2019年3月15日 (金)

神からの権威 ヘブル12:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.17

 権威ということばは、最近は死語になっているかもしれません。戦後、あらゆる権威が否定され、権威というものは悪いものなんだと思われています。また、教会でも権威を強調すると、「カルトだ」と言われます。聖書的な権威というものがあります。神さまがお与えになった権威というものがあり、その権威に従うときに守りと祝福が与えられるということです。私たちは聖書から正しい権威というものを知る必要があります。

1.世の中の権威

 ローマ131,2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」パウロがいたころは、ローマが世界を治めていました。ある人は、パウロは「キリストの福音はカイザルに背くものではない」ということを弁明するためにこのようなことを書いたと言っています。おそらく、このころは、キリスト教会に対する迫害が始まっていなかったのかもしれません。しかし、ネロが皇帝になると、迫害が増してきました。ヨハネは黙示録で、その当時のローマのような狂暴化した国家「獣」が、世の終わりにも出現することを預言しています。キリスト教倫理という学問がありますが、「教会と国家の関係」について教えています。教会は国家の権威、つまり、国が定めた法律には従うべきです。なぜなら、それは神が与えたと信じるからです。でも、国が悪魔化して、教会の信仰を妨げるようになるなら断固として抵抗するでしょう。よく「政教分離」ということが言われますが、これは正しい考え方とは言えません。ナチスドイツが国を支配したとき、教会は彼らと協定を結びました。「教会は国家から信仰の自由を与えられる代わりに、国家の政治に対しては一切口出しをしない」という協定です。しかし、ナチスドイツはそれを良いことに、安楽死やユダヤ人の迫害を始めました。それに対し、一部の教会、「告白教会」が抵抗し、迫害を受けました。他の大多数の教会は表立って抵抗をしませんでした。戦後、ドイツの教会はそれを深く反省し、殉教死したボンフェッファー牧師から学びました。つまり、国家と教会に、お一人の主だけが存在するということです。

今の日本は信仰を持つことが自由です。しかし、イスラム教の国では、キリスト教がものすごく迫害を受けています。軍隊や警察が存在していますが、見て見ぬふりをしています。ですから、ローマ13章のみことばは、「条件付き」で守るということです。つまり、国家が私たちの信仰を脅かさない限りは、国家の権力に従うということです。パウロはⅠテモテ2章でこのように勧めています。Ⅰテモテ21-3「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」パウロは為政者のために祈りなさいと言っています。私たちも日本の総理大臣や都知事、区長のために祈る必要があります。スキャンダラスなニュースを聞いて、「え?政治家のために祈るの?」とおっしゃるかもしれません。完全な国家というものはこの地上に存在しません。どんな政府であっても、不政府状態よりは良いのです。ベストは望めないにしても、ベターを願うことはできます。ですから、クリスチャンであっても国民の義務を果たし、選挙にも行くべきであります。イエス様はマタイ5章で「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは世界の光です」と言われました。塩の役目は世の腐敗をできるだけ留めることです。また、光の役目は、裁きの預言をすることではなく、神さまの愛と真理を示すことです。

ビル・ジョンソンは世の終わりに人々は神さまのところに知恵を求めてやってくると言っています。イザヤ書21-3終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。アーメン。このところに「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」とあります。ビル・ジョンソンはキリスト教会が影響を与えることのできる7つの活動範囲、7つの山について述べています。第一は家族、第二は宗教、第三は経済、第四は教育、第五は国家、第六は芸術とメディア、第七は科学とテクノロジーです。第五の国家のところで、「私たちは神の国の価値観が法律のすべての分野に現れるように祈り仕えるべきだ」と書かれています。また、「政治、法律、裁判、税金、刑務所、軍隊、官僚、市民の義務、愛国心、全ての活動に、神さまのすばらしいアイディアが現れるように祈り仕えなさい」と勧めています。旧約聖書をみると分かりますが、ヨセフは家族だけではなく、エジプトの民を大飢饉から救いました。また、ダニエルと3人の若者はバビロンに捕え移されましたが、その国で忠実に仕えました。ダニエルはバビロンからメド・ペルシャの王様、4代に仕えました。ダニエルと3人は国が定めた法律に従わなかったために、殺されかけました。しかし、神さまが御使いを遣わして彼らを助け出しました。その国の王たちは、「あなたがたの神がまことの神さまだ」と告白しました。私たちも彼らのように国家の権力に従うべきでありますが、消極的ではなく、国家が神からの祝福を受けるよう、積極的な仕え方があるということです。

2.家庭における権威

 家庭における権威には2つの分野があります。第一は父母の子どもに対する権威、第二は夫の妻に対する権威です。エペソ6:1「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。アーメン。これは、十戒の戒め5番目の戒めと同じです。しかし、パウロは、なぜ「第一の戒め」と言ったのでしょう。十戒の1から4番目は神さまに関する戒めです。そして5から10番目は人間社会に関する戒めです。その筆頭が、「あなたの父と母を敬え」です。そして、またこの戒めは神さまと人間を結ぶ戒めにもなっています。つまり、父と母は子どもたちに信仰を与えつつ、「神の戒めを守るんだよ」と教える責任があるということです。もし、父と母のことを無視したなら、救いに預かれないばかりか、神の戒めをも破る滅びの子になってしまうでしょう。神さまの代理という意味で、父と母を敬うべきであるということです。また、人間社会の戒めの筆頭ということは、6から10までの戒めも守れるようになるということです。パウロは「『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です」と言いました。言い換えると、その子の生涯において神さまの祝福を受けるということです。では、どうして「主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだから」と言えるのでしょうか?ここには「主にあって」という但し書きがあるので、虐待とか罪のゆえに従えない場合もあるということです。でも、多くの場合は、「両親に従いなさいなさいよ」と言われています。何故でしょう?なぜ、子どもは、親の言うことをきかなればならないのでしょう?

 その理由は、神さまが両親に権威を与えたということです。そして、その子どもが両親に従うなら祝福を受けるということです。つまり、子どもは家庭において、権威たるものが何なのかを両親に従うことによって学ぶことができるでしょう。申命記27章に「自分の父や母を呪う者はのろわれる」と書かれています。もし、両親を敬わないなら、どのような呪いが子どもに及ぶのでしょうか?それは「権威を恐れず、権威に従わない子どもになる」ということです。第一のポイントで言いましたが、ローマ13章では「国の権威に従え」と命じられていました。法律や条例、警察に逆らったらどうなるでしょう?きっと、さばかれ罰を受けるでしょう。また、学校に入ると校長先生や先生がいます。「私は先公の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。良い勉強を受けることができません。また、会社に入って、「私は社長や上司の言うことには従いたくない」と言ったらどうなるでしょう。会社を首になるでしょう。もちろん、ブラックな学校、ブラックな会社はあるかもしれません。でも、嫌であっても、「主にあって」この世の権威に従うべきなのです。上からの権威に従うと、どんな良いことがあるのでしょう。その人に、守りが与えられます。本来、権威というものは、下のものたちを守るためにあるのです。もちろん、権威を誤用して、独裁行為やパワハラをしている悪い人たちもいます。でも、不完全かもしれませんが、この世の権威は神さまが許したものであり、従うならば守りが与えられるということです。安全、給与、待遇、さまざまな保証に預かることができます。なぜなら、それらの多くのものは権威ある人たちに任されているからです。

 しかし、その子が家庭において、両親を敬うということを学ばなかった場合はどうなるでしょう?不幸にも親が子どもを虐待して、とてもじゃないけど敬えない場合があります。また、親が不在か死んだため、直接、権威というものが何か学ぶことができない場合もあります。そうなると権威というものが、恐ろしくて悪いもののように思うでしょう。その子どもの心の中には、権威に対する反抗心、権威に対する疑いがあります。学校でどういう訳か、自分だけが叱られる。会社でどういう訳か、自分だけが冷遇される。教会でどういう訳か、粗末に扱われる。牧師が私のことを嫌っているみたいだ。そういうことがあるかもしれません。実は私の父はあまり働かないで、酒を飲み、母や子どもたちに暴力をふるっていました。経済的にも精神的にも、子どもたちをちゃんと守りませんでした。正月に集まると、兄や姉が互いに喧嘩をしていました。父は見て見ぬふりをして、諌めませんでした。母も兄弟たちも、そんな父を軽蔑していました。今、思えば、私は機能不全の家庭で育ったんだと思います。そのため私には「権威から来る守り」というものがありませんでした。守りがなかったので、学校の先生から良く叱られたんだなーと思います。私はエリヤハウスで、父母を敬わなかったことを悔い改めました。また、父や母を赦しました。そして、神さまから、旧約聖書のヨセフのような権威をいただきました。ですから、今では主のあわれみと助けによって、家庭を正しく治め、教会を正しく治めることができると信じています。

 もう1つは、夫の妻に対する権威です。エペソ5:22「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」とあります。もちろん、夫たちには「キリストが教会を愛されたように愛しなさい」と命じられています。キリストの愛とは、命を与えるほどの愛ですからたやすい事ではありません。でも、このところで重要なのは、「妻は夫に従いなさい」と命じられていることです。多くの女性たちは、「そんなの男尊女卑の古い教えだ。従えるような夫だったら従うわよ」と反論するかもしれません。でも、さきほどの「父と母を敬え」と同じように、これも神さまから来た戒めです。なぜなら、神さまは夫にかしらとしての権威をお与えになられたからです。でも、「かしら」って何でしょう?かしらとは偉いか偉くないかと言う意味なのでしょうか?Ⅰコリント113「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」とあります。このところに、「女のかしらは男である」と書かれています。その直後に「キリストのかしらは神です」とあります。そうすると、父なる神はキリストよりも偉いのでしょうか?「エホバの証人」が言うように、キリストは神さまの下なのでしょうか?しかし、これはそういう意味ではありません。インドネシアのエディレオは「かしらには、源という意味がある。これは上下の問題ではなく、機能の違いである」と教えてくれました。もし、頭がお尻、あるいは膝についていたらどうなるでしょう?頭には耳や目、口がついていますので、ものすごく不便だと思います。頭が体の一番上にあるので、遠くまで見渡すことができるし、都合が良いです。同じように、「女のかしらは男である」というのは身分ではなく、機能だということです。

 では、かしらである男性にどのような機能が与えられているのでしょうか?かしらからくるイメージは、リーダーシップを取る、あるいは責任を取るということです。決断を妻に任せる夫がいますが、夫が決断してそして責任を取るべきなのです。どんなにひ弱そうに見える男でも、かしらとして生きるように神さまから造られています。エディレオが傘の絵を見せて説明してくれたことがあります。広げられた傘がちゃんとしていれば、傘の下にいる妻や子どもが守られます。もし、傘に穴があいていたなら、妻や子どもがびしょびしょになります。これは夫がちゃんと責任を果たしていない家庭です。「じゃあ、私が」と妻がリーダーシップを取ります。しかし、それは神の摂理に合っていません。それは傘を上下、逆さにさしている状態です。雨が傘の中にたまり、傘の役目を果たしません。夫は家庭の長として、妻と子どもを守る必要があります。でも、「夫はちっとも頼りにならない」と、夫からリーダーシップと横取りして、全部、決めてしまう妻がいます。そうすると夫はますますひ弱になり、同時に責任も取らなくなります。賢い妻は夫を「無能」とか「亭主元気で留守が良い」とは言いません。愚かな妻は夫をけなして、ないがしろにします。そうすると夫は家に帰りたくなくなります。「シャチョさん」「シャチョさん」と迎えてくれる人たちのところに行くでしょう。賢い妻は夫をほめます。夫は図に乗って木に登るかもしれません。でも、夫は尊敬する妻のために命を捨てるでしょう。賢い妻は、最後の大事な部分は夫に決断させます。ほとんど妻が段取りして、決めているんですが、最後の決断だけは夫に任せます。夫は「よし。分かった。俺に任せておけ」と自分が決めたことなので、責任を取ります。どうぞ夫の権利を奪って、夫をふぬけにさせないでください。夫の権利を認め、立ててやってください。そうすれば祝福されます。


3.霊的な権威

ヘブル1317「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」私が講壇からこのようなことを言うと、「あてこすり説教」になってしまいます。私はあまり権威的な牧師でないので、寛容な心で受け止めてください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」。とても気持ちが良いですね。その前に、教会の指導者はどのような人であるべきなのでしょうか?西暦313年、キリスト教がローマ教会になると、この世の階級制度を取り入れました。「ヒエラルキー」と言いますが、教皇を頂点とするピラミッド的な組織構造にしました。教会は聖職者のものであり、一般信徒は教会の外に置かれました。宗教改革以降、万人祭司制が取られましたが、その影響がプロテスタント教会の中にいくらか残っています。たとえば、聖餐式や洗礼式を執り行うためには、按手礼を受けた牧師でなければなりません。地方教会も牧師を頂点として、役員会が組織されています。教団になるともっと複雑で、たくさんの教会規則があります。「聖書にそのようなことが書いてあるのだろうか?」と反論したくなります。キリストがご自身の教会のために立てた指導者は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師(エペソ412)です。地方教会は牧師一人が長になっていますが、これは聖書的ではありません。かなり前に『神の五本指』という本を読んで驚いたことがあります。新約聖書で、「牧師」という肩書は1回しか登場しません。一方、「使徒」ということばは81回も登場します。今日の教会は、伝道者、牧師、教師しか認めていないので3本の指で奉仕をしているようなものです。Ⅰコリント1228「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師…」。「第一に使徒」と書いてあります。

 

 指導者をさばくのは神さまであり、教会員ではありません。ヤコブ31「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」Ⅰコリント44「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」もし、教会の信徒がさばくなら、「さばくとさばかれる」(マタイ71,2という罠に陥ってしまうでしょう。むしろ、指導者のためにとりなすのです。神さまご自身が、教会の指導者に対して権威をお与えになりました。もし、その権威に従うなら、その人には守りが与えられるでしょう。ジョン・ビビアがunder coverという本を書きました。まだ、全部読んでいませんが、たとえ不本意であっても、権威に従うときに守りが与えられると書いてありました。指導者を馬鹿にしたり、権威を否定すると、覆いが取り去られてしまって、その分だけ悪魔の攻撃を受けるということです。でも、その指導者自身はへりくだることを忘れてはいけません。もし、その権威を乱用するならば、「カルト」になってしまいます。今も、多くの人たちが指導者から受けたパワハラとセクハラで苦しんでいます。イエス様はこの世の権威とは違うと言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」アーメン。でも、このみことばを逆手にとって「牧師はしもべなんだから私たちに仕えるのが当たり前だ。私たちはそのために献金をしているんだから」と言ってはいけません。パウロが「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(Ⅰコリント911と言っているとおりです。教会では、父親との傷があるために、牧師を敬えない人もいます。なぜなら、牧師が父親に見えて、反抗したくなるからです。しかし、父親を赦し、霊的な権威を認めるならば、祝福が豊かに臨むでしょう。今日は神からの権威ということを学びました。まことの権威は、私たちを縛るためではなく、守るためにあるのです。神からの権威として認めて、従っていくならば、神さまご自身がその人を豊かに祝福し、特別な愛顧favorを与えて下さるでしょう。


 

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2019年3月 8日 (金)

神の主権 ヨハネ黙示録20:11-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.10

 主権ということばは日常あまり使わないと思います。主権はもともとフランス語から来たもので、「至上、最高、他より上位の」という意味なようです。たとえば、国民主権というと、主権は国民にあるという民主主義の考えです。でも、神の国の場合は、主権は神さまにあります。イスラエルでは、神さまは「主(ヤーウェ)」と呼ばれ、神が治める国でした。しかし、人々が他の国のように王様を求めてから堕落しました。キリスト教会においては単純ではありませんが、父なる神とキリストが王です。しかし、このことは本来、全世界、全宇宙にあてはまることなのです。

1.神のさばき 

 神の主権の一面は、神のさばきに関係があります。そのことが記されているのは、創世記2章です。創世記2:1617「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」と書いてあります。エデンの園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴していました。その意味は、善悪は神さまがお決めになるということです。でも、サタンに誘惑されて、アダムとエバはその木から実を取って食べました。食べたということは、神の主権を犯すということであり、自分たちが善悪を判断するということです。これは神さまに対する反逆であります。しかし、神さまはなぜ、そのような木を生えさせておいたのか疑問であります。「その木がなければ、堕落することもなかったのに?」と悔しくなります。でも、園の中央にあった二本の木は、アダムとエバに教えていたのです。命の源は神さまにあること、そして主権は神さまにあることを示していたのです。「なぜ、いのちの木から食べないで、善悪の知識の木から食べたのだろう?」と理解に苦しみます。とにかく、人類が善悪の知識の木から食べて以来、神から独立して生きるようになりました。その一番の証拠は、善悪の基準を神さまに求めないで、自分たち人間が勝手に決めるようになりました。国家間においてもそうですが、個人の生活においてもそうであります。私たちは自分勝手に人を善とし、自分勝手に人を罪に定めて生活しています。「それは良い」とか、「それは悪い」とか判断して生きています。

 神さまにはどうして主権があるのかということを少し考えてみたいと思います。旧約聖書で「神(エロヒーム)」は天地万物の創造者です。そこには、「究極的なもの、絶対的なもの」という意味があります。しかし、日本語で「カミ」には、そのような考えはありません。日本人の神々は、すべて人間的・相対的な存在です。だから、神の主権とか尊厳という考えがなかなか生まれません。もう一つ、旧約聖書では神さまが「主(ヤーウェ)」と呼ばれています。モーセは神さまに、「イスラエルの民が『あなたの名は何ですか』と聞かれたら、何と答えたら良いでしょうか?」と尋ねました。すると、神さまは「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト314とお答えになられました。「わたしはある」というこのことばから、「主」という呼び名が生まれました。主という意味は、だれからも存在させられない、「自存性」という意味があります。また、主は「契約の神」という意味もあります。イスラエル、そしてユダヤ人は「主(ヤーウェ)」という名前を呼ぶのを恐れ、代わりにアドナイと呼びました。アドナイは「所有権」を表しており、主人とか所有者という意味です。これらのことから考えますと、神さまを「主」とは簡単に呼ぶことはできません。この世の多くの人たちは「神さま」と呼ぶかもしれませんが、「主」とは呼ばないでしょう。なぜなら、主の中には「所有者」とか「主人」という意味がこめられているからです。旧約聖書から、2つだけ神さまの名前の意味を紹介しました。まとめると、「神」には「究極的なお方」「絶対者」という意味があります。また「主」は契約の神「所有者」「主人」という意味があります。

 そのお方が、イスラエルの民と契約を交わしたとき、十戒を中心とする律法を与えられました。私は、十戒を中心とする律法こそが神さまが、イスラエルだけではなく、人類に示した善悪の基準ではないかと思います。もちろん、異邦人に全部あてはまらないものもあります。そこには、キリスト論を通して解釈適用することが必要です。でも、十戒を中心とする律法こそが善悪の基準であると思います。人類が罪を犯す前のエデンの園では、これらの律法は不要でした。でも、人類が神から離れ、自分たちで善悪を決めるようになりました。そうすると、人類は歯止めがきかず、罪に陥り、滅びてしまうでしょう。主である神さまは、そうならないように、判断基準として、イスラエルに十戒を中心とする律法を与えられたのだと信じます。私たちは善悪を判断するとき、自分たちが勝手に決めるのではなく、「聖書は何と言っているだろう?」と聞く必要があるということです。人間が作った法律や倫理道徳は時代によって変わります。しかし、イエス様はこのように言われました。マタイ518「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」神のことば、律法をどう解釈するのか、そう簡単ではありません。でも、十戒はとても明快であり、やってはならないことの柱になっています。そのため、人間が作った法律の柱は十戒から来ていると言っても過言ではありません。でも、人間は知識の木から取って食べたために、とてもこざかしくて、なんとか法の網を潜り抜けようとしています。そればかりか、究極的な善悪の基準、さばきの権威が神さまにあるということを認めたがりません。

 非常に大風呂敷を広げてしまって、どう着地すべきなのか分からなくなりました。もし、私たちが神の主権を認め、「究極的には神さまがさばかれる」と考えるならどうなるでしょうか?私はクリスチャンになる前、「どうしてこの世にはたくさんの悪がはびこっているのだろう?そして、裏でさんざん悪いことをしているのにどうしてさばかれないのだろう?」と義憤をいだいたことがあります。アメリカのヒーローものは、みな悪事をさばいています。スーパーマン、スパイダーマン、バットマンたちはみな正義の見方です。日本のアニメではゴレンジャーとか、ウルトラマンがいます。時代ものでは、「必殺仕置き人」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「遠山の金さん」がいます。しかし、現実は、ちゃんとしたさばきが行われていないように思います。ほんの1部だけが、テレビのニュースに取り上げられているように思います。みなさんも、「この世の不正や悪なんとかならないのか?」といらだっておられるのではないでしょうか?大丈夫です。神さまがさばきます。この世で無理であったなら、やがて神さまが終わりの日にさばいてくださいます。ヨハネ黙示録2012「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」ですから、世界中に起っている不平等や悪に必要以上に思い悩むことはないということです。神さまがいずれさばいてくださるからです。

 問題は私たちです。新約聖書の私たちはキリストを信じたゆえに、全ての罪が赦され、さばかれることはありません。その根拠となるみことばを二つだけ上げたいと思います。ヨハネ515「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。キリストが私たちの罪を負ってくださったゆえに、キリストが代わりにさばかれました。父なる神はこのキリストを信じる者の罪を赦し、義と認めてくだいます。ですから、やがて神さまのみ前に立つ時が来ても、すべてのさばきが免除されるのです。もし、絶対者なる神が「キリストのゆえに、あなたの罪を赦す」と宣言してくだるのです。そうすれば、悪魔からも、自分の良心も、人からも、だれからも咎められることはありません。これは、社会的な罪に対する償いを言っているのではありません。地上で犯した社会的な罪は償われる必要があります。でも、それらを含めてすべての罪が神の前で明らかにされる時が来ます。すべての人はそこで犯した自分の罪に対して申し開きをしなければなりません。でも、キリストを信じる者はさばかれることはありません。なんというすばらしい神の主権ではないでしょうか。

パウロが私たちこのように命じています。Ⅰコリント45「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」アダムとエバの堕落以来、人間は神さまぬきで善悪を決めるようになりました。言い換えると、それは自らがさばき主なる神になるということです。私たちは究極的に罪を裁くお方は、神さまであることを認め、神さまに審判をゆだねる必要があります。ですから、私たちは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。このように神さま主権の一面である、神のさばきに服して生きるとき、まことの平安がやってきます。私たちはキリストにあってさばかれることはありません。しかし、神さまの主権を認め、正しい意味で、神さまをおそれて生きる必要があります。そうすれば、安全で平和で暮らすことができます。

2.神の選び

神の主権のもう一面は、神の選びに関係があります。このことが記されているのは、ローマ9章から11章です。このところにはイスラエルの選びと回復について書かれています。そして、このところには神さまはある者を選び、ある者を捨てると書いてあります。ジョン・カルヴァンは「神の予定」をとても強調した宗教改革者です。カルヴァンは「神の救いにあずかる者と滅びに至る者が予め決められている」という二重予定説を唱えました。これに対して、オランダのアルミニウスは、人間の意志を強調しました。キリスト教会は、左は二重予定説から、右は人間の意志という幅の中で、自分たちの立場を保持しています。私は二重予定説は信じませんが、神さまの選びは確かにあると思います。なぜなら、そのことが聖書に書かれているからです。それを示す箇所をお読みいたします。ローマ910-16このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」創世記を読むと分かりますが、神さまは兄のエサウではなく、弟のヤコブを選びました。なんと、母リベカのお腹の中にいるときに、ヤコブが選ばれていたのです。ヘブルの記者はエサウにもその責任があったことを示唆しています。ヘブル1216「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 もう一箇所、「神の選び」を言うときに引用される有名なみことがあります。ヨハネ15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」このことばは、イエスさまが弟子たちにむけておっしゃったことばです。でも、私たちは弟子たちに語られたことばは、イコール私たちにも語られているのだと解釈して読んでいます。そうでないと、聖書は昔の書物になってしまうからです。ただし、イエス様のことばが私たちのことばになるためには、聖霊が私たちに働くことと、それを信仰によって受け止めるという2つのことが必要になります。私はイエス様があなたを、私を選んでくださったと信じます。もし、「私がキリストを救い主、そして神さまとして選んだ」とするならどのような信仰になるでしょう?これはさきほど引用したオランダのアルミニウスの説です。彼は人間の意志を強調しました。もちろん、私たちはイエス様を信じるときに自分の意思を用いて決断しました。そのことは間違いありません。私も信仰を持ちたての頃は、「私がイエス・キリストを信じた」と思っていました。しかし、信仰の先輩たちがヨハネ15章のみことばを引用して、「選んだのは私ではなくキリストです」と証をしていました。はじめ、彼らのことばを「嘘っぽい。俺たちはロボットじゃないぞ!」と思いました。でも、信仰生活を送って行くうちに、「ああ、本当だなー」とだんだん思えるようになり、最後はヨハネ15章のとおりだというところに落ち着きました。なぜでしょう?もし、「自分がキリストを選んで、自分が信じた」と考えるならどうでしょう?ある時、「いや、そうでなかった。私が間違っていた」となって信仰を捨てるかもしれません。なぜなら、自分が決めたからです。でも、「キリストが私を選んでくださったのだ」というのであれば、私の信仰がおかしくなっても大丈夫です。向こうが私を信じて、選んでくださったのですから安心です。

 このことを支えるみことばがあります。Ⅱテモテ213「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」英語の聖書では、If we are faithless, He remains faithful; He cannot deny Himself.となっています。「真実である」はfaithfulですから、信仰に満ちているというニュアンスがあります。イエス様はfaithfulです。私たちは自分の意思で自分の信仰で、イエス様を信じます。アーメンすばらしいことです。一方、イエス様はそういう私たちを受け止めてくださいます。私たちの信仰は65%くらいかもしれません。でも、イエス様が私たちの信仰を100%として受け止めてくれたらありがたいですね。それだけではなく、これはイエス様の真実が一度信じた私たちを離さないと言う意味でもあります。ある時、ペテロがガリラヤ湖を上を歩きました。ペテロは勇敢にもイエス様からおことばをいただいて、水の上を歩いたのです。でも、途中、風を見てこわくなり沈みかけました。ペテロが「主よ。助けてください」と叫びました。すかさずイエス様が手を伸ばして、彼をつかんで引き上げてくださいました。このことを書いた絵を見たことがあります。イエス様がペテロの手首をつかんでいます。ペテロもイエス様の手首をつかんでいます。これはどういう意味でしょう?手の平だったらツルっとすべります。手首だったら大丈夫です。また、このような状態ですと、ペテロがうっかり手を放しても大丈夫です。なぜなら、イエス様がペテロの手首をつかんでおられるからです。この状態こそが、私たちの信仰を表しているのではないかと思います。私たちはイエス様を信じました。そして救われました。それだけではありません。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを救っているのです。だから、私たちの信仰が左前になっても、大丈夫です。もし、私たちの救いが私たちの信仰次第であるというなら、あぶなっかしいです。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを絶えず支えておられるなら安心です。これがキリストの選びです。

 パウロはもっとすごいことを言っています。エペソ14-6「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」アーメン。旧約聖書にはエレミヤの召命の記事があります。エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」なんとすごいことでしょう。お腹に宿る前から、エレミヤは預言者として召されていたということです。私たちはもっとすごく、世界の基の置かれる前から、つまり、天地が造られる前から選ばれていたということです。こうなると頭がおかしくなります。「こんなちっぽけな私をそのように選んでくださっていたとは!」おどろくばかりの恵みなりきです。でも、自動的に私たちが選ばれていたということではありません。このところには、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と書いてあることがミソです。キリストがすべての接点であります。キリストと出会って、キリストを信じたからこそ、神の選びが発動してくださったと考えるべきです。でも、私たちがキリストと出会い、キリストを信じることも神さまが導いてくださったということも事実です。やっぱり、このことを考えると頭がおかしくなります。ただ、いえることは「有り難いなー」ということです。私は25歳でイエスさまを信じました。しかし、彼女と親友は信じないで去って行きました。私はキリスト教にかぶれて頭がおかしくなったと思われたのです。『いつくしみ深き』を歌う時、「わが友は笑い、迫害すれど」でいつも思い出してはぐっときます。本当に不思議です。人々がキリストの福音を聞いても、一方は「これはすばらしい」と信じ、「こんなのおかしい」と信じない人が出てきます。

『那須のぞみキリスト教会』のブログにこのような記事がありました。あるテレビ番組にミス・ユニバースに選ばれた女性とその家族が出ました。そのとき司会者がその女性にこう質問しました。「あなたがこんなに美しいのはお父さんに似たからでしょうか?」するとカメラがこの女性の脇に座っていた父親をアップでとらえたのです。しかし、横にいたお父さんはロバのような顔で、どう見ても父親に似たとは思えません。そこでさらにこう質問しました。「それではお母さんに似たのでしょうか?」するとカメラが、今度はお母さんの顔を映しましたが、お母さんの顔もイマイチぱっとしません。一体なぜこの女性がこんなにも美しいのかわからない司会者こう言いました。「たぶん、親戚に美しい方がおられるのでしょう」。これはどういうことでしょうか。これは、原因が見いだせないなら、とりあえず何か適当な理由でもくっつけておこうという態度です。これは私たちが救われた理由を扱うときにも現れます。私たちが救われたのはどうしてか?それは私がしっかりしていたからだとか、一生懸命に生きていたからだ。あるいは、私はもともと出来が良いから救われたんだ。さらには、我が家はなかなかの家系だからだ…というふうにです。しかし、聖書はそれが間違いだと言います。聖書は私たちが救われたのは私たちの内側に何か救われるための根拠があったからではなく、一方的な神様の選びによるというのです。アーメン。まさしくそのとおりだと思います。私たちは、キリストさまによる、神の選びを信じます。神さまは、「こんな者を選んでくださった」いや、「あなたは高価で尊い」と選んでくださいました。

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2019年3月 1日 (金)

神の特別恩寵 ローマ4:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.3.3

 先週は神の創造から来る、一般恩寵についてお話ししました。創造主なる神さまは全ての人に命を与え、喜びや楽しみを与えておられます。確かに、ひとり一人与えられたものは違います。でも、そこには不完全でありながらも、神が人に与えた栄光と誉れの冠を見ることができます。まさしく、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方です。でも、神さまはご自分を信じる者たちに、一般とは違う、特別な恵みを与えてくださいます。それはキリストによって贖われた者だけが持つ特権です。

1.特別な知性と才能

 前回のメッセージでは「知性と才能」でしたが、本日のものは「特別」がついています。旧約聖書には神さまから、特別な知性と才能が与えられた人たちが何人も登場します。一番、有名なのは神さまから知恵が与えられたソロモンです。神殿や宮殿の建築、海外との交易、事業の拡大、軍備、裁判、芸術、農業なんでも行うことができました。彼は歴史上、最も富んだイスラエルの王でした。それから、バビロンに捕えられたダニエルと三人の若者たちです。ダニエル120「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも10倍まさっていた」と書いてあります。ダニエルは敵国にありながらも、4代の王様を助けました。また、主は、幕屋の調度品を作らせるためにベツァエルを召しました。出エジプト313-5「彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たしました。それは、彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」また、ダビデは優れた戦士であり、最も尊ばれた王でした。ダビデは北イスラエルとユダの統一国家を作りました。ダビデは音楽にも優れ、数えきれない歌を作りました。このように旧約聖書を見ると、神の霊が彼らの上にあったので、普通の人にできない知性と才能を発揮しました。神さまはご自身の目的を果たすために、神の霊をお与えになったと言うことが分かります。

 その考えは新約聖書にも見られます。イエス様の弟子たちのほとんどがガリラヤの漁師たちでした。イエス様は彼らを3年半、訓練したのち天にお帰りになられました。復活後も、弟子たちは人々を恐れて隠れていました。ところがペンテコステの日、彼らの上に聖霊が降りました。リーダー格のペテロが集まって来た人々の前で説教しました。あのペテロがキリストの十字架の死と復活の意味を聖書から解き明かしたのです。人々は胸を打たれて、3000人の人がバプテスマを受けました。その後、ペテロとヨハネが生まれつきの足なえを歩かせたので、さらに5000人がイエス様を信じました。その後、大迫害が起こって、ペテロとヨハネが捕えられました。民の指導者、長老、学者たちは何と言ったでしょう。使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」「無学な普通の人」とは「律法を専門に学んでいない素人」と言う意味です。聖書の専門家が、無学な弟子たちに、返すことばがなかったのです。

 しかし、特別な知恵と才能は初代教会の弟子たちだけではありません。現在の私たちにも与えられているのです。今日、まことに残念ですが、それらを過去のものだと認めない教会もあります。「聖書が完成してからは、目覚ましい奇跡やしるしが必要でなくなった」と言っています。現代こそ、目覚ましい奇跡やしるしが必要な時代は他にありません。人間の科学や知恵では、不可能なことが多すぎるからです。私たちは、台風1つでさえどうすることもできません。いつ大地震が来るか恐れて生活しています。いつ癌になるか恐れて生活しています。現代ほど、恐れに満ちている時代はありません。そのため、体ばかりか精神が病んでいます。イエス様は天にお帰りになられましたが、その代り、別の助け主、聖霊が与えられました。教会はキリストのからだであり、各器官がイエス様の代わりに働くように召されています。各器官にあたるのが、聖霊の賜物です。それは旧約聖書の人たちが与えられていた特別な知恵と能力です。Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」これは、クリスチャンであるなら、もれなく、例外なく与えられているということです。このところには、知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力が挙げられています。他にはローマ12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章にも記されていますが、聖霊の賜物は、合計30種類以上あると言われています。

 ビル・ジョンソンのある本に「優れた弓」という記事がありました。マットという人は、音楽を通して福音を伝えたいと思っていました。ところが、奉仕だけでは生活ができず悩んでいました。ある時、神さまが「私はあなたのビジネスを成功させます。そして、あなたが献金をもらわなくてもミニストリーをできるように助けます」と言われました。若い頃からマットは複合弓を作って射ることを趣味としていました。マットは「より良い弓を作るにはどうしたら良いか」神さまに尋ねました。数週間後、朝の三時ごろに目を覚ますと、目の前に一枚の紙がぶらさがっているのを見ました。ノートから破られた一枚のように見えました。その紙には、複合弓に関する新しい概念がスケッチで描かれていました。妻のシェリーが何をやっているのかと尋ねたとき、「幻を見ているみたいだよ」と答えました。マットの祈りに答えて、神は新しい弓の概念を示してくださり、弓術の歴史を変えるような発見を与えて下さったのです。その結果、マシュ・アーチェリー・カンパニーという会社が誕生しました。今日、マーシュの会社は世界一大きな弓の会社となりました。大量に売るだけではなく、優れたデザインと機能をもった製品を扱っています。弓術の道具を作るのに用いられた創造性と優れた技術は、そのままアコースティックギターを制作するのにも用いられました。今日、マットとシェリー・マクファーソン夫妻は、自由に音楽のミニストリーをし、巡回奉仕をし、世界中で福音を伝える働きを支援しています。

 かつて、神さまがマットに語られたことばです。「私は世界のすべての問題に対する答えを持っています。もし人が私に求めさえするなら、その答えを与えるでしょう」。私たちは神さまの子どもであり、求めるなら、世の人々にはない、特別な知恵と才能を与えてくださいます。

2.特別な命と楽しみ

 前回のメッセージでは、「神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます」とお話ししました。まことに残念ですが、その命と楽しみは、ひとり一人違います。生まれつき障害をもって生まれる人もいます。何かの事故や災害で、人生の半ばで死ぬ人もいます。貧しい家庭環境で育ち、満足な教育を受けられない人もいるでしょう。そういう意味では、この世はまことに不平等であります。残念ながら、これはアダム以来、人間が神さまから離れて生活しているからです。この世の神が私たち人間を支配し、私たちは罪と死の中で暮らしています。それでも、神さまの一般恩寵があるので、程度の差はあれ、自分の一生を楽しんで生きられるようになっているのです。ヨハネ9章には生まれつき盲人であった人のことが記されています。彼は自分で生活ができないので、物乞いをして生きていました。弟子はその人を見て「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と聞きました。ユダヤ人の中にも因果応報という考えがあったのかもしれません。日本でも「生まれつき不幸な星のもとに生まれた」という表現もあります。ある人たちは不幸な運命の犠牲者のように生きています。ところが、イエス様はこのように言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」アーメン。長い話を短くすると、彼は目が見えるようになりました。そればかりか、霊の目も開かれて、イエス様を信じて救われました。イエス様は地上の運命をひっくり返して、その代り、豊かな報いを与えて下さるお方です。

 イエス様はパンの奇蹟を与えたとき、このようにおっしゃいました。ヨハネ651「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」いのちのパンであられるイエス様を食べるということは、信じるということです。イエス様を信じるとどうなるのでしょう?その人に、永遠のいのちが与えられ、永遠に生きると約束されています。そもそも、「永遠のいのち」とは何なのでしょう?この肉体をもって、1000年以上ずっと長生きするということではありません。「永遠のいのち」とは神のいのちであり、豊かないのちです。そのいのちを神さまは、キリストを信じるものに与えるとおっしゃるのです。これは一般恩寵ではなくて、特別恩寵の世界です。私たちは地上で生きるいのちは1個しかありません。地上の寿命はひとり一人異なります。障害者のことも話しましたが、地上での「いのちと楽しみ」はまことに不平等です。でも、イエス様が生まれつきの盲人の目を開けてあげました。それと同じように、神さまは私たちに永遠のいのちと永遠の御国を用意しておられるのです。御国ではこの地上の不平等がひっくり返されます。不幸な人ほど豊かな報いを受けるのです。イザヤ355-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」アーメン。

 神さまが与える特別な命と楽しみとは何なのでしょう?それは神さまご自身が持っておられる永遠のいのちです。私たちは肉体のいのちを持っています。この命は地上のいのちで限られたいのちです。死んだらなくなってしまういのちです。医者が問題にしているのは、この生命のいのちです。しかし、父なる神さまはもう1つ、レベルの違ういのちを与えたいと願っておられます。これはアダムが失ってしまったいのちよりも勝ったものです。イエス様はアダムが失ったいのち以上のものを与えるために十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。堕落前のアダムと私たちはどこが違うのでしょうか?私たちはやがて、イエス様と同じ栄光のからだが与えられます。死なないからだというよりも、復活のからだです。さらにはエデンの園よりもすばらしい、天のエルサレムに住むことができます。天のエルサレムにも川が流れており、いのちの木があります。でも、規模が全く違います。黙示録222-4「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」エデンの園の場合は、サタンが近くまで来て、アダムとエバを誘惑しました。しかし、天のエルサレムにはそのような敵は存在しません。私たちは神さまの御顔を仰ぎ見ながら、神さまに仕えるのです。

 私たちはこの地上において2ついのちと2つの国籍を持ちながら生きています。一般恩寵はこの地上で生きるための肉体のいのちだけです。しかし、私たちクリスチャンは永遠のいのちを持ちながら生活しています。この地上のいのちを失っても、永遠のいのちは失いません。パウロは、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある」(Ⅱコリント51と言いました。また、私たちは日本と言う国籍をもってこの地上で生きています。しかし、私たちの国籍は天にもあります。ピリピ3:20「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」アーメン。私たちは日本という国の法律に従い、義務を負っています。同時に私たちは神の国の法律に従い、義務を負っています。献金は税金ではありません。献金は感謝と御国への投資です。イエス様は「自分の宝は天に蓄えなさい。…宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ620,21と言われました。では、私たちの喜びとは何なのでしょう?クリスチャンは天国に行くまで、歯を食いしばりながら、禁欲的に生きるのでしょうか?そうではありません。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」私たちの喜びや楽しみはどこにあるのでしょうか?主のみ前にあります。主の臨在、主と共に歩むならば、喜びと楽しみが両脇にころがっているということです。喜びと楽しみは人生の目的ではありません。主を愛し、主と共に歩むならば、ボーナスとして喜びと楽しみがやってくるのです。たとえこの地上で不足するときがあったとしても、主が共におられるならば、豊かないのちを満喫でき、喜びと楽しみのある生活を送ることができるのです。

3.特別な善と愛

 特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?まず、そのことは信仰の父アブラハムに見ることができます。アブラハムは75歳のとき、主から召された人です。その時、「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と約束されました。その時から、アブラハムは神さまから特別な善と愛を受けるようになりました。新約聖書でアブラハムは信仰の父のように尊ばれていますが、何度か失敗をしたことがありました。アブラハムが、ゲラルというところに滞在中、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。エジプトのパロにも同じ嘘をついたことがありました。ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れました。ところが、夜、神さまがアビメレクに現れて「あなたが召し入れた女のために、死ななければならない。あの女は夫のある身である」と言われました。驚いたアビメレクは、銀1000枚の他に、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与えました。この箇所を見るとどうしても不公平のように思われます。アビメレクはウソをつかれたので、サラを召し入れたのです。なのに、「アビメレクとアビメレクに属するすべての者も、必ず死ぬ」と言われました。間違ったことをしたのはアブラハムなのに、アビメレクが悪者になり、たくさんの品物を差し上げて、「ここから出て行ってくれ」とお願いする羽目になりました。これはあきらかに神さまの「えこひいき」です。えこひいきを英語ではfavorと言います。実は英語の聖書にはたくさんfavorが出てきますが、日本語の聖書には「恵み」としか訳されていません。

 ダビデも主からたくさんのfavorを受けたイスラエルの王様です。イスラエルの初代の王はサウロでした。しかし、サウル王は2つの失敗を犯したために、神さまから捨てられました。第一は、祭司しかできない、全焼のいけにえを勝手にささげたことです。第二は、アマレクを全部滅ぼせと言われたのに、羊と牛の最も良いものを生かしておきました。このようにサウル王の罪は不従順です。それに比べて、ダビデはウリヤの妻バテシバを寝取りました。バテシバが妊娠すると、ウリヤを戦場から呼び出して、家に帰って休みなさい」と言いました。しかし、ウリヤは家に帰らず、王宮の門のそばで寝ました。ダビデはヨアブに命じて、ウリヤを激戦の真正面に出し、彼が打たれて死ぬように仕向けました。ウリヤが戦死した後、バテシバを妻として迎えました。あとから預言者ナタンがやってきて、ダビデが犯した罪を証ました。ダビデは自分の罪を告白しただけで赦されました。サウルとダビデを比べて、明らかにダビデが犯した罪の方が重いです。サウルは不従順の罪、ダビデは姦淫と殺人という大罪を犯しました。なのに、ダビデは赦され、イスラエルで模範的な王様として高められました。明らかに不公平です。しかし、これがfavorというものです。ローマ914-16「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」このところには、神の選びから来る善と愛が記されています。

 では、新約聖書に記されている特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?ローマ4章にアブラハムとダビデのことが引用されています。ローマ41-8それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」アブラハムとダビデは聖書を見ますと、二人は不完全であり罪も犯しました。でも、どうでしょう?アブラハムは、神を信じて、義と認められました。ダビデは行いではなく、信仰によって、罪赦され、義と認められました。このように何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。言い換えると、イエス・キリストを信じることによって義と認められるということです。そのことによって、神さまが私たちの父になり、私たちは神のこどもになります。当然、この世の人たちとは違う、特別な善と愛を受けることができるようになります。

 ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。だれにでも、すべてのことが益になるわけではありません。この世においては、失敗は失敗、損失は損失、喪失は喪失で終わってしまいます。もちろん、例外もありますが、そんなに多くはありません。私たちは新聞やテレビのニュースから、不条理が満ちていることをいやというほど知らされます。人々が悲惨な事故や災いになすすべなく、飲みこまれています。善人が悪人に滅ぼされ、「本当に神はいるのだろうか?」と疑いたくなります。でも、これが世の常というものです。でも、私たちにはもう1つ別のライフ・ラインがあります。私たちはこの世で生きていながら、この世で生きていません。パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント418と言いました。どういうことかと言うと、私たちは神の国の国民であり、父なる神さまの特別な善と愛を受けている存在です。だから、神さまがすべてのことを働かせて益としてくださるのです。世の人にとってはマイナスであっても、神さまが全能の御手をのばして、プラスにしてくださるのです。それは誰にでも起こる訳ではありません。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためです。私たちはキリストにあって、神の愛と愛顧favorをいただいている存在です。それは地上に住んでいるときから、天に帰るまで永遠に続くのです。

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2019年2月22日 (金)

神の一般恩寵 伝道者9:1-10 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.2.24

 先週は、進化論は聖書的ではないということを申し上げました。本日は、創造主なる神が私たちを造られたゆえに、このような恵みがあるということを聖書からメッセージしたいと思います。言い換えると、他の動物にはない人間に対する特典です。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とありますが、言い換えると、人間は神さまに似たところがあるということです。アダムの堕落のゆえに、人類に罪と死が入りました。生まれつきの人間は、神から離れて生きていますが、それでも神さまの恵みを受けています。これを神の一般恩寵と言います。 

1.知性と才能

 詩篇85,6「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばから分かることは、人間は神さまよりいくらか劣るものとして造られたということです。他の動物と違い、人間には神さまからの栄光と誉の冠がかぶせられているということです。進化論を信じている人は、「猿と人間はいくらも違っていない」と言うでしょう。確かに猿と似ている人はいます。犬と似ている人もいれば、クマに似ている人もいます。なぜでしょう?それは造り主が同じだからです。作者が同じなので、どうしても似ているものを造ってしまいます。でも、神さまは人間だけに栄光と誉れの冠をかぶらせました。そして、動物や自然界を支配するように、多くのわざを管理させました。他の動物と違って、人間に与えられている最高のものは「知性と才能」です。人間はものごとを考え、そして作り出すことができます。知性は頭の脳の重さではありません。進化論者は「だんだん脳が大きくなったので、知性が増したんだ」と言います。アダムは造られたときからことばを発し、すべての動物に名前を付けることができました。そして、エデンの園を管理しました。堕落前のアダムは脳を100%使うことができました。ある人はアダムのIQ1000あったのではないかと言います。堕落した人間であっても、天にも届く、バベルの塔を作ることができました。ノアは巨大な箱舟を造りました。船の長さと幅と高さの比率、3053は、現在のタンカーの比率であり、最も安定する黄金比だそうです。

 伝道者の書をみると、神さまから知恵をいただいたソロモンのことが書かれています。彼はアリストテレスのように動植物や自然界を研究しました。また、偉大な建築家のように神殿や宮殿、そして庭と園を造りました。彼は偉大な文学と哲学と芸術家でもあり、数えきれないほどの歌や箴言を作りました。また、彼は軍備を整備し、海外と交易をなし、事業を拡大し、国を発展させました。彼は裁判官でもあり、国民をさばきました。他に農業開発、牧畜、遊戯(ハーレム)もしました。歴史上、ソロモンほどの偉大な成功者はいないでしょう。でも、これが、神さまが与えることの恵みであります。私たちはソロモンほどではなくても、知性と才能を神さまからいただいています。私たちは、他者と比べないで、自分が神さまから与えられたものを再発見すべきであります。学校教育は進化論に立っていますので、「適者生存」「弱肉強食」を是認するように仕向けています。そうではありません。私たちひとり一人は神の作品であり、どんな人であっても、光る宝石が隠されているのです。教育のラテン語は「ひきだす」という意味があるそうです。つまり、神さまから与えられたものを、その子から引き出してあげるのが教育であります。つめこむのが教育ではありません。神が与えた良きものを引き出すのが教育です。アーメン。東大先端科学技術研究センターでは「異才発掘プロジェクト」というものをやっています。中にはボールペンでひたすら構造物を書いている少年がいます。13歳の天才画家、濱口瑛士君がいますが、彼は発達障がいがあり、小学校でいじめに合い、不登校になったそうです。財団のホープページには「たとえば、引き篭もり、不登校、窓際族。実は、こういう人こそ『変わっているけどすごいポテンシャルのある人』だったりする」と書いてありました。

 神さまは全宇宙を創られたお方なので、英知に富んでいらっしゃいます。そのお方よりもいくらか劣るものとして私たち人間が造られました。だったらどんな人でも、光るものがあるということです。私が小学生のときの担任が池田絹子先生でした。私が一番叱られ、一番可愛がられたのではないかと思います。池田先生は音楽の教師だったので、私は朝礼で校歌を歌う時、友達と二人でアコーデォンを弾かされました。学芸会でも大太鼓やティンパニーが担当でした。どういう訳か音楽が私から離れず、座間キリスト教会では聖歌隊に入らされました。芸大卒の関根さんから色々教わりました。亀有教会に来てからも、メンバーが足りなかったので聖歌隊に入りました。2000年のゴスペルからもテナーを歌わされ、やめることができません。でも、ふと「ああ、池田絹子先生、草葉の陰から、やっているね」と見ておられるのではないかと思う時があります。そういう意味で、「学校の先生は重要なポストについているのだなー」と思います。でも、親は子どものことをよく理解できません。子どもが「あれをしたい」と言うと、「そんなんで、食っていけるの思っているのか」と否定します。子どもは小さいとき、サッカーの選手とか、歌手になりたいとか言います。確かにいくら目指しても、プロになれる人は1万人に一人いないかもれません。でも、すぐそれで「食べていけるか」で夢を摘むのは一種の虐待であります。なぜなら、子どもは親のものであって、親のものではないからです。父親が子どもに「リンカーンが君の年だったとき、彼は暖炉の火で勉強していたそうだよ」と言いました。息子は 「リンカーンがお父さんの年だったとき、彼は大統領だったよね」と答えたそうです。

 ジョエル・オスティーンは「私たちには父なる神さまのDNAが組み込まれている」と言っています。でも、それはキリストを信じて新生した後のことなのか、生まれた時からなのか分かりません。私は可能性の種だけは宿っていると思います。神さまを信じていなかったときも、ある程度、紆余曲折もありながら成長するでしょう。でも、ある時、創造主とキリストを信じると、止まっていた運命の時計の針が動き出すのではないかと思います。「ああ、私はこのために生まれてきたんだ。この知性もこの能力も神さまの栄光のために用いるべきなんだ」と分かったならなんと幸いでしょう。

2.命と楽しみ

 創造主なる神さまは私たちに命を与えてくださいました。世の中でも「1つしかない命を大切に」と言います。でも、若い時はその命を粗末に扱いがちです。でも、年を重ねてくると、「命というのはかけがえのないものなんだなー」と思うようになります。私は子どもの頃、川に行って魚を釣っていました。夏は昆虫採集のためセミ、蝶、とんぼなどを捕えました。パチンコを作って、それをすずめや猫に向けていました。しかし、年を取って来ると、生き物が可哀そうになります。雨上がりの後、かたつむりが路上で這っていると、つまんで花壇の中に入れてあげます。神さまがすべての生き物に命を与えたんだと分かっているからです。でも、すべての人間が、自分のいのちは神さまの贈り物であると思っている人がどのくらいいるでしょうか?ある人たちは、命を無駄に使い、ある人たちは自らの手で命を絶っています。「死んでも、生まれ変われば良いいんだ」と悪魔のウソを信じています。そうではありません。地上の人生は一回だけです。神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます。私たちは神から与えられた命をどのように使うか、任されているのではないでしょうか?ちゃんとこの命を最後まで全うするという責任があると思います。

 英語で命をlifeと言います。でも、lifeは日本語に翻訳するとき、とてもやっかいなことばです。あちらではみんなlifeで通じるのですが、日本語に訳すと幾分か違ってきます。Lifeは命のほかに、生活、人生、生涯、寿命という意味があります。文脈を理解しながら、訳していかなければなりません。伝道者の書118-10「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」ここには、「生きているうちにできるだけ楽しめ」と言われています。聖書にこんなことが書かれているなんて信じられるでしょうか?キリスト教会ではすぐ「死んだのちのさばきを受けるから、早く、キリストを信じなさい」と言います。しかし、それは半分おどしであります。特に若い人というのは、死んでから先のことを考えていません。今が良ければ良いと思って生きています。現代、国民年金に入っていない若者がたくさんいます。彼らは自分たちが年取ったら、きっともらえないだろうと思っているからです。イソップ童話の「アリとキリギリス」みたいであります。伝道者の書を見て分かるのですが、「若者よ、おもいのまま生き、いっぱい楽しめ」と言っています。最後に「神のさばきを受けることを知っておけ」とピリッとしたことを言っています。

 でも、このところから分かることは、神さまは人生を楽しむように必要なものを与えておられるということです。私は「若さ」こそが神さまが人に与えた最高のプレゼントの1つではないかと思います。私は朝と夜に散歩をしています。すると、足の長い中高生の女の子が自転車をこいでいます。その時、私が思うのは、「若いって良いなー。神さまが与えてくれだんだよな!」と神さまを賛美します。なぜ、そう思うのか?80歳ぐらいのおばあちゃんが、なんとか歩いているのを見るからです。あのおばあちゃんも、中高生の時代があったのです。若い時は、若い事のすばらしさが分かりません。でも、だんだん足腰が痛くなる年齢になると、その価値が分かるのです。神さまは人生を楽しむように、一般恩寵をだれにでも与えておられます。なのに、どうして、悲しみ、悩み、痛むのでしょうか?私は3匹の猫を飼っていました。猫から多くのことを学びましたが、1つのことは「彼らは明日を思い患っていない」ということです。だれかがエサを与え、だれかがドアを開けてくます。「ありがとう」と言うことは決してありません。食べたら、寝ます。その寝顔は、全く平安そのものです。「それに比べ、人間様はなんと悩みが多いのだろう」と、がっかりします。猫から学んだことは、「私たちには神さまがついているだろう」でした。人間はかしこいので、どうしても先々のことを心配して、思いわずらい、今日という日を楽しむことができません。楽しみは海外旅行しなくても身近にあります。一家だんらん、日差しのもとで寝っころがること、ご飯を食べられること、自分で排せつができること…みんな感謝なことです。

私は当教会が100名礼拝になることを必死に願い求めて来ました。100名に満たないので、いつも不満と恥ずかしさがありました。大川牧師が714日の創立記念礼拝に来られます。「ああ、また言い訳がましいことを言わなければならないのか」と暗くなりました。でも、ふっと思いました。「教会が大きくなくて良かった」と。私が座間キリスト教会で奉仕していた頃は、集会がたくさんあり、その準備にあけくれていました。平日でも朝早くから教会に人々がおり、気を使わなければなりませんでした。特に、スタッフの間にはライバル心がありました。しかし、当亀有教会は平日は人はいません。牧師室でゆっくり本を読み、説教を作ることができます。これまでも、いろんなセミナーに出かけ勉強することができました。役員会と総会はちょっとだけ嫌ですが、他は気をつかうことがありません。フラストレーションをためることなく、マイペースで奉仕できるのは、「教会が小さかったからだなー」と感謝しています。もちろん、リバイバルは信じています。リバイバルが来たら忙しくなるでしょう。でも、そのために蓄えてきた知識や経験がたくさんあります。ひょっとしたら、神さまはそのために私を準備してくださったのではないかと本気で思っています。これまで燃え尽きないで、生きて来られたのは主の恵みです。

神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。嬰児でなくなる人もいれば、100歳まで生きて天寿を全うする人もいるでしょう。健康な人もおれば障害者で生まれる人もいます。知能が高かったり、低かったり、才能が豊かだったり、なかったりと、確かに不平等です。でも、神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。神さまはそのいのちを楽しむように願っておられます。もし、不平等だと感じたら、キリストにある特別恩寵をいただくしかありません。

3.善と愛

マタイ545「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」このみことばは、神さまの一般恩寵を表している典型的なみことばです。このところに、父なる神さまが善なるお方であり、どんな人でも愛しておられるということが表明されています。私たちは「正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」のみことばを誤解しています。「憎い人の上に集中的に雨が降るように」と願うかもしれません。しかし、パレスチナの地方は雨があまり降らないので、雨が降るということは恵みなのです。ここで言われていることは、イエス様は「神の子どもは、自分を愛してくれない人でも愛しなさい」と教えておられます。しかし、きょうのテーマは神さまの一般恩寵であります。このところに神さまは「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とはっきり書いてあります。多くの人は「神さまがいるなら見せてみろ」とか「もし、神さまがいるなら、何故、こんなひどいことが起るのだ」と文句を言います。しかし、神さまは悪い人の上にも太陽が上り、正しくない人にも雨を降らせてくださるお方なのです。聖書の神さまは善なるお方であり、愛なるお方です。

私たち人間は、神さまに似せて造られた存在です。ですから父なる神さまの属性である、善と愛を幾分か受け継いでいます。なぜ、そんなことが分かるのですか?このところに、「自分を愛してくれるものを愛する」と書いてあります。条件付きではありますが、人を愛する愛はあります。「取税人でも同じことをする」とありますが、マタイ7章には「悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与える」と書いてあります。どんな悪い親でも、自分の子どもを愛するのです。「異邦人であっても、兄弟にあいさつする」とは、異邦人でも兄弟愛はあるということです。教会はこの世の人に向かって、「愛がない」とか「罪人である」と言いがちです。限定的で不完全であるかもしれませんが、善の心があり、愛の心があるのです。何故でしょう?それは神さまがご自身のかたちに人間を造られたからです。私はヒューマニズムのことを言っているわけではありません。ヒューマニズムというのは、神さまなしの考え方であって、それは正しくありません。私たちはその人がどんなに悪い人であっても、神さまの善と愛のかけらがあることを発見してあげる必要があります。私は中学の時、高校の時、先生方からひどく叱られました。その時の彼らの目が、犯罪人でも見るような冷たい目でした。愛のひとかけらもありませんでした。私はここでは「先生」と呼ばれていますが、「学校の先公みたいになってはならない」と自戒しています。

昔、カトリックの井上洋治神父が、神さまは大地のような包容力があると言いました。カトリック教会の信仰は、神さまの善と愛をたたえ、私たちもそのように生きることを勧めています。プロテスタント教会と比べて、「キリストしか道がない」というように対決しません。しかし、井上洋治神父の晩年の姿を見て、やっぱり私たちの信仰と違うと思いました。彼は人の悲愛を説き、父なる神を「アッバ」(お父さん)と親しみをこめて呼び、仏教との接点を見出し、死に到るまで「南無アッバ」の祈りを唱えました。法然が唱える「南無」の意味はよくわかりませんが、汎神論的な神観があります。自分が無になって神と一体になるというのは、キリスト教の考えではありません。私たちは神さまの一般恩寵は認めます。どんな人でも神さまは愛しておられ、善きものを与えようとされています。しかし、一般恩寵だけで神さまを理解しようとすると、救いの考えが全く違ってきます。井上洋治神父の救いは神さまと一体になることです。南無は帰依と言う意味があるようですが、この神さまに帰依するということなのでしょう。また、井上神父は風のようになるとも言っています。遠藤周作氏とともに、西洋のキリスト教をなんとか日本の風土に合わせようとする努力は認めます。でも、私たちはキリストの贖いがなければ、決して、父なる神さまに近づくことはできません。キリストの贖いなしでも、善と愛は受けられます。でも、それは一般的なものであり、この世だけのものです。神さまは、本当は私たちの人生を、この世だけのもので終わらせたくないのです。伝道者の書の記者は、「人生がこの世のものだけと考えるならば、好きなことをして楽しみなさい」と言っているのです。多くの人は「死んだら終わりだ」と考えて生きています。だから、一生懸命生きて、自分の人生を全うするという生き方が生まれます。でも、それは神さまの一般恩寵のレベルだということを知らなければなりません。

伝道者の書に本当に神のみことばなのでしょうか。伝道者の

書は「空しい」「空しい」と度々出てくるので、まるで仏教の教えのようです。後のユダヤ人がこの書を聖典に入れるべきか大変迷ったそうです。ところが、この1節があったので、やはりこの書を聖典に入れるべきだと考えたそうです。伝道者の書1213「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」口語訳は「これはすべての人の本分である」となっています。本分は2つの意味があるようです。1つは「人が本来尽くすべきつとめ」であり、2つ目は「そのものに本来備わっている性質」です。確かに人間は、神のかたちに似せて造られました。だから、人間には知恵と才能、命と楽しみ、善と愛が備わっています。神さまはそれをだれにでもお与えになりました。私たちは一生、この神さまの恵みを使って生きることができるのです。しかし、これは神さまを発見するための、資源であり材料です。神さまはこれらを使って「あなたの創造者がだれかを覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」(伝道者121と勧めています。また、「神を恐れよ。神の命令を守れ」これが人間の本分であるとも言っています。このことばに、神さまの知恵と才能、命と楽しみ、善と愛の極限がつまっています。これは神が私たちに与えたいと願っておられる、神の特別恩寵への道です。一般の人には与えられない特別な恵みです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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2019年2月17日 (日)

進化論を斬る 詩篇8:3-9 亀有教会牧師 2019.2.17

 

 私は小中学のときは理科が5でした。当然、進化論についても知っていました。先生がキリンの首がなぜ長くなったのか教えてくれました。ピテカン・トロプス・エレニクスと言う名前も覚えています。ですから、24歳のとき職場の先輩が「神が人間を創った」と言ったときに反論しました。その後、神さまがこの世界を、そして、この私を造られたと分かってから、人生が変わりました。不思議なことに、生きることに目的が生じたからです。 

 

1.進化論の歴史 

 

進化論はどのようにして生まれたのでしょうか?近代科学は17世紀ヨーロッパで誕生しました。そして、近代科学誕生の思想的基盤はキリスト教でした。ちなみに、ニュートンはすばらしいクリスチャンです。この時代の科学者たちは、神の創造した自然界と秩序を見出そうとし、計り知れないほど大きな神の英知の一端を知ろうとしました。ところが19世紀になると、科学にも哲学にも大きな転回がやってきます。西洋のキリスト教的基盤が弱くなり、進化思想がそれにとってかわっていきます。ちょうどその頃、日本が明治の世になって開国し、西洋の科学的技術を輸入しはじめました。もともと進化論と呼ばれている理論は、生物の種類の多様性を説明する一仮説に過ぎません。ところがそれが発表されるやいなや、産業革命後の社会風潮と相まって、適者生存、弱肉強食と公式化され、個人間や国家間の競争を是認する社会思想として急速に広まって行きました。日本は開国後、殖産興業、富国強兵を国の柱にしていたので、進化論を科学的真理として喜んで受け入れました。学校では進化論が生物学の基盤となっていますが、本来は社会学的なものであり、科学ではありません。ダーウィンが発表した学説が世の中の風潮に合致したということが言えます。ナチスは、「適者生存」に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解を採用しました。そして、遺伝的に劣性と見なす身体障害者や精神障害者、常習犯罪者をガス室に送りました。ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀な民族と捉え、それ以外の民族、ユダヤ人などを絶滅させようと企てました。これが悪名高き、悲惨なホロコーストです。

 

 これが、進化の大問題、新しい種の起源に対してダーウィンが与えた答えです。「自然界のいたるところで、また地球の歴史のあらゆる時点で、そこに生息している動植物は絶えざる生存競争に巻き込まれてきた。それぞれの世代ごとに、最適者だけが勝ちをおさめた。これら適者は、両親よりもどこかしら秀でていた。目が良かったり、より速く走れる長い足を持っていたり、突然の寒気にも耐えられる葉をもっていたりした。きわめて徐々にではあるが、これらの新しい特徴は次第に蓄積していき、その結果、やがて新しい種類の動物や植物が出現するようになった。これら新しい生物は、数百万年前の遠い祖先とは全く異なっていた。自然界の戦いから、飢えと死から、より高等な動物がやがて生じてくる。」彼がこの考えを発表するやいなや、当時の世界は狂気して受け入れました。ダーウィンはビーグル号に乗る前は、牧師になりたいと思っていました。ところが、ビーグル号の5年間が彼を変えてしまったのです。彼自身が突然変異したのです。

 

2.進化論のまちがい

 

 進化論の間違いを4つだけ取り上げて説明したいと思います。第一は進化論を証明する化石が発見されていないということです。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』にこのように書かれていました。ダーウィンは、何度も化石の記録に立ち戻って、自説を支持する証拠を探し求めました。彼は小さな単細胞生物から、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類と爬虫類という進化系列はつながっていると信じていました。つまり、魚類が両生類に、両生類が爬虫類に、爬虫類が鳥類に変わったということです。ダーウィンは、この過程は少しずつ進行したのだと確信していました。今日ほとんどの博物館や教科書は、自然淘汰と同様に、この漸進主義を無批判に受け入れています。となると理論的には、こうした着実な前進は化石の記録にも現れるはずです。ダーウィンの説が正しいとしたら、あるグループからより高次の複雑な体系を持つグループまで、徐々に変わる化石をすべて見ることができるはずです。世代ごとに生じる小規模な「改良」または「前進」も、種それ自体の進化と同様保存されているに違いありません。ところが、実際はそうではありません。種と種の間を埋める移行的な化石を見つけることができません。主要な動物グループの間をつなぐ化石をいくら探しても、そんなものはほとんど、あるいは全くと言っていいくらいに、存在しないのです。始祖鳥が化石として発見されたとき「これにまさる中間生物の例はない」と言われました。しかし、始祖鳥はその当時生息していた多くの奇妙な鳥の一種に過ぎないという可能が高まり、中間生物ではないと結論されました。

 

 進化論では、地層の一番下が単純な生物の化石、地層が上になって行き次第、複雑で高等な生物の化石が発見されるであろうと考えられてきました。なぜなら、進化が時間の経過によって、行なれたという前提があるからです。ところが、全世界の地層を見ても、彼らの考えた通りの順番に発見されていません。それが全く逆であったり、単純な生物も高等な生物も混ざり合っていること言うことが分かりました。シルビア・ベーカーという人は、全世界に及んだ大洪水説を唱えています。死んだ動物や魚はそのままでは化石にならないということです。なぜなら、他のものに食べられてしまうからです。化石を生ずるのに最も良く、可能性のある過程は、生物が死んだとき、または死の直後に突然堆積層の中に埋没することだということに大方の意見が一致しているそうです。化石化した魚が堆積岩の中に見出されますが、それらが腐肉を食う生物の攻撃を受けた兆候は何もなく、苦悶の状態で見出されています。また、恐竜の化石は猛威による突然の死であるかのような状態で発見されています。マンモスは温暖なところに住み、青草を食べていました。しかし、突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったと考えられます。だから、胃の中にはキンポウゲなどの青草が見つかりました。石炭と石油は共に大量の生物の残骸であり、これも大洪水のゆえであろうということです。かつて「系統樹」なるものがあり、下等なものから高等なものに進化していく樹木の絵がありました。しかし、その化石が見つかっていないので、1950年代のものは樹木としての面影は残っているものの、「枝」はつながっていません。

 

第二は、生命が偶然に発生するということはありえないということです。進化の考えは、ダーウィンが始めたものではありません。それ以前にも、多くの科学者や哲学者が進化を信じており、古代ギリシャで最初起ったものです。ヒトは魚から進化したとか、動物は植物に由来していると主張する人もいました。紀元前400年、アリストレテスは自然発生説を提案しました。なぜなら、彼は泥の中から昆虫やハエが突然出現するのを見たからです。もし、昆虫が自然発生によって生ずるとしたら、他のすべての生物にも同じことが起こらない理由があるだろうかと言いました。長い間、自然発生説が受け入れられていましたが、19世紀にパスツールが自然発生説の誤りを証明しました。生命はどのように誕生したのでしょう。1950年二人の科学者(スタンリー・ミラーとハロルド・ユーレイ)がメタン、アンモニア、水素から成る混合気体、いわゆる原始のスープに雷を模した電気放電を当てたところ、アミノ酸などの有機体ができました。無機物から生物を創ったということで、世界中に報道されました。しかし、今では生命の発生の解釈としては、何の価値もないという結論に落ち着いています。

 

『進化論を斬る』という本で稲垣久和氏はこう言っています。ところでこのように原始地球上で、また分かっていない化学的メカニズムでアミノ酸が生じたとしても、生命の誕生にほど遠いのです。それを納得するために単純な確率の計算をしてみましょう。生物体の基本物質であるタンパク質は、アミノ酸という分子が鎖のようにつながった巨大分子です。アミノ酸は20種類ありますが、これがどういう順序でつながっているかが生物機能にとって本質的に重要です。そこで原始地球上で無秩序(ランダム)な化学反応の結果、アミノ酸の百個つらなった特定の小さなタンパク質分子ができる確率はいくらか?これは一列に百個並んだ座席を想定して、そこに人をひとりずつ座らせていきます。そうすると一番端には20通りの座り方、二番目も20通り、三番目も20通りという具合に20を百回掛けただけの並び方があることがわかります。計算すると、10130乗種類のものから一個を選び出す操作に等しいのです。今、地球の年齢の約45億年を秒に換算すると1017乗秒しかなりません。そこで一秒間に一種類の組み合わせを数えていったとしても、1017乗種類しか数え上げることができません。地球の年齢のかわりに宇宙の年齢150億年をとっても、1018乗秒以下ですから答えは同じです。このような簡単な確率の計算から明らかなように、無秩序とか偶然とかの考えの基礎にしてしまうと、特定の小さなタンパク質すら生じないのです。ましてやタンパク質やそれを同じような高分子である核酸が複雑に有機的に組み合わさった生命というものが、このような偶然によって生じるなどと主張することは科学ではなく、偶然の哲学、または進化主義とでも呼べる1つの哲学的立場の表明です。

 

イギリスの天文学者のフレッド・ホイルは、「もし細胞が偶然できるというのなら、『竜巻が鉄くず置き場の鉄くずを巻き上げて、竜巻が去ったら、偶然、ジャンボ・ジェット機ができていた』というようなものだ」と言っています。ジャンボ・ジェット機を作ったのは、竜巻ではなく、知恵のある人間です。そして、その知恵のある人間を創造されたお方がおいでになるのです。

 

 第三は、進化論は熱力学第二法則に反しているということです。ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則Ⅱ』という本があります。東京大学名誉教授で、『ニュートン』の編集長の竹内均氏が訳しています。第二法則を一言で言えば「覆水盆に返らず」という諺のとおり「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能になってしまうということです。つまり、物質は絶えず老化していくということであり、地球上では「エントロピーが増大している」ということになるのです。ダーゥインの進化論は、「最初の生命は偶然の化学変化によって生じたものであり、それが何代も積み重なって進化し、ついに最も複雑で興味深いもの―私たち人間が出現したのだ」と言います。進化という考えは、エントロピーの法則と真逆です。なぜなら、無秩序から秩序へとだんだん良くなると考えているからです。しかし、実際、この世界は秩序から無秩序へとエントロピーが増大していきます。新築の家でも50年もたつと、雨漏りがしたり、床が落ちたりします。新車でも10年も乗ると、エンジンや足回りにガタが来ます。しかし、実際に生物は、進化はしないけれど、生命を一生懸命に保っています。植物は太陽からエネルギーを取っています。動物は何かを食べて生き続けています。生物は機械と違い、自己復元能力を備えています。でも、進化ではなく、全体の形も各部分も、特長もそのままです。

 

『エントロピーの法則Ⅱ』の本に「遺伝子工学は『エントロピーの法則』にどこまで挑戦できるか」ということが書かれていました。日本政府と多くの大企業は、日本を工業化社会から脱皮させ、遺伝子工学社会に突入させようとしています。遺伝子工学によって、私たちは生物資源を合理的かつ効率よく、よりスピーディに産業利用できるようにしようとしています。ところがその場合、将来の生態系そのものへの悪影響が及ぶ可能性などは、ほとんど考慮されていません。1970年代のアメリカで、遺伝子操作でとうもろこしの改良を行い、「スーパー・コーン」の大豊作を試みました。ところが、新型の病気が流行したときに、スーパー・コーンは脆弱で、全然抵抗力のないことを農業関係者は思い知らされました。いわゆる欠陥遺伝子を全面的に排除してしまうと、短期間的には効率の高い種ができるが、長期的には種の生存能力が弱まるのです。要するに欠陥遺伝子を排除することは、種に死刑宣告を与えるに等しいのです。つまり、種の中から、環境の変化に合わせて順応するための遺伝子形質をはく奪してしまうからです。

 

 私は英知に富んだ創造主がこの世界、そして生物を創造したと堅く信じています。人間は無から有は創造できないのです。生物を造っている基本的要素である、遺伝子を壊したり、組み合わせたりすることは簡単です。でも、一度壊れてしまった遺伝子を再生することは不可能です。私も子どもの頃、だれかの腕時計をばらばらにしたことがあります。でも、それを元通りにすることはできませんでした。人間は様々なクローンを作っていますが、映画のようなバイオ・ハザードが起こるかもしれません。私たちは神よりいくらか劣るものとして造られましたが、決して、神ではありません。創造主が造られたものを正しく管理することが求められているのです。

 

 第四は、遺伝子は進化論に反対します。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』より。ダーウィンは「同種の異なる個体や別種の個体のある特徴が、ある時は遺伝し、ある時は遺伝しないのは何故なのか」分かりませんでした。彼の理論から行くと、より長い足、より優れた視力といった好ましい新特性は、その動物の子孫に次々に受け継がれなければなりません。ところが、実際は元の変質は混ぜ合わされてしまうのです。彼の死後、メンデルがエンドウのいろいろな品種を交配し、遺伝子のもとの考え方を発見しました。遺伝学は、生命そのもののしくみを記述する学問だと言われます。この学問は、人間は一つの種として、サルは別な種そして、そしてクラゲは全く異なる種そして、それぞれに存在していることの理由を説明してくれます。事実上すべての生物は、細胞からできています。各細胞の核の中には、動植物の種ごとに独特な情報の暗号である遺伝子がおさまっています。ここに遺伝の鍵があります。細胞は定期的に自身をつくりかえています。遺伝暗号は、そのたびことに同じものをつくりかえるにはどうするかを指令します。私たちは生まれながらにして持っている指紋を一生持ち続けたまま死にます。遺伝子が、生涯を通じて皮膚細胞の個々独特のパターンを保持させるからです。各細胞の性質と仕事を決定する遺伝暗号の実態は、化学物質DNA(デオキリシボ核酸)であり、二重らせんの形をしています。

 

 ダーウィンの追従者たちは、「突然変異こそが、進化になるのだ」と言いました。彼らに言わせると、偶然生じた有利な突然変異が、自然淘汰によって選択されることによって、新種が形成されると考えました。ダーウィンの時代以後も、植物や動物に交配と選択によって、品種改良を行ってきました。しかし、そうした場合でも、小麦はあくまでも小麦のままであって、グレープフルーツなどにはなりません。進化にこのような行き止まりが存在する理由は簡単に説明できます。要するに、各生物の遺伝システムには、独自の制約が組み込まれているのです。それぞれ動植物がその平均からあまりはずれないように、ストップがかかっていると思えば良いのです。最近の遺伝学の進歩によって、さらに分かってきました。人為的に作りだされたものは、繁殖能力や生存能力が劣るため、普通は死んでしまうか、すぐにもとにもどってしまうのです。

 

 昨年の528日、科学メディアPhys.org に「生物種の全面的な遺伝子調査により、生物進化の新しい側面が明らかに」という記事が掲載されていました。10万種以上の生物のDNAとアメリカ政府の遺伝子データーバンクにある500万以上のDNAの断片を徹底的に調査しました。そこから、現在地球にいる大半の生物(人間を含む)が地球上に登場したのは、10万年~20万年前の間だとわかりました。そして「中間種は存在しない」ということでした。これはつまり、この地球の生物の90%以上は「それ以前への遺伝子的なつながりがない」ということです。地球のほとんどの生命は20万年前以降に「この世に現れた」のです。現行の科学で言われている人類誕生までの歴史では、46億年前から始まり、35億年前くらいに最初の生命が誕生し、そこから徐々に進化してきたというものです。しかし、今回の大調査の結果わかることは、「徐々に」進化していないということなのです。…遺伝子は進化論を否定しているといことが科学でも証明されています。

 

3.創造論に立つ

 

 今日、子どもたちは学校でヒトは類人猿から進化したのが事実であり、歴史の授業で、ローマ帝国が存在したことが事実である、と教えるのと同じような確かさをもって、猿人が存在したと教えられています。事実、私たちの社会全体は進化論の観点に影響されています。つまり、「創造者はいない、ヒトは絶えず進化しつつあって、ヒトの悪い行為はヒトが過去に動物であった時の遺物に過ぎない」と言うのです。人が罪を犯すのは、進化の途中、進化が不十分なせいなのでしょうか?そうではありません。人間は創造主を離れ、堕落してしまったからです。生まれつきの人間は、創造主なる神を認めたくないのです。ダーウィンが「種の起源」を発表したときは、論争が嵐のように巻き起こりました。当時の著名な科学者の多くは、ダーウィンの学説に反対していました。しかし、それは産業革命後の社会にはうってつけの学説でした。「適者生存」が競争社会を正当化させました。また、科学の発展や遺伝子操作が人間に幸福をもたらすと考えました。そして、人間は「やっと神から自由になれた!」と喜んだのです。

 

 かなり前に稲垣久正氏が書かれた『進化論を斬る』という本を読んだことがあります。この方は、東京都立大卒の理学博士で、国際基督教大学の講師をなされ、専攻は理論物理学と教理生物学です。稲垣先生は科学的な面から、進化論が未だ証明されていない仮説であり、日本の富国強兵を正当化したとおっしゃっています。キリスト教会はどうでしょう?創造論を信じる人たちをキリスト教原理主義と馬鹿にしました。そして、教会は「有神論的進化論」という妥協案を考え出しました。神が進化によって人間を含む生物を創造したとする説です。この立場では、創世記の天地創造を寓意的に解釈します。そうなると、「神が天地を創造し、私たちを神のかたちに創造された」とはっきり言えなくなります。中間の化石がないこと、偶然による生命の発生がありえないこと、熱力学第二法則は進化と真逆であること、遺伝子は進化論に反対すると4つのポイントで申しあげました。学校では「進化論」を証明された事実のように教えているので、学力一辺倒の教育、おちこぼれ、弱い者いじめにつながっていると思います。教育の土台は創造者なる神を恐れることです。箴言17「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあるからです。進化論の「適者生存」は社会福祉と全く反する考え方です。なぜなら、子どもや老人、障害者は存在する価値がないからです。本当の社会福祉は神が人間を創造し、命を与えたゆえに、どんな人であっても生きる価値あるという考えが土台です。詩篇84-8「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」人間は自然の一部ではなく、自然をちゃんと治めるように神さまから造られた尊い存在です。もし偶然で人間が誕生したのなら人生に目的がありません。でも、創造主が人間を創られたのなら、人生に目的があります。

 

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2019年2月 8日 (金)

エペソ教会と日本 使徒19:1-6 亀有教会鈴木靖尋牧師 2019.2.10

 ここ2回にわたりサタンとか悪霊からの解放について学んできました。実はエペソの教会がそのことを体験した教会です。そして、そのことは日本の教会に対する模範にもなります。日本の教会は長い間、リバイバル(霊的復興)を望んでいますが、なかなかその兆しがありません。「神の時である」と言えばそれまでですが、いざリバイバルが起こる時はこのようになるということを知っておく必要があります。もちろん、近年、各国で起こっているリバイバルからも学ぶ必要があります。でも、私たちは聖書から根本的な要素を捉えておくということがとても重要です。

1.エペソ教会のはじまり

 聖霊が降ったペンテコステから20年以上たっていたと思われますが、エペソにはまだ、そのことが起こっていませんでした。アポロという有能な教師がエペソに来て、キリストの福音を宣べ伝え、そこに信仰者の群れができました。しかし、その信仰は不完全でした。アポロがコリントに行ってから、パウロが奥地を通ってエペソにやって来ました。そして、幾人かの弟子に出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。そうすると、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと「ヨハネのバプテスマです」と答えました。そこで、パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。ここには明らかに時間のズレがあります。時代遅れと申しましょうか、受けたのはヨハネのバプテスマであり、イエス様のそれではなかったということです。では、その両者は一体どこが違うのでしょうか?ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」です。イエス様が来られる前、人々は罪を告白してヨルダン川でバプテスマを受けました。いわば罪の赦しのためのバプテスマです。しかし、ヨハネは「その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。そのことが、ペンテコステの日に成就しました。エペソの人たちは、その出来事を知らないで、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。今度は、改めてイエス様の名前によるバプテスマを受けました。そうすると、彼らの中に聖霊が入り、彼らは霊的に新しく生まれ変わったのです。この経験は現代のクリスチャンが普通に体験することです。※バプテスマ=洗礼

 しかし、問題となる表現が、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか?」という表現です。ペンテコステ派の人たちは、福音派の人たちに「あなたは聖霊を受けましたか?」と聞きます。すると、「もちろん受けていますよ?」と答えます。すると「いつですか?」と聞かれます。「はい、イエス様を信じた時ですよ」と答えます。すると「そんなことはないでしょう?では、その時、異言が出ましたか?」と聞かれます。「え?異言って何?」というと「じゃあ、あなたは聖霊を受けていませんよ」と言われます。何かここにちぐはくさが見られます。この「受ける」という表現が問題です。このことに関しては既に何度も話していますが、私たちは2重の意味で聖霊を受ける必要があります。第一は内側に受けるということです。このことは私たちがイエス様を信じるとき、聖霊が私たちの内側に入り、私たちは霊的に新しく生まれます。パウロはローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89と言っていますので、クリスチャンは例外なく聖霊を内側にいただいている、受けているということです。でもここで満足してはいけません。私たちは上からも受ける必要があるからです。残念ながら、ビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本では、内側に受けることだけしか書かれていません。聖霊で満たされるとは内側から満たされることであると言っています。この考えは、ほとんどの福音派の教会に受け入れられています。だから、ペンテコステ派が言う「聖霊を受ける」という表現が全く理解できないのです。

 パウロはエペソの人たちに、もう1つの別のことをしています。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」これが聖霊を上から受けるという、第二の恵みです。使徒の働き18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とありますが、上からと書かれています。上はギリシャ語で「エピ」です。そして、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が「エピ」上から臨んだのです。ウィットネス・リーは「聖霊の二種類の満たし」ということを述べています。内側の満たしはギリシャ語で「プレロー」です。もう1つ「プレソー」というギリシャ語があり、それは「外側を満たす」という意味です。たとえば、バブテスマ槽は内側で水に満たされますが、だれかがバプテスマ用の水槽の中にバプテスマされる時、彼は内側ではなく、外側で水に満たされます。私は、外側で満たされる経験を聖霊のバプテスマと呼ぶべきではないかと思います。なぜなら、そのことこそ、イエス様が弟子たちに望んでおられたことだからです。イエス様はかつて「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449と言われました。そのことが、ペンテコステの日に成就したのです。ですから、エペソの人たちはパウロが手を置いて祈ってくれたので、聖霊が上から臨んで満たされたのです。その結果、異言や預言という聖霊の賜物が現れたのです。これがクリスチャンの標準であります。内側に聖霊をいただいて新生し、外側からも聖霊をいただいて力を受けるのです。聖霊のバプテスマは奉仕のための賜物と力を与えます。福音派の教会は聖霊が内に満たされ、キリスト品性、聖さが現れることを願い求めます。ガラテヤ書5章には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。しかし、私たちは同時に、奉仕のための賜物と力が必要です。Ⅰコリント12章には「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」とあり、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など9つの賜物が記されています。エペソの教会のはじまりは、キリストの御名によるバプテスマと、聖霊が上から臨む聖霊のバプテスマの2つがありました。私たちはこの2つの聖霊の経験を持つことを標準にしたいと思います。

2.エペソ教会の発展

 エペソ教会はどのように発展したのでしょうか?使徒198-12「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」パウロの伝道法はまず、ユダヤ人の会堂に入り、彼らに福音を語ることでした。その当時、ユダヤ人の会堂はいたるところにありました。かつてエルサレム神殿が破壊され、世界に散らされたことのなごりです。しかし、ユダヤ人はキリストの福音に反抗的であり、エペソにいたユダヤ人も全く同じでした。「この道をののしった」というのは、「キリストの福音をののしった」ということです。それで、パウロはしかたなく、異邦人に向けて福音を語りました。パウロたちは「毎日ツラノの講堂で論じた」とありますが、これはギリシャ人が自由に政治や哲学を論じることのできた講堂があったということです。「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とありますが、彼らがみんな信じたわけではないけれど、小アジアにすむ人たちみんなが、主のことばを聞いたということです。そして、パウロは福音を宣教しただけではなく、しるしと奇跡を行いました。かつてイエス様が弟子たちにお命じになられたように、病をいやし、悪霊を追い出しました。人々はパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てました。すると、その病気は去り、悪霊は出て行ったということです。アーメン。リバイバルが起こるとこのようなことが普通に起こります。奇跡が日常茶飯事に起こったらすばらしいですね。

 でも、ある事件が起こりました。使徒1913節から16節にしるされています。エペソの魔術師たちが、人々が教会によって悪霊から解放されているという話を耳にして、確かめに行きました。彼らは、クリスチャンたちがイエスの御名によって癒しと解放を行っているのを、目の当たりにしました。そこで、エペソの町で著名な魔術師の幾人かが、イエスの名によって悪霊の追い出しをしてみました。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる!」。すると悪霊は、とりついた男性を通して答えました。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもお前たちは何者だ?」そして、悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、彼らを打ち負かしました。魔術師たちは裸にされ、傷を負ってその家から逃げて行きました。この出来事は、またたく間に町に広まったと書かれています。使徒1917「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

 このところに私たちがこれまで学んできた、サタンと悪霊からの解放が記されています。チャック・ピアスが書いた『使徒的教会の台頭』にこのように書かれています。エペソは女神アルテミスの神殿があり、ローマ帝国における異教の中心地でした。それに加えて、魔術やオカルトの拠点としても知られていました。魔術というのは、手品のことではありません。魔女や魔術師、魔法や占いのことです。エペソは霊的に暗い場所でした。ローマ社会では、まじないや呪文、魔法の本は「エペソの書物」と呼ばれていました。エペソは、そのような評判を持つ町だったのです。古代社会では、確かに呪いをかけたり、悪霊をはらいたいとき、エペソの魔術師なら願いを叶えてくれるという望みを持って、人々はエペソに行きました。エペソは、教会開拓者にとっては屈辱的な場所だったに違いありません。繁栄し、巨大で誇り高く、オカルトや異端が支配的な町だったからです。しかし、その霊的に暗いエペソの町に、神は光を灯し、地域全体を照らしました。事実、エペソは、もっとも重要な使徒的センターでした。「アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」のです。黙示録1章から3章には、小アジアの7つの教会が列挙されていますが。それらの教会は、恐らくこの二年間にエペソから遣わされた複数の使徒チームによって開拓されたのです。アーメン。

 私は、エペソは霊的な意味で日本に似ているのではないかと思います。日本人は教育があり文化的な生活をしています。しかし、首相をはじめ大臣たちのほとんどは神道系の宗教団体に属しています。政治や企業のトップが占いや霊能者のお告げで方針を決めているそうです。日本では毎朝テレビで「きょうの占い」が放映されています。ゲームや漫画には魔術やオカルト、ニューエイジがからんでいます。日本は偶像崇拝の国であり、人はもちろん、山や動物、なんでも神さまにして、拝んでいます。神仏に手を合わせることが、信心深くて良いことになっています。このような日本に、「天地を造られた神はおひとりしかいない。救いに至る道はキリストしかない」と言うなら、「なんと狭い宗教なんだ」と排斥されるでしょう。しかし、エペソでパウロたちは何をしたのでしょう?なんと、偶像の神ではなく、生きているまことの神さまをデモンストレーションしました。パウロは主のみことばだけを伝えたのではありません。病人をいやし、悪霊を追い出しました。さまざまな奇跡やしるしが起こり、人々は、「自分たちは間違った神を拝んでいた」と告白しました。それだけではありません。魔術の本をかかえて来て、みんなの前で焼き捨てました。その金額は銀貨5万枚ですが、5万デナリで現在の5億円です。彼らは悪霊と関係を断ち切ったのです。日本にもこのような劇的な回心が必要です。なぜ、日本のクリスチャンはなまぬるいのでしょうか?それは偶像礼拝や過去の罪を断ち切らないために、悪霊がどこかに住んでいるからです。人格の一部を、心のどこかの部屋を、思いを支配されているからです。私たちは本物のクリスチャンになるために、偶像礼拝を悔い改め、悪しき霊からの解放が必要です。

3.エペソ教会の危機

 使徒1920「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」とハピーエンドで終われば良いのですが、そうではありませんでした。前にも申しましたが、エペソは女神アルテミス(ダイアナ)を祀っている神殿がありました。この神殿はアテネのパルテノン神殿の三倍の大きさがありました。この神殿を見るためだけに、ローマ帝国から人々がやってきました。この期間にエペソ教会が急成長したために、町の経済が荒廃しました。エペソの主要産業の一つは、女神アルテミス像の制作でした。パウロの二年間に及ぶ伝道の終わり頃には、多くの人が主を信じるようになり、偶像を買う人がいなくなりました。偶像職人たちは、文字通り町中で騒動を起こし、自分たちの商いを守ろうとしました。使徒1926「ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。私はエペソの背後にいる悪霊が巻き返しを図ろうと、群衆を扇動しているとしか思えません。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかり叫び続けた」(使徒1934)とあるからです。しかし、幸いなことに町の書記役が出て来て、騒動が納まりました。個人の救いだけではなく、社会のしくみが変わる、トランスフォーメン(変革)がリバイバルのゴールです。

 キリスト教会史において、エペソのようなリバイバルが各国で起こりました。しかし、ジョンウェスレーのリバイバルが30年間で最も長く、世界のリバイバルの平均寿命は3年から5年、長くて10年です。なぜ、リバイバルが急速に衰え、その火が消えてしまうのでしょうか?その最大の原因は教会に対する迫害よりも、同じ教会からの非難や中傷であります。今から25年くらい前、カナダのトロントでリバイバルが起きました。その名前は「トロント・ブレッシング」と呼ばれています。リバイバルはトロント・エアポートチャーチで始まりました。ジョン・アーノットが主任牧師です。そこへ4日間の約束でイリノイ州の小さな教会からランディ・クラーク師が招かれました。そこに聖霊の火が下り、集会は40日間に及びました。癒しや奇跡がどんどん起こりました。人々は床に転げ、笑いながら、転げながら、泣き続けていました。ものすごい聖霊の油注ぎがあり、世界から100万人くらいが聖霊の力をいただきに訪れたと言われています。ところが、ミニストリーを受ける人たちの中に、笑い転げ、動物の声で叫んだり、動物のように床を這うような人たちも現れてきました。トロント教会は「それはホーリィ・ラーフィングであり、解放と癒しが起こっている証拠だ」と言いました。ところが、ヴィンヤード・チャーチの指導者たちは、「ヒステリックで霊的に危険である」と批判しました。その結果、トロント・エアポートチャーチはその群れから追い出されてしまいました。

 エディ・レオ師は「リバイバルは神さまの一方的な恵みであるが、リバイバルを継続させるのは私たちの責任である」と言いました。リバイバル、それは聖霊の圧倒的な現れです。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオス(混沌)も一緒に訪れます。神学的におかしなことも起こり、あきらかに行き過ぎだと思えることも起こります。教会にはブルドックのように、伝統や教義を守る番人がいるものです。特に、その教会が大きな教団に属していると、やり玉にあがります。どんな立派な人でも、神さまに用いられている人に対しては、ねたみ心が起こります。そして、小さな問題を、主要な出来事として批判するのです。「あれは聖霊ではなく、悪魔がやっていることだ」と言うのです。福音書にありますが、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したことがありました。パリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と批判しました。イエス様は「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、御霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ1232と言われました。混乱を避けたい、善良な人たちによって、聖霊の火が消されてしまうのです。

 ビル・ジョンソン師は『天が地に侵入する時』という本でこのように警告しています。行きすぎた行為を恐れるために、多くの人はどっちつかずの中間さをバランスが取れた考え方のように採用しています。そのような恐れは、自己満足することを徳とします。行き過ぎた行為に対する恐れは、変化に反対する人々を高潔な心を持った者のように見せてきたのです。しかし、行き過ぎた行為がリバイバルを終わらせた訳では決してありません。ウィリアム・デ・アルディガは、「偉大なリバイバルは、極端な人々の故に終結したのではない。それは、反対者たちの糾弾によったのです。分裂は、霊的なことを計る物差しとして、知性に最高の価値を与える時にはいつでも起こることだ。分裂は、多くの人が非難するように、聖霊の賜物が用いられたことによるのではない」と言っています。…私たちの完璧さに対する脅迫観念が、リスクを冒すための余地を消し去ってはなりません。完全さということに関して付け加えて言うなら、それは宗教の霊に余地を与えることです。一歩踏み出して神に用いられることを拒む人は、それを行う人を非難する側に回ります。危険を冒す者は、神の心を興奮させると同時に、危険を冒すことのない、決して失敗しない人々からの攻撃の対象となるのです。

 教会の多くは、聖霊の偉大なリバイバルを求めています。しかし、自分たちの神学や考えに合わないと、「もう結構です」と拒否してしまいます。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオスも一緒に訪れます。「肉は食べて、骨は口から出す」ということわざがあります。現象を見てさばくのではなく、聖霊様がなさっている癒しや解放、救いを見るべきです。日本の教会はあまりにも知的で神学的です。人間の小さな頭で、どうして聖霊の偉大なリバイバルを把握できるでしょう。あえてリスクを冒すような冒険心、聖霊様にどこまでも期待する飢え渇きが必要です。日本にもエペソ教会に起ったようなことが起りますように願いたいと思います。

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2019年2月 2日 (土)

霊的解放 ルカ11:24-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.2.3

 私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。まず、このことを知ってから、悪しき霊からの解放について学ぶことができます。きょうは悪霊によって支配されている程度の重いものから順番で学びます。第一はとりつかれる。第二は場所を与える。第三は思いです。

1.とりつかれる

 「クリスチャンは、悪霊にとりつかれることがあるのか?」という疑問があると思います。答えはそうでもあり、そうでもないということです。そもそも、「とりつかれる」とはどういう意味でしょう?マルコ4章にゲラサ人の地にいた人のことが書かれています。彼は汚れた霊につかれた人であり墓場に住んでいました。彼はたびたび足かせや鎖につながれても、鎖を引きちぎり、足かせも砕いて、だれも彼を押さえるだけの力がありませんでした。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエス様が「お前の名は何か?」とお尋ねになると「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」はローマの軍隊では、6,000人の兵士の単位です。イエス様は本人に名前を尋ねたのですが、内側にいた悪霊が答えたのです。英語の聖書では、マルコ515「とりつかれる」possessed withとなっており、「所有されている」という意味です。彼は人格まで支配されていたのですから、よっぽど重症の人でした。また、ルカ13章には「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性」のことが記されています。英語の聖書は「持っている」と書かれています。彼女は病をもたらす悪霊を内側に持っていたということです。それで体を伸ばすことができなかったのです。

 ルカ福音書の11章の物語は、一見、たとえ話のようでありますが、霊的な事実を私たちに教えています。家というのは私たちの肉体のことです。このお話しの前で、イエス様は口をきけなくする悪霊を追い出しています。その後、イエス様は強い人が十分に武装して自分の家を守っているというたとえ話をしています。イエス様はより強い者であり、彼の武装を解除して、分捕りものを分けます。それはサタンに捕えられていた人を解放するという意味です。その後、家から出ていた悪霊の話をしています。この話をしている対象はイエス様に悪口を言った宗教家であろうと思います。彼らは聖くなろうと悔い改めをしていたに違いありません。でも、家の中は空っぽで掃除がしてありました。すると、一度出て行った悪霊が、他の霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつきました。それでその人は前よりももっと悪くなったということです。それがイエス様を批判した宗教家たちのことを指しているのは間違いありません。この地上は真空を嫌います。彼の家は空っぽだったので、悪霊が入り込んできたのです。最良の道は、イエス様を家の主人にお招きすることです。もし、家がイエス・キリストのものになっていたなら、イエス様が「何しに来たんだ。勝手に入るな。これは私の家だ」と悪霊の侵入を許さないでしょう。

 クリスチャンも、悪霊にとりつかれることがあるのでしょうか?多くの場合、クリスチャンになる前のことが原因になっています。イエス様を主と告白して、洗礼を受ける時、多くの霊的なものが排除されると信じます。でも、ある悪霊は、その人の中に居続けることが可能です。その一番の原因は、未信者の時に行っていた偶像礼拝です。クリスチャンになってから、偶像礼拝する人はいないでしょう。悪霊に入られたのは、クリスチャンになる前です。日本の家々には仏壇があり、先祖崇拝をします。新年は神社に行って参拝し、厄年などは御払いに行くかもしれません。当教会には、神輿を先頭で担いでいたという姉妹もいます。占いや呪文、魔術にはまった人もいるでしょう。また、七五三などでは、両親が子どもを神社に行って「守って下さい」と拝みます。もし、そこに悪霊がいたなら、悪霊と契約を結ぶことになり「よし、わかった。一生面倒見てやる」と言うでしょう。本人ではなく、両親が結んだ契約ですが、生きている間、有効になっている場合があります。そういう場合には、悔い改めて、主イエスの名前によって契約を打ち破る必要があるでしょう。また、偶像崇拝や占いをした罪を悔い改める必要があります。今から20年前に「解放のキャンプ」というのがインドネシアから入りました。私はインドネシアでその現場を直接見ました。200人のキャンパーが洗礼を受ける前に、解放のミニストリーを受けていました。メッセージの後、100人位が前に出て、もだえ苦しみながら解放を受けていました。中心的な原因は偶像礼拝と性的な罪からくる束縛でした。解放を受けてから、イエスを主と告白し、プールで洗礼を受けていました。

 最近、日本の教会ではそのような「解放のキャンプ」をしなくなりました。インドネシアなどは、霊的な解放に対してとてもオープンです。罪を告白し、赦しと解放を受ける教会の文化ができています。しかし、日本は「あの人、悪霊につかれていたの?怖い!」とか言われて、特別扱いされる恐れがあります。しかし、クリスチャンになる前の私たちは悪霊にやられていることは間違いありません。それを解放のキャンプのように集中して行うか、毎週の礼拝などで、少しずつ解放されていくかどちらかです。牛久の大喜多牧師は大学生のとき、イエス様を信じました。泊りがけの修養会に青年たちと参加しました。大喜多青年は、布団に寝ながら、牧師の悪口をさんざん言っていました。隣に寝ていた先輩ががばっと起きて、大喜多青年の頭に手を置いて、「悪霊を出て行け!」と祈ってくれました。大喜多青年から黒い煙のものが「ばーっ」と出て行ったそうです。次の朝、彼はすっきりして、何で自分が牧師のことを批判していたのか分からなかったそうです。牧師に対して、無性に逆らいたい気持ちのある人は怪しいです。イエス様を礼拝しようとすると混乱があり、集中できないというのも悪霊が原因している可能性があります。私も教会に来たての頃は10分位、集中的なくて、後半からやっとメッセージが入りました。色々原因があると思いますが、これまで偶像礼拝や占いをしたことのある人は、その名前を上げて、悔い改め、主イエスの名前によって関係を断ち切りましょう。自分で自信のない人は、信頼のおける人から断ち切りの祈りをしてもらったらとても効果があります。

2.場所を与える 

 

 エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここで言われている「機会」は、ギリシャ語でトポスです。トポスは「滞在や居住のための場所や部屋」という意味があります。文脈から考えると、怒ること自体は罪ではありませんが、そのまま放置すると、そこに悪魔が場所を設けて、その人を支配することになります。日が暮れるというのは、次の日まで持ち越すということです。すると、心の中に怒りが留まり、悪魔が悪さをする場所を設けるということです。怒りだけではなく、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷など…そういうものが悪霊の餌になります。たとえば、生ごみをそこに放置したらどうなるでしょう。カラスやネズミが集まって来るでしょう。あなたは、いつもやって来るカラスやネズミを追い出すべきでしょうか?それとも生ごみを片付けたら良いでしょうか?もちろん後者でしょう。生ごみにあたるのが、怒り、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷などであります。処理されていない罪や心の傷があるので、悪霊がやってくるのです。そのために、まず罪を告白し、赦しと癒しを受けるべきです。その後、場所を設けていた悪霊は簡単に出て行くでしょう。

2001年、蒲郡の石原牧師が『解放のミニストリー』という本を書きました。そこには「足場」あるいは「要塞」と書かれていました。その本から少し引用いたします。「私たちはキリストの贖いをとおして、神によって無条件の罪の赦しを受けていますが、実生活の中で、悪魔は私たちの過去に行ってきたすべての罪の行動を見てきたので、その罪を持ち出して訴えます。それはちょうど敵のために用意された要塞のようであり、建築中の足場のようです。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をするのです。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分自身のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り、取り外す必要があります。その方法は、告白という武器を用い、キリストの御名の権威を用いて、悪霊とのかかわりを断ち切って行くことです。」アーメン。私も蒲郡や他の場所で開かれた、解放のキャンプに参加したことがあります。しかし、最後に石原牧師が「共依存」や「ひきこもり」の方にウェートが行きました。確かに、日本人にはそのような傾向や必要性はあると思います。しかし、教会を離れてミニストリーをするようになってから、バランスに欠けるようなところが見えてきたように思えます。

 ニール・アンダーソン師は「赦さない罪こそが最も、その人を束縛する場所になる」と言っています。私たちクリスチャンは「人がした悪を赦さなければならない」ということを頭では理解しています。「主の祈り」でも毎週、その箇所を賛美しています。しかし、賛美しながら「そのことは別だよ」と、スルーしているのではないでしょうか?私たちは人を赦す前に、「赦しとは何でないのか」、「赦しとは何なのか」を正しく知る必要があります。第一に赦しとは、罪をがまんする、罪を大目に見るということではありません。神さまは罪に対して、刑罰というかたちで取り扱います。大事なのは私たちが自分で復讐するのではなく、神さまにお任せするということです。ローマ1219「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」つまり、自分が復讐する権威を神さまの前に放棄するということです。第二に赦しとは、相手が罪を認めて謝ったなら赦してあげるということでもありません。もちろん、そのような和解が来たら一番幸せですが、その日がいつ来るかわかりません。もしかしたら、一生来ないかもしれません。今も、その人は自分が犯した罪を忘れて、涼しい顔をしているかもしれません。相手のことを関係なく、こちらが赦すということです。第三は、自分の中に赦す気持ちが起きたら、赦すというものがあります。これが最も厄介であります。なぜなら、赦すのは意志の問題であり、感情ではないからです。感情がそのように望んでいなくても、神さまのご命令ですから「赦します」ということが重要です。第四、赦しとはその人の罪を忘れることではありません。赦す行為は必要ですが、忘れることは自分の記憶の問題ですから、意思とは関係ありません。私たちは過去のことを思い出すことがあります。その度に、神さま「私は既に赦しています」と委ねるべきなのです。そうしていくうちに思い出す回数が少なくなっていくでしょう。

ニール・アンダーソン師は、赦しとは何なのかこのように教えています。罪が犯されたときには、加害者と被害者がいます。そして、この罪によって二人の間に、鎖が出来てしまいます。加害者があなたに悪いことをしました。あなたを言葉で傷つけたり、あなたの権利を奪ったり、あなたをだましました。あなたの腕には傷があり、加害者に対するうらみがあります。それが目に見えない鎖になっています。鎖の反対側はあなたを傷つけた加害者にあります。鎖の先が首輪のようにその人にはまっています。距離的に離れていても、その人とは鎖でつながっています。二人の間には霊的なそして情緒的なつながりがあります。ですから、赦しというものは意志によって、選択すべきこと(選び取るもの)です。赦しとは、被害者と加害者との問題というよりも、むしろ被害者と神さまとの問題なのです。たいてい加害者は被害者の痛みなど全く知らないで、のほほんと暮らしています。被害者の苦々しい思いや恨みは加害者にどういうダメージをもたらすでしょうか?もたらしません。あなたを苦しめ、あなた自身に毒を飲ませているのです。霊的に、情緒的に、そして肉体的なダメージを与えてしまいます。ある医者さんは「怒りをどういうふうに処理したら良いか、ちゃんと教えることさえできたら、患者の80%ほど退院させることができる」と言っていました。神さまとの関係において、赦そうと決めるのです。その人にかぶせていた非難と憎しみを取り去って、神さまの御手におゆだねします。思いの中で、相手の罪の首輪をはずしてあげます。そうすると、被害者であるあなたの腕から鎖がはずれてあなたは自由になります。その結果、あなたを縛っていた悪霊が足場をなくすので、もう去るしかありません。

3.思い

Ⅱコリント103-,5「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる」。このみことばこそが勝利の秘訣です。私はパソコンを使っていますが、パソコンの中にウィルスを駆除するソフトが入っています。インターネットやメール、だれかのUSBからウィルスが入ります。感染すると自分のパソコンがダメになるだけではなく、だれか他の人にも害を与えてしまいます。ウィルスは1つのソフトみたいで、それを開くと、独自の働きをするようにプログラムされています。私たちの思いも同じで、だれかによってマインド・コントロールされることがあります。そうすると自分の意思や考えではなく、勝手に動いてしまうのです。「思い」は英語でマインドですが、思考、知性、頭、心のことです。私たちはすでに人間の魂の構造について学びましたので、省略します。結論から言うと、私たちの思いはたえず悪霊の攻撃にさらされています。言い換えると、私たちの思いは戦いの場であるということです。戦いは会議室ではなく、頭の中で起っているのです。悪魔は汚れた思い、疑い、恐れ、違った教え、惑わし、失望落胆、邪悪な思いを雨あられのように、私たちの思いにぶちまけています。私たちはこれを自分の思いのように錯覚して、「なんて私は汚れているんだ」、「なんて私は不信仰なのだ」と自分でがっかりします。悪魔が、あなたの思いを支配したら、あなたをほとんど支配したことになります。なぜなら、人間は神に近い知的な生き物だからです。

ジョイス・マイヤーという人が『思考という戦場』という本を書いています。そこに「メアリーの物語」が書いてありました。メアリーと夫のジョンの結婚生活はうまくいっていません。二人の間には、絶えず争いがあります。二人とも怒りっぽく、互いに相手に対して苦々しい気持ちを抱き、恨み辛みの思いが相当たまっています。二人の子どもも、家庭内のごたごたから、間違いなく何らかの影響を受けています。メアリーの問題は、夫のジョンを家長の座に座らせることができないということです。つまり、彼女は何でも自分で仕切りたいのです。家計についても、子どもの教育についても、すべて自分で決めたいと思っているのです。また、自分が自由に使える「自分だけの」お金を持つために、外で働くことを考えています。つまり、彼女はだれにも頼ろうとせず、何かといちゃもんをつけるうるさ型で、人に対する要求も高く、いつもがみがみ言うタイプなのです。メアリーの思考には要塞が築かれていました。その要塞は、もう何年ものあいだずっとそこに居座っています。どうやってその要塞が築かれたのか、本人でさえわかりません。反抗的になったり、ガミガミ小言を言ったり、高圧的で高飛車な態度は良くないとわかっていても、どうすれば自分を変えることができるのか全く分からないのです。ある状況になると、どうしても自分を抑えられなくなり、衝動的に醜態をさらしてしまうからです。メアリーが自分の行動を律することができないのは、自分の思考を制することができないからです。なぜ、自分の思考を制することができないかというと、幼い頃、悪魔が彼女の思考の中に要塞を築き上げたからです。

サタンは、彼女がまだ幼いときに、周到に練り上げた計画を実行に移し、巧妙に仕組まれたうそ偽りという種を蒔き始めました。つまり、メアリーが今悩んでいる問題の原因は、彼女の子ども時代にまでさかのぼることができました。メアリーの父親は非常に支配的な性格で、自分の機嫌が悪いと言うだけで彼女をぶつことも多々ありました。もし少しでもおかしなことをいうものなら、ありったけの怒りを彼女にぶちまけたのでした。何年ものあいだ彼女は、自分と母親に対する父親の傍若無人な態度に、絶望的な思いで悩み続けてきました。父親は、娘や妻の人格を否定し、人を食ったような態度を取り続けたに対し、兄に対しては接し方が全く異なりました。まるで、男の子であるというだけで、えこひいきしているかのような有様でした。16歳になる頃までには、メアリーはサタンが何度も繰り返し囁いたうそ偽りにすっかり洗脳されてしまいました。「男なんて威張っているだけよ。みんな同じ。信用してはだめ。結局はあなたを傷つけ、あなたを利用するだけだから。あなたが男だったらうまくいったのにね。好きな事をやりたい放題できたのに。人に命令し、威張り散らし、自分の思い通りに人を操り、だれも(特に、妻や娘たちは)何も言えなくて、ただ言いなりになるだけなのにね」。その結果、メアリーは「大きくなって家を出たら、二度と人に振り回される人生は送らないわ!」と心(マインド)に堅く誓ったのでした。サタンは、メアリーがまだ幼い時から、彼女の思いに戦いを仕掛けてきたのです。そんな状態で成長し、いざ結婚して、従順でかわいらしく、性格の良い妻になれるでしょうか?メアリーと同じような問題を抱えている人たちは、これから先どうすれば問題を解決できるでしょうか?

イエス様はこのように言われました。ヨハネ831,32「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」このところでイエス様は、どのようにしてサタンの偽りに勝つか伝授しておられます。それは、神の真理を知り、それを自分のものにし、みことばによって思考を一新することによります。そして、最初引用したⅡコリント104,5節を武器にして、敵の築いた要塞を打ち壊し、神の知識に逆らうあらゆる高慢と高ぶりを打ち砕くのです。ここで言う「武器」とは、教会での説教や聖書の教えを通して、あるいはキリスト教書籍やテープ、個人的なディボーションの中で受け取ったみことばです。しかし、ただ受け取るだけではなく、御霊の啓示により自分にとっての真理になるまで、みことばにとどまらなければなりません。そうです。継続は力なりです。私たちは耳にする真理に対して、どれだけ考えたか、あるいは学んだかによって、私たちのもとに帰ってくる量が決まるのです。私たちはみことばの武器を絶えず使い続けることが重要なのです。思いにおける悪しき霊との戦いは、いわば真理の戦いです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」アーメン。

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2019年1月25日 (金)

神の敵を知る エペソ6:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.27

 サタンとは元来、「敵対者」という意味です。サタンは神に敵対し、神の子どもである私たちをできるだけ神さまから離そうと、今も働いています。また、サタンは新約聖書においては「悪魔」とか「誘惑者」と呼ばれています。イエス様や弟子たちを絶えず誘惑しました。エペソ6章で、パウロは「悪魔の策略に対抗するために神の武具を身につけよ」と言っています。私たちはある意味では、霊的戦いの渦中にあるということです。何でも悪魔や悪霊のせいにしてはいけませんが、私たちの周りには見えない敵、見えない誘惑者がいるということを知る必要があります。

1.サタンの経歴

 聖書にはサタンの経歴careerについて明確に述べていません。それでも、私たちはある程度、彼のことを知ることができます。イザヤ書14章にはバビロンの滅びが預言されていますが、これがサタンの堕落を暗示しています。イザヤ1412-15「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」彼はおそらく天使長の一人で、賛美を司っていたのではないかと思われます。ところが「神の星々のはるか上に私の王座を上げ、…いと高き方のようになろう」と心の中で高ぶりました。星々というのは天使たちのことであり、彼らの上に王座を上げ、神のようになろうとしました。つまり、サタンは高慢になったために、よみに落とされたということです。でも、サタンは一人で反逆したのではありません。黙示録124「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」とありますので、天使の三分の一がサタンと一緒に落とされたのでしょう。彼らが今日、悪霊と呼ばれています。多くの人たちは、サタンは醜い顔をしていると思っています。しかし、そうではありません。エゼキエル2812,13「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。」と書かれています。エゼキエル28:17「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」サタンはあまりにも美しく、知恵がありました。そのために高ぶって堕落したのです。箴言1618「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と書かれていますが、私たちも気を付けなければならないことです。

 その後、サタンはどうなったのでしょうか?創世記3章には蛇に化けたサタンが登場します。ということは、人間が造られる前に、どこかにいたということです。創世記12節は神学者の間でも物議をかもす箇所であります。1節では「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。ところが、2節になると「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり」と書かれています。ウィットネス・リーは1節と2節の間に膨大な時間があり、このときサタンが堕落し、2節は再創造であろうと言います。ジョン・ミルトンは『失楽園』という本の中で、サタンは「宇宙の反対側へはるばると吹き飛ばされ、荒涼たる辺境(リンボ)に結局到達する」(P.114)と書いています。本来この地上は人間のために造られました。ところが、アダムとエバが堕落したために、その支配権を失いました。サタンはそれを横取りして、「この世の君」となったのです。エペソ2章を見ると、彼は「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています。そのため、生まれつきの人間はサタンの支配下におかれ、暗闇の王国の中にいるのです。人間はもはや自由ではなく、罪過と罪の奴隷なのです。イエス様はルカ11章で「しかし、もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」と言われました。私たちはかつてサタンの持ち物でした。しかし、イエス様は私たちを解放するために来られたのです。

 ヨブ記を見ると分かりますが、旧約時代、サタンは神さまの前に行くことができたようです。ヨブ1:6,7「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』」とあります。サタンは「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言いました。それを神さまが許したので、ヨブはすべてのものをなくしました。それでも、ヨブは神さまをのろいませんでした。黙示録を見るとさらに分かります。黙示録1210「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」とあります。サタン、あるいは悪魔は、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。サタンの武器は私たちの罪を神の前で訴えることです。神さまは義なるお方ですから、その罪をさばかない訳にはいきません。でも、聖書の最後の書物を見て分かりますが、サタンはもう神さまのところへは行けなくなりました。なぜなら、イエス・キリストがすべての罪を贖ってくださったからです。おそらく、サタンは、キリストが十字架で死んだとき喜んだでしょう。「キリストは死んだ。これからは俺のやりたい放題だ!」と思ったに違いありません。サタンは知りませんでしたが、十字架こそがサタンの武具を奪うことになるのです。つまり、キリストがご自身の血を流し、すべての罪を贖いました。神さまはキリストの贖いをご覧になって、ご自身の義が満たされました。もう、人類を罪によってはさばかないとお決めになられました。だから、もうサタンは兄弟たちの罪を神さまのところに持って行けなくなったのです。サタンの最後はどうなるのでしょうか?黙示録207「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、…」黙示録2010「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」最後は、サタンと悪霊どもは、永遠の火の池に投げ込まれます。サタンは最後に完全に滅ぼされるのです。でも、サタンは自分だけで滅びたいのではなく、一人でも多くの人間を巻き添えにしたいのです。これがサタンの経歴careerです。

2.悪魔の策略

 サタンは完全にいなくなったわけではありません。もしそうであれば、何も問題なく信仰生活を謳歌できるでしょう。しかし、私たちはサタンの経歴の最後のところで生活しています。エペソ21,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」サタンは「空中の権威を持つ支配者」として今も不従順の子らの中に働いています。サタンは神を信じていない人たち、つまり、自分の罪過と罪との中に死んでいる者たちを所有しています。「イエス・キリストが十字架ですべての代価を払ったにも関わらず」です。ギリシャ時代は、奴隷が市場で売買されていました。自由人は奴隷の品定めをして、「これを買う」とバイヤーに告げます。そうすると、その奴隷が入った鉄格子の上に「売約済み」という札が貼られます。その奴隷の所有者が代わったわけです。イエス様が十字架で死なれる直前、「完了した」と叫ばれました。これはギリシャの商業用語で、テテレスタイと言います。テテレスタイとは「一度で全部を支払った」という意味であり、まさしく「売約済み」です。十字架以降に生まれた人たちは、「売約済み」という札のかかった鉄格子の中に入っています。もう、鍵はかかっていません。「ああ、そうですか」と出てこれば、その人の贖いが完了します。しかし、サタンは「そんなのウソだ。ここが一番、幸せなんだ。」と嘘をついて捕えたままにしています。

 私たちがすべき宣教は、キリストが成し遂げられたことを知らせることです。福音宣教こそが私たちが悪魔との戦いで、もっともなすべき優先順位だということです。でも、悪魔は指を加えて、見ているのではありません。Ⅱコリント44「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」「思い」というのは、mindであり、知性とか考えであります。人間の知性を支配できたら、その人全部を支配できます。悪魔は間違った情報を、私たちの思いにばらまいていると言うことです。特に「キリストの栄光にかかわる福音」です。人々は「キリスト」と聞いただけでむっとします。そして、「宗教なんか必要ない」と言うでしょう。そう言われると、こちらはひるんでしまいます。何故、人々は宗教が嫌いなんでしょう?それはこれまでさんざん偽物を掴まされてきたからです。でも、偽物が多いからと言って本物がないということではありません。たとえば、一万円の偽札があるとします。でも、人々はそんなの気にしないで一万円札を使っています。何故でしょう?偽物もあるけど、本物もあると信じているからです。ところで偽札を作る人は、千円札を作りません。なぜなら、コストが高くて元を取れないからです。では、百万円札だったらどうでしょう?それだったら、明らかに偽札とばれます。だから、紙幣で一番高価な一万円札の偽札を作るのです。同じように、キリスト教の偽物が多いのはそのためです。明治以降、日本にたくさんの新興宗教ができました。そのほとんどが、聖書の良い教えを集めたものです。たった1つないのが、罪を贖われたキリストのことです。この世の宗教には罪の贖いがありません。なぜなら、それを信じたら本当に救われてしまうからです。

 ロイド・ジョーンズという人が『キリスト者の戦い』という本を書いています。彼は有名なイギリスの説教家でその説教集の1部です。ロイド・ジョーンズは、悪魔は人間の知性を攻撃すると述べています。なぜなら、知性こそが人間の最高の賜物だからです。悪魔が人間の思いをくらませるとありますが、彼は6つ取り上げています。第一は、悪魔は疑いを巧みに入り込ませるという方法を最初に取りました。彼はエバのところに来て「神は本当に言われたのですか」と言いました。ペテロはイエス様が死んでよみがえるとおっしゃったとき、「主よ。そんなことがあなたに起るはずはありません」と言いました。主は「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。サタンはペテロの思いの中に疑いを入り込ませていたのです。第二は恐れの霊をもって私たちを圧倒し、キリストを否認しようとさせます。ペテロは、少し前は、大胆で自信にあふれていました。ところがイエス様が捕えられたとき、三度も知らないと呪って主を否みました。第三は、間違った教えを吹き込むということです。Ⅰテモテ41「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」第四は、悪しき思いを頭にばらまくということです。しかし、悪しき思いに誘惑されるからと言って、自分はクリスチャンではないと結論してはいけません。それこそ悪魔の思うつぼです。第五は、失望落胆です。それは悪魔の働きを最も顕著に示すものであり、クリスチャンにも未信者に対してもこの方法を用います。過度に自分自身に集中させ、してはならないことをしてしまった過去にこだわらせます。第六は、自尊心です。悪魔の常套手段は落胆ばかりでありません。正反対のことを行うことができます。それは自尊心を助長させるとことです。ダビデは「イスラエルの人口を数えよ」というサタンからの誘惑を受けて、民全体が裁かれることになりました。

 神さまは私たちに神の武具を与えてくださいました。エペソ6:13-17「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」「救いのかぶと」とは思いを守るヘルメットです。「キリストによって私は救われている」と、知性を守らなければなりません。「胸当て」とは私たちの心臓を守る武具です。「私はキリストによって是認されている」という信仰です。「真理の帯」とは、「私は真理に従う、真理はキリストである」という生活の土台です。「足の備え」とは、悪魔を踏みつけるキリストの権威です。「信仰の大盾」とは、「キリストの真実が私を捕えて離さない」というキリストの信仰です。悪魔に打ち勝つことのできる御名は、キリストです。主イエス・キリストの御名こそが、私たちを悪魔から守る唯一最大の武具です。

3.霊的戦い

 近年、日本でも「霊的戦い」と言うことが言われるようになりました。エペソ612「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるものもろの悪霊に対するものである」と書かれています。サタンにはピラミッド型の霊的な階級があるようです。大都市を治めているもの、宗教や教育を治めているもの、個人にとりついているものがいるようです。ある人たちは霊的地図を書いて、戦いのあった場所や魔術が行われている場所でとりなしの祈りをしています。また、悪霊追い出しを専門に行っているグループもいます。そういう特別な使命を持っているなら別ですが、私たちは霊的過敏症になってはいけません。残念ながら、キリスト教会では2つの極端があります。1つは、「サタンと悪霊は全く存在しない。あれは古代の人たちが勝手に作った迷信である。悪魔は悪の擬人化したものである」という考えです。これは理性を中心とする自由主義神学者たちが言うことです。私たちを誘惑し、束縛する悪霊は今も存在しています。もう1つの極端は神とサタンが互角のように考えている人たちです。そのため、サタンとその悪霊にいつも怯えて暮らしています。イエス様よりも、悪霊の仕業に注目し、何でも悪霊のせいにしています。これも良くありません。ヘブル122「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と命じられています。私たちは悪霊がどう働いているかということよりも、イエス様がどのように導いておられるかということに注目すべきです。

 ビル・ジョンソンは、「私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのである」と言っています。彼が書いた『天が地に侵入するとき』から少し引用させていただきます。「イエスは全てのもの、地獄の力、墓、罪、そして悪魔を征服されました。イエスは死からよみがえり、父の右の御座に着座され、全てのものに勝って栄光をお受けになったのです。全ての名と力はイエスの足元に置かれました。このイエスは、私たちをご自分の『体』だと呼んでいます。体には足があります。比喩的に表現すると、この世のもっと高いとされる権力でさえ、体の一番低いところに位置する足の下に置かれたと言うことです。この勝利の意味は、私たちの生活には戦いがないというのではなく、私たちの戦いの勝利が保証されているということです。」アーメン。詩篇23篇は私たちに勇気と信仰を与えてくれます。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」経験豊かで力のある大牧者であるイエス様が私たちと共におられます。そして、むちと杖をもって、悪霊どもを蹴散らしてくださいます。23:5 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」敵がまわりにいます。でも、イエス様は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」。たとえ敵がまわりにいても、イエス様のもとでは食事を楽しむことができるということです。

 最後に私たちが霊的戦いにおいて知るべき2つのことをお伝えしたいと思います。ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。私たちが神に従えば従うほど、悪魔に対する権威が与えられると言うことです。神に従うことと、神から与えられる権威は正比例の関係があります。自分が神さまにぜんぜん従っていないのに、「悪魔よ、退け」と言っても無理です。悪魔が「お前こそ、退け」と言うでしょう。そうではなく、私たちいつでも、全面的に神さまに従うのです。そうすればおのずと、悪魔に対抗する力と権威が与えられます。イエス様はマタイ28章でこのように約束されました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ…」私たちはイエス様の権威を信仰によっていただくべきです。イエス様はあなたに「『守って下さい』とだけ願うのではなく、私の名前によって命じなさい」と言われます。そうです。私たちには主イエスの御名の権威が与えられています。きゃしゃな婦人警官と11トンダンプトラックでは、力ではトラックがはるかにまさっています。しかし、彼女の胸には警察官のバッチがついています。彼女が「ピー」と笛を吹いて、手をあげると、11トンダンプトラックは従うのです。私たちもイエスの御名の権威によって、「悪魔よ、退け!」「悪霊よ、私から離れ去れ!」と命じるのです。神さまに願うのではなく、命じるのです。

第二は自分の霊的立場を知るということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」テモテ・ワーナという人が「聖書的世界観」について教えています。世界は神がおられる天と、御使いの領域、そして人間と物質の領域の3つに分けることができます。御使いの領域は「第二の天」とか「中間世界」と言います。西洋では啓蒙主義から合理主義が生まれ、目に見えないものは存在しないと言いました。そして、天使や悪霊の存在をあざ笑い排除しました。しかし、今も悪魔と悪霊は不信者たちを支配し、神から引き離しています。私たちクリスチャンにも誘惑や恐れを与えたりします。すばらしいことに、聖霊と神の天使が私たちを助け導いてくださいます。でも、それにも勝って、私たちは自分たちの霊的な立場を知る必要があります。私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。私たちの肉体はこの地上にありますが、目をつぶると、イエス様がすぐ隣におられるのです。私たちはイエス様の御座の隣に座っているのです。アーメン。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。下に住んでいる人たちは「えー?私が悪魔に立ち向かうなんて?」と言うでしょう。しかし、その人が、「自分は天のところにイエスさま共に座っている者なんだ」と理解しているなら、王座から、王座の力をもって悪魔に対抗して行くことができます。「私は神の子どもである。悪い者は私に触れることができない。主イエスの御名によって、私は敵に立ち向かう」と言うことができるのです。確かに私たちは霊的戦いの渦中にあります。でも、イエス様が勝利を収めてくれたので、私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。アーメン。

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2019年1月18日 (金)

福音宣教 ローマ10:8-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.20

 先週は「証人になる」というテーマで学びました。福音宣教となると、福音の内容を伝えなければなりません。ということは福音の中身を知っていなければなりません。しかし、福音の中身を頭で知っていたとしても、いざ人に伝えるとなると勇気が必要です。「もしかしたら、拒絶されるんじゃないだろうか?」と恐れます。ですから、伝えるためには愛、情熱、聖霊の力が必要となります。イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音宣教はオプションではなく、どうしてもしなければならないことです。

1.福音とは何か

 私たちは人に福音を伝えるためには、自分が福音とは何か理解していなければなりません。福音とはgood news「良い知らせ」です。たとえて言うと、「良い知らせ」というパッケージに入った品物です。だれでも、「良い知らせ」だったら聞きたいと願うでしょう。あなたも、かつては良い知らせを聞いて、信じて救われたのですから、恐れる必要はありません。私たちにとって「良い知らせ」とは何でしょう?使徒パウロはこのように述べています。Ⅰコリント152「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。すごい。パウロはこの福音には人を救う力があると言っています。では、その福音とは何でしょう?Ⅰコリント153-4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」このことは、パウロがだれかから聞いて、そして自分がコリントの教会に伝えたということです。「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。なんとシンプルなのでしょう。あなたも言えるはずです。「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。このお方を信じるなら、救われます。」ローマ1013「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」と書いてあります。アーメン、ハレルヤです。

 でも、「救われる」というのが分かりません。一体、何から救われるのでしょうか?神さまはすべてのものを持っておられますが、人によって求め方が千差万別です。言い換えると、救われるテーマが違うのです。もちろん、クリスチャンになってから「救われる」ということが何なのか分かります。でも、はじめて福音を耳にする日本人は、「救われるって何?」と聞くでしょう。イエス様も人のニーズに答えています。ニコデモは誰からも尊敬される宗教的な人でした。でも、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国にはいることができない」と言われました。これは「新生」という救いの側面です。また、サマリヤの女性には、「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧きます」と言われました。彼女は「私が渇くことがないように、その水を私に下さい」と願いました。これは「永遠のいのち」という救いの側面です。またルカによる福音書では、いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして家出した弟息子のたとえ話をされました。イエス様は神から離れている人は失われた存在であると言っています。ここで分かるのは、救いとは神さまに見出され、神さまのものになるということです。でも、使徒パウロはユダヤ人が分かるような用語で説明しています。ローマ324「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは神さまから義と認められることが救いだと言っています。これは日本人には一番わかりません。ヨハネ福音書では「キリストを信じれば良い」と言われていましたが、その根拠がパウロの手紙に書かれています。それは、キリストが私たちの代わりに十字架について罪を贖われたということです。実は、罪という問題が分からないと、福音も分からないということになります。なぜなら、福音とは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」だからです。私たちが罪を赦され、神の前に義となるために、キリストが十字架で死ぬ必要があったということです。キリストの死は身代わりの死であり、私たちの罪を贖うためであったということです。最初から、このことを理解して信じる人は少ないのではないでしょうか?私もそうでした。洗礼を受けて半年くらいたってから、「十字架の悩みは、我が罪のためなり」と賛美して泣きました。でも、ここまでいかないと、救いの確信を持つことができません。十字架の贖いが分かるとキリスト様から、簡単に離れることができなくなります。「躓いても、倒れても、叩かれても、離れられない!」

 パウロは福音には力があると言いました。ローマ116「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ここに書かれている「力」はギリシヤ語でデュナミスであり、ダイナマイトの語源となったことばです。しかし、どうして福音が救いを得させる力なのでしょう?パウロは救いということをこのようにも述べています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」これは、生まれつきの人が盲目であり、暗闇の中で生きているということです。サタンに支配され、罪と死の奴隷であるということです。救われるために、霊的な目が開かれてキリストのことが分かってきます。パウロが言う救いとは、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。また、救いとは、罪の赦しを得、御国を受け継ぐ者になるということです。なんと、福音には人をそのようにさせる力があるのです。本人はキリストを信じるだけで良いのですが、神さまの方がいっぱいやってくれているというということです。これらのことは信じて救われてから分かることです。信じる前は「私は自由であった。そんなに悪いこともしていなかった」と思っています。ところが、信じた後、「ああ、私は暗闇の中にいた。ああ、罪に縛られていた」と分かるのです。福音は「良い知らせ」というパッケージに入っています。でも、中味はものすごく豊富で力強いものなんだということです。

2.福音を宣べ伝える

ローマ1014 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ここには、「福音を聞かないと信じることもできない。そのためにはだれかが福音を宣べ伝える必要がある」という前提があります。教会では「伝道」ということばをよく使います。聖書には「伝道」ということばはありません。「宣べ伝える」はギリシヤ語でケーリュッソーです。「告げ知らせる」「宣教する」「説教する」という意味もあります。「伝道する」は教会用語です。私は「伝道」と聞くと緊張して、嫌な気持ちになります。神学生の頃、伝道実習というのがあって、道行く人たちを集めて話しました。また、教会主事の頃は、特別な集会があるとチラシを3000枚くらい配りました。教会に集っている求道者に個人伝道するということが主でした。でも、伝道というのは、正直、嫌いです。去る6月、淀橋教会でトーチという集会がありました。トーチというのは次の世代にバトンを渡すということです。岸義紘先生がサックスを吹き、大川牧師がメッセージしました。その後、日本基督教団の若い牧師が日本基督教団風の説教をしました。それはともかく、大川牧師が「教会が成長しないのは伝道しないからだ」とおっしゃいました。グサッときました。「ああ、伝道していないなー」と思いました。久しぶりに緊張しました。私は「伝道」ということばが嫌いであって、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことだと思います。

では、なぜ「伝道」が良くないイメージなのでしょうか?伝道というのは、道を伝えるということです。別に悪くない感じがします。しかし、一昔前の伝道について聞いたことがあります。日曜日の夜は伝道集会を持っていました。集会の前に町に繰り出して、チラシを配ったり、集会の案内をします。その時、提灯を持ち、太鼓やラッパを吹きながら練り歩くのです。しかも、道路の辻に立って、救いの証をさせたれたりします。『塩狩峠』という映画では、路傍伝道している牧師に、「耶蘇教やめろ」と石が投げつけられていました。昔はそれでも人が集まったようです。しかし、伝道というのがそういうものだったら、恥ずかしくてできません。1999年に韓国の牧師と宇都宮に路傍伝道に行きました。本当に道路の辻に立って説教しました。「私は中日の落合選手と同じ高校出身で、同級生です」とか言ってはじめました。中学生の女の子が信じて、お祈りをしてあげました。人の家に入って、ご婦人の膝の癒しのためにも祈りました。5日間の旅でしたが、「もう、いいや」と思いました。あまりにもプレッシャーで、「自分には賜物がないなー」と思いました。宣教師の賜物の人はできますが、私は無理だと思いました。自分ができないのに、みなさんに「伝道しなさい」とは言えません。でも、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことであり、これは主の命令なので是が非でもしなければなりません。福音は宣べ伝えれば、宣べ伝えるほど、宣べ伝えたくなるからです。

 パウロはローマに行ってぜひ、福音を伝えたいと思っていました。なぜでしょう?ローマ114「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロは「返さなければならない負債を負っている」と思いました。借金です。借金だったら返さなければなりません。でも、それは「福音を伝えなければならない」という負債を負っていると言う意味です。命令とか律法ではありません。内側から湧き上がる、負い目であります。私たちはキリストによってすべての罪を赦された者です。イエス様が十字架ですべての負債を払ってくれたからです。でも、まだ負債を負っているとはどういう意味でしょうか?パウロはⅠコリント9章でも似たようなことを言っています。Ⅰコリント916「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしも、私には務めがゆだねられているのです。」パウロは、イエス様から直接、異邦人の宣教を負わされました。かつてはキリスト者を迫害した、いわばキリストの敵であります。パウロは勘違いしてやっていたことですが、的はずれの熱心からでした。おそらく、パウロはこんな者に、福音宣教をゆだねてくださった神さまに申し訳ないと思ったのかもしれません。信仰を持ち始めた頃、羽鳥明牧師の「私は福音を恥としない」というメッセージテープを聞いたことがあります。熊本県かどこかの集会だったと思います。「イエス・キリストは一国の大統領でもなく、総理大臣でもなく、熊本県知事でもなく、こんな私に福音をゆだねてくださったのです!」とメッセージしておりました。

 私たちは福音を人に語ると、その人は「信じるか、信じないか」「受け取るか、拒絶するか」どちらか選択に迫られます。「そんなの信じないよ」と言われたら、友達関係がなくなるかもしれません。親戚だったら、「もう来るな!」と言われるかもしれません。でも、福音を信じるならば、その人は救われ永遠のいのちをいただくことができます。もし、福音を信じないなら、その人は神によってさばかれ永遠の滅びに行くことになります。そんな大事な福音を委ねられているとしたら、「かたじけない」と言うしかありません。でも、そのとき聖霊が働いてくださることを忘れてはいけません。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。「あなたには罪がありますから、キリストの贖いが必要です」とはなかなか言えません。「馬鹿にするな!」と言われるでしょう。でも、聖霊がその人に働くなら、「ああ、私には罪がある。このままでは神さまの前に立つことができない。私はキリストが必要だ」と求めるでしょう。喉が渇いていない馬は、川の側に連れて行っても、水を飲まないそうです。聖霊によって飢え渇きを覚えている人がチャンスです。イエス様は「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから」(ルカ418とおっしゃいました。そうです。私たちは心の豊かな人にではなく、貧しい人に福音を伝えるべきなのです。

3.福音宣教の原動力

 「伝道しなければならない」と律法的に捉えると、口がこわばって、かえって語れなくなります。でも、私たちが伝えるのは「良い知らせ」です。この世の人たちは、「宗教はこわい。そんなうまい話なんかあるもんか?」と信じようとしません。私も救われた頃は一生懸命伝道しました。兄弟たちにも大川牧師の礼拝テープを送りました。郷里に帰って伝道しました。しかし、断られたり無視されるとだんだん辛くなります。「伝道」ということばが重くのしかかってきます。でも、福音説教と言い方を変えたら、気軽にできるのでしょうか?やっぱり勇気が必要です。私はこのすばらしい福音を宣べ伝えるためには、愛と聖霊からくる情熱が必要であると信じます。

 三浦綾子さんはが『道ありき』の「青春篇」に彼女がどのようにしてイエス様を信じたのか書いてあります。綾子さんは小学校の教師で、軍国主義の教えを子どもたちに熱心に教えました。ところが戦後、その教科書のほとんどが墨で塗られてしまい、愕然として教師を辞めました。綾子さんはその後、肺結核を患い、療養所に入りました。そこに、幼馴染の前川正さんも同じ病で入居しました。彼は北大の医学部の学生でとても美男子でした。彼は熱心なクリスチャンで、自暴自棄で暮らしていた綾子さんのことを気にかけました。「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」「どっちだってよくありません。綾ちゃんお願いだから、もっと真面目に生きてください」「正さん、またお説教なの?まじめっていったいどんなことなの?何のために真面目に生きなければならないの?戦争中、私は馬鹿みたいに大真面目に生きて来たわ。真面目に生きた結果はどうなったの?…」前川正さんはことばが出なくなり、はらはら泣いていました。綾子さんはそれを皮肉な目で眺めながら煙草に火をつけました。「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」そして、何を思ったのか、彼は傍にあった小石を拾い上げると、突然自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。さすがに驚いた綾子さんは、それを止めようと彼の手をしっかり握りしめました。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たか分かりませんよ。…けれども信仰のうすい僕には、あなたを救う力がないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」。このとき綾子さんは、「私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを私なりに求めたい」と思ったそうです。

 
やっぱり愛なんですね。福音に対して人の心が開くのは愛なのです。中国のような大陸の人は、その人がどんな人であろうと言っていることが真実であれば信じるそうです。しかし、日本人は、その人が信じるに値する人なのか、その人を見てから考えます。私たちの動機がさぐられます。「一人でも救って、教会を大きくしてやろう」ではダメです。私たちは神さまからくる愛、神さまからくる熱心が必要です。Ⅱコリント513,14口語訳「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」パウロは人から気が狂っていると言われるくらい熱心でした。でも、その理由は「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」と言っています。私たちは福音を伝えるべきか、あとにすべきか二の足を踏むときがよくあります。他のことは何でもしゃべることができますが、「キリスト」となると「キ、キ、キ」と出て来ません。でも、パウロのようにキリストの愛が私に強く迫っているとなると、押し出されて、語らずにはいられなくなるのです。エレミヤがこう述べています。エレミヤ209私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」もう、福音をしまっておくことができないのです。私たちもそのようになりたいと思います。


 福音宣教の原動力のもう1つは聖霊の力です。イエスさまがガリラヤの会堂で引用したイザヤ書61章です。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」と書いてあります。イエス様がヨハネのバプテスマから洗礼を受けました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」と書かれています。ということは、イエス様の宣教活動の力の源は、聖霊であったことが分かります。また、弟子たちにもこのように言われました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことが、ペンテコステに成就しました。天から激しい風のように、炎のように弟子たちの上に降りました。あの臆病だった弟子たちが一変し、迫害も死も恐れずに世界の果てまで福音を宣べ伝えに行きました。鍵は聖霊です。聖霊に満たされたら、福音を宣べ伝えずにはおれなくなるということです。私が一番感謝している人は、私に福音を伝えてくれた増田さんという人です。私は「神さまがいるなら見せてみせて下さい、そうしたら信じますよ」うそぶいていました。毎日、会社で福音を語られるのですから、お世話にもなっているので、聞かないわけにはいきません。1年半くらいたってからでしょうか?やっと一緒に座間キリスト教会の礼拝に出席ました。大川牧師のマシンガンのような説教を聞いて、引きつけられ、半年後に洗礼を受けました。でも、決心するときは大変でした。日曜日の午後、9時間も語られ、根負けして「じゃあ、信じるよ」と言いました。それだけ私はクリスチャンになりにくいタイプの人でした。増田さんは牧師にならないで、私が牧師になりました。彼は55歳のとき心筋梗塞で天に召されました。私が彼の代わりに、こうやって福音を語っています。どういう訳か亀有に来て、この教会だから救われたという方も大勢いらしゃいます。でも、最初は増田さんが根気よく、私に福音を伝えてくれたからです。その延長線上に、今があるのです。だから、私も負債を負っている一人です。みなさんもそうではないでしょうか?キリストの愛が私たちに強く迫っているので、いのちをもたらす福音を語らずにはおれません。

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2019年1月11日 (金)

証人となる 使徒1:8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.13

 証とは、自分がキリストとどう出会ったか、自分にとってキリストはどういう方かを身を持って語ることです。説教のように勧めたり、信仰告白に導く必要はありません。食べ物やサプリメントと同じでその人が良いと思えば、いただくでしょう。教会では「行いが伴っていない」とか、「証になっていないから」と断る人がたくさんいます。何も自分のすばらしいことを語るのではありません。こんなダメな自分を神さまがどれだけ愛しているか、そのことを語れば良いのです。

1.証の原点

 第一のポイントは、ペンテコステの前における「証」であります。つまり、証の原点について学びたいと思います。証とは見たこと聞いたことをだれかに告げるということです。裁判の席においては「証人」とも呼ばれ、大変重要な役割を果たします。なぜなら、この人の証言によって罪にもなるし、無罪にもなるからです。もし、偽証をたてるなら、あとでその人自身が裁かれるでしょう。十戒の9番目に、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」とありますが、元来は裁判と関係があります。そうであるなら、単なる嘘では済まされなくなります。もし、証の原点は自分が見たこと聞いたことをだれかに伝えることであるとするなら、そんなに重たい気持ちにはなりません。なぜなら、それを聞いた人が何か徳を得るかもしれないからです。

旧約聖書のⅡ列王記7章には、4人のらい病患者が出てきます。大飢饉にみまわれ、町には食べるものがありませんでした。この4人は「このままではどうせ死ぬのだから」と、冒険を犯しました。その時は、アラム軍がイスラエルを取り囲んでいました。4人のらい病患者は、食べ物を奪おうとアラムの陣営に潜り込みました。なんと、そこにはだれもいませんでした。なぜなら、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので「イスラエル軍が攻めてきた」と思って、持ち物を全部おいて逃げ去った後だったのです。4人は一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行きました。また、戻って来ては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行きました。彼らは互いに言いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(Ⅱ列王記7 9)。彼らは町に言って、「アラムの陣営にはだれもいませんよ」と告げました。イスラエルの人たちは、アラムの陣営に行って、衣類や武具、そして小麦をたくさんかすめ奪いました。それで飢饉から脱出できたのです。彼ら4人は「私たちのしていることは正しくない。だまっていたなら罰を受ける」と考えました。なぜなら、町には飢え死にそうな人たちがたくさんいたからです。このように証とは、良いことを独り占めしないでだれかにも知らせるということが含まれます。

 新約聖書のヨハネ4章にはサマリヤの女性が登場します。彼女はわけありの女性でした。なぜなら、夕方の涼しい時ではなく、だれもいない日中に水を汲みに来たからです。イエス様はそんな彼女に「水を飲ませてくれ」とお願いしました。彼女は「ユダヤ人が自分に声をかけるなんて」と驚きました。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人が霊的な混血だったので軽蔑していたからです。イエス様は井戸水ではなく、渇かない「生ける水」について話しました。彼女は「私にその水をください」と願いました。そうするとイエス様は思いもかけないことばを彼女に発しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言いました。彼女は「私には夫はありません。」と答えました。するとイエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と言い当てました。彼女はびっくりして「あなたは預言者だと思います」と答えました。その後、彼女は自分の水がめを置いて、サマリヤの町に出かけました。そこには彼女を嫌っている人たちが大勢いたことでそう。しかし、彼女はイエス様のことを告げずにはおられませんでした。ヨハネ429,30「『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」…ヨハネ4:39「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」ここで重要なのは、サマリヤの女性が自分が出会ったイエス様のことを伝えたことです。その時、彼女は「私のしたこと全部を私に言った人がいる」と告げました。彼女のしたことというのは、夫を5人も替え、今6人目と同棲していることです。自分の恥をさらしてまで伝えたかったのです。その後、サマリヤの人たちは直接、イエス様のところへ行って、イエス様のことばを聞いて信じました。でも、サマリヤの女性が証しなければ、彼らは救われなかったことは確かです。サマリヤの女性は自分の喜びを独り占めしないで、町の人たちにも知らせたかったのです。そのためには、自分の恥などどうでも良かったのです。

 私は19796月に洗礼を受けました。その当時、水曜日の夜と、金曜日の午前に祈祷会がありました。前半の30分くらいは証の時があり、兄弟姉妹が日常の出来事から、救いの証まで自由に分かち合っていました。佐伯兄弟というとても熱心な人がいました。彼が少年のとき、お母さんが鉄道自殺して、自分がこおり籠をもって、遺体を運んできたという証を聞きました。ものすごく強烈でした。またある息子がお父さんを殺そうと包丁で額に切り付け、クリスチャンの娘が教会にみんなを連れて来たという、これまた強烈な証でした。ある姉妹は洗濯機が壊れて、修理屋さんを呼んだという証をしました。見てもらうと「靴下がそこにひっかかって故障したんだ」と言うことでした。姉妹は「ああ、パンツでなくて良かった」言いました。もう、どうでも良いものから、過激な証までどんどん飛び出しました。でも、共通して言えることは、自分の恥や罪を隠さないで伝え、その代り、イエス様がどんなにすばらしいかを伝えていたことです。極端になると、自分がどんなにひどかったか、そちらに重点が置かれるものもありました。この世の中では決して聞かれない恥や罪の自慢です。でも、それだけイエス様がすばらしいということを伝えたかったのです。このように証とは自分が体験したことを率直に伝えるということです。

2.証人となる

 使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで言われている「証人」というギリシャ語は、「殉教者」という意味もあります。これは、「キリストがポンティオ・ピラトのもとで告白した血のあかし」(Ⅰテモテ613)と同じ意味です。つまり、「いのちがけの証」ということになります。毛沢東が文化大革命を起こしましたが、その時、多くの教会が迫害されました。大勢のクリスチャンが捕えられ、「キリストを否んだら助けてやる」と当局から迫られました。でも、否まなかったために、殉教した人がたくさんいます。私たちももし、そのような立場になったら「どうしよう?」と思います。実は、イエス様の弟子たちはイエス様が捕えられたときみんな逃げました。イエス様が復活したことを知ったにも関わらず、彼らは部屋の戸を閉じて隠れていました。イエス様が彼らの真ん中に入って来られ、「平安があるように」と言われました。さらに彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われたのです。おそらく、この時、11人の弟子たちに聖霊が内住の御霊としてお入りになったのだと思います。そのとき、彼らは霊的に生まれ変わりました。でも、それだけではまだ不十分でした。ルカ24章に書いてありますが「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と言われ、天に昇られました。彼らは共に集まり、祈って待っていました。五旬節の日、突然、激しい風のような響きが起こり、彼らの上に聖霊が降りました。イエス様が天に昇られた日から10日目のことでした。まさしく、聖霊が彼らの上に臨まれて、力を受けて、キリストの証人となりました。彼らはいのちがけで、世界の果てにまで出かけていきました。かつての臆病な弟子たちと同じ弟子たちとは思えません。

 ここで重要なのは、「わたしの証人となる」ということばです。「証人となりなさい」という命令ではありません。言い換えると、私たちの上に聖霊が臨むと自然に「キリストの証人」になるということです。しかし、キリスト教会は使徒12節を別の言葉で訳しています。「聖霊が臨むと地の果てまで伝道するようになる」と「伝道」にしています。次週「伝道」についてはお話ししますが、まずクリスチャンは「キリストの証人」になるべきだということです。言い換えると、伝道よりも、まずキリストの証人になることが基本だということです。では、「キリストの証人」とは何なのでしょう?最初に申し上げましたが、「証人」の動詞形が「証人である」「証言する」です。ヨハネ17「この人はあかしのために来た」とありますが、これはバプテスマのヨハネのことです。ヨハネは何をしたかと言うと、ヨハネ134「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」とあります。つまり、バプテスマのヨハネは、「天から御霊がくだって、その上にとどまるのを見たので、この方が神の子である」と証言したのです。証言とは自分が見たキリストに関することをそのまま言うということです。私たちのことで言うなら、自分にキリストが何をしてくれたのか、自分のことばで言うということです。これがキリストの証人になるということです。私たちは伝道と証を一緒に考えてしまうので、苦しくなります。伝道とはキリストが一体だれで、何をしたのかという「使信」を宣べ伝えることです。一方、証はキリストが自分に何をして、自分がどのように変えられたのか言えば良いのです。言い換えると、伝道は自分が体験していなくても語ることはできます。一方、証はキリストが自分に何をしてくれたのか体験がないと語れないということです。

 一番、容易なのは「イエス様を信じてどう変えられたか?」ということです。「イエス様を信じる前はこうで、イエス様を信じたあとどのように変えられたか?」です。自分の体験を語れば良いのです。私の場合は「人間は死んだら、全部おしまいだ」と思っていました。ところが、イエス様を信じたとき永遠のいのちが与えられたと実感しました。ということは、人生は無駄ではないということが分かったということです。私の家内はイエス様を信じて、罪が赦されたということでした。よっぽど罪深い人生を送っていたのでしょうか?そうではなく、十字架による罪の赦しは救いの基本形であり、このことが分かると信仰の道をはずれることはありません。他には、思いわずらいから解放された、先のことをくよくよ思わなくなったというのもあります。生きる意味とか目的が与えられたという哲学的なものもあります。劣等感から解放されたとか、病気が癒されたというのもあります。かなり前に、タンザニアのガジマ牧師のメッセージを聞いたことがあります。死んで四日目に生き返った女性のことを話していました。彼女は「出生証明書と死亡証明書の2つを持っているのは私だけだ」と言っていました。そういえば、ヨハネ福音書には、死んで4日目によみがえったラザロのことが記されています。聖書にはラザロが、何を言ったかひとことも書かれていません。彼はイエス様と共に食卓に着いている人々の中に混じっていただけです。しかし、ラザロがイエス様の生き証人でした。ヨハネ129「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。」ラザロは無言の証人であります。死んでよみがえったラザロの存在そのものに力がありました。私たちも「キリストによって変えられた私を見て下さい」と言うことができます。1980年のミス・アメリカの証を聞いたことがあります。彼女は10代の時、自動車事故に遭い、衝撃で、彼女はフロントガラスを突き抜けて背中を壊し、左足をつぶしました。彼女の顔には100本以上の縫い目が必要でした。医師は両親に、決して歩くことができないと話しました。彼女の左足は弱く、しかも右足よりも6センチ短かったのです。リハビリのため何年も費やしましたが、高校3年生のとき、癒しの集会に出て、骨盤が癒され、片足が6センチ伸びました。彼女は学校に行って、校門の前に立って「私は足が伸びたのよ」とみんなの前で証をしました。ミス・アメリカに選ばれた時も、その証をしました。彼女はやがて伝道者の妻になり、その当時、癒しを信じていなかった教会に向けて、「今も奇跡は起こる」と証言しました。このように、キリストを体験したなら、キリストのことを証言せずにはおれなくなるのです。

3.証の方法

 私たちがすべき基本的な証とは、「自分がどのようにキリストを信じて、救われたか」を誰かに話すことです。公の場合もあれば、きわめて個人的なときもあります。私たちは何から救われたのか、一人ひとりテーマが違うと思います。でも、「救い」には多くのものが含まれています。公の場合は自分のベストなテーマで構いません。でも、個人的に誰かに話す場合は、その人のニーズに合わせる必要があります。ベストなものじゃないけど、相手に合ったテーマを選ばなければなりません。大伝道者でも自分の救いからメッセーをする場合、2つ、多くて3つしか語れないと言われています。私も8人兄弟の7番目で生まれたとか、小学校5年生のとき切手を焼かれたとか、ボクシングでTKOで敗れたとか話しますが、みなさんはもう耳ダコではないかと思います。それでも、私は私のイエス様を自分の生涯を通して、証したいのです。聖歌232「罪とがをゆるされ」という賛美があります。日本語は「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」ですが、原曲はもっと感動的です。This is my story, this is my song, praising my savior all the day long.「これが私の物語です。これが私の歌です。日々末永く、私の救い主をほめたたえます。」となります。そうです。自分の証は物語です。物語は起承転結が基本ですので、自分の証も、そのように組み立てることが重要です。

使徒パウロがどのように救われたか、彼の証が使徒の働きには3回記されています。使徒9章はルカが客観的に書いたものです。そして、使徒22章と26章はパウロ自身が語ったものが収められています。開かなくても結構ですが、使徒26章からパウロの証の方法を学びと思います。第一は、パウロは自分が救われる前のことを話しています。パウロはパリサイ人であり、熱心に神に仕えていました。熱心さのゆえに「道の者たち」を迫害しました。私たちもどこの生まれで、どんな生き方をしてきたのか簡単に紹介する必要があります。でも、これまでの過去の人生を語ったなら3時間あっても足りないでしょう。前もって選んだテーマに必要なものだけをピックアップする必要があります。死の恐れとか、劣等感、人間関係の問題、悪習慣、生きる意味の模索などです。そして、できれば具体的なエピソードがあれば良いです。田原米子さんは、高校生の頃、生きる目的が分からなくなり、いろんな哲学書を読みあさりました。先生に聞いても、「よけいなことを考えないで勉強しろ」と言うだけです。それで彼女は線路に飛び込み、自殺を図りました。

第二はキリストとの出会いです。パウロはダマスコに行く途中、まばゆい光が天からさしました。パウロは地にたおれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きました。パウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは目が見えなくなり、アナニヤという人のところへ祈ってもらうために手を引かれて行きました。その時、パウロは「あなたは異邦人のところへ福音を宣べ伝えに行くのです」という使命も一緒に受けました。私たちはパウロほど劇的な出会いはないかもしれませんが、何らかのきっかけがあるはずです。だれかから紹介されたとか、ゴスペルのコンサートに誘われたとか、あるはずです。先ほどの米子さんの場合は、気が付いたら病院に寝かされていました。気づいたら、両足がなく、左手も有りませんでした。もう一度、死のうと睡眠薬をためました。そこへ宣教師と若い青年がお見舞いに来ました。そして、小さな聖書を置いていきました。彼女は「人の弱みにつけこんで、だから宗教は嫌いなんだ」と思いました。しかし、ある晩、「神さまがいるなら教えてください」と一言、祈って寝ました。次の日、思い切って聖書を開いて読みました。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という聖句が目に飛び込んできました。彼女はそれまで「五体満足でも生きていけなかったのに、こんな体になってしまって」と落胆していました。何とそのとき、「まだ右手に3本の指がある」と気が付きました。これが米子さんのキリストとの出会いです。

第三はそれから、どうなったかです。パウロは「天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレム、ユダヤ全地方、さらに異邦人にまで悔い改めて神に立ち返るように宣べ伝えて来ました」と言いました。パウロの場合は裁判にかけられていましたので、弁明の形になっています。結論はこうです。使徒2622,23「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」パウロの場合は、キリストの福音まで伝えていますので、証から伝道になっています。でも、パウロは「この日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです」と言いました。つまり、パウロが福音を宣べ伝えるときは、必要とあらば、自分のあかしを交えているということです。ある人たちは、「説教は神のことばであり、自分のことを話すべきではない」と言います。では、パウロはどうなんでしょうか?パウロは説教の中に、このように自分のあかしを入れています。米子さんはすでに天に召されました。でも、私は米子さんが、三本の指で、リンゴを剥いている姿を思い出すことができます。彼女は人生の意味をキリストに見出しました。本来なら、ハンディを負って、人のお世話になりながらひっそりと暮らす人生だったでしょう。でも、義足を履いて、日本全国を歩き回り、キリストにある新しい人生を証しました。自分が救われた証を人と比較する必要はありません。ミッションバラバの鈴木啓之先生はヤクザから救われました。博打と覚せい剤の人生でした。でも、育ちの良い人は「私はそんなに悪くないのでキリストは必要ない」と言うかもしれません。だから、そういう人は、育ちが良くて普通の証で救われるのです。世界中のどこかに、あなたの救いの物語を必要としている人が必ずいます。あなたの証は神さまの栄光のために必要なのです。This is my story, this is my song,「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」です。

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