちは、「既に」で、神の国の前味を味わえる祝福をいただいており、イエス様への信仰をもつことによって、永遠のいのちをいただくことができます。

そして教会を通して福音が拡大し、神の共同体として豊かな信仰生活を送ることができます。

 

しかし、世の悩み苦しみ、罪との戦い、戦争、飢餓、天変地異などからの解放はまだ得ることができません。

つまり、神の支配がすべてに及んでいないということであり、「未だ」神の国が完成していないということになります。

 

しかし主の日は必ずやって来ます。その日、私たちは喜び歌い、喜び叫び、喜び躍るのです。

それが「将来の希望」です。

イエス様は、私たちに喜びをくださるために地上に降りてきてくださいました。

なぜなら、イエス様は私たちを造られたときに、このように喜んでくださっていたからです。

 

<箴言8:27-31>

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8:27

主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、

8:28

上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、

8:29

海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、

8:30

わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。

8:31

主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

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ここでの「わたし」は、イエス様を表しています。

主とイエス様が私たち人間を主の似姿として造られたとき、イエス様は毎日喜び、楽しんでおられました。

そしてイエス様は、主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んでくださっていました。

それなのに、アダムとエバが罪を犯し、人はこの麗しい世界から出なければなりませんでした。

 

しかし、主の日が来た時に私たちは再びこの麗しい世界に集められ、戻ることができます。

その時、主もともに喜んでくださいます。ゼパニヤ3:17で語られている通りです。

 

<ゼパニヤ3:17>

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3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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そしてゼパニヤ書の最後に、主は力強いみことばで私たちを力づけてくださいます。

<ゼパニヤ3:19-20>

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3:19

見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。

3:20

そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。まことに、あなたがたの目の前でわたしがあなたがたを元どおりにするとき、わたしは、地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。──主は言われる。」

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主は南ユダより先に滅びてしまった北イスラエルの民を忘れてはおられません。

シオンの娘である南ユダの民とともに、散らされた残りの者を集め、祝福を与えると語られています。

異邦人である私たちは、イエス様を信じる信仰によって、その祝福に接ぎ木された者たちです。

イエス様の恵みを心から感謝し、主の日を待ち望み、この地上においても喜びの前味を味わいましょう。

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2019年5月25日 (土)

~主は私の羊飼い~詩篇23篇 亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: 詩篇23篇 (新改訳2017)

 

<ダビデの賛歌。>

23:1

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2

主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

23:3

主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

23:4

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。

あなたがともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

23:5

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。

私の杯はあふれています。

23:6

まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。

私はいつまでも主の家に住まいます。

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本日は体調がすぐれない鈴木先生の代わりに礼拝メッセージをさせていただきます。

先週の礼拝でお伝えしたとおり、頭部の外傷による影響で再検査となったようです。

鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。

 

私がメッセージを担当する時は、12の小預言書を順番に語っていますが、本日はピンチヒッターということで、詩篇の23篇からメッセージを取り次がせていただきます。

 

詩篇23篇は、羊飼いである主が、羊である私たちを導き守ってくださることへの感謝と信頼に満ちた詩です。とても有名な聖句なので、暗唱聖句として覚えておられる方も多いと思います。

教会学校でも、「主の祈り」とともに「詩篇23篇」を暗唱しています。

 

海外の映画やドラマでも、重要なシーンで詩篇23篇を暗唱するという映像が見られることがあります。

大島渚監督の映画、「戦場のメリークリスマス」では、デヴィット・ボウイ扮するイギリスの陸軍少佐が、首から下を生き埋めにされるという処刑シーンで、捕虜たちが詩篇23篇の讃美歌を歌っていました。

 

本日は、この詩篇23篇をいま一度読み返して、主の臨在の中で、主のいつくしみと恵みとを味わい知る喜びを、みなさんと分かち合いたいと思います。

 

◆羊飼いである主は、

①満ち足りる心を与え、休ませてくださる。

 

この23篇の冒頭には、<ダビデの賛歌>と書かれていますので、この23篇は、ダビデ王が自らの体験を歌にしたと考えられます。どういった状況を想い起してこの詩を歌ったかについて、イメージしてみましょう。

ダビデ王の生涯は戦いの連続でした。

ダビデがあまりに多くの血を流したことから、主はダビデが神殿を建てることをゆるさず、息子ソロモンに建てさせたほどです。

 

<Ⅰ歴代22:8>

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あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。

わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。

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ダビデは、外国の敵だけではなく、主君であるサウル王に命を狙われたり、息子のアブシャロムに狙われたりしました。ダビデはこのふたりとは戦いたくありませんでしたので、彼らから逃げまどい隠れていました。

なぜなら、サウル王は主に油注がれた王なので、ダビデは主を恐れて主に油注がれた人には手をかけたくなかったし、アブシャロムは自分の愛する息子だったからです。

 

そのような状況で生まれたのが、詩篇23篇です。

まず、1,2節を見てみましょう。

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23:1

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2

主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

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2節は新改訳2017版の聖書では、今までの新改訳聖書とは少し聖句が変わっている箇所があります。

23:2  主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(新改訳3版)

23:2  主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。(新改訳2017)

 

新改訳2017では、「いこいの水のほとり」を「いこいのみぎわ」という言い方に変えています。

この「みぎわ」という言い方は、口語訳聖書で使われている言い回しで、日本語としてとても美しいことから採用されたようです。私もこの「みぎわ」という言い方はすごく好きです。

 

因みに、昨年新しく改定されて発行された、カトリックとプロテスタントの共同で訳された「共同訳聖書」では、「憩いの汀」と、漢字が使われています。

「礼拝に相応しい格調高く美しい日本語訳を目指した」ということですが、格調高い漢字を増やし過ぎて、聖書がさらに難解になってしまうとしたら、賛否両論ありそうですね。

 

話は戻りますが、羊飼いである主は、ダビデが敵の攻撃からやっとのことで逃れ、身も心も疲れ果てているときに、食料を与えてくださり、いこいのみぎわで休ませてくださいました。

それゆえ、ダビデは「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と、心から主を褒め称えています。

 

また、主はダビデだけではなく、主を慕い求める者たちには、同じように必要を与えてくださっています。

イスラエルの民にとって大きな出来事である、モーセの時代の荒野での40年間も、羊飼いである主は養ってくださいました。

 

<申命記8:7-10>

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8:7

あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、

8:8

小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。

8:9

そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。

8:10

あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

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主はダビデと同じように、イスラエルの民たちにも必要を与えましたが、ダビデとは大きな違いがありました。

モーセはイスラエルの民たちに、神が与えてくださった約束の地で食べて満ち足りた時、主をほめたたえなければならないと言いましたが、はたして民たちは主をほめたたえたでしょうか?

 

どうもそのようには見えません。

時代はモーセからヨシュアへ、そして士師、サムエルと流れていきましたが、民たちは、いつの時も不平不満だらけで偶像崇拝を行ない、心休まることなく戦い続け、自らの利益だけを考えて過ごしていました。

 

ダビデとの違いはここです。大切なのは、「満ち足りる心」「満足する心」です

ダビデは、毎日戦いの日々だったにも関わらず、どんな状況でも主の臨在を感じることができ、感謝し、褒め称え、詩を歌いました。ダビデは羊飼いである主によって、満ち足りる心をいただいたのです。

 

新約聖書では、ピリピの教会の人々にパウロはこのように語っています。

<ピリピ4:11-13>

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4:11

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。

4:12

私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

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パウロは弟子のテモテにもこのように語っています。

<Ⅰテモテ6:6-8>

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6:6

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

6:7

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

6:8

衣食があれば、それで満足すべきです。

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人の欲望というものは、満足する心がない限り際限なく続きます。

心理学者マズローの「欲求5段階説」は、それをよく表しています。

①生理的欲求 (生命を維持したい)

②安全の欲求 (身の安全を守りたい)

③所属と愛の欲求 (他者と関わりたい。集団に属したい)

④承認欲求 (自分を認めたい。他者から価値を認められたい)

⑤自己実現の欲求 (能力を発揮して創造的活動をしたい)

【⑥超越的な自己実現の欲求 (至高体験を経験したい)】

 

マズローは段階が上がっていくことを良くない事だと言っているわけではありません。

人類の文化の発展には⑤や⑥は必要です。

自己実現するために、夢を追いかけたり、欲求を満たすために努力することは悪いことではありません。

 

しかし、夢や欲求が、ただの貪欲に変わってしまうとやっかいです。

なぜなら貪欲な心というのは、現状に対する不満に満ち溢れ、自分を高慢にさせ、神のように振舞ったり、偶像崇拝をしてしまったりというように、人をすっかり変えてしまうからです。

そのような姿は、神様が喜ばれる姿ではありませんし、いずれは自分自身が壊れてしまい、周りの人との関係も崩れてしまいます。

 

ですから、良い羊飼いである主に信頼しましょう。主は私たちの心に平安を与えてくださいます。

「私は乏しいことがありません。」・・・と告白できるほど、満ち足りる心を与えてくださいます。

「緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」・・・羊が安心して草を食べるように、主は私たちに必要なものを与えてくださり、憩いのみぎわで、疲れと渇きを癒やしてくださいます。

それゆえ、主を心から褒め称えましょう。主は褒め称えられるべき御方です。

 

◆羊飼いである主は、

②たましいを生き返らせ「シューヴ」(שׁוּב)、いのちに至る道をくださる。

 

次に3節を見てみましょう。

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23:3

主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

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「たましい」という言葉は、ヘブライ語で「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)という言葉で表されています。この言葉は、前回のメッセージでも語りましたが、本来の意味は「喉」です。喉は、食べたり飲んだり、息をしたりする重要な部分です。転じて、「飢え渇きや欲望」を持った人間を表します。

 

ですから、私たちの「ネフェシュ」「たましい」は、いつも飢え渇いているのです。

例えば、<詩篇42:1>には、

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鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

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この箇所は、飢え渇いているたましいが、神を慕ってあえいでいる様子がよく表れています。

 

そして、「たましいを生き返らせ」の、「生き返らせ」に使われているヘブライ語ですが、それは「シューヴ」(שׁוּב)といいます。シューヴの本来の意味は、「神に立ち返る」「悔い改める」です。

なぜ先ほどから、ネフェシュとかシューヴとかヘブライ語を出してくるかというと、旧約聖書はヘブライ語で書かれていて、その単語には日本語では表現しきれない意味が含まれているからです。

「シューヴ」(שׁוּב)の「神に立ち返る」「悔い改める」の意味が、ここでは、「生き返らせ」になっています。

英語の聖書では、ここは“restore”(リストア) と書かれています。

“restore”は、回復する、元気を取り戻す、生き返る、復帰する、再建する、新しい力を得る、といった意味があるので、ここはやはり「悔い改め」よりも、「生き返らせる」が訳としてはしっくりきます。

 

いずれにしても、自分の力でたましいが生き返るのではなく、「主が生き返らせてくださる」という受動的なところがポイントです。私たちは、信仰によって創造主である神にすべての主権があることを知っています。

ですから、主の偉大さを恐れるとともに、受動的にすべてを受け入れて、主の大きな力強い御手の中に身を委ねることで、身も心も霊も、安心することができるのです。

 

さらに3節後半はこう続きます。

「御名のゆえに私を義の道に導かれます。」と歌われているとおり、主は私たちを、御名のゆえに「義の道」、つまり、「いのちに至る道」へと導いてくださいます。ほんとうに主への感謝にあふれます。

 

続く4節。

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23:4

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。

あなたがともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

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人生は山あり谷ありです。「信仰をもっていたなら災いが起こらない」などというわけではありません。

聖書に出て来る信仰者たちも、実に多くの苦難に見舞われています。

私たちも、いつ災いに見舞われるかわかりません。いつ天に召されるかもわかりません。

 

しかし、たとえ人生の暗闇の中にいたとしても、主がともにおられるという祝福があります。

「主がともにおられる」というのは、主の臨在をいつの時も感じることができるという幸いです。

「主は与え、主は取られる」のですから、恐れずに主と歩めば良いのです。

 

次の聖句、「あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」と読むと、羊飼いが羊をピシーッ!とむちで叩いたり、杖でオラオラーーっと小突いたりしている図が浮かんでしまう人がいるかもしれません。

しかし「むちと杖」というのは、羊飼いが猛獣を追い払うために使ったり、迷っている羊を正しい道に導くために使った道具です。

 

聖書ではイエス様を羊飼いに例えたり、人間を羊に例えたりしますが、それは人間には羊の性質に似ているところがあるからです。羊は動物の中でも、おっとりしていて弱いし、頭も良くないし、目も悪いし、何も考えずに他の羊と同じことをしてしまいます。

例えば一匹崖から落ちると、後ろからついていった羊たちが次々と崖から落ちてしまうといった感じです。

 

だからこそ、しっかりと導いて守ってくれる羊飼いが必要なのです。

主が羊飼いであるならば、どんな苦難が起こっても、主がともにいてくださるから恐れることはありません。

愛をもって導いてくださる、主のむちと杖こそ、私たちの大きな慰めとなります。

 

次に5節を見てみましょう。

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23:5

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。

私の杯はあふれています。

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敵が迫って来ていても、主は食卓を整えてくださるというのは、主からの特別な守りを表しています。

敵の前でも平然と食事が出来るくらい、私たちの安全を保障してくださるということです。

また、今までの聖書は「油」と書かれていましたが、新しい訳では「香油」に変わっています。

このことからも、この油そそぎは、任職の油そそぎというよりも、良い香りの香油をたっぷり注いでいただくことによって、安心や喜びが、杯いっぱいになるようにあふれるという意味になります。

 

羊飼いである主は、私たちの「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ) たましいを「シューヴ」(שׁוּב)生き返らせてくださいます。

そして、いのちに至る道をくださり、敵から守り、喜びで満たしてくださるとは、なんと幸いなことでしょうか。

 

◆羊飼いである主は

③惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる。

 

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23:6

まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。

私はいつまでも主の家に住まいます。

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「いつくしみ」と訳されている「トーヴ」(טוֹב)は、以前も出てきた言葉です。

「トーヴ」は「良い」という意味で、「トーヴアドナイ」は、「主は永遠に良い御方」を意味する言葉です。

主は私たちに、惜しみなく良いものを与えようとしておられます。

 

「恵み」と訳されている「ヘセド」(חֶסֶד)は、神の真実な姿、永遠にゆるがない愛と憐みを意味します。

トーブもヘセドも神のご性質を表すためによく使われる重要な言葉です。

「いつくしみと恵み」が追いかけて来るとは、いつくしみと恵み、主の臨在に包まれていることを意味します。

 

「私はいつまでも主の家に住まいます。」と言ったダビデはこのように願いました。

<詩篇27:4 >

**********************************************

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

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ダビデは、神との交わりの場である神の宮に行って礼拝をすることが最大の喜びでした。

彼は、主の臨在の中で主との交わりを第一とすることで、主の栄光を周りの人々に表していったのです。

 

ダビデから後の時代に、イエス様は人の手による神殿を壊されました。

そしてイエス様御自身の身体をもって神の宮を建ててくださり、私たちが自由にキリストの身体である教会に集い、主との交わりができるようにしてくださいました。(ヘブル10:19-25)

 

私たちが主の臨在の中で礼拝する時に、聖霊なる神様が確かに働いてくださいます。

羊飼いである主は、惜しみなく、いつくしみ「トーヴ」(טוֹב)と恵み「ヘセド」(חֶסֶד)をくださる御方です。

私たちもダビデのように、詩篇23篇を歌い、主の臨在があふれる宮の中で主を礼拝し、主の栄光を周りの人々に表していけるように祈っていきましょう。

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2019年5月17日 (金)

ニューエイジとの違い Ⅰヨハネ4:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.19

 キリスト教会では奇跡が起こるとか、神の御姿に変えられると言います。また、私たちは聖霊による啓示や導き、預言を信じています。さらには、キリストの御名による癒しや死人のよみがえりさえも信じています。しかし、1970年代から霊的な体験を強調するニューエイジが誕生しました。新約聖書の時代、グノーシスという神秘主義がありましたが、近年、東洋の宗教やオカルトと合体して、「新しい時代」ニューエイジなる偽物が登場しました。私たちはニューエイジのことをある程度知っておかないと、惑わされて、救いから漏れてしまう恐れがあります。

1.私は神ではない

ニューエイジは1970年代から今の形になったと言われています。その頃は、ウッドストックというロックのフェスティバルがありました。ヒッピーを含め40万人も集まったロックの祭典です。私も1970代のロックは大好きですが、だんだんとニューエイジぽくなっていきました。そういえば、アクエリアスという曲がありました。Age of Aquariousは「水がめ座の時代がやって来る」というニューエイジの歌です。それから、「宇宙のファンタジー」は「すべての人は、心の中に宇宙を持っている」と歌っています。ジョン・デンバーはニューエイジ・コミューン(New Age Commune、ニューエイジ村)を作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指し、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて生活をしたそうです。ジョージ・ハリスンが歌った、My sweet Lordは、インドのクリシュナへの信仰を歌ったものです。歌だけではなく、アニメの世界もニューエイジのものが多数あります。ある資料によると、『ぼくの地球を守って』『機動戦士ガンダム』『セーラ・ムーン』『ちびまるこちゃん』のテーマソング「おどるぽんぽこりん」がそうだと言われています。尾形守牧師は、『脳内革命』『神々の指紋』は、ニューエイジであるとはっきり言っています。

 こう考えると、ニューエイジはとても身近にある惑わしの宗教です。キリスト教の信仰も、「繁栄の神学」、「積極的思考」「ホリステックな癒し」を強調し過ぎると、そちらに行く危険があります。しかし、偽物があるからと言って、本物がないわけではありません。ただし、敵は巧妙に隠れて、真の神さまから私たちを離そうとしています。結果的に、十字架の贖いを否定し、キリストの神さまから離れるということです。ニューエイジは「私たちは神の子であり、神のようになる」と言います。彼らが引用するみことばがこれです。使徒1728「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。」パウロが「私たちもまたその子孫である」とは、ギリシャの詩人からであり、聖書のみことばではありません。何故、パウロが異教的なものを借用したのか、多少疑問が残ります。私もある真理を証明するために、新聞の社説や評論家が言ったことを引用するときがあります。なぜなら、この世の中にも、一般恩寵という真理のかけらがあるからです。しかし、文脈を飛び越えて捉えられてしまうと、危険です。私たち人間は神さまの被造物であって、神さまと同等ではありません。しかし、キリストにあって「神の子(神の養子)」とされました。神に似た者として造られましたが、神ではありません。もし、ニューエイジが言うように自分が神になるなら、自分が絶対者になり、何者にも支配されない高慢な者になるでしょう。悪魔は「自分が神のようになるんだ」と堕落してしまいました。私たちは神さまの子どもですが、神さまではありません。私たちは神さまに似たものとして造られましたが、神になるわけではありません。正常な頭脳で聞いているとアーメンですが、ニューエイジに汚染されたら、このところが分からなくなります。神さまは私たちに知性や理性を与えてくださいました。これをなくすのではなく、神さまの真理と一致させるように用いるためにあります。信仰は、受動的なマインドコントロールではありません。自ら考えて、自らを真の神さまにささげるのです。

 ニューエイジはいろんな姿を変えて私たちの身近に迫っています。良く聞くのが「自己啓発セミナー」です。ウェブには「第一にアメリカ流のセラピー(心理療法)であり、第二はセールスマンをはじめとするビジネス・トレーニングでもあり、第三は、現象面では新新宗教やニューエイジとも重なり合う」と書いてありました。セミナーは「ニューエイジへの入り口」であり、セミナーなどをきっかけにチャネリングなどに参加したり、『聖なる予言』などの精神世界本を読み始めたりすることもしばしばあるようです。セミナーのトレーナーや主宰者の多くは精神世界の熱心な信奉者です。私も「私はできる」「信じれば何でもできる」というようなことも言います。しかし、それは「主にあって」です。彼らの本を読むと、似たようなことが書かれていますが、それを行って下さるキリストの名は全く登場しません。確かに、信じれば何でもできるという、可能性思考には力があります。でも、私たちには父なる神さまがおられ、御心とご計画の範囲内です。私たちは成功ではなくて私たちは栄光を求めなくてはなりません。もし、何か大きなことをしたら自分に栄光が来るのは偽物です。私たちは常に神さまに栄光を帰していくのです。神さまが私たちの支配者であり、私たちは神さまのしもべです。しもべと言っても奴隷でありません。神さまの息子、娘として喜んで仕えるのです。

2.霊は聖霊である

10年くらい前から、「スピリチャル」ということばが良く聞かれるようになりました。スピリチャルと言っても、神の霊ではなく、目に見えない霊的な力のことです。現在、スピリチャル・カウンセラーなる人たちがたくさんいます。心理学や催眠術を用いて、心を癒そうとします。しかし、催眠術はとても危険であり、無意識の状態から悪霊を招いてしまいます。また、ニューエイジがよくやるのがチャネリングです。高次の霊的存在、宇宙人、死者の霊と交信して情報を得るものです。昔から、霊媒や口寄せがありましたが、死者からの御告げを受けるというおぞましいものです。日本では恐山のイタコや沖縄のユタが知られています。レビ記20:27「男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」と書いてあります。なぜ、こういうものをしてはいけないのでしょうか?人間は生まれつき霊的な存在です。人間には霊があります。でも、それは霊である神さまと交わるためです。ヨハネ4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちは霊によって、霊なる神さまを礼拝するのであります。ところが、チャネリングとか霊媒や口寄せをするとどうなるでしょう?招かれるのは、高次の霊とか、死者の霊ではありません。やってくるのは悪霊です。その人は、悪霊に扉を開けて、招いているのであって、とても危険です。では、なぜ、死者の霊が出て来て、おじいちゃんやおばあちゃんのことを知っているのでしょう?それは死んだ人にとりついていた悪霊が先祖の霊のふりをしてやってくるのです。彼らは先祖たちにとりついていたので、生前の情報を持っていると考えられます。しかし、悪魔は嘘つきであり、人々を欺くためにやってくるのです。本来はまことの神さまを礼拝して、導きを得なければなりません。もし、チャネリングとか霊媒や口寄せをするなら、まことの神さまはあてにならないので、悪霊に聞くということになります。占いもそうですが、まことの神さまを認めない、背信的行為です。

 Ⅰヨハネ41,2「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」アーメン。この手紙が書かれたのは、紀元8090年頃と言われていますが、当時、グノーシスという異端が流行っていました。これは、神話や哲学、ユダヤ教など、あらゆるものを混合した神秘主義の宗教でした。創造神よりも高い霊的存在を求め、天使を崇拝したり、いろんな儀式をしました。そうなると、非日常的になり、社会的生活をしなくなります。神秘的な体験ばかりを追い求めるからです。ヨハネは「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言いました。どうやって試すのでしょうか?その霊が「人となって来られたイエス・キリストを告白するかどうか」です。彼らは肉体を極端に蔑み、魂だけを尊びます。しかし、イエス・キリストは、受肉した神であり、肉体と魂、両者を大事にしました。仏教も物質やこの世のものを軽んじる傾向がありますが、これらは神さまが造られたものであることを忘れてはいけません。もちろん、物質やこの世のものはやがて消えてなくなります。でも、永遠の御国が来るまでは、それらのものは、私たちが生きるために存在するのです。私たちは霊的なものを強調しますが、バランスを取るということがとても大切です。私たちはキリストの父なる神さまと交わるのです。そのために、聖霊が私たちの霊を生かし、まことの神さまと交わることを可能にしてくださいました。エペソ1:13,14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」アーメン。

3.瞑想は父なる神と

 瞑想は私たちも行います。詩篇12「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。ヘブル語で「ハーガー」は、「口ずさむ」「思い巡らす」という意味です。東洋の宗教にも瞑想があります。しかし、彼らは自分を無にして、宇宙の霊と交わり、その霊と一体になろうとする目的でしています。彼らの神は人格のない神であり、汎神論的なものです。本来私たちは罪があるので、神さまのところには行けません。しかし、キリストによって贖われたならば罪がきよめられ、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。私たちが行う瞑想は、聖書のみことばを通して、神さまがどんなお方か知るためです。その時、神さまは私たちと交わってくださり、啓示を与え、慰めを与え、導きや知恵を与えてくださいます。でも、私たちが何かを得たいからではなく、贖いを土台とした、神さまとの交わり自体が目的なのです。結果的に、神さまからの祝福や恵みを受けることができます。残念ながら、ニューエイジの瞑想は、人格をもった創造主なる神がいません。自分が宇宙の大霊と一体になるので、自分がいなくなるか、自分がおかしくなります。ニューエイジを長くやっている人は、人格が混乱し統合失調症と同じような症状が出てきます。仏教でも瞑想があります。ある実験で、クリスチャンと仏教徒が瞑想して、両者の脳波を調べてみたそうです。クリスチャンの脳波はとても安定していますが、仏教徒の場合は時々乱れるそうです。おそらく、自分の意思や力で自分を制しているからでしょう。私たちは神さまにすべてをゆだねますので、心の中を神の平安が支配します。

 私は瞑想がとても大好きであり、瞑想によって神さまからメッセージをいただきます。瞑想は英語でmeditationであり、ラテン語でmeditatioから来たことばです。ローマ時代は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していました。しかし、キリスト教がはいると、神、イエス・キリスト、聖母マリヤなどを心の中でありありと想い浮かべることを意味するようになったようです。しかし、瞑想は仏教やヨガでもありますので、誤解されがちです。私たちは心を無にするのではなく、三位一体の神さまと交わるのです。そのときに、聖書のみことばと私たちの祈りを加えます。何かを祈るというよりも、神さまがどうおしゃっているのか聞くことが優先されます。私が説教の準備をするときは、聖書を読んで、ある程度調べたあとに行います。目をつぶり、体を伏せながら「これをどのように語ったら良いでしょうか?」と聞きます。5分から10分くらいで、概要が浮かんできます。さらに瞑想すると、大体のあらすじが完成します。それを忘れないうちに、神に書き留めるとメッセージの下書きができます。その後、パソコンに向かい、例話を入れたり、本を引用したりして完成していきます。ある牧師たちは、まず、誰かの書いた注解書を何冊も読みます。その後、どれを語るか良いところを抽出します。でも、それはだれかの借り物なので、力がありません。私は神さまからメッセージをいただいた後に、本から引用するので、力がなくなるということはありません。神さまは私たちに語ってくださいます。私たちがこの世のことで、心騒がしくしているので聞こえないのです。

 現代は神さまとの交わりを妨げるものが満ちています。テレビが一番の邪魔者です。一日、三時間、四時間も見ていたら、頭の中が「サスペンス」になります。その次がスマホやインターネット、ゲームです。現代はチャット、フェイスブック、SNSで多くの人たちとつながっています。頭と心が全部、人間社会の情報につながっており、まことの神さまと交わっている人はほとんどいません。現代は神さま抜きの情報が行き巡っています。ギリシャ語で人間はアンソロポスと言いますが、「上を見上げる存在」という意味があります。私たちはまことの神さま、霊なる神さまと私たちの霊で交わるべきです。神との交わりが豊かにできるように聖霊が助けてくださいます。目に見えない電波が私たちの周りを行き巡っています。私たちも霊ですから、神さまの霊でないものも入って来ます。人間の霊、悪霊、諸霊が入って来ます。私たちは霊的チューナーを用いて、まことの神さまの波長に合わせる必要があります。ヨハネ10:3-5「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」私たちはイエスさまの声に耳を傾けるべきです。

4.奇跡や癒しはキリストの御名による

 「サイキック」とか呼ばれる病の癒しがあります。彼らは手から霊的なパワーがでてくると考えています。これはオカルトの1つです。かなり前にインドにサイババという人がいました。彼は癒しや預言や不思議なことをしました。ある人たちは「あれはインチキだ」と言いますが、実際に起ったものもあるでしょう。人間には元来、ある程度の力があります。生まれつきのものもあれば、悪魔から力を得たものまであります。私たちは奇跡や癒しが起ったからといって、それが神からのものだと断定してはいけません。モーセがパロの前で奇跡を行なったとき、呪法師たちも同じようなことができました。バビロンにも、知者や呪法師や星占いがいました。しかし、ダニエルの知恵にはかないませんでした。現代においても、魔術や超能力を行う人がいてもおかしくありません。問題は、誰の力でそれを行っているかであります。使徒の働き8章にはピリポによるサマリヤのリバイバルが記されています。しかし、その町にはシモンという魔術師がいました。彼はサマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していました。そのためあらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていました。しかし、ピリポが行っている「しるしと奇跡」にはかないませんでした。シモンはお金を出して「その権威を私にもください」と願いました。ここだけではありませんが、宣教に出かけると魔術師たちとの戦いがあります。人々は聖霊の方がまさっているのを知り、キリストの救いを受け入れるというパターンがあります。

現代のキリスト教は、癒しや奇跡を行なわなくなりました。なぜなら、低級なご利益宗教と同じだと思われたくないからです。しかし、聖書においてイエス様は病人を癒しました。マルコ16章には「病人に手を置けば病人は癒される」と書かれています。現代の教会は、福音宣教ばかり強調します。しかし、イエス様は同時に、病を癒し、悪霊の追い出すように命じられておられました。福音宣教しか行わないので、神の国が今ここに来ていることを証明できません。「病気になったら、医者に行ってくださり」と言います。だから、人々は、新興宗教の癒しの方に行くのです。ビル・ジョンソンの”The Supernatural Power(超自然的力)という本から、直訳して引用させていただきます。「神さまがこの地におられることを反駁できないための証明は、主要な奇跡の働きと超自然的な生き方を直ちに提供することである。そのため、神のリアリティがどのようなものか、だれが神なのかを実演して見せることである。あなたの地上における仕事で、神の御旨の力を現したことがあるだろうか?他の人たちに、これが神であると見せたことがあるだろうか?あなたを通して、敵のわざが当惑させられることを、神に許したことがあるだろうか?ほとんどの人たちは、神がどのように振舞うか、私たちに対する神の心の内側を何かを知らない。あなたの召しと私の召しは、信者として、大きすぎて理解できないかもしれない。しかし、聖書の命令ははっきりしている。私たちの仕事は、天国の存在のリアリティを、今ここに、この時に現すことである。私たちは単に神が正しいことを信じている者たちではなく、神のみこころを提示し、人々が「おお、神はこのような方なのか」と悟るように仕向けることである。癒しと解放と回復は、緊急な問題を解決することよりも、より大事なことである。

 人々は教会が癒しを行なわないので、医者や病院に行きます。もし、それで治らなかったらどこに行くでしょう?拝み屋に行きます。手かざしをしてくれるところ、護摩焚きをしてくれるところに行くでしょう。あるいは、「サイキック」と呼ばれるニューエイジのところに行くかもしれません。不思議なことに奇跡が起こり、病が癒されます。人々はどうするでしょう?「ああ、これがまことの神さまだ」と自分をささげるでしょう。悪魔は体を癒すかわりに、魂をいただくでしょう。悪魔は最後に永遠の炎で滅ぼされる運命にありますが、一人でも多くの神の子どもたちを巻き添えにしたいのです。多くの教会は「癒しや奇跡は過去のものです」と手をつけません。その代り、新興宗教やニューエイジがそれを行って、人々を惹きつけているとしたら何と残念なことでしょう。私たちはもう一度、福音書に帰り、イエス様が弟子たちに命じたことを行なわなければなりません。ビル・ジョンソンは「神学校は神学ばかりを勉強して、どうして癒しや奇跡の実践科目がないのか」と嘆いています。イエス様はこのように命じられました。マタイ107,8「行っって、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」私たちは御国が拡大するようにキリストの御名を用いるべきです。私たちはこの地上で普通に生活しながらも、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出すという使命が与えられています。病と癒しと奇跡が日常的に起こることを期待しましょう。アーメン。

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2019年5月11日 (土)

だれかの奇跡になる ルカ10:30-37 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.12

 ある人が、祈りがきかれるように神さまに願っています。また、ある人が、奇跡が起こるように神さまに期待しています。しかし、神さまはあなたがその人の願いに応えるように、あなたを用いるかもしれません。また、神さまはあなたがその人の奇蹟になるように、あなたを用いるかもしれません。これは、ある意味では困っている人を助けるということです。人を助けるためには覚悟が必要ですし、リスクも伴います。きょうは「だれかの奇跡になる」と題して聖書から学びたいと思います。 

1.関わりを持つ

 人を助けるためにはある程度のリスクを覚悟しなければなりません。ある人が、川や池でおぼれている子どもを助けるために飛び込んだけれど、一緒に死んだということを聞いたことがあります。気持ちはわかりますが、人を助けるということは容易ではありません。本日のテキストでも、そのことがわかります。旅人は半殺しの状態で倒れていました。おそらく、強盗に襲われたのでしょう。そこへ2人の人が通りかかりました。一人は祭司で一人はレビ人でした。彼らは倒れている人を見たのですが、反対側を通り過ぎました。当時、神殿に仕える人は、死体に触ると汚れるので奉仕ができません。神さまの御用を優先するために、そうしたのかもしれません。あるいは、近くに強盗がまだ隠れているかもしれません。こんなところで暇取っていたら、自分が襲われるかもしれません。「関わらない方が良い」というのが結論でした。でも、これは昔の話ではありません。都会において、道ばたで倒れている人を助けるでしょうか?「酒に酔っているんじゃないの?」「普通の人じゃないみたい?」と避けるのではないでしょうか?電車などでも、だれかが殴られているのに、止めに入るというのは勇気がいります。仲裁に入ったために、刺される人もいます。とにかく、人を助けるにはリスクが伴うということです。

 でも、サマリヤ人はどうでしょうか?ルカ1033「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って…」と書いてあります。倒れている人を見て「かわいそう」という深い同情心が湧き上がりました。「かわいそう」という同情心が「リスクがどうのこうの」という恐れに打ち勝ちました。おそらく専門家は「かわいそうじゃだけじゃ、人は助けられませんよ。そういう人は燃え尽きで自滅しますよ」とアドバイスするかもしれません。でも、この人はかわいそうに思って、倒れている旅人に近寄ったのです。イエス様はあとで、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と律法の専門家に尋ねました。彼は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。このテキストから考えると、困っている人を助けることは、隣人になることだということが分かります。イエス様も「行って同じようにしなさい」と言われているのですから、これはどうでも良いことではありません。律法の専門家は「私の隣人とはだれでしょう」とイエス様に聞きました。この物語の最後で、イエス様は「だれが隣人になったと思いますか?」と聞き返しました。ということは、隣人というのは、「こっちが隣人になることなんだ」ということがわかります。言い換えると、関わりを持つということです。

 私はこれまでバウンダリーのお話しを何度もしてきました。バウンダリーとは境界線のことであり、人の責任と自分の責任を分けることだと言うことを学びました。また、「自分のレースを走る」というメッセージでは、「自分に依存してくる人をできるだけ避けるように」と言いました。おそらく、「なんと冷たいメッセージなんだ。愛も情けもないじゃないか?」と思われた方もいるでしょう?私はエリヤハウスという「内面の癒しのカウンセリング」を何年も勉強しました。エリヤハウスでは、「バウンダリー」とか「共依存」のテーマがありません。なぜなんだろう?と不思議に思っていました。おそらく、「関係を持たなければ癒しがないのだから、ある程度のリスクを覚悟しなさい」ということなのでしょう。

 伝道も福音を伝えないと始まりません。でも、福音を伝えると嫌がる人もいるので、友人を失う恐れも出てきます。「しつこい」とか言われるでしょう。私は25歳で洗礼を受けましたが、1年以上は職場の先輩から個人伝道を受け、最後は9時間もアパートで迫られました。私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」とイエス様を信じました。次の朝、本当に救われていました。DL.ムーディという有名な伝道者がいます。彼はシカゴで大伝道集会を持ちました。その日は救いの招きをしないで、メッセージをして終えました。ところが、その夜、シカゴに大火災が起こり、大勢の人が亡くなりました。ムーディは、集会で決断しないまま亡くなった人が大勢いたことを知り、後悔しました。それ以来、必ず、メッセージの後は決断の時を持ったそうです。ある時、一人の男性が電車に乗っていました。隣の人が、イエス様のことを語り出しました。そして、「あなたはイエス様を信じていますか?」と聞きました。男性は英語で「それはあなたのビジネスではない(よけいなお世話)」と言いました。その人は「いいえ、これは私のビジネスです」と答えました。男性は「それじゃあ、あんたはムーディに違いない」と答えたそうです。私たちは「よけいなお世話」と言われるかもしれません。でも、イエス様を信じないその先が滅びであるなら、よけいなお世話もしなければなりません。やがて、その人が神さまの前に立ったときこう言うかもしれません。「あの友人がクリスチャンだったことは知っています。とっても親切で優しい人でした。でも、イエス様のことを1つも話してくれませんでしたよ」。

 究極の人助けはイエス様を信じて、その人が救われることです。そのためには、その人に近づき、福音を伝えなければなりません。もちろん、「その人がイエス様を信じるなら、助けます。愛します」というのは不純な動機です。でも、いろんな親切、愛の行いがありますが、最も偉大なもことは自分に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?何故なら、そのことによって、私は救われて、永遠の命を持つことができたからです。伝道を英語では、reach outと言います。直訳は「接触しようと努める」ということです。伝道の動機は、「その人が滅びてしまったら、かわいそうではないか」という愛であり、あわれみの心です。

2.持っているもので

 神さまご自身は全能なるお方ですが、多くの場合、私たちを祈りの答え、奇跡の器として用いたいと願っておられるようです。その場合、持っていないものではなく、今持っているものを用いるように願っておられます。私たちは福音書から、イエス様が5000人以上の人を養った奇跡を知っています。そのとき、用いられたのは子どもが持っていた5つのパンと2匹の魚でした。もちろん、イエス様は無から有を生み出すこともできましたが、あえて、子どもが差し出した5つのパンと2匹の魚を用いられました。神さまは私たちと一緒に働きたいと願っておられるようです。この物語において、サマリヤ人は自分が持っているもので彼を助けようとしたことが分かります。ルカ10:34「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」オリーブ油とぶどう酒も、打たれた傷の治療に役立ちます。彼は自分が乗っていた家畜、おそらくロバに乗せて、宿屋に連れて行き、介抱してあげました。彼は医療の専門家ではありませんでしたが、自分ができることをしてあげました。「良きサマリヤ人の病院」というのがあることを聞いたことがあります。彼は「かわいそう」という同情心だけではなく、ちゃんと手当をしてあげました。

 人を助ける場合も、自分がないものをもって助けるとなると大変です。友人の連帯保証人になって、家族を路頭に迷わしてしまう人がいます。それはダメです。また、輸血でも、自分の血を全部あげて、自分が死ぬのはやり過ぎです。ジョエル・オスティーンのお兄さんのポールはお医者さんです。彼は医療伝道の使命があり、何度もアフリカに行ったことがあります。ある時、設備もろくに整っていない小さな病院で数週間、奉仕したことがありました。ある夜、象に踏まれて、怪我をした人が担ぎ込まれました。その人は輸血しなければならない状態でした。しかし、血液のストックがありませんでした。ポールは自分の血液を輸血してあげました。怪我人は助かりました。ポールも血をあげすぎて死にませんでした。しかし、ポールは自分が持っているものを差し上げて、彼の奇跡になることができませした。使徒の働き3章に、宮に入る人たちから施しを受けていた、生まれつき足のなえた人が登場します。彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。ペテロは「私たちを見なさい」と言いました。男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。するとペテロは「金銀は私にない」と言いました。男は一瞬、がっかりして頭を下げたでしょう。「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。ペテロはそう言いながら、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出しました。すごいです。お金をあげても、彼が数日間、生き延びることができるでしょう。でも、根本的な解決はイエス・キリストの名にあります。私たちクリスチャン全員も持っているものがあります。それは、イエス・キリストの名であります。これほどすばらしいものはありません。なぜなら、この名を用いるならば、奇跡が起こるからです。

 2000年頃、インドネシアで開かれたセルチャーチの学びに行ったことがあります。ずっと座りっぱなしで腰が痛くなりました。私はそれまで年に1回か2回、ぎっくり腰を患っていました。夏でもゴムベルトをして腰を保護していました。その時は3日間も座りっぱなしだったので、辛くて仕方がありませんでした。セミナーの一休みに、一人の先生が近づいて来ました。名古屋の山下牧師です。「立ってください。祈ってあげましょう」と言うのです。彼は右手で腰のあたりに触り、「イエスの御名によって延びるように」と言ってくれました。その途端、痛みがすーっとなくなりました。背骨がまっすぐになったような気がしました。「どうしてそんなことができるの?」と聞いたら、「岡山の中嶋先生から教えてもらったんです」と答えました。私は日本に帰ってから、中嶋先生に連絡し、足掛け5年くらい、当教会で「癒しのセミナー」を開いていただきました。私は名古屋の山下牧師から祈って以来、腰はいたくなることはありますが、ぎっくり腰になったことはありません。一旦、ぎっくり腰になるとトイレにも行けないし、寝返りも打てません。でも、それ以来、ぎっくり腰にはなりません。名古屋の山下牧師は私の奇跡になってくださいました。私もそれから、癒しのために祈る人になりました。聖書で「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ108とあるからです。人が癒されるのを見ると、本当に楽しいです。ある時、那須の太郎さんという牧師の腰のため祈ったことがあります。松戸教会で牧師同士でバーベキューをしていたときです。祈ったら、「痛みがなくなった」と言いました。でも、よく聞くと、渓流釣りで崖から落ちて、傷は治ったけれど10年以上も痛みが腰と足にあったそうです。こっちは一瞬ですが、当人は長い間苦しんでいたのです。私も彼の奇蹟になることができました。

 物で人を助けることができますが、1つの励ましの言葉でも人を助けることができます。ジョエル・オスティーンの奥さん、ビクトリアが礼拝後、一人の女性に声をかけました。「魅力的なお方ですね」とたったひとことです。でも、後からわかったのですが、その女性はそのとき、人生のどん底だったそうです。なぜなら、夫が家を出てしまって以来、帰ってこなくなったからです。「自分に魅力がないからなんだわ」と責めていました。その日曜日の朝、勇気を出して、教会の礼拝に出席したのです。すると、帰りにビクトリアからひと声かけられ、そのことばが心に熱くとどまり、心が癒され、立ち上がることができたそうです。ジョンズ・ホプキン大学の初代産婦人科教授であるハワード・ケリーの体験談です。ある春の日、ケリーが徒歩旅行をしていた時、農家に立ち寄り、「冷たいわき水を1杯もらえませんか」と言って、ドアをノックしました。すると、小さな女の子が出て来て、絞りたての牛乳を渡してくれました。そんなふれあいに心和ませながら、彼はまた旅を続けました。それから数年後のことです。ひとりの女性患者が運びこまれ、ケリーが手術を担当しました。そして退院という時、彼女に請求書が渡されたのですが、そこにははっきりとこのように書かれていました。「コップ1杯の牛乳で、治療費は支払い済みです」。彼女こそ、ミルクをくれた女の子だったのです。聖書は、「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」(マタイ2540)書かれています。

3.限界を知る

 人を助けることは良いことですが、自分の人生の目的を果たすことを忘れてはいけません。たまに、「私は人の役に立ちたい。人のために生きたい」という人がいます。その人がお医者さんとかレスキュー隊だったらわかります。でも、私たちは神さまから与えられたassignment(割り当てられた仕事、課題)があります。ルカ10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』サマリヤ人は旅の途中でした、おそらくなすべき仕事があったのでしょう。だから、傷ついた人を宿屋に一旦預けました。そして、帰りに立ち寄る予定でした。つまり、自分の成すべきことを行い、できないことは他の人にお願いしたということです。私たちは「自分はここまでできるけれど、ここから先はできない」という範囲を知るべきです。もし、自分でできなければ、できる人にお願いしたり、専門家に任せるべきです。メシアニック・コンプレックスというのがあるそうです。困っている人を見たら、ほっとけないタイプの人です。そして、あらゆる問題を解決しなければならないと思っている人です。私が世界中の人を救ってあげなければならないとしたら、どうなるでしょう?そこまで思う人はいませんが、とにかく自分の身を削ってでも、困っている人のために尽くしている人がいます。ルカ10章のたとえは、「あなたの隣人はだれですか?」ということを教えている物語です。世の中の全部の人たちではなく、運命的に隣人になった人です。「隣人になった」、あるいは、主の導きによって「隣人にさせられた」ということかもしれません。神さまは世の中の人、全部にこのようなことをしなさいとはおっしゃっていないと思います。全世界を支配しているのは神さまです。おそらく、神さまは「あなたを通して、このことをしたい」というときに隣人を委ねてくださるのではないかと思います。

 このような出来事は、私たちは神さまから与えられた人生の途中で起ることではないかと思います。私たちは神さまから与えられたdivine destiny(神意)を全力で果たすべきです。しかし、道の途中で、私たちの助けを必要とする人と出会うことがあるということです。でも、それはおまけではなくて、神さまの導きと助けが伴うということです。なぜなら、神さまが「やりなさい」と命じておられるからです。その時は私たちのもっているもので、お助けできたら幸いです。もし、そのことがその人の奇跡になったら何と幸いでしょうか。自分としては小さなことでも、その人にとっては人生を変えるものになるかもしれないからです。何十年も前のことですが、一人の青年が肺結核で死にそうでした。片方の肺は壊死しており、彼はベッドに横たわり死を待っていました。彼はものすごい痛みの中で、神々に叫び求めました。「神さま、私を助けに来てください。」しかし、答えがありません。次に別の神さまに叫び求めましたが、答えがありません。最後に彼はやけっぱちで、「もし他に神さまがいるなら、癒してくださいとは願いません。どうか、ただ死ぬ方法を教えてください」と暗い部屋の中から叫びました。彼はひとりぼっちで、忘れ去られているように感じました。数時間後、若い女子大生が彼の家の近くを歩いていました。すると、その家から説明できないような愛が流れてきて、自分をひっぱっているように感じました。彼女はその家のドアをノックしました。すると、その家のお母さんが出てきました。彼女は「あなたは私を知らないと思いますが、何かお祈りをさせていただくことがあるのでは?」と言いました。お母さんは涙を流しながら、死の床にいる息子のことを話しました。若い女性は部屋に入り、彼のために祈りました。青年はキリストに人生を明け渡しました。長い話を短くすると、彼は癒されて、牧師になりました。彼こそは世界最大の教会の牧師、チョー・ヨンギ牧師です。若い女性がしたことは、青年のためにお祈りしたこと。そしてキリストを伝えたことです。神さまが彼女を通して、青年を救い、癒してくださったのです。ですから、人を助け、人を救ってくださるのは父なる神さまであることを知るべきです。私たちは神さまの道具なのです。

 イエス様のご生涯を見ますと、イエス様が隣人になられたということがヨハネ福音書を見るとよく分かります。イエス様は夜こっそり尋ねてきたニコデモの隣人になりました。彼は真理を求めていました。イエス様はスカルの井戸端で一人の女性の隣人になりました。イエス様はこの女性を得るためにわざわざサマリヤを通過しました。イエス様は38年間も病の床に臥せっている男性の隣人になりました。彼に「良くなりたいか?」と言ったけれど、はっきりした答えが得られませんでした。それでも彼を癒してあげました。イエス様は姦淫の場で捕えられた女性の隣人になりました。本来なら石打ちで殺されるところでしたが、彼女の罪を赦してあげました。イエス様は生まれつき盲人の隣人になりました。弟子たちはだれかの罪の因果ではないかと言いましたが、「神のみわざがこの人に現れるためです」と言われました。イエス様は死んだラザロの隣人になりました。「ラザロよ。出て来なさい」と叫んだら、布をまかれたまま出てきました。イエス様はイスカリオテ・ユダの隣人になりました。しかし、かかとを上げて外に出て行きました。ルカ福音書になりますが、犯罪人の隣人になりました。彼に対して「あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」と約束されました。

このように「よきサマリヤ人のたとえ」のサマリヤ人はイエス様のように思えてなりません。私たちは強盗ならぬ、サタンに打ちのめされて倒れていました。誰一人、私を助けてくれませんでした。しかし、そこにイエス様が来られ、ぶどう酒ならぬご自身の血を注いで、癒してくださいました。宿屋ならぬ教会に私を置いてくださいました。イエス様が罪の代価を払ってくれましたので安心です。世の終わり、イエス様は再び来られ、私を永遠の御国に迎え入れてくださいます。私たちこそ、瀕死の状態で倒れていた旅人です。イエス様が私たちを見出してくださったのです。これほどありがたいことはありません。もし、私たちがだれかのために良いことをしたのなら、イエス様が私たちにしてくださったこととは比べものになりません。ありがたいことに、イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」と報いてくださいます。私たちは善いことをして天国に入るのではありません。イエス様の贖いによってだけ、天国に入ることができるのです。もし、善いことができたとしたら、それは救われたことの実であります。

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2019年5月 3日 (金)

神の臨在を意識する 箴言3:5-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.5.5

 ビル・ジョンソン師が『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。「人生において、神の臨在を意識しながら生きることほど本質的なことはない。その名はインマヌエル、神がともにおられるという名のお方である。神とともに歩む生き方を、私たちはイエスから引き継いでいる。イエスがなさったように、私たちの人生においても臨在を優先し、臨在によって、影響力と目的を与えられていかなければならない。」 

1.神の臨在に導かれる

 箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」と記されています。「心を尽くして」は、英語の詳訳聖書では、All your heart and mindとなっています。私たちの生まれつきの思いは、神さまに頼ろうとしません。とことん自分でやってみて、ダメだったら神さまに頼ろうとするところがあります。自分は頭が良い、自分には知恵があると思っている人は特にそうです。しかし、クリスチャンは「何かをするときは、祈りなさい」と勧められています。祈りはすばらしいもので、一瞬、自分の思いを断ち切り、神さまの方に向けます。そうすると、何か不思議なことが起り、「待てよ、それで良いのだろうか?」と一寸、考えるようになります。そして、思いを巡らせると、「そうじゃなくて、この方がもっと良いのではないだろうか?」とアイディアや導きをいただくことがよくあります。なぜでしょう?自分の思いを断ち切り、神さまと繋がったからです。神さまと繋がったので、神さまの方から隠されていた情報やアイディアが与えられたのです。みなさんは、そういうことはないでしょうか?私は落ち着きがない子どもで、「やす、落ち着け!」が母の遺言でした。学校でも一番、落ち着きのないのは私でした。クリスチャンになっても、交通事故を良く起こしましたが、それが原因であることは痛みを通して学びました。正直、自分には知恵があり、気転がきく方だと思っています。それがうまく行くときもありますが、先走ったために、カスを掴まされることも良くありました。そのため、今では、「待て、待て。祈って、神さまの導きを得よう!」ということが習慣化してきました。一番、下の子どもがよく忘れ物をします。「忘れ物ないか、ちゃんと調べろよ」と何度注意したでしょう。でも、「私がそうだったんだよなー」と同情心が湧いてきます。

 箴言35「主により頼め」というのは、「主を信頼しなさい」ということです。また、「あなたの行くところ、どこにおいても、主を認めよ」と書かれています。「主を信頼すること」と、「主を認めること」という2つのことが何か深いつながりがあるようです。どっちが先かと言うなら、主を信頼するという心構えが先です。その後に、主を認めることができるということです。「認める」ということばは、「知る」ということばです。ヘブライ語ではヤダーであり、「体験で知る」という意味があります。創世記41「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」と書いてあります。この知るは、男女の深い交わりを表しています。ですから、主を知るというのは、頭の知識ではなく、単なる概念でもありません。出会いを通して知るということです。つまり、どんなときも自分の悟りにたよらず、主を信頼していきます。そうすると、主が働いてくださることを体験します。つまり、主を知り、主を認めることができるということです。これは体験してみないと分からない分野です。私もこれまで何べんも失敗をしましたが、その度ごとに「ああ、神さまに聞いて、神さまに信頼すれば良かった」と反省します。すると、時間から、焦る気持ちをおさえて、「まず、祈ろう。主から導きをいただこう。きっと道は開ける!」と一寸、休みます。一見、時間が無駄になったように思えますが、そうではありません。もっと、良い方法が与えられます。これは痛みを通して、学んだことです。私たちはどうしても、「自分がこの道の専門家だから、大丈夫。私が一番知っている」ということで、神さまに頼ろうとしません。もちろん、それでうまくいくときもあります。でも、うまくいかないときもあります。「ああ、祈って、導きを得るべきだった」というふうになります。

 ジョエル・オスティーンのお父さんは教会の土地を買おうとみんなで献金を集めました。ある土地がみつかり、教会員のみんなも「それがよい」と決断しました。お父さんは、契約の前の夜、眠れませんでした。「どうしてなんだろう」と不思議に思いました。すると、神さまから「その土地を買うのをやめなさい」と言われているような気がしました。「え、だって主よ。みんなで一致して決めたんですよ。相手方にも失礼では?」と言い返しました。でも、「やめなさい」という主の声が大きくなり、降参しました。いよいよ、その業者と会って、お断りしました。業者からも、教会員からもさんざん悪く言われました。詳しいことは忘れましたが、景気のせいで、土地の価格が急に下落したそうです。結果的に、もっと広い他の土地を前よりも安い値段で購入できたそうです。ある女性がある男性と婚約を結ぼうとしました。しかし、女性のお父さんが「その人はやめた方が良いと思うよ」と言いました。なぜなら、祈っても平安がなかったからです。でも、お譲さんは「お父さん、馬鹿なこと言わないで」と忠告を無視して結婚しました。1年もたたないうちに、その男性は不誠実な人であったことが分かったそうです。その女性は深く傷つきましたが、神さまの導きを得ることの大切さを知ったそうです。

 神さまはある時にはドアを開けてくれません。なぜなら、それは危険だからです。ジョエル・オスティーンがあるときチャーター機でスタッフと一緒に旅をしました。他の人たちは、機内の壁から折り畳み式のデスクを出して、パソコンを操作していました。ジョエル・オスティーンはそれを見て、自分もデスクを出して仕事をしようと思いました。それらしきレバーがあり、引いてみました。ところがいくら引っ張ってもデスクが出ません。スタッフを呼んで、「どうして下がらないんだろう」とまた引っ張ってみました。そのとき、小さな文字が目に入りました。「緊急脱出時以外は開けないで下さい」と注意書きがありました。もし、ジョエル・オスティーンが力任せに開けていたなら、外に飛び出していました。やれやれと、冷汗をかいたそうです。神さまはあるときはドアを開けてくれません。命を失わないで、「次回はこうしよう」と学べるのは主のあわれみです。自分の悟りに頼らないで主を信頼しましょう。どんな所でも主を認めましょう。

2.神の臨在で聖められる

 ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。「天国には、神から離れた考えは存在しない。神は光であり、命であり、世界の中心である。完全な神への信頼が満ちているのが天国という場所だ。他方、この世は不信と混乱に満ちている。私たちは、自分が最も意識している世界の現実をいつも解き放つことになる。神のうちにとどまるためには、神を意識することが欠かせない」と述べていました。と言うことは、私たちは不信と混乱に満ちているこの世で生きているので、神さまを意識しないと、そっちにのみこまれてしまうということでしょうか?確かに、テレビのスイッチを入れると、だれから殺されたとか、こういう問題が起こっているとか一瞬のうちに入ってきます。コメンティターの言っていることは理屈が通っています。でも、彼らは全能の神さまが介入してくださることは全く信じていません。世の中の不条理、不合理、不平等が「ばーっ」と私たちの思いの中に入って来ます。ニュースを聞くことが悪いとは言いません。この世の状態を知ることは大切です。でも、「神はいないという」考えが、自分の思いの中に入って来て、いつの間にか信仰が失せてしまうということも確かです。ですから、私たちは世の中のニュースはほどほどに聞く必要があります。特に、民放はスキャンダルが好きなので、特番を組んでやっています。私たちは自分の思いを守る必要があります。私たちはこの世でありながらも、天国で生きることはできないのでしょうか?

 1600年代に生きていた神の人、ブラザー・ローレンスがいます。彼は修道士ではなく、修道院のコックとして働いていました。彼は『神の臨在の実践』という本で、自分の生活をこのように証しています。私は仕事を始める時、ちょうど子どもが親を信頼するような心をもって、「おお、私の神よ。あなたはいつも私と共にいらしてくださいます。今、私はあなたのご命令に従ってこれらの世の事柄に心を用いなければなりません。どうぞあなたの臨在の中に絶えずおいていただく特権をお与え下さいますようにお願いします。どうかこのために、み助けをもって私を祝福し、私のすべての働きを受け入れてくださり、私のすべての愛情を所有してください」と申し上げました。いよいよ仕事に取り掛かっても、なお、創造主と絶えず親密に語り続け、神の恵みを求め、すべての私の行為を神にささげました。私は仕事を終えてから、どのようにその責任を果たし得たか自分自身で検討してみます。もし良くできたら神のもとのとして感謝してお返しし、失敗があったら神の許しを請います。そして失望することなく、すぐ心を取り直し、一度も神から離れたことがない者のように神の臨在を思う練習を続けました。このようにして、失敗から立ち上がり、しばしば信仰と愛の行為とを新しくすることにより、以前は神について思うことが困難でしたが、今では神について考えないことの方がかえってむずかしい状態になりました。」アーメン。ブラザー・ローレンスは、彼の祈りの時間と台所で奉仕している時間には全く違いがなかったと言われています。どちらの環境の中でも、同じように神さまと交わり、神さまを意識していたのです。

 私は聖め派の神学校に最初、行っていましたので、「罪の悔い改め」には今でも抵抗があります。自分でも嫌いなので、おそらく皆さんにも「罪を悔い改めるように」と勧めることは少ないと思います。でも、「全くそうしていないか?」というとそうではありません。悔い改めるとは、ギリシャ語でメタノイヤーであり「方向を変える」「思いを変える」という意味です。また、罪はギリシャ語でハマルティアであり「的はずれ」「本来の姿からずれている」という意味です。もちろん、それが「罪」であります。ただし、「罪を悔い改めよ」と人から言われると、さばかれているような気持ちになるでしょう。私たちはもともと、被害者意識があり、「私は悪くないよ」と防御してしまいます。そのため、「罪を悔い改めろ」みたいな直接的な表現を用いないで、「間違った考えや行いを正しい方に変えるように」と言い方を替えています。ドSかドMか分かりませんが、「罪を悔い改めろ」と叩かれた方が効果がある人がいるかもしれません。しかし、私たちには肉があるので、どうしても言い訳したり、抵抗してしまいます。ですから、「考えを変える」、「行ないを変える」くらいが良いのです。しかし、その時に重要なのは、神さまの臨在、神さまの促しを尊重することが大切です。つまり、人ではなく、神さまの臨在のもとに自分を置くということです。そうすれば、神さまから新しい方向に変える力と意欲が自然と与えられます。

何度も引用しますが、ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』でこのように述べています。神の臨在をおもてなしする特権にあずかっている私たちは、神を常に意識しながら生きることを人生の目標にしなければならない。この方は聖なる霊なので、私たちの人生を聖いものにするように働いてくださる。しかしまた、この方は聖い方であると同時に、「良い方」である。人々は神の聖さを求めながら、「神が良い方である」という基本的な真理を見失ってしまうことがある。私は自分の経験から、聖さを求めて訓練したり、深い悔い改めに心を感じたりすることが、実際の聖さをもたらすのに大した効果がないことを学んきました。むしろ、聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくる。自分自身で汗をかいて試みた努力は、私の生き方を変えるよりも、傲慢や惨めさを心に味わう結果に終わってしまう。主との歩みの中で、この原則をもう少し早く発見していれば良かったのにと思う。そうすれば、長年のフラストレーションからもっと早く抜け出せたはずだ。アーメン。私はビル・ジョンソンの本を読んで、いわゆる「聖め派」から救われた感じがしました。どちらかと言うと「自分がいかに罪深いか」罪を強調して、ひれ伏して深い悔い改めに心を向けるところがあります。そういう方法もあるかもしれませんが、「聖い生き方は、私をありのままで受け入れてくださる聖なる神のうちにあって喜ぶことにより、自然の結果として与えられてくるものなんだ」ということです。Ⅱコリント3:17,18 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。

3.神の臨在を楽しむ

 詩篇16:8-11「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」このダビデの詩篇は、神の臨在がどんなにすばらしいか教えてくれます。この詩篇の記者は神の臨在を楽しんでいるように思えます。普通、神さまが側にいると見張られているような感じがして、緊張するかもしれません。なぜなら、「神さまが見ていない方が良いなー」と言う時もあるからです。しかし、この人は「いつも主を前に置いた」と言っています。もし、この人がダビデであったなら、ダビデは、毎日、自分の目の前に神さまを置くことを日課としていたということです。そして、ともにおられる神さまに心を向け、毎日、神さまを深く意識していたことになります。ビル・ジョンソンは『神の臨在をもてなす』という本で、このように述べています。神の臨在の人として、聖書中で最も尊敬されていたダビデがこのことを生活の習慣にしていた。ダビデの人生の実を見るとき、臨在の中で行うことが、ダビデの成功の秘訣であったと言っても言い過ぎではないだろう。…詩篇1611「あなたの御前には」は英語の聖書では「あなたの臨在の中には喜びが満ち」と訳されている。私たちの家の中にも、神の臨在をもっと意識するなら、そこにはより大きな喜びが満ちあふれてくるのである。…私たちの多くは、祈りにはたくさんの労苦が伴うことを教会で教えられて育ってきた。今でも、労苦の伴う祈りの価値を認めている。しかし、今は臨在とロマンスのライフスタイルの中から、そのような祈りに入っていくことを学んでいる。愛の関係においてこそ、すべては効果的になる。日々神の臨在を見つけることは、愛にとどまるための最も確かな方法である。

私は毎朝、聖書といくつかのディボーションの本を読んでいます。一区切りした後、椅子に伏して目をつぶります。今、学んだことに対しての応答をします。そして自分の中から出てくる思いを受け止めます。そして、神さまを仰ぎます。まるで、小旅行をしているようです。そこには、「こうしなさい」という支持もありません。神さまの愛と恵みの中に、自分がどっぷりつかっているという感じがします。20年前にやっていた「ディボーションの方法」では、観察、神さまとは、教え、適用…などノートに書いていました。しかし、それだと左脳ばかり使って、楽しくありませんでした。それよりも、ひざまずいて、べたーっと椅子に伏して目をつぶります。なんだか、目の前に主がいるような感じがします。主にだかれているような感じもします。祈りというよりも、湧き上がってくる自分の思いや感情を前に差し出します。人には言えない内容もあります。嫌なこと、嘆き、悩みも出てきます。もちろん、あとから感謝や信仰も出てきます。ビル・ジョンソンは「五分間の小旅行」と言っています。牧師室にいるとき、数分間電話を取り次がないように秘書に頼むそうです。椅子に座り、たいていは目を閉じて、このように祈ります。「神さま、私はただここに静かに座って、あなたの愛の対象になります」。ビル・ジョンソンはこう述べています。「自分の注意を私に対する神の愛に向けるとき、神への私の愛も増し加わっていく。私が神を喜び、神が私を喜んでくださる。それは終わることのない愛の祭りであり、神にある喜びは成長し続ける。神こそが究極な楽しみであり、大切にされるべき喜びである。」アーメン。

 このたび、三回にわたりビル・ジョンソンの『神の臨在をもてなす』から度々引用してメッセージしました。最初、この本を日本語で読んで「なんと軟弱な書物だろう」とほかしていました。しかし、英語のディボーションから毎日、少しずつ読みました。一番下に、お祈りが書かれています。その言葉を声を出して祈ると、ぐっと心の中に入ってくる経験をしました。日本語では「臨在」とか「愛」は、何か陳腐に聞こえてきますが、英語だと新鮮にせまってきました。もう1つは、私の場合は「主の臨在を体験するためには、第一はこれ、第二はこれ、第三はこれ」と方法論で述べてしまうところがあります。しかし、臨在を体験するとは、いわばロマンスであって、方法論ではありません。現代の人たちは分刻みで生きています。空白の時間を作らないように、スマホをいじったり、イヤホンで何かを聞いています。クリスチャンであっても、神さまに時間を与えないとしたら、臨在を体験することは不可能です。神さまとデートするのを後回しにしているのではないでしょうか?聖書が神さまのラブレターであるなら、もっと味わい深く読みたくなるでしょう。もしかしたら、神さまはもっと私たちに隠されたことを教えてあげたいと願っているかもしれません。私たちに忠告を与えたいと願っているかもしれません。肝心の私たちといえば、他のことを考え、日常のことで忙しくしています。主を仰ごうともしないし、主の御声に耳を傾けようともしないならどうでしょう?結局は、この世の法則や力で押し流されて、主の力あるわざ、奇跡、大いなる知恵、隠された出来事を受け取ることができません。現在は、天がこの地に侵略している時代です。イエス様が天の窓を開けてくださり、今、この地に神の国が力強く臨んでいる時代が来ているのです。言い換えると、神の臨在が私たちのすぐ近くにあるということです。この世でありながら、神の国が聖霊の臨在によって来ているのです。ですから、一寸でも立ち止まって、主と交わり、主の導きを得たらどうでしょうか?

本日、引用したみことばをもう一度、引用いたします。箴言35「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」Ⅱコリント3:17「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」詩篇1611「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」アーメン。私たちは主との関係を宗教にしてはいけません。宗教とは特別な時間を設けて、特別な仕方で神さまを礼拝することです。言い換えると非日常的な時間と空間を設けて神さまを礼拝することです。私たちは神さまとの関係を宗教にしてはいけません。それよりも、日常の真ん中に神さまをお招きして、プライベードな深い関係、ロマンスを持つことが重要です。私たちはどんな時も、どんな場所にも主を歓迎し、主を目の前に置いて、主の臨在を楽しんで生活しましょう。

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2019年4月26日 (金)

神の臨在をもてなす ヨハネ1:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.28

 先週のメッセージで、ビル・ジョンソン師の本を引用して、尻切れトンボのように終わった感があります。「イエス様の上におられた鳩とは何だったのだろう?」と思われたかもしれません。なお、ビル・ジョンソン師はカルフォルニアのベテルチャーチの主任牧師であり、同時に、世界に影響を与えている現代の使徒でもあります。そこで本日は、先生が書かれた『神の臨在をもてなす』という本を参考にしつつ、神の臨在とは何なのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の臨在を受ける

 神の臨在というのは、キリスト教会では「神がともにおられること」と理解しています。しかし、ビル・ジョンソンが言う「神の臨在」は、「ミニストリーをするための神の力である」と定義しています。ニコデモが夜、イエス様を訪ねてこのように言いました。ヨハネ32「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモは、イスラエルの指導者であり、パリサイ人でした。彼は、イエス様がしるし、つまり奇跡を行なっているその力の源が何であるかを知っていました。それは、神がイエス様とともにおられるからです。私たちは旧約聖書を読むと奇跡を行なった人たちの特徴は何かを知ることができます。サムソンの上に神の霊が注がれたので、あのような怪力を出すことができした。また、エリヤとエリシャの上に神の霊があったので、力あるわざを行うことができました。つまり、神がともにおられるということは、神の霊がその人の上にとどまっているということではないでしょうか?そのことはイエス様の弟子たちも同じで、上から力を着せられる必要がありました。そして、ペンテコステの日、上から聖霊が臨まれ、力を得てから世界に福音を宣べ伝えに行きました。ペテロやパウロも聖霊の力によって、死人をよみがえらせ、病を癒し奇跡を行なうことができました。

神がともにおられる、神の臨在とはどのような影響力があるのでしょうか?使徒515,16「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」人々は「ペテロの影でも良いから」と迫ってきました。そして、ペテロの影に触れただけで人々が癒されました。影自体に力があるというのではなく、ペテロに神がともにおられたということでしょう。言い換えると、聖霊の臨在がペテロからにじみ出て、それが人々を癒したということです。もう一箇所引用したします。使徒1911,12「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」こんどは、パウロの着ていたものです。人々が、パウロが身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行きました。パウロが直接、何かしたというのでありません。これも、神の臨在がパウロが身に着けているものにも及んでいたということです。かつて、イエス様のもとに近づいた女性と似ています。彼女は12年間も長血を患っていましたが、イエス様の衣のすそに触れただけで癒されました。イエス様はご自分から力が出て行くのを感じることができました。

 チャールズ・フィニーは、19世紀の半ばに神さまに用いられたリバイバルの器です。彼の職業は弁護士でしたが、29歳のとき神の圧倒的な臨在に触れて劇的な救いを体験しました。数年後、按手礼を受けて正式な伝道者になりました。フィニーの行く先々で人々が集まり、救われていきました。まるで天の門が開かれ、神の愛が人々の上に降り注いでいるようでした。フィニーが燃えるような説教を語っていると、しばしば聞いている人達が席から床に倒れ落ち、泣き叫びながら悔い改めて神に立ち返っていくのです。フィニーはある日、朝食の後に紡績工場へと入って行きました。糸を紡ぎ、はたを織る機械が並ぶ作用場にたくさんの女性がいましたが、特に二人の女性が目に入りました。彼女らは少し動揺したようですが、お互いに笑い合うことで感情をごまかしているようでした。フィニーは何も言わず、さらに近づいて行くと、一人はひどく震え出して糸を紡ぐことができなくなりました。3メートルしかしか離れていない場所まで近づくと、彼女たちはその場に伏して泣き出してしまいました。その瞬間、工場内にいた女性たちが全員泣き出しました。その時までクリスチャンではなかった工場長は、それが神の時であることに気づき、仕事を中断させてひとり一人をキリストに導く機会を設けてくれました。小さなリバイバルが起こり、数日間続きました。この間に、この紡績工場全体のほとんどすべての人が回心しました。

私は、神学校で「神の臨在とは、神がともにおられることだ」と習いました。しかし、それだけではないようです。神の臨在とは聖霊の力であり、人々を癒したり、解放することができるということです。旧約聖書の預言者たちも、使徒たちも、そしてイエス様も、神の臨在を運んでおられたということです。そして、神の臨在はミニストリーを行うための聖霊の力であることがわかります。イエス様が「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」と言われたことがあります。イエスさまと同じわざ、さらに大きなわざを行うのは、私たちの上におられる聖霊です。聖霊が私たちの上にとどまったらミニストリーを行うことができます。なぜなら、聖霊が神の臨在をもたらして下さり、そこに癒しや奇跡が現れるからです。一般の神学校では神がどういうお方か、ギリシャ語やヘブル語の聖書から学ぶでしょう。しかし、どのようにしたら癒しや奇跡が起こるのかは学びもしないし、実践もしないでしょう。しかし、イエス様は弟子たちと共におられ、「このように、やってごらんなさい」と訓練しました。そして、最終的には、イエス様は父のもとから聖霊を送ってくださいました。ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは力を受けました。今日、私たちが神さまの働きをしたければ、聖霊を上から受ける必要があります。なぜなら、聖霊は神の臨在をもたらす神の力だからです。

2.神の臨在をもてなす

 ヨハネ1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」先週の説教の引用の部分を繰り返します。「新生したクリスチャンとして、聖霊が内側に住んでいて下さることを私たちは知っている。しかも、聖霊は私たちを見捨てて行かれることは決してないというすばらしい約束までいただいている。何と言う慰めであろうか。しかし、残念なことに、聖霊はすべての人の上にとどまられるわけではない。聖霊が内に住まわれるのは、私自身のためで、上にとどまられるのは、周りの人々に奉仕するためである。聖霊がある人の上にとどまり続けられるとしたら、その人は最高の敬意を込めて聖霊を迎えている人であると言える。聖書の中で私が好きな箇所の1つは、イエスの聖霊の場面である。聖霊が鳩のように、イエスの上にとどまられたということである。もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うだろうか?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るだろうか。最も一般的な答えは「注意深く」というものだろう。適切な答えだが、それで十分ではない。一歩一歩の歩みが、すべて肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければならない。聖霊にとどまっていただく秘訣もそこにある。働きにおける方向性と力を受けるためだけではなく、生活のすべての点で、聖霊を意識しなければならない。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されている。」アーメン。

 私は「力を得るために、ペンテコステの日のように、聖霊を上からいただかなければならない」と力説する牧師です。どちらかと言うと、力としての聖霊を着る、聖霊の臨在を受け取るというニュアンスがあります。しかし、ビル・ジョンソンは聖霊をイエス様の上にとどまった鳩にたとえています。そして「もし鳩があなたの肩にとまったとしたら、どのように振舞うでしょう?一日中、その鳩にとどまってもらいたいと願うなら、どのように歩き回るでしょうか」とチャレンジしています。つまり、聖霊は力というよりも、ご人格を持った神さまであるということです。しかも、鳩のようにナイーブで、何かあるとパッと飛び去ってしまいます。そうすると、力としての聖霊を上からいただいたとしても、ちゃんと管理しないと、なくなってしまうということしょうか?おそらく、「神の臨在をもてなす」と言う意味は、「鳩にとどまっていただく」ことではないかと思います。私は神の力を得るためには、第一にこれ、第二にこれ、と項目を上げて方法論を語るタイプです。しかし、聖霊が鳩のようにナイーブなご人格を持っているお方だったら失礼だと思いました。聖霊が「なぜ、私と交わろうとするのですか?」と聞かれ、「はい、力を得るためです」と答えたならどうなるでしょう?「ぴゃー」と去って行くでしょう。「なぜ、神さまを礼拝し、賛美するのですか?」と聞かれ、「はい、祝福を得たいからです」と言うのと同じです。力や祝福は目的ではなく、副産物だからです。「本当に聖霊を神さまとしてあがめて、交わっているだろうか?」疑問になります。もしかしたら、自分のミニストリーが成功するように、聖霊を利用しているだけかもしれません。もちろん、聖霊の力を受けたいですが、聖霊がずっととどまっていただけたらもっと幸いです。

 ビル・ジョンソンが『神の臨在をもてなす』でこう述べています。関係を築くことに関して、次の二つの聖句は大切なガイドラインを示している。エペソ430「神の御霊を悲しませてはいけません」。Ⅰテサロニケ519「御霊を消してはいけません」。「聖霊を悲しませない」ことは、考え、態度、行動における罪の問題に何する命令である。「悲しませる」とは、誰かに悩みを与え、悲しみと苦しみを与えることを意味する。人生の中で何かをやってしまったり、妥協を許してしまったりする時に、聖霊は痛みを覚えられるのである。これは人格に関係している。聖霊の臨在をもっと力強くお迎えしたいと願うなら、このことに細心の注意を払わなければならない。「御霊を消してならない」という表現は、関係を築き上げながら、ともに働いていくことに焦点を当てている。「消す」ということばには、流れをせき止めるという意味がある。原語にも「消す」と「止める」と言いう二つの意味が含まれている。流れを「止める」とは、ホースで庭に水を撒くとき、そのホースを折って水が流れないようにすることであり、「消す」とは神との関係の中で情熱を消してしまうことを意味する。神への情熱の火を消してしまうと、聖霊が私たちを通して流れ、周りの状況を変えていくのをとどめてしまうことになる。このみことばは神の力が働くことに関する真理を教えている。アーメン。

 私は最初『神の臨在をもてなす』という本の題名を見て、読む気がしませんでした。東京オリンピックの「お・も・て・な・し」みたいな感じがしたからです。でも、原書はHosting the Presenceですから、ホストということばが使われています。Hostは「客を主人役として接待する」「もてなす」という意味です。と言うことは、聖霊が私たちの主人なんだということです。私たちは聖霊といわれてもどんな方なのか分かりません。でも、聖霊はキリストの御霊でありますから、イエスさまのことでもあります。聖霊とイエス様は全く同じ方です。もし、聖霊でイメージがわかなければ、「ここにイエス様がおいでになられているんだ」と思っても間違いありません。神の臨在が強いところでは、輝いておられるイエス様を見ることがあるからです。私はこれまで、「一度、聖霊を受けたら、ずっと変わることがない」と思っていました。でも、聖霊が離れることがあると学びました。イエス様が鳩のような聖霊をずっとご自分の上にとどまらせていました。それが、イエス様の力の源であるならば、ぜひ、そのようでありたいと思います。私たちが行くところに、聖霊様も共に行かれたなら、ペテロやパウロ、そしてチャールズ・フィニーと同じようなことが起るかもしれません。ということは聖霊は単なる力ではなく、ご人格を持った神の臨在なんだということです。つまりは、私たちは神の臨在を運ぶ器に召されているということです。イメージとして、私たちの肩に鳩がとどまっているということです。「注意深く」というのは、十分でありません。一歩一歩の歩みが、肩の上の鳩を意識しながら踏みだされなければなりません。ミニストリーにおける方向性と力を受けるためだけではありません。生活のすべての点で、聖霊を意識しなければなりません。驚くべきことに、私たちは神の臨在を運ぶ者として召されているのです。

3.神の臨在を解放つ

神の臨在を解き放つ、それは神の力が働くように私たちが用いられるということです。ビル・ジョンソンは神の臨在を解き放つための方法を4つあげています。第一はことばです。イエス様は父なる神が言われることをそのまま話されました。第二は信仰の行いです。信仰の行いとは、内側の信仰を実演するよって外に出すことです。たとえば、脚や足首をひどく負傷した人に、走るようにと勧めることがあります。第三は預言的な行いです。イエス様は目の見えない人に、シロアムの池に行って洗うようにと言われました。第四は触れることです。手を置くことは、神がご自身の世界を解き放つ時に用いれる重要な手段の一つです。

イエス様は弟子たちに聖霊と協力して働くことを学ぶ機会を与えました。イエス様が70人の弟子たちを選んで遣わされたことがあります。その時、イエス様は「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます(ルカ105-8」と言われました。このところに「平安」と書かれていまが、原文や英語からも「平和」と同じことばです。平和はヘブル語でシャロームであり、戦争や争いがないということではありません。シャロームの元の意味は「健全」「安寧」「繁栄」であり、神と人間が正しい関係にあるときにやってくるものです。イエス様が家に入ったなら、「この家に平安があるように」と言いなさいと命じられました。と言うことは、イエス様が70人を遣わされたとき、彼らに権威と力を与えたということです。このときにはまだ、聖霊が彼らの上に降っていませんでした。その前に、イエス様は弟子たちが聖霊と協力して働くことを学ばせたかったのです。そのとき、一時的ではありますが、聖霊の臨在がともにあったと考えられます。弟子たちは家に入るなり、「この家に平安があるように」と祈ったと思います。でも、不思議なことにその平安を受け止める人がいれば、その人の上にとどまります。でも、「いらない」と断られたなら、その平安は弟子たちのところに返ってきます。面白いですね。弟子たちが送った平安がその人の上にとどまったり、返ってきたりするというのですから。

 創世記8章に記されていますが、ノアは陸地が現れているかどうか調べるために、箱舟から鳩を放ちました。鳩は、その足を休める場所がなかったので、箱舟の彼のもとに返ってきました。なぜなら、水が全知の面にあったからです。ノアはなお7日待って、再び鳩を箱舟から放ちました。鳩は夕方になって、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。ノアは水が地から引き始めたことを知りました。次に鳩を放ったら、もう戻ってはきませんでした。聖書の中で、鳩は聖霊を象徴しています。イエス様の洗礼の場面がそのことを最もよく表しています。また、鳩は神の臨在と言うことも可能です。ところで、70人が家々をまわり、「この家に平安があるように」と祈りました。ふさわしい人にはその平安がとどまりました。まるで、鳩のような神の臨在がその人にとどまったということです。しかし、どうでしょう?「けっこうです」と断るならば、鳩のような神の臨在がもどってくるのです。つまり、70人の弟子たちは鳩のような神の臨在を解き放つ器として、イエス様から派遣されたということです。これってすごい真理ではないでしょうか?神の臨在を受け、神の臨在をもてなし、そして神の臨在を解き放つということです。これがミニストリーを行うための極意です。神の臨在は神の力ですから、このように言いかえることもできます。ミニストリーとは、神の力を受け、神の力をもてなし、そして神の力を解き放つということです。でも、大事なことは神の力は単なるエネルギーではなく、鳩のようにご人格を持った聖霊であるということです。

 イエス様は70人の弟子たちに「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」と命じました。イエス様は弟子たちに、誰がふさわしい人かを見分けることを要求しませんでした。つまり、誰がふわさしい人かを見つけて、聖霊を解き放ったりとどめたりするための指示を、いちいち必要としてはいませんでした。人々が聖霊にどう応答するか、聖霊が人々の上にとどまるか、どれだけに注意していれば良かったのです。彼らは聖霊を受け入れるだろうか。それとも、聖霊は戻って来られるのだろうか?ふさわしいどうかは、ただ鳩にどう反応するかにかかっています。私たちはどうしても外見から、この人がふさわしいとか、ふわさしくないとか判断しがちです。しかし、神さまは人の外側ではなく、心を見ておられます。サムエルが新しい王を捜しているとき、このことがはっきり示されています。エッサイの子どもたちが順番に来たとき、人間的な観点から言うとふさわしい候補者が見つかりました。しかし、主は違うと言われました。サムエルは全員を見終えてから、まだほかに息子がいるかとエッサイに尋ねました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」と答えました。ダビデは呼ばれていなかったのです。しかし、主はダビデの心を見て、この人がそれだと言われました。ですから、外見的に粗野で悪そうな人であっても、心の中は純粋で、神さまを求めている人はいるものです。誰がふさわしいかは私たちが決めるのではなく、聖霊様ご自身が決めるのです。私たちはただ、神の臨在を解き放つことが使命なのです。私も最初に教会の礼拝に来たときは、大川牧師は、粗野で悪そうな人に見えたでしょう。でも、私は礼拝説教を聞いたその日に、聖霊さまに捕えられたのです。深い飢え渇きを覚え、続けて来たいと思いました。アーメン。

 70人の弟子たちは、イエス様が命じられたとおりに、家々に入って「この家に平安があるように」と祈りました。すると不思議なことに素直に、その平安を受け取る人がいたのです。あとで70人が喜んで帰ってきてこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ1017)。彼らは「悪霊を追い出せ」とは命じられていませんでした。ただ、「この平安があるように」と祈っただけなのです。しかし、彼らとともに聖霊がおられ、神の臨在が解き放たれ、悪霊が服従したのです。「ハレルヤ!」と弟子たちは喜びました。でも、神の働きをするのも良いけれど、もっと喜ぶべきことがあるとイエス様が言われました。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」救いの喜びにまさるものはありません。

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2019年4月19日 (金)

復活の事実 Ⅰコリント15:12-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.21

イースターおめでとうございます。クリスマスは紀元後200年くらいからお祝いされたようです。しかし、イースターの場合はイエス様が復活されたその日からです。その日から、毎週日曜日に人々が集まるようになりました。そして、いつの間にか土曜日の安息日から、日曜日の礼拝に移ってしまいました。「日曜日に礼拝を守りなさい」と聖書に書かれていませんが、主の復活を祝うために日曜日に集まるようになったのです。今日も、私たちがここに集まっているのは、イエス様の復活をお祝いするためです。ハレルヤ!アーメン。

1.復活の予告

 主イエス・キリストはご自身が三日後によみえがえることを何度も予告しておられました。マタイによる福音書を読むと少なくとも四度あったことが分かります。最初は弟子のペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した直後です。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロが「そんなことがあなたに起るはずはありません」と言うと、「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ」と、しこたま怒られました。二度目は変貌の山から降りた時、イエス様が「人の子が死人の中からよみがえるときまで、いま見た幻をだれにも話してはならない」(マタイ179と命じました。三度目は同じマタイ17章ですが、てんかんの子どもを癒してあげた直後です。「人の子は、いま人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」と言われました。すると、「彼らは非常に悲しんだ」(マタイ1723とあります。四度目は、最後の晩餐の席で「私は、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました。そのとき、ペテロは「たとい全部の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ2623と言いました。弟子たちはイエス様が「私は死んだ後によみがえる」とおっしゃっているのに、何度も的外れなことを言っています。つまり、弟子たちは、頭からイエス様がよみがえるはずがないと思っていたので、予告をスルーしてしまったのです。

 イエス様が、ご自分がよみがえるとおっしゃったのに、もし、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?世の多くの人たちは「イエスは聖人であり、最高の道徳家である」と言うかもしれません。しかし、ご自分が三日後によみがえるとおっしゃったのに、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?大嘘つきです。J.B.フイリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本の中でこう述べています。「もし、キリストが復活しなかったなら、彼は誇大妄想狂である。…こんな男を、世界最大の教師と見なすわけにはいきません。マホメットも、仏陀も、他のいかなる大教師も、自分自身についてそんなほらを吹いたことはないからです。福音書に慣れ過ぎているため、キリストの主張の大変な重大さに気付かず、昔ながらの尊崇心から、かえって正当に評価することができなくなっている人々がたくさんいます。もしキリストが、事実、よみがえらなったら、キリストの生涯は偽りとなり、キリストは実に危険な人物となります。」つまり、私たち人間がキリストの前に立ったとき、2つに1つしかないということです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ146と言われました。人がそのことばを聞いて、「それは良かったですね。では、さようなら」とはいかないということです。この方は神か、もしくは気が狂っているのか、2つに1つしか選べないということです。ミッションスクールで、何を教えているか分かりませんが、人がキリストの前に立ったなら、道徳家ではすまされないということです。「聖書の教えは良いですね」とか「イエスは良いお方ですね」という選択肢はありません。唾を吐いてその場を去るか、あるいは「わが神、わが主よ」とひれ伏すか2つに1つしかありません。トマスに対して他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言いました。しかし、信じようとしませんでした。彼は残酷にも「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いました。その1週間後、イエス様が弟子たちの中に、再び現れてくださいました。イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ2027イエス様が、あの時の会話を聞いておられたのです。トマスはびっくりして、「私の主。私の神」と告白しました。トマスが自分の指をイエス様の手の釘跡に差し入れたでしょうか?槍で刺されたイエス様の脇に差し入れたでしょうか?おそらく、そのようなことはしなかったと思います。

 現代の私たちは聖書に記されている弟子たちの証言を信じるしかありません。パウロのように復活の主と出会って、信じる人はまれでしょう。ほとんどの人は、聖書の記述を信じるしかありません。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ2029とおっしゃいました。私はこんな偉そうなことを言っていますが、キリスト様に関しては全く無知でした。キリスト教は弱い人たちが勝手に作った宗教だと思っていたからです。かつての私をはじめ、日本人のほとんどが、キリストが何を教え、何をなされたのか知りません。決断するにも、何を決断したら良いのか分からないでしょう。私は1979415日の夜、イエス様を信じました。職場の先輩が9時間も伝道して、根負けをしたからです。その年の12月ある日、賛美のテープを聞きながら、部屋に掃除機をかけていました。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけた」と歌っていました。それは、聖書のことばでした。「え?イエス様が道で、まことでいのちなの?これは、大変なことだ」と思いました。私はその場に跪いて「イエス様、私をあなたの弟子にしてください。一番、小さい弟子で結構ですから」とお祈りしました。それまでは、イエス様は私の救い主で、私を助けて下さるすばらしい友だと思っていました。しかし、そうではありません。イエス様は神であり、主だと分かったのです。イエス様は予告どおり、死からよみがえられた真実な神さまだからです。

2.復活の事実

 Ⅰコリント1514,15「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」さらに、Ⅰコリント15:19 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」先ほど、引用したJ.B.フイリップスは、同じ本の中で、「キリスト教のあらゆる主張は、復活にかかっている」と述べています。弟子たちやパウロは十字架の死ではなく、どちらかと言うとイエス様の復活を宣べ伝えています。私たちは「十字架の贖いで人が救われるのだから、別に復活まで言わなくたって良いだろう」と思うかもしれません。使徒の働き2章にペテロの説教が記されています。対象はこの間、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちです。ペテロは詩篇を引用しながら、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒232と言いました。その後、3000人の人たちが、罪を悔い改めて、バプテスマを受けて弟子に加えられました。このところから分かることは、十字架の死の告知だけでは、回心に至らなかったということです。十字架の死が、私たちの罪の贖いの死であることは、復活がなければ証明できないということなのでしょうか?

 これは、イースターで何度も引用しているみことばです。ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このみことばの意味を英語の詳訳聖書が正しく教えています。後半は、and was raised to secure our justification「私たちの義の保証となるために、よみがえらされた」となっています。もう1つの訳もあります。Making our account balance and absolving us from all guilt before God 「私たちの勘定書きの帳尻を合わせ、神のみ前で無罪放免にして下さった」となっています。つまり、復活は私たちが救われること保証であり、無罪放免の勘定書きだということです。このたとえは、前も話したことがあります。ウォッチマンニーが友人のおかげで、借金を免除してもらった話です。彼の貸主に対して、その友人が有利な立場だったのでしょう。その友人は、自分たちがいる上海から、貸主の蘇州まで頼みに行ってくれました。貸主はウォッチマンニーの大変さを聞き、借金を帳消しにしてくれました。貸主は「せっかく来たのだから、蘇州の名所見物に行こう」と勧めてくれました。昔は電話などありませんので、ウォッチマンニーは、やきもちして待っていました。帳消しになった日から十日もたっていたのですが、証文を見ない限り分かりません。彼は、依然として自分を負債者と考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて証文を見せてくれた時です。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。つまり、復活がないなら、宣べ伝えている福音が、本当に効力があるのかどうか分からないということです。キリストを信じたら罪赦され、救われる。その証拠は父なる神がキリストを死からよみがえらせてくださったからです。私たちの手許には、復活という神からの証文があります。

 パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、ガラテヤの教会の人たちに十字架につけられたイエス・キリストをプラカードしました。しかし、それだけではありません。アグリッパ王の前で「神が死者をよみがえらせたということを、あなたがたは、なぜ信じがたいとされるのでしょうか」(使徒268と主張しています。つまり、パウロが宣べ伝えた福音は「完成した福音」であるということです。まことに奇異な表現ですが、人間が全く手を加える必要がない福音です。父なる神が、人類の罪を赦すために御子を十字架の死に渡しました。そして、父なる神が、御子イエスが十字架で罪を全部支払ったことを証明するために、彼を死からよみがえらせてくださったのです。私たちはイエス様の十字架を仰ぎ、「キリストは私の罪のために死なれたんだ。ありがとうございます」と感謝を述べます。そして、私たちが、イエス様が死からよみがえられたことを知ると、「救いは完成しているんだ、私は義と認められているんだ」と分かります。どこが違うのでしょうか?前者は「もう罪を犯さないようにしよう」と考えます。後者は「義とされているような生き方をしよう」となります。チョーヨンギ牧師が、人が銭湯のたとえを話されたことがあります。人が銭湯に行くと体を洗います。お湯から上がると、古い下着を再び着ません。上着もバサバサとあおいで、ほこりを落とします。何故でしょう?自分はきれいになったという自覚があるからです。そうです。クリスチャンは「罪赦されただけではなく、神さまから義と見なされている。それだったら、正しい道を歩もう」となります。本来、罪の赦しも義認も同じ救いを表現していることばです。しかし、パウロは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言いました。なぜなら、自分は死ではなく、神のいのちの中に入って入ることが分かるからです。私は親として、子どもが「ごめんなさい」「ごめんなさい」とうなだれて言うのを見たくありません。ある牧師たちは「私たちは神の前では罪人であり、日々、罪を悔い改める必要がある」と言います。だから、日曜日はいかに会衆が罪深いかをメッセージし、会衆は涙を流して、一週間分の罪を悔い改めます。しかし、それは間違いです。罪の問題はキリストの十字架によってすでに解決されているのです。むしろ、父なる神さまは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とおっしゃっているのです。なぜなら、すでに私たちは義と認められているからです。

 

3.復活がないなら

 コリント1532,33「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会は、この世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らには信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けて「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていました。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。それは、イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えていません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は彼らに「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」(マタイ2229と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。J.B.フイリップスはYou are very wide of the mark、「あなたは大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。

私は21年前と2年前にも、このような証を語っていました。私の説教原稿は「いのちのことば」というホームページに載っています。私もかつては見当違いをしていました。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていたのです。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外に短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。その後、神さまから京子さんというすばらしい女性が妻として与えられました。いつの間にか、4人も子どもが与えられました。ハレルヤ!アーメン。

この世には復活を信じる人たちと、復活などないと信じている人たちがいます。日本人は東洋的で「生まれ変わり」という輪廻を信じているかもしれません。だから、遺体を火葬にした後、先祖代々のお墓に混ぜて入れます。一方、復活を信じているのはエジプト、アンデス、チベットのミイラがあります。彼らがミイラを作るのは、やがて魂が戻ってきたときのためです。しかし、それは聖書が言う復活とは違います。私たちの場合は、キリストが復活したように、朽ちない栄光のからだに変えられるということです。その第一号がイエス・キリストです。私たちの復活の保証は、イエス・キリストです。Ⅰコリント1520「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえらされました」。ちなみに、新約聖書では人が死んだことを「眠った」と言います。これは、魂が眠ったのではなく、肉体が死んで眠ったという意味です。「眠った」のですから、いつか目覚める時が来るという前提です。いつ目覚めるのか?Ⅰコリント155254「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた』としるされている、みことばが実現します。」パウロが言う「朽ちるもの」とは私たちの地上の肉体です。一方「朽ちないものを着る」とは、天に属する肉体です。私たちの魂が栄光の肉体を着るのです。

 テレビを見るとショップチャンネルがいくつもあります。家電、宝石、バッグ、化粧品、そして下着や洋服があります。そこに出てくる下着や洋服がなぜ良く見えるのでしょう?着ている人が美しいからです。「自分をあの服を身に着けたら、美しくなるんだろうなー」と0120に電話をします。でも、多くの場合それは、幻想であり、fakeです。私たちの肉体は日々、衰えています。言いかえると、私たちの肉体は死に向かっており、何ものもそれを妨げることは不可能です。あのオードリー・ヘプバーンも最後はしわくちゃになりました。しかし、私たちは救われると霊的に生まれ変わり、「たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416)。パウロは私たちの肉体を地上の幕屋(テント)と言っています。この肉体が、私たちの住まいです。でも、パウロは地上の幕屋が壊れても、神さまのくださる建物があると言っています。神さまのくださる建物こそが、朽ちない栄光のからだです。私たちは魂のまま永遠に生きるのではありません。天からの住まい、栄光のからだが与えられ、永遠に生きることになるのです。ですから、クリスチャンにとって、死とは地上の幕屋を脱ぐことです。しばらくは、パラダイスで休息します。その後、世の終わりイエス様がやって来られたとき、ラッパが鳴り響きます。そうすると地面や海に眠っていた肉体が目覚めて、天上の魂と合体するのです。Ⅰコリント1558「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

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2019年4月12日 (金)

キリストが負ったもの イザヤ53:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.4.14

今週は受難週で、来週の日曜日はイースター(復活祭)です。復活の前には十字架を語る必要があります。というわけで、きょうは旧約聖書のイザヤ書から、キリストが十字架で私たちのために負ってくださったものをいくつか学びたいと思います。つまり、キリストは2000年前に、これらのものを負ってくださったので、私たちはもう負う必要はないということです。ということは、私たちは信仰によって、解決されたものを受け取れば良いのです。

1.

 イザヤ534「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」何かの間違いではないでしょうか?イザヤはやがて来られるメシヤは、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と預言しています。ということは、イエス・キリストは十字架で私たちの病を負ってくださったということです。すべてのキリスト教会は、「キリストは私たちの罪を負ってくださった。だから、信じれば罪が赦される。罪の問題は解決済みである」と言います。この事実は福音の中心であります。しかし、キリストが「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」とは、あまり聞くことがありません。「聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」と信じている教会が、あるところは信じて、あるところはomit除外するとは何事でしょう?それは、すでに他の考え方があり、そのゆがんだ考え方によって聖書を読んでいるからです。聖書にそう書いてあるのに、「そんなことはない」と無意識に飛ばして読んでいるのです。「病のことは別問題だ」とthroughしているのです。では、なぜこんな間違いを犯してしまったのでしょう? 20世紀前後に聖書の霊感を信じる保守的な学者たちから、cessationism「休止説」が出てきました。彼らは「使徒たちが天国に帰って、新約聖書が完成した後は、目を見張る奇跡や聖霊の賜物は不要になった」と主張しました。おそらく、Ⅰコリント138「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」のみことばを根拠にしたのでしょう。しかし、そのみことばは、イエス様が再臨なされる終末時であって、今の時代ではありません。キリスト教会の歴史をたどっても、使徒後教父たち、中世の教会、宗教改革者たち、18,19世紀にイギリスとアメリカに起った大覚醒運動、20世紀以降はインドネシヤ、南米、中国、アフリカにしるしと奇跡の伴うリバイバルが起きました。イエス様や弟子たちがなされた病の癒し、悪霊の追い出し、死人のよみがえりがどんどん起こっています。まさしく、ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」アーメン。

 では、なぜ、イザヤ534「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」を信じることが大事なのでしょうか?第一は、イエス様ご自身がこの地上でイザヤの預言を成就されたからです。マタイ8:16,17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」福音書を読むと分かりますが、イエス様のミニストリーの三分の一が病の癒しと悪霊の追い出しです。他の2つは教えと福音宣教です。イエス様は福音宣教だけをしたのではありません。御国がこのところに来ていることを証明するために、病の癒しと悪霊の追い出しをなされたのです。人々は目に見えない御国を癒しによって体験したので福音を信じるのが容易になったのです。第二は使徒ペテロもそのことを教えています。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロはイザヤ書53章を引用して、キリストが私たちの罪を負われたので、私たちが義のために生きることができることを述べています。それだけではありません、「キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです」と完了形で述べています。ペテロは罪の問題も、病の問題も十字架で解決済みであるとはっきり述べています。それなのに、「罪の赦しは受けますが、病の問題は自分で解決します」と言うのでしょうか?それは傲慢であるとしか思えません。

 私は聖霊の賜物による癒しを信じており、しばしば癒しの祈りをさせていただきます。これまでは、私の信仰によって癒すのであって、その人の信仰についてはあまり強調しませんでした。なぜなら、「癒されないのは私の信仰が足りないからでしょうね」と懸念する人たちがいるからです。だから、「こちらの信仰によって癒しますから、あなたは、ただ受け取れば良いのですよ」とミニストリーをしてきました。ところが、福音書を見ると、イエス様がしばしば「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われたのを発見することができます。そして、生まれ故郷のナザレでは大きな奇跡を行なうことができませんでした。原因は、彼らの不信仰でした。ということは、癒しを受ける方にも信仰がいるということです。それは、「癒しを受け取ります」という以上の信仰です。「キリストは2000年前、私の病を十字架で負ってくださった。病の問題はすでに解決済みである。私は病気でいる必要はない」ということを認めるということです。クリスチャンが「私の罪はキリストの十字架で支払われている」と信じるのと同じです。つまり、「キリストは既に十字架で私の病を負って下さっている。アーメン」と信じるなら、神の癒しがぐっと臨むということです。これは、癒し手が自分の聖霊の賜物で癒すということではありません。主の臨在がそこに現れて、主ご自身がその人の病を癒してくださるということです。なぜなら、イエス様は「その人自身の信仰によって癒された」とおっしゃっており、ご自分の癒しの力ではないような言い方をしているからです。つまり、このイザヤ53章の「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」という聖書のみことばの上に信仰を置くならば、もっと癒しのわざが起るということです。どうぞ、この受難週に改めて、イエス様が私の病と弱さを十字架で負ってくださったことを感謝しましょう。そして、解決済みの事実を信じることによって、大胆に主の御名による癒しを求めましょう。

2.

 イザヤ53:5,6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」私たちは新約聖書から「罪」と言いますが、旧約聖書にはもっとたくさんの罪があることが分かります。イザヤ書53章を見ると、代表的な罪が3つ記されています。第一は「そむきの罪」です。ヘブライ語ではペシャと言い、意図的に犯す罪です。英語ではtransgression「制限無視」「違反」です。イスラエルの人たちは、まことの神を知りながら、偶像の神に走りました。パリサイ人たちは、自分たちの言い伝えのために、神の戒めを破りました。知らないで犯す罪よりも、知っていて犯す罪の方がよい重いのは当然です。第二は「咎」です。ヘブライ語ではアーオーンと言い、「曲げる、何かをゆがめる」という罪です。英語ではiniquityであり、「不正」「不法」です。カインは弟アベルを殺しました。そのため地は呪われ、土地を耕してもその力を生じなくなりました。創世記413「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、担いきれません。』」。カインが犯した罪によって、土地の性質がゆがめられてしまったのです。私たちも先祖が犯した咎によって、報いを受けている場合が多々あります。偶像礼拝の罪がその1つです。出エジプト205「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし…」と書かれています。第三は「罪」です。このみことばは、イザヤ5312「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」にあります。ヘブライ語ではハタートと言い、「本来の目的からはずれること」「目的に達しないこと」。英語ではsin「道徳・宗教上の罪」を意味します。ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」とあります。これは、神さまと交わることのできる状態から落ちているという意味です。これら3つの罪は、この世でよく言われる「犯罪」「罪悪」とは随分と違うなーと思います。聖書はもっと根源的な罪を扱っているのでしょう。

 これらのことを考慮して、イエス様が2000年前に私たちの罪を負ってくださったということを深く考えるべきです。私は洗礼を受けてクリスチャンになってから、「キリストの十字架が私の罪のためだった」ということを悟ったのは半年かかりました。キリストによって完成された救いを、ただ受け取れば良いという信仰でした。キャンパス・クルセードの「四つの法則」というのがありました。4つとは、神、罪、キリスト、信仰の4つです。罪はイエス様が十字架で負ってくださった。罪の代価はすでに支払われている。救いの手立ては出来上がっている。そういう教えでした。だから、信じたときは涙も出ませんでした。もちろん、悔恨の涙は聖書的ではありません。でも、なんだか「ところてん式の福音」みたいな感じがします。四角い透明なものを、箱に入れて、棒を押し込むと、ところてんができあがります。救いを「四つ法則」と片付けるのは、安直しすぎるような気がします。救いは確かに恵みですが、私たちの罪が赦されるために、イエス様が十字架で死なれたということが分かるのは時間がかかると思います。そして、「私のあの罪、この罪、いろんな罪のためだったんだ」と分かって来ると、救いの有り難さが分かってきます。私が小学生の頃、中学生二人と3人で「めんこ」を遊びました。私はズルして片方の中学生のめんこを隠しました。もう一人の中学生は、「お前が隠したんだろう」と言いました。「いや、俺じゃない」と彼が答えました。それが1時間くらい続き、すっかり暗くなりました。一人の中学生は「白状しろ!」ともう一人の友人の首を絞めていました。私の兄が「お前ら、何をやっているんだ」と家から出てきました。訳も聞かずに、二人の中学生を殴りつけ、解散させました。後味の悪いのは私です。二人の友情を壊してしまったからです。彼らは私がめんこを隠すはずがないと思っていたのでしょう。もう、何十年も昔のことでしたが、心の中にしこりとして残っていました。イエス様にお詫びしました。でも、二人に会ってお詫びもできません。そのとき、罪というのは、簡単に赦されるものではないのだと思いました。咎という問題は、エリヤハウスで取り扱うことができました。父が酒乱で子どもや母をよく殴りました。私はそんな父のようにはなるまいと思っていました。とろころが、長男が何か悪いことをしたとき、叩きませんでしたが、首をぐっと絞めました。家内と喧嘩したときも、殴りたくなりました。その時、私は驚きました。「父親と同じ血が流れているんだ。父のようになるまいと思っていても、そうなるように轍(わだち)ができているんだ」と恐ろしくなりました。大人になっても父を赦せませんでしたが、なんとか赦しました。そうしたら、咎から解放されました。エリヤハウスから教えられて、父親との間に十字架を立てて、悪いものが流れてこないようにと祈りました。

 私が一番ショックだったのは、イエス様が私たちの罪を負われただけではなく、罪そのものとなったということを知ったときでした。Ⅰコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」救いを受けた私たちは、どうしても自分の方からしかイエス様の十字架を見ません。しかし、イエス様ご本人はどんな気持ちだったのでしょう。自分が何も悪いことをしていないのに、人々の罪をかぶるとはどういうことでしょう?自分が犯した罪じゃないのに、裁かれて死ぬというのは、どんな気持ちなのでしょう。「私は悪いことをしていないのに、何でだよ」と思うのが普通でしょう。でも、父なる神さまが、私たちの罪を赦し、私たちを義とするためには、その道しかなかったようです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。罪を知らない方とはイエス様のことです。さらに、イエス様は、私たちの代わりに罪そのもとされましたのです。その時、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?)」と叫ばれました。日中だと言うのに、全地が真っ暗になっていました。罪の醜悪さ、罪の重さ、罪の残忍さ…一口ではいえません。あの罪、この罪、いろんな罪のためにイエス様は身代わりに死んで下さったのです。イエス様が私たちの罪を負ってくださり、罪そのものとなってくださいました。救いの道がそのように開かれたことを感謝します。

3.悲嘆と悲しみ

 キングジェームス・ヴァージョンのイザヤ534は日本語とかなり違います。イザヤ534 Surely He has borne our griefs and carried our sorrows;Yet we esteemed Him stricken,Smitten by God, and afflicted.直訳すると、「確かに、彼は悲嘆と悲しみを負われた」となります。そこには、日本語訳のように、病とか痛みとは書いていません。でも、なぜキングジェームスはそのような訳し方をしたのでしょう?ヘブライ語の聖書は、最初に負ったものが「ハリー」であり、これは「不健康」「病気」「苦しみ」という意味です。次に負ったものが「マクオーブ」であり、これは「痛み」「病気」「苦しみ」という意味があります。すると、キングジェームス訳は、肉体的なものではなく、精神的なものに置き換えてしまったのではないかと思います。New English Bible、モファット訳、New American StandardNew International Version…みな「悲嘆と悲しみを負われた」と訳しています。病気を負われたとは書いていません。これは、あきらかにキリスト教が西洋周りでやってきたことの弊害であります。現代のキリスト教会が、肉体の病の癒しを軽く扱うのは、そのためです。いつの間にか、キリスト教の救いを精神的なものにしてしまったのです。その点、日本の新改訳聖書、口語訳、新共同訳は「病を負った」とはっきり訳しています。しかし、きょうのメッセージは聖書を批判するためのものではありません。第一のポイントでキリストは病を負って下さったとはっきり言明したのですから、第三は精神的なものでも良いのではないかと思います。良く考えると私たちの人生において、病気になるのは嫌です。でも、悲嘆や悲しみも深いダメージを与えることは確かです。私たちの人生において悲嘆や悲しみはできるだけ少ない方が良いにきまっているからです。

 では、あえてキングジェームス・ヴァージョンや西洋の聖書を尊重して、イザヤ534からメッセージをさせていただきます。キリストが最初に追われたgriefは、「深い悲しみ」であり、「悲嘆」であります。その次はsorrowですが、「悲しみ」「悲哀」「哀悼」であり、griefとほとんど同じです。そして、両者とも家族や愛する人を亡くした時に用いられることばです。それでは、イエス様が悲嘆と悲しみを実際に負われたのでしょうか?確かに、福音書にあります。最初はイエス様がナインという町に入ろうとした時です。ルカ712-15「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」やもめの一人息子が死んだのですから、これほど悲しいことはありません。その死体は町の外の墓地に運ばれようとしていました。本来なら汚れるのに、イエス様は棺に手をかけて、埋葬の行進をストップさせました。そして、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言って、青年をよみがえらせました。重要なのは、イエス様が「泣かなくても良い」と言ったことばです。イエス様はただ口でお母さんを慰めたのではありません。私がよみがえらせてあげるから、「泣かなくても良い」とおっしゃったのです。この奇跡はあきらかに、イザヤ534の「悲嘆と悲しみ」を負われるという預言の成就ではないでしょうか?福音書を見ると、会堂管理者ヤイロの一人娘のよみがえり、そして、死んで4日もたったラザロのよみがえりの記事があります。そちらの方も、人々が死んだ人に対して、悲しみ嘆いています。でも、いのちであられるイエス様は、喜びと賛美に変えてしまいました。

 私たちにはこれまでの人生において、「私は悲嘆や悲哀をなめさられた」という人は、一人も例外なくおられることでしょう。家族の死別もあるかもしれませんが、親から見捨てられ、虐待され、人々から不当な扱いを受けたことがたくさんあるでしょう。裏切り、喪失、軽蔑…それらも「悲嘆と悲しみ」に入ると思います。ということは、肉体の病気の癒しも必要ですが、このような精神的な苦痛も馬鹿にできないということです。むしろ、後者の方は薬や医者では治すことができません。どこにそれらの痛みを持っていったら良いのでしょうか?やっぱり、キリストの十字架ではないでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあるからです。そのお方は、私たちと同じことを体験されたので、私たちの悲嘆と悲しみをご存じであり、深く同情してくださいます。でも、それだけではありません。イエス・キリストは十字架で、私たちの悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。深い心の傷も痛みも負ってくださったのです。ですから、病や罪と同じように、私たちがいつまでも負っているべきではありません。イエス様が十字架で既に負ってくださったのですから、イエス様のもとにお返ししましょう。イザヤ書61章はメシヤの預言ですが、このようなおことばがあります。イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」アーメン。でも、そればかりではありません。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」アーメン。私たちが失ったものを神さまは倍にして返してくださるのです。

 今週は受難週です。イエス様が私たちの代わりに十字架で死なれました。ただ死なれたのではありません。十字架の前はさんざん嘲笑され、馬鹿にされました。つばきをかけられ、髭を抜かれ、いばらの冠を額に押し付けられました。そして、ローマ兵によって容赦なく鞭が当てられ、瀕死の状態になりました。その後、十字架を負わされ、ゴルゴタまで上りました。イエス様は真っ暗の中から叫びました。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?」。その時、イエス様は私たちの病、罪、そして悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。ですから、あなたはそれらを負う必要がありません。それらを十字架のもとに降ろしましょう。

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2019年3月30日 (土)

神からの権利 使徒17:26-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.31

 権利とは、合法的に受けられるものです。基本的人権ということばを聞いたことがあると思います。でも、きょうは法律とか政治の話をするのではなく、「神からの権利」について聖書から学びたいと思います。神さまは人間に住むべき地球を与えました。日光、水、空気、地下資源、命を与えてくれました。さらには、住むべき所、家庭、健康、労働、能力、友、娯楽…数えたらきりがありません。でも、多くの人たちは「これは神から与えられたものではなく、自然に与えられたもの、あるいは自分で努力して得たものだ」と誤解しています。だから、感謝がありません。

1.生命

 使徒1726-28「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」このところには、神さまが人々を造り出し、そして人々を地の全面に住まわせたと書いてあります。パウロはアテネに伝道に行きましたが、これまでの説教とは全く違っています。ユダヤ人はこれらのことを知っていたので、あえて語る必要はありませんでした。しかし、異邦人は神がだれであるか、人間は何なのか語らないとその先が進まなかったからです。アテネの人たちは初めに何があったのか、ものは何からできているのか哲学的な探究心が旺盛でした。しかし、人格的な神さまがこの世界と私たちを造られたということが分かりませんでした。この真理は神からの啓示であり、人間がいくら研究しても分からないことです。「神からの権利」ということを語るとき、私たちの生命は神さまから与えられたということを最初に理解する必要があります。私たちの生命は進化論者が考えるように自然に発生したものでも、猿から進化したものでもありません。神さまがご自身のかたちに似せて、私たちを霊的な存在として造られたのです。私たちは自然の一部ではなく、神の代理者として自然を治めるものとして造られたのです。

 十戒の6番目は「殺してはならない」です。何故、人を殺してはならないのでしょうか?それは神さまがその人に生命を賜ったからです。その生命はその人の権利であって、勝手に奪ってはなりません。もし、人の生命を勝手に奪うなら、社会的な罪の前に、創造者なる神さまに罪を犯していることになるのです。殺人はとても重い罪です。どのくらい重いのでしょう?多くの人たちはこの世の刑事裁判しか分かりません。でも、聖書には何と書いてあるでしょう。ヨハネ黙示録218「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」黙示録2215「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」人を故意に殺すならば、「永遠のさばきをうけ、御国からは締め出される」とはっきり書いてあります。最近の日本では、殺人のニュースが次から次と報道され、「この間も似たことがあった」と麻痺してしまいます。アメリカでも銃の乱射で学生が一度で何十人も死んでいます。私がもと住んでいた座間でも、おぞましい事件がありました。横浜市では看護師が20人もの患者の点滴に消毒剤を混入しました。イスラム教の国では、キリスト教会の礼拝堂を襲って、大勢の人たちが殺害されたことを度々聞きます。私たちはこの地上の法律では完全にさばかれないことを知っています。被害者の家族は悔しい思いでいっぱいでしょう。でも、殺人がいかに重い罪か、聖書にはっきりと記されています。日本人は「殺してはならない」という命令が十戒に記されていることを知るべきです。

 同時に私たちは隣人の生命が神さまから与えられたものとして、尊ぶべきです。親が子どもを虐待したり、学校ではいじめがありますが、とんでもないことです。しかし、私たちは実際にそういうことはしなくても、心の中で殺人を犯していることがあります。「あの人がいなくなれば良い」と思ったことはないでしょうか?イエス様は「兄弟に腹を立てる者はさばきを受けなければなりません」(マタイ522とおっしゃいました。私たちはクリスチャンになっても、人を自分の価値判断、好き嫌いで見てしまいます。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、みんなが好きな有名なみことばでしょう。でも、この前に何と書いてあるでしょう?Ⅱコリント515,16「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」これはどういう意味でしょう?人を人間的な標準(原文では肉)では見てはいけないと言うことです。では、人をどう見たら良いのでしょう?「キリストがその人のためにも死なれたんだ」とキリストの贖いを通して見るということです。つまり、その人のためにもキリストが死んで代価を払ってくださったのです。ということは、神の創造だけではなく、キリストが贖われた尊い存在として見なければなりません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とは、自分だけに充てられたみことばではなく、身近にいるその人ためにもあるのです。アーメン。私たちはキリストの贖いを通して、人々を見る必要があります。そうすれば、その人の生命、生きている価値を敬うことができるようになります。イエス様は「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ712と言われました。自分の生命も大事にするけれど、他の生命も大事にするということです。

2.自由意志

 神さまが人間に与えられた最高のものは「自由意志」です。「知性だ」と言う人もいますが、そう思っても結構です。その人の自由ですから。神さまが人間を創られたとき、自由意志を与えられました。いくら完璧な被造物であっても、自由意志がなければ単なるロボットです。しかし、自由意志はとても危険であり、自らの意志で逆らうこともできます。「嫌です」とか「従いたくありません」ということもできるからです。でも、神さまは多大なリスクを犯してまでも、人間に自由意志を与えました。そのことを良いことに、サタンが誘惑して、人間は神に逆らうことを選択しました。本来は自由意志によって神さまに従うべきだったのですが、それを誤用してしまいました。その結果、私たちには自由意志があるとは思いながら、さまざまなことで束縛されています。もし、「あなたは自由ですか」と聞いたら、「あまり自由じゃない」と答えるのではないでしょうか?しかし、私たちがキリストを信じて、神に立ち返るならば、本来、与えられた神からの自由を享受することができるでしょう。私たち人間は、神さまの権威を認めて従うときに、本当の自由が得られるようになっているのです。

 それはともかく、不完全でありながらも人間には自由意志が与えられています。私たちは自分の子どもであっても自由意志を奪ってはいけません。なぜなら、その人の権利だからです。自由な意思を持てない人を奴隷と言います。現代社会において「奴隷」はいないかもしれませんが、精神的に奴隷状態の人はいると思います。私たちは自由でありたいと思いますが、他者もそうだということを認めなければなりません。なぜなら、ひとり一人、自分の考えや好みがあるからです。これは神さまが与えた権利です。マインド・コントロールが悪いというのはだれでも知っています。しかし、manipulate ということばをご存じでしょうか?これは「人を操る、操作する」という意味です。これは、母親が子どもによくやることです。「そんなことをしたらお母さん悲しくなるわ」「そんな悪い子を産んだ覚えはありません」。子どもはお母さんを悲しませたくないので良い子になろうと努力します。しかし、何が善で何が悪なのか、判断基準というものを教えられていません。ただ、お母さんを悲しませたくないので、言うことを聞くのです。大人でもこの方法を用いる人がいます。恋人同士、夫婦関係、あるいは職場の上司が使うかもしれません。人を操るのは、自由意志をもて遊ぶことであり、人権を奪っていることだと考えるべきです。自分の意見や願いを言っても構いません。でも、最後はその人の自由意志、決断に任せるべきです。子どもが小さいときはある程度、矯正しても大丈夫です。しかし、自我が芽生えてからはそうはいきません。親は「良かれ」と思って老婆心ながら言っているのに、反抗されます。でも、神さまもアダムとエバに自由意志を与えました。放蕩息子の父親も弟息子を出て行くままに任せました。人は神から与えられた自由意志が何たるものか、痛みを通して学ぶしかないのかもしれません。親はできるだけ痛みを排除して、苦労しないようにしてあげようとしますが、それでは問題を先送りしているだけです。自分で選択し、自分で決断する。そうすれば、責任も自分で取るようになります。私たちは神さまから与えられた自由意志を他者にも正しく、用いるべきです。

3.純潔

 純潔などと言うことばも、現代は死語になっているかもしれません。教会では「性」を語るとタブーみたいに思われます。でも、正しい性をだれが、どこで教えることができるのでしょうか?それは神のことば、聖書でしかありません。十戒の七番目は「姦淫してはならない」です。他にモーセの律法には性的な掟がたくさん書かれています。出エジプト2216「まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない」とあります。レビ記18章には講壇から言えないことがたくさん書かれていますので、帰ってから、ご自分の家で読んでください。このところには「女性を犯してはならない」と何度も書かれています。これは女性の人権を守る戒めであります。モアブは近親相姦で有名でした。また、カナンは偶像崇拝の地でありましたが、同時に性的に乱れていました。かつて、ソドムトゴモラは同性愛で滅ぼされました。レビ記には「破廉恥な行為」として、書かれています。残念ながら、現代は破廉恥を売り物にする映画やテレビ番組があふれています。若者たちは、ポルノによって思いが汚されており、チャンスがあれば実行してしまいます。私たちは性が神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。自分もそうですが、相手に対しても尊ぶ必要があります。と言っている、私は未信者の頃、かなり羽目を外していましたので、本来は講壇から語ることのできない者であります。今は、主のあわれみによって罪が赦され、このように聖書から勧めることができるようになりました。でも、いつでも誘惑があるんですから、気を付けなければなりません。パウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント1012と注意しています。

 私たちは性というものを神さまから与えられた賜物として尊ばなければなりません。聖書では性的関係は夫婦の間だけであると限定されています。箴言にはその種の戒めが多く書かれています。箴言515-18「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。」このところで言われている「泉」とは何であるかは、ご自分でお考えになってください。聖書は夫婦の性的交わりが、二人を結合させるためにとても大事であると書かれています。エリヤハウスでは、「肉体だけではなく、霊が交わるからだ」と言っています。その根拠となるみことばがマラキ書2章に記されています。マラキ215-16「神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」どちらが裏切るかは統計を取ったことがありませんが、マラキ書は男性に対して注意しています。「あなたがたの霊に注意せよ」と言われているのは、肉体だけの問題ではないということを示唆しています。日本では3組のうち1組が離婚しています。傷つくのは子どもたちだけではありません。当人たちも傷つき、霊が壊れていることを忘れてはいけません。エリヤハウスでは、「結婚とは二枚の板をボンドでくっつけることであるであり、離婚とはその二枚の板を無理やり剥がすようなものである」と言いました。おそらく、相手の霊の一部がこっちにくっついており、自分の霊の一部が相手に言っている状態です。ですから、祈りによって、聖霊の刃によって自分にくっつているものを切り落とし、それを相手にやります。また、相手側にある自分の霊の一部を、こっちに取り戻すと言うことが必要になります。そうでないと、いつまでも、相手のことが忘れられず、解放されないからです。離婚した場合は、このような解放のミニストリーを受けることをお勧めいたします。

 性は神さまが私たちに与えて下さった賜物です。この世では、愚かにも、自らの手でだいなしにしている人がたくさんいます。また、私たちは相手の性に対しても重んじ、慈しむ心が必要です。新約聖書では、教会をキリストの花嫁としてたとえています。また、エペソ人への手紙には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ525と命じられています。また、ペテロの手紙には「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(Ⅰペテロ37と書いてあります。これは、妻との関係が悪いならば、霊的にもおかしくなるということを示唆しています。アーメン。

4.持ち物

 私たちは自分の持ち物は神さまから与えられたものとして尊ぶ必要があります。また、同時に他者の持ち物に対しても同じ心が必要です。十戒の8番目は「盗んではならない」であり、10番目は「隣人のものを欲しがってはならない。」です。神さまは私たちに、いろんな物を与えておられます。多くの人たちは「自分がかせいだ」「自分が手に入れた」と誇っていますが、そうではありません。神さまが与えてくださったのです。ヨブはいっぺんに、10人の子どもと全財産を失いました。その時、ヨブは「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ121と告白しました。子どもは持ち物ではありませんが、子どもでさえも、神さまがお与えになったのです。事故や病気や事件で大事な子どもを失ってしまった親たちがいます。子どもの遺品や子ども部屋を片付けることができず、時計が止まっている状態です。もちろん、いろんな理由があるかもしれませんが、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」という信仰に立って、神さまにゆだねるべきであります。そうしないと、神さまから与えられた自分の人生を全うし、責任を果たすことができません。私たちには全能であり、また、善であられる神さまがおられるということはすばらしい特権であります。主は私たちを愛しておられるので、悪いようにはしない。これは、本当だと思います。英語でdeserveは、「…受ける価値がある」「受けるに足りる」「…に値する」という意味です。このことばは良い意味でも悪い意味でも使われます。「受けるに値する者と見てくださり、感謝します。大事に使わせていただきます」と思うべきです。でも、「当たり前」という気持ちになったらどうでしょう。Deserveには「当たり前」という悪い意味もあります。私たちは今持っているものを「当たり前」と思ってはいけません。イスラエルの人たちは神さまがなされたみわざを忘れたので堕落しました(詩篇10613)。私たちはこの肉体の1つ1つの器官を感謝すべきです。土地や財産があれば、感謝すべきです。お金や時間、いろんな持ち物も感謝すべきです。

 今、私のデスクの中には、数えきれないほどのペンがあります。いろんな文房具がつまっており、引き出しにひっかかるほどです。私の友人の若木先生の子ども時代の証を聞いたことがあります。私もかなり貧乏でしたが、若木先生ほどではありません。若木先生は子どもの頃、はしけで生活していたそうです。「はしけ」は沖合いの大きな船と河岸とをつなぐ荷役の主役であり、河川交通の主役でもありした。そういう平べったい船で生活するとは、どういう状態でしょうか?家がいつも揺れています。自分の人生に安定感がないのはそのためだとおっしゃっていました。若木先生のお姉さんが小学校5年生のとき、お母さんに「新しいノートを買って」と頼んだそうです。すると、お母さんは「消しゴムで消してから、もう一度使いなさい」と言ったそうです。そばで聞いていた、子どもの若木先生は「家にはノート一冊も買うお金がないのか」と思ったそうです。やがて先生はクリスチャンになりましたが、神さまに大きなものを願ったことがないと気付いたそうです。「びっくり驚くようなプレゼント」をいただいた経験がないので、神さまにも求めることがなかったということです。昨年の6月カルバリーの大川牧師のメッセージを聞きました。家が本当に貧しくて、修学旅行にも行けなかったそうです。「どうして家は貧乏なんだ」とお母さんを蹴飛ばしたそうです。大川先生はやがて伝道者になるために献身しました。メッセージでは「そのとき私は貧しさも神さまに捧げました」とおっしゃっていました。どういうことかと言うと、先生は、貧乏の霊から解放されたということです。昔は、「こんなぜいたく品、私には相応しくない」と思って、買わなかったのではないかと思います。たとえ、いただいても、「私にはもったいない」と思ったのかもしれません。貧乏の霊というのがあるようです。私たちは貧乏の霊からも解放される必要があります。

 Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私が知っている牧師の奥さんは、聖め派の教会なので、とてもよく捧げるそうです。子どもたち4人くらいいるのですが、新しい洋服は買ったことがないと言っていました。「教会のバザーでたくさんの洋服が手にはいるからだ」とおっしゃっていました。でも、子どもたちはぐれるわけでもなくて、現在では何人も献身しています。でも、どこか間違っていると思います。富むことは悪いことではありません。悪いのは正しく管理しないことです。もし、神さまから与えられたものを正しく管理するならば、富さえも有効に用いることができるでしょう。神さまが与えてくださったものを感謝して受け取りましょう。

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