2009年7月 5日 (日)

創立記念礼拝

本日は、中野雄一郎 師による創立記念礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2009年6月28日 (日)

知恵と啓示の御霊     エペソ1:15-19

 先月5月31日は、ペンテコステ礼拝でした。ペンテコステというのは、聖霊降臨日、聖霊がこの地上に降りてくださったことを記念する日であります。その大事な日を、飛ばしてしまったので、1ヶ月後の本日、お話させていただきます。人の誕生日や結婚記念日を一ヵ月後にお祝いするというのは、ほとんどありませんが、どうぞお赦しください。先週からエペソ人への手紙を学び始めたところですが、本日の箇所は大変、ペンテコステと関係があるところです。ですから、聖霊がこの地上に注がれた、使徒の働き2章以降のことと照らし合わせながら、お話したいと思います。エペソ1章15節以降は、使徒パウロのエペソの教会に対する祈りであります。「あなたがたが、こういう風になりますように」と祈っているのですが、これがまた大変興味深い内容です。普通でしたら「健康で経済的にも恵まれますように」と祈るところですが、そうではありません。使徒パウロは、もっと根本的なもののために祈っています。この祈りが叶えられたら、他のことはうまくいくということです。それでは、パウロの祈りから、3つのポイントで学びたいと思います。

1.キリストを知る啓示の御霊

エペソ1:17「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」。日本語の聖書には、「神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように」と書いてあります。しかし、原文には「彼を知る知恵と啓示の霊が与えられるように」となっています。ですから、リビングバイブルには「栄光の父が、キリスト様がどのようなお方か、また何をしてくださったかを、正しく、はっきりと理解させてくださいますように」と書いてあります。つまり、父なる神様の願いは、聖霊によって、キリスト様のことがよく分かるようにということであります。実際、イエス様がこの地上におられたとき、弟子たちにこのように予告しています。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」弟子たちは、3年半、イエス様と生活を共に過ごし、イエス様から直接、教えをいただきました。でも、その時はわからないことがたくさんありました。ところが、ペンテコステの日、真理の御霊である聖霊が臨んだとき、「ああ、イエス様がこんなことおっしゃっていた」「ああ、イエス様は聖書的にこういうお方だったんだ」「ああ、十字架と復活の意味はこうだったんだ」ということが分かったのです。

使徒の働き2章にそのことが書いてあります。マルコ・ヨハネの家の二階座敷に、120人の人たちが集まっていました。彼らはイエス様に命じられたとおり、そこで聖霊が降るのを待っていました。イエス様が召天して、10日後に、聖霊が降ってきました。おそらく、そのとき、一度にたくさんのことが分かったのではないかと思います。ペテロが旧約聖書を引用しながら、キリストの十字架と復活の意味を解き明かしています。弟子たちはイエス様が十字架で死なれたこと、そして3日目によみがえられたことを目撃しました。でも、その意味がわからなかったのです。「その意味がわからない」というのは変な感じがします。出来事としては見て、知っていたのですが、聖書との関連で分からなかったのです。つまり、「なぜ、イエス様が十字架にかかる必要があったのか?」「なぜ、父なる神がイエス様を死人の中からよみがえらされたのか?」「このことを信じる者はどうなるのか?」「私と何の関係があるんだろう?」こういうことが、知恵と啓示の御霊が臨んだとき、いっぺんに分かったということです。よく、漫画にもありますが、何かひらめいたとき、電球がピカッと光ります。あれと同じことであります。「ああ、そうか!このことは、あのことだったのか!This is that」。イエス様の出来事と聖書のことばが、繋がったということです。イエス様が前もって、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とおっしゃったとおりです。ペテロがそのような説教をしたのち、捕らえられ裁判にかけられました。そこで、ペテロは聖霊に満たされて大胆に弁明しました。そのとき、宗教的指導者たちは「彼らが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「無学な普通の人」とは、「律法を学んでいない素人」と言う意味です。聖書を専門に学んでいる人たちが、「どこからこんな深い知恵を得たんだ」と驚いたのであります。

2000年前、聖霊がこの地上に降られました。そして、イエス様を信じる人には、彼らと同じ「知恵と啓示の御霊」が与えられるのです。パウロはキリストを知る、知恵と啓示の御霊が与えられるようにと祈りました。でも、それをブロックするもの、妨げるものが、私たちの内にあるということも確かです。何が「知恵と啓示の御霊」を受けるのを邪魔するのでしょうか?それは、私たちの知恵、私たちの理性、私たちの考えであります。私たちはこれまで、自分が見て、聞いて、学んできた知恵や知識があります。全部ダメとは申しませんが、ある場合は、これが大きな妨げになるのです。Ⅰコリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」私たちがイエス様を信じて、新生すると、霊的なことがある程度わかってきます。でも、私たちの魂はそう簡単に神の知恵に屈服しません。アダムとエバが善悪を知る知識の木から実を取って食べたらどうなったでしょう。「ふたりの目が開かれた」と書いてあります。それまで、二人は自分たちの霊によって、霊なる神様と交わって生きてきました。でも、その実を食べてから、霊が死に、逆に魂が異常に発達しました。そのことによって、人は、神様に聞こうとしないで、自分で考え、自分で意志して生きるようになったのです。ですから、私たちはクリスチャンになってから、自分を空しくして、「主よ、あなたの知恵をください。あなたが教えてください」と意識して求める必要があります。そうしますと、聖霊様が、神からの深い知恵と啓示を与えてくださるのです。

イエス様は福音書でこのように語っておられます。マタイ11:25「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」どうぞ、幼子のようになって、神様がくださる知恵を求めてください。主は人々の目に隠されていたことがらを、ぱっと、開いて明らかにしてくださいます。私は毎週、このように聖書からメッセージを取り次がかせていただいていますが、これはみんな聖霊の助けによるものです。私が、その次の週の聖書箇所を開いたとたん、何と思うでしょうか?「え?ここから何を語るの?」と言うときが、2回に1回はあります。最初の頃は、いろんな注解書を見て、それらを参考にしながら説教を組み立てました。だんだん、頭がいたくなるし、恐れもやってきて、まったく自信のないものになりました。しかし、あるときから、聖書だけを読み、ただ、そこに書いてあることを汲み取ろうとしました。そのあと、目をつぶって瞑想すると、このこと、あのことと聖霊様が語るべき内容を教えてくださいます。そのあと、目を開いて、忘れないうちに与えられたメッセージを紙に書きとめます。最後に、肉付けしていくと完成です。そのとき、参考になる本や人のメッセージを借用しても全く問題ではありません。なぜなら、中心的なメッセージは神様からいただいたという確信があるからです。そのようにしてから、メッセージの準備がとても楽になりました。しかし、これは牧師だけのものではありません。みなさんも、聖書を開いて、聖霊様にお聞きするならば、真理の御霊があなたに教えてくれます。また、日常、いろんな問題が起こるでしょう。様々な問題を神様のところに、状況を報告しつつ差し出します。ある時、ぱっと、解決がやってきます。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

2.将来を知らせる預言の御霊

 エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」。リビングバイブルは、「神様が、あなたがたを召して与えようとされる将来を、はっきりと理解させてくださいますように」と訳しています。神様が与えようとされている、「聖徒の受け継ぐもの」とは一体何でしょうか?ペテロはペンテコステの日、このように旧訳聖書を引用しながらメッセージしました。使徒2:16-18「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」旧訳聖書の時代は、預言をする人と言えば、預言者とか一部の人たちでした。一般の人たちは、預言者を通して語られる神のことばを聞くしかありませんでした。しかし、終わりの時代はどうでしょうか?「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言する」と書いてあります。終わりの日とはいつでしょう?終わりの日はいつから始まったのでしょう?それは、ペンテコステの日、ペテロたちが聖霊に満たされて、預言したときからであります。二階座敷にいた、120人の人たち一人ひとりに聖霊が留まりました。おそらく、そのとき、すべての人たちが、一斉に預言や異言を語りだしたと思われます。ペテロはそのことが旧約のヨエルが預言したことの成就であると解釈したのです。つまり、特定の預言者だけではなく、息子や娘、普通の人も、預言をするということです。使徒の働きをみますと、ペンテコステの日だけではなく、聖霊が行くところ、どこにでもそういう現象が起こりました。コルネリオ、エペソの人たち、コリント教会の人たちにも起こりました。パウロはコリントの教会に、「愛を求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じました。ところがどうでしょう?福音派の多くの教会は、「新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」と言いました。消えたというよりも、消してしまったと言った方が良いでしょう。使徒パウロは「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19,20)と注意しています。

 では、預言の賜物というのはそれほど重要なのでしょうか?まず、それは賜物なので、信仰の年数とか、聖書をどのくらい学んだかということにはよらないということです。まさしく、「あなたがたの息子や娘は預言し」であります。ですから、主の霊に導かれるように、語るならば、それは大変役に立つということです。実際、シンガポールやインドネシアの教会では、セルの中で、預言を語ることができます。もちろん、そこには吟味とか、調整があります。でも、そこに聖霊様が臨在して、すばらしいことが起こります。預言を受けた人は、「ああ、神様は私のことをご存知である。私がしてきたことは無駄ではなかった。私が取り組んできたことは正しかったんだ」という励ましをいただきます。大体、預言というと、「裁かれるんじゃないだろうか?」と警戒しがちですが、ほとんどの場合は励ましの預言です。急に、預言者がやって来て「この教会の牧師には罪がある」と言うのは、偽預言者です。そうではありません。多くの場合は励ましですが、あるときは将来を見通す預言もあります。しかし、聖書をさっぱり読まないで、預言だけを安直に求めるというのは問題です。最近、預言喫茶なるものがあり、人々が占いを求めるようなつもりで、集まっているということです。ま、占いを求めるよりは良いと思いますが、まず自分で、聖書を読み、神様に求めるというのが第一にすべきことです。神様はすでにあなたに語っておられます。多くの場合、預言とはそれを確認するためのものです。ですから、順番を間違えないでください。そうすれば、預言は正しく用いられます。

 私は「神様はこう言われます」と度々、神様を引き合いに出すのは、賛成しません。神様が本当に言われないのに、勝手に「神様はこう言われます」と言ったらどうなるでしょうか?神様が言われたのだったら、絶対ですから、その預言は人を縛ることになります。ですから、どうしても言いたいなら、「神様はこのように言っていると思います」くらいが良いと思います。今の時代も預言はあります。でも、聖書と同じくらいのレベルまで引き上げるのは問題です。かといって、全く、ないというのも問題です。ある人は、旧約の預言者の預言は100%正しいが、現代の聖霊による預言は、20から80%の確立であろうということです。ですから、語る人も、受ける人も、それくらいの幅をもって参与する必要があります。一番無難なのは、祈りながら、預言の賜物を用いるということです。私はその人のために祈るとき、聖霊様に聞きながらお祈りします。おそらく、そのとき、聖霊様が預言を与えているのではないかと思います。みなさんの中にも、聖霊がいらっしゃるのですから、自分の子どもや兄弟姉妹のために祈るとき、そのように祈ったら良いと思います。

3.力を与える神の御霊

エペソ1:19「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」神様は、御自身の全能の力を、私たちクリスチャンにどのようにお与えになるのでしょうか?それは、神の御霊である、聖霊を通してであります。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と書いてあります。ペンテコステの日、聖霊を受けた使徒たちはどうしたでしょうか?使徒の働き3章にありますが、うまれつき足なえの人がいやされました。ペテロは、「自分の力や信仰深さによって彼を歩かせたのではない」と言いました。そうではなく「イエスの御名を信じる信仰のゆえである」と言いました。さらに、使徒の働きを読んでいくと、使徒ではなく、一般の信徒にもそれができたと書いてあります。使徒8章を見ますと、ピリポがサマリヤに伝道に行きました。彼はやもめの世話をするように執事として選ばれた人です。でも、彼はユダヤ人と交流のないサマリヤに下って、人々にキリストを宣べ伝えました。それと同時に、ピリポは悪霊を追い出し、中風の者や足なえ、様々な病気を治しました。おそらく、使徒たちが命じたのではなく、聖霊に導かれて、勝手に行なったのではないかと思います。使徒たちは昔の教えに縛られ、エルサレムに留まっていました。しかし、ピリポは自由な心で、聖霊に従ったのであります。教会は「聖霊に導かれたら、ある程度自由なことができる」こういう雰囲気が大切なのであります。何でもかんでも、牧師や役員会に相談し、承諾を得ないとできない。それはおかしいと思います。でも、後でも良いですから、ある程度の報告はいただきたいと思います。「ある程度」というのがとてもファジーで良いと思います。

聖霊の賜物は牧師だけが持っているものではありません。「しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とありますから、イエス様を信じている人にだったら、だれにも可能です。でも、1つだけ申し上げたいことがあります。これは、啓示でも、預言でも、この力の賜物でも同じことです。それは、聖霊によってぱっと、開かれる必要があるということです。イエス様を信じている人であれば、だれ一人もれなく、聖霊が与えられています。でも、半数以上の人たちは、聖霊があふれ出していません。霊的に眠っているか、堅い魂の中に閉じ込められています。使徒の働きに出てくる人たちは、聖霊を受けるのと、聖霊がばっと溢れたのが同時に起こったのではないかと思います。私はペンテコステ教会が言う「聖霊を受けるイコール、聖霊のバプテスマ」という考えは反対です。私はイエス様を信じている人であればだれでも聖霊は受けている、内にいらっしゃるという考えです。でも、だれもがみな聖霊に満たされ、聖霊に溢れているかというとそうではありません。では、「鈴木牧師は常に聖霊に満たされ、聖霊に溢れているのですか?」と聞かれたら、「ノー」です。でも、こういうことは言えます。私はあるときに、聖霊が魂の中から、あふれ出る経験をしました。それは、水道のように、蛇口を開けたら、ばっと出て来るようなイメージです。それは、私が断食して、1時間祈ったら、そうなるということではありません。備えなくても、一瞬、願うだけで出て来ると信じます。もちろん、十分に祈って対処しなければならない大な問題もあります。でも、そんなに力まなくても、願うなら、聖霊は魂から溢れてきて、御自身の働きをなしてくださると信じます。ですから、一番、大切なのは、そのきっかけであります。自分の中から、聖霊が賜物と一緒に溢れ出る、そういう経験が必要であります。そういうことを何度か体験していくと、「ああ、こんな感じで聖霊様は働いていらっしゃるのかな?」と分かるようになります。これは理屈でわかるというものではなく、場数だと思います。

私たちは多くの場合、この目で見、この耳で聞き、この手で触ります。でも、聖霊のくださる賜物は、目で見えないものを見、耳で聞こえないものを聞き、手で触れないものを触ります。それらは信仰の目、信仰の耳、信仰の手と言って良いかも知れません。この世では馬鹿げているかもしれませんが、イエス様も初代教会の人たちもそれを当たり前のように用いたのではないでしょうか?現代はそういう聖霊の賜物は不要でしょうか?医療が発達しても、精神的にも肉体的も病んでいる人がたくさんいます。科学が発達しても、明日のことが分からないために、不安と恐れの中に閉じ込められています。医療や科学は否定しません。それも、神様が与えてくださった恵みです。でも、神様は聖霊による賜物も与えておられます。教会が、この賜物を用いるならば牧師や一部の人たちだけではなく、もっと多くの人が用いられるのではないでしょうか?ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

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2009年6月21日 (日)

礼拝を捧げる理由      エペソ1:1-14

 本日からエペソ人への手紙からしばらく学びたいと思います。きょうは一気に14節までお話し、来週は聖霊に関するメッセージをお届けいたします。なぜなら、先月、ペンテコステであったのに、うっかり飛ばしてしまったからです。本日、読んだ箇所はとても長かったですが、大きく3つに分けることができます。3節から6節までは、「神様が私たちを選んでくださった。それは、栄光がほめたたえるためです」ということです。7節から12節までは、「キリストがその血によって贖ってくださった。それは、神の栄光がほめたたえられるためです」。13節から14節は「私たちが福音を信じたときに、聖霊の証印が押された。これは、神の栄光がほめたたえられるためです」。つまり、ここには、三位一体の神に対する、3つの頌栄が記されています。頌栄とは神を褒め称える、礼拝するということです。私たちが救われたのは、神の栄光がほめたたえられるためだということです。

1.神の選び

 エペソ1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。ここには、私たちの思いを超える、神様の遠大な計画が記されています。どうでしょう?神様は、世界が創造される前から、私たちを選んでおられたということが信じられるでしょうか。5節には「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちを自分の子どもにしようと予定しておられたということです。しかも、この世界が造られる前からです。この世界が造られる前ですから、果たして、どれくらい前なのでしょうか?でも、ここに1つのミソがあります。「彼にあって選び」あるいは「イエス・キリストによって定めた」と書いてあります。彼、イエス・キリストの中に、私たちが組み入れられることによって、永遠という時間を超えられるということです。父なる神様はキリストを通して、私たちを選ばれたということです。つまり、神様の選びを機械的に捉えてはいけないということです。宗教改革者カルヴァンとその弟子たちは、「神の予定」ということを強調しました。やがて、「救いに選ばれている人と、遺棄されている人とがあらかじめ予定されている」とまで言いました。これを二重予定説というのですが、行き過ぎだと思います。私はこのように信じています。神様はキリストにあってどなたでも救われているように召しておられます。すべての人をキリストにあって選ぼうとされているのです。でも、神様はどの人が信じるのか、どの人が信じないのか知っておられます。矛盾しているようですが、神様はある人に憐れみをかけ、救いを与えようとされていることも確かです。

 私たちが数ある神様の中から聖書の神様を選び、私がキリストを信じたということであればどうでしょうか?確かに、私たちは自分の意志で「キリストを信じます」と決断して救われました。しかし、何年かたつと、「いやそうじゃない。私は選ばれていたんだ。キリストを信じる前から、導かれていたんだ」と分かってきます。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」このみことばは、弟子たちに語られたことばですが、私たちにも当てはまります。もし、「私がキリストを選んだんだ。そのことによって、私は救われたんだ」と、ずっと思っていたらどうでしょうか?つまり、自分が信じたことによって、救いが得られているということです。でも、自分の信仰がこの先、ずっと続くでしょうか?ひょっとしたら、「神様がわからなくなった。キリストも信じられない」ということになったらどうでしょうか?そうなったら、救いもなくなってしまうかもしれません。なぜなら、救いが自分の信仰にかかっているからです。でも、そうではなく、「確かに私はイエス様を信じた。その信仰さえも神様がくださったんだ。私が選んだのではなく、イエス様が私を選んでくださったんだ」。そうするとどうでしょうか?たとい、私の信仰がおかしくなり、キリストを手放したとしても大丈夫です。なぜなら、キリストの信仰が私を捕まえているからです。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書いてあります。真実と言うことばは、ギリシャ語ではピストスで、「忠実、信用できる、信じてよい」という意味です。また、英語ではfaithful であり、真実だけではなく、信仰に満ちたというふうにもとれます。つまり、私たちがイエス様を信じているということだけではなく、イエス様の信仰が私たちを捕まえていることでもあるのです。だから、私たちがうっかりイエス様の手を離すことがあっても、イエス様は私たちを離さないということなんです。

神様が自分を選んだということを神の人たちは信じていました。主はエレミヤに対して、このように言われました。エレミヤ1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」神様はエレミヤが生まれる前から、預言者になるように定めていたということです。使徒パウロも同じようなことを言っています。ガラテヤ1:15「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が…」。ある人たちは、自分が生まれたのは偶然だと思っています。でもそうではありません。あなたが生まれる前から選んでおられた神様が、あなたがこの地上に生まれるときに参与されていたのです。詩篇139篇にどう書いてあるでしょうか?139:13「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」15-16「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」アーメン。先週は、エリヤハウスの学びのために、札幌に行ってまいりました。胎児がお母さんの気持ちを汲み取っているということを学びました。ある人は、自分がおなかの中にいたとき、お母さんはとても混乱し、しばしば怒っていました。そして、私は「このお母さんから見捨てられたら生きて行けない」と思ったそうです。その気持ちは、おなかの中にいたときからあったそうです。講師のマークサンフォードの奥さんは、お母さんが生まれたときから自分を虐待し、おしめも換えてくれなかったそうです。しかも、お母さんは「お前は馬鹿だ」とか「汚い」とか言って、頭をたたいた。そのため、彼女は境界性人格障害と拒食症で長い間、苦しんだそうです。ある姉妹のお母さんは統合失調症で、気持ちが不安定でコロコロ変わる。その子は幼稚園のときから、お母さんの病院通いに付いて行ったそうです。でも、分かったことは、姉妹はおなかの中にいたときから、「私はこのお母さんを守ってあげなければならない」と思ったそうです。このように、胎児、もしくは幼いときから虐待されたり、無視された子どもの霊はとても傷つきます。ある場合は、眠りに陥って、何も感じないというふうになるそうです。でも、聖書にすばらしいみことばがあります。

イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」普通の、お母さんは自分の乳飲み子を忘れたりすることはありません。しかし、中には忘れる人もいるのです。でも、たといお母さんが見捨てたとしても、神様は、「手の平にあなたを刻んだあなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」イスラエルの人たちは、年に一度、都のぼりをします。そこに行った人たちは、その感激を忘れないように手の平に神殿の城壁を書くそうです。記念とするためです。それと同じように、神様はあなたを手の平に刻むということです。なぜでしょう?神様があなたを永遠の昔から選び、神様があなたを母の胎の中で組み立てられたからです。なんという慰め、なんという喜びでしょうか?私たちは神様の選びを知ることができたならどうなるのでしょうか?エペソ1:6 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」そうです。私たちを造り、私たちを選んでくださった神様をほめたたえるのです。私たちがまことの神様を知り、神様を礼拝するものになった。これは私たちが救われた目的の1つであります。

2.キリストの贖い

 エペソ1:7「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」第二番目に私たちが神様をほめたたえる理由は、キリストが私たちを贖ってくださったからです。イエス・キリストは2000年前、私たちが贖われるために、御自身の血を流してくださいました。それは私たちの努力を超える、神様の豊かな恵みです。このところに、血と贖いと罪の赦しという3つのことばが出ています。これらの3つはとても深い関係があります。「ゆるし」という漢字は2種類あります。一般的な許しは、許可の「許」であります。これはあまり重要なことではありません。もう1つの「赦し」は、恩赦とか特赦というときに使われます。つまり、「罪あやまちを赦す」ということです。でも、この罪が赦されるためには、それに伴う、代償、代価が必要になります。ただでは赦されないということです。レビ記5章には、「自分が犯した罪のために、償いとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて、罪のためのいけにえとしなさい」とあります。罪を犯した本人が動物を連れてきます。そして、私と一体であるという意味で、動物の頭に手を置きます。それから祭司に渡しますが、祭司は動物の首を切り、その血を祭壇に注ぎます。そのとき、はじめてその人の罪が赦されます。なぜ、血を流さなければならないのでしょう。レビ記17:11「いのちとして贖いをするのは血である」と書いてあります。つまり、罪はただではゆるされない、命で贖われなければならないのです。そのため、きよい動物を身代わりにささげ、その動物が流した血によって初めて贖われるということです。新約の時代は、イエス・キリストが完全な贖いの供えものとなられました。御子イエス様が神の小羊として、十字架にかかり、血を流してくださいました。イエス様の流された血によって、全人類の罪が贖われたのです。イエス様は一回で永遠の贖いを成し遂げられました。だけど、どのままでは救われません。「イエス様が私のために十字架で死んでくださり、私のために血を流してくださったことを信じます。キリストの贖いをいただきます」と願わなければなりません。救いは、行ないとか努力ではなく、信仰であります。あなたが、キリストがなされた贖いを受け取るならば、罪赦され救われるのです。

 「神様が私たちを創造してくださったことはわかりました。でも、どうして、キリストの贖いが必要なのでしょうか?」と聞く人がいらっしゃいます。私たちはアダム以来、神様を離れ、自分勝手な道を歩みました。自分がだれかも分からず、罪と汚れの中で、あえぎながら生きてきました。キリストはそのような私たちを買い戻すために、尊い命を投げ出してくださったのです。ある人は、自分には価値がないと劣等感の中に生きている人がいます。また、ある人は神様からいただいた大切な命を自ら絶とうとしています。自分の人生を呪い、父母を呪っています。しかし、私たち一人ひとりには価値があります。なぜなら、神のかたちに似せて造られた尊い存在だからです。イエス様がなぜ死なれたのか?それは私たちの本当の価値を取り戻すためです。では、一体、どれほど、自分には価値があるのでしょうか?あなたは、イエス・キリストの命と同じくらい価値があるのです。なぜなら、イエス様はあなたを罪から買い取るために、ご自分の命を投げ出してくださったからです。私たちはデパートに買い物に行ったとき、価値あるものだったら高いお金を出します。宝石売り場に行くと、桁を数えなければならないほど高価なものがあります。一、十、百、千、万、十万、百万…「えー?1,200万円?高けー。こんなのだれが買うんだ!」とか言ったりします。しかし、ある人は買うんです。なぜでしょう?それだけの価値があると思っているからです。あなたにはどれだけの価値があるのでしょうか?イエス・キリストの命と同じだけの価値があるのです。ある人が言いました。「イエス様はこの世にあなた一人しかいなくても、十字架にかかって命を捨てたでしょう」と。どうぞ、自分を安く見積もらないでください。「私はキリストによって贖われた、神の息子、神の娘です」と、誇って良いのです。

 ある人たちは、「罪を簡単に赦されたのなら、また罪を犯すのでは?」と言います。キリストの贖いというのは、罪の赦しだけではありません。あなたが神様のかたちに似せて造られた、しかもあなた固有の姿に造られた、もとのかたちを回復するためです。つまり、私たちはキリストによって贖われることによって、自分は何者なんだとうことを知るのです。もし、「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、わざと罪を犯さなくなります。もし、私たちが神の息子であり、神の娘であることを心から信じたなら、そのように振舞います。もし、私たちが罪赦されただけではなく、義と認められ、聖徒として見られていることを心から信じたなら、正しい行いが当たり前になります。もし、私たちが神様が自分に与えてくださった賜物と使命を発見したならば、「あれしなさい、これしなさい」と言われなくても、自ら進んでやるようになります。つまり、贖いというのは全人格的なものまで及ぶということです。イエス様はよく病の癒しをしましたが、そのとき、be wholeと言われました。Wholeとは「全体、すべての、完全な、無傷な」という意味です。ケーキをまるごというとき、ホール・ケーキと言います。しかし、これが癒しに用いられるとき、「肉体、精神、社会生活、すべてにおいて欠けたところのないものとなるように」という意味です。イエス様の贖いの中には、そのような完全な癒しも含まれているということです。私たちはキリストによって罪の贖い、自分のアイディンテティの回復、全体的な癒しを体験するときにどうなるのでしょうか? 1:12 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」。神様を礼拝するようになるのです。私たちクリスチャンは毎週、キリスト様によって贖われたことを感謝するために、このように集まっているのです。

3.聖霊の証印

 エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。ここには、私たちが今、救われているということを示している2つのことばが記されています。第一は「証印」です。これは、法律用語であって、「それが正しいと立証されたことのしるし」であります。私たちのまわりには、様々な証印があります。工業製品、食料加工品、お薬など、「これは検査済みで大丈夫なものですよ」という何らかの証印がおされています。私たちはその標記を見て、「ああ、大丈夫、安心できるものなんだ」と客観的に納得するわけです。では、救いの証印、御国の証印とはどのようなものでしょうか?本当に救いがあり、本当に天国というのがあるのだろうか?客観的な、明確な、実感できる神様からの保証が必要であります。どうでしょう?クリスチャンの方々にお聞きします。あなたは救われていることがどうして分かりますか?天国に入ることができるとどのようにして分かるでしょうか?中には、洗礼を受けたにも関わらず、長い間、教会に通っているにも関わらず、「正直言って、自分は天国に行けるかどうか分からない」という人がいます。そういう人は、神様から聖霊の証印を押してもらう必要があります。聖霊があなたに確信を与えてくださいます。聖霊の確信は、「かーく、しーん」であって、ただの確信ではありません。知的な確信ではなく、魂の中から来る確信です。聖霊が与える確信は、私たちの内側に満足を与えます。幼稚園のこどもに「○○ちゃんは生きている」と聞きます。すると、「生きているよ!」と答えます。「どうしてそれが分かるの?」と聞きます。すると「ほら、生きているよ」と答えます。クリスチャンも同じです。「あなたは救われていますか?」と聞くと、「うん、救われているよ」と言えるのです。ローマ8:16「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」聖霊の証印をいただいてください。

第二番目の用語は、「保証」です。保証はギリシャ語では「アラボーン」と言って、これは商業用語です。アラボーンは、売買の際に契約履行の保証として前もって金品を渡す、手付金のことです。その手付金を払った者は、時いたれば残りのすべてを明け渡します。たとえば、私たちが不動産を買うとき、5%から10%を払って契約を結びます。向こうが違反した場合は、違約金として倍返しを、こちらが違反した場合は、解約金として失います。このことを神様と私たちの間に置き換えて考えたいと思います。神様が御国を私たちに売ろうとしています。そのとき、私たちはキリストの贖いを信じるということが必要です。御国がまだ完成していないので、神様は手付金を私たちに払います。手付金とは聖霊のことです。では、手付金である聖霊は私たちにどのようなことをしてくださるのでしょうか?聖霊は、私たちが御国に入るまで、御国の一部を与えてくださいます。御国の豊かさ、御国の喜び、御国の力、御国の愛、御国の能力、御国の知恵、御国の健康…これらすべてはあなたの中に住んでおられる聖霊がくださるものです。あなた地上において、手付金として与えられた聖霊の恵みを用いるべきであります。そうするならば、あなたは御国に入るまで、聖霊の助けによって勝利しながら歩んでいけるのです。ヨハネ14章でイエス様は、このようにお約束されましたとおりです。ヨハネ14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

昔、王様は、手紙に封印するときに、ロウをたらしました。その直後に、指輪に刻まれている、印章をポンと押します。そうすると、どうなるでしょうか?持ち主のところに着く前にだれかがその手紙を勝手に開けたら、その人は死刑になります。なぜなら、その手紙には王様の証印が押されているからです。これを救いということで解釈するとどうなるでしょうか?クリスチャンは聖霊の証印が押されています。そうすると、そのクリスチャンを聖霊様が、天国にちゃんと行くまで、守ってくださるということです。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

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2009年6月14日 (日)

私の神は         ピリピ4:14-23

 先週から関東地方が梅雨入りしたようです。梅雨というのは本当に「ゆうつ」であります。洗濯物は乾かないし、散歩にも行けません。先週、傘をさして散歩に行ったとき、修徳高校の生垣のコンクリートの壁を何の気なしに見ました。なんと、小さなかたつむりがいっぱい、いました。たぶん、彼らはコンクリートの中にあるカルシウムを食べているんじゃないかと思います。そのカルシウムが彼らの殻に必要だということを聞いたことがあります。コンクリートが雨に濡れると、カルシウムが染み出してくるのでしょうか?ところで、本日で「ピリピ人への手紙」は、終わりです。来週からは、「エペソ人への手紙」から学びたいと思います。パウロの書簡というのは、教えの塊みたいで、ミルクというよりは肉、堅い食物であります。コンクリートじゃありませんが、私たちは固い食物が必要なんであります。それでは、4章後半から2つのポイントで学びたいと思います。

1.霊的果実

 ピリピ4:14-18まで、日本語の聖書では「物」という漢字が、6回ほど出てきます。実際には、物というのは献金であり、他に衣類や穀物も含まれていたかもしれません。ピリピの教会はパウロの伝道を初期の頃からずっと、支えていました。Ⅱコリント8章には、「マケドニヤの諸教会は、極度の貧しさにもかかわらず…自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげた」と称賛しています。そのことは、パウロが新しい地に出かけて伝道しているとき、どんなに助けになったことでしょう。そして、今現在、パウロはローマの牢獄に繋がれています。その知らせを聞いて、ピリピの教会はエパフロデトを遣わしました。彼はパウロに贈り物をとどけた後、死ぬほどの病気にかかりました。パウロはピリピの教会の人たちのささげものが、「霊的祝福なのです」と言っています。霊的祝福というのは、原文では果実となっています。果実とは実であります。ピリピの教会の人たちに、神様の愛と信仰が与えられ、それが今度は具体的な実となって現れたのであります。実というのは、プロデュース、おのずと生み出されてくるものであります。献金とかささげものは、神様の愛と信仰から生み出されるものなのです。逆に言いますと、神様の愛と信仰がまだ育っていない場合は、献金とかささげものは、苦痛なのであります。ですから、そういう人は、神様から十分、受けることを学んでください。神様の豊かさを体験すると、今度は、与えること、ささげることができるようになるからです。

 では、パウロはどんな必要があったのでしょうか?パウロは使徒でした。使徒というのは、新しい地にでかけ、そこで福音を宣べ伝え、教会を設立します。教会と言っても建物ではなく、信仰者の群であります。しばらく、そこで滞在しながら、核となる人たちを育てます。その後、彼らに牧会を任せて、また新しい地に行くわけです。しかし、パウロには同労者たちがいました。シラス、テモテ、ルカ、テトスなど、彼らをも養わなければなりせん。移動するためには、船賃を含め、旅費も必要であります。ピリピのようにパウロたちを支えてくれる教会もありますが、コリントのようにパウロの使徒性を疑って、あまり支えない教会もあったでしょう。パウロはお金のために伝道してはいませんでしたが、宣教地に出かけ、教会を設立するために、お金が必要だったことは確かです。そういう意味で、神様の働きを拡大しようと思ったならば、どうしても資金が必要になります。それだったら、「神様、あなたご自身が出せば良いでしょう!」と言いたくなります。でも、どういう訳か、神様は贖われた人たちがささげる献金によって、神様の働きを進めるようにというのがみこころのようであります。イエス様もそうでしたし、ペテロやパウロ、他の弟子たちもそのようにしました。では、どうして、人々は神様の働きのためにささげるようになったのでしょうか?それは、霊のものを得たからです。霊のものというのは、福音によって罪の赦し、永遠の命、そして永遠の御国をいただいたということです。また、肉体や心が癒され、また、希望と信仰が与えられ、元気に働くことができるようになるでしょう。また、愛と平和がこころにやってきて、家庭や人間関係が祝福されるでしょう。人は霊のものを受けると、そこから生まれた肉のもの、物質を与えるようになるのです。コンピューターで言うなら、霊のものはソフトウェアーで、肉のものというのはハードウェアーであります。でも、神様は、ご自分の働きのために、信仰をもってささげた人を放ってはおかないのです。ちゃんと、それ以上の祝福を与えて報いてくださいます。これが、神様の方法なのであります。

 先週は、十分の一献金の大切さについてお話しました。神様に十分の一献金をささげるならば、神様が責任をもってみなさんの生活を祝福してくださいます。また、ささげた本人は金銭の奴隷となることなく、金銭を正しく管理することができるんだということです。しかし、献金にはもう1種類の献金があります。ピリピの人たちは、使徒パウロの働きが支えられるように献金しました。それは、十分の一献金とは別のものであります。みなさんがこういう集会でささげる献金、あるいは感謝献金、宣教団体、会堂建築、最近は車のための献金もありました。これはみな、神の国に対する投資であります。みなさんは、「御国の働きが拡大されるように」と信仰をもって投資しているのです。たとえて言うならば、このようになります。神様に十分の一献金をささげることによって、みなさんの畑の周りに、囲いが設けられました。これで悪い者が、入ってあなたの畑を荒らすことはありません。しかし、その畑に種を蒔くならばどうでしょうか?つまり、御国の働きのために投資するのです。すると、その実は何倍も帰ってきます。農家の人が1粒の種を蒔いて、1粒の実がなることを期待するでしょうか?そうじゃありません。麦やお米、とうもろこしを想像してみてください。おそらく、100倍から200倍の実をならせるのではないでしょうか?福音書に良い地にまかれた種のたとえが書いてあります。マタイ13:8「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは、普通で100倍の実を結ぶ。「まあまあ」でも60倍。最低でも30倍の実は結ぶということです。

どうぞ、みなさん、「ああ、余分な献金をさせられる。損した」と考えないでください。こう語っている私自身はどうかと言いますと、ペンテコステ系の集会に参加したときは、試されます。1日、3回の集会があるとすると、集会ごと、つまり3回献金のときがあります。どんなに講壇から強く、アピールされても「いやー、まいったなー」と思うときがあります。その点、メル・ボンド師は、毎回、信仰をもってささげることがどんなにすばらしいことか話してくだいます。また、先生は、献金のたびに、祝福の祈りもしてくださいます。そうすると、こちらに信仰がやってきて、信仰をもってささげたくなります。みなさん、これは信仰なのです。パウロは「信仰から出たものでないならばすべてのことは罪です」と教えています。こういう話があります。小さな娘が、食後のデザートでいちごを食べていました。お父さんが仕事から家に帰ってきて、そのいちごが欲しくなりました。「ああ、おいしそうだな。パパも食べたいな。少しちょうだい」と言ったとします。もし、娘が「いや、これ私のだもん。ダメ」と言ったらどうでしょう。パパは、「娘よ、あなたの洋服も、食べ物も、私が働いて得たものだよ」とは言わないでしょうが、がっかりはするでしょう。でも、どうでしょうか?娘が「パパ、お仕事、疲れたでしょう。どうぞ」と6粒のうち、3粒をくれたとします。パパは「うぁー、半分もくれるの。たいした犠牲を払ったなー」と感激するでしょう。それで終わりでしょうか?そうではありません。何日か後、パパは、仕事の帰り、果物屋さんに寄るでしょう。そこで、いちご1パックを買って、まるごと全部、娘にプレゼントするのではないでしょうか?神様は私たちの心をご覧になっておられるのです。それはパウロが言っていることと同じであります。パウロが言っていることは、まさしく、天のお父様のことばであります。ピリピ4:17「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです。」

2.私の神は

ピリピ4:19-20「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」パウロは贈り物の問題を、頌栄をもって結んでいるということは、意義深いことであります。頌栄とは、パウロは神様をほめたたえることであります。ピリピの人たちのささげものが、神様をほめたたえるに至ったということです。そして、パウロは神様が、ピリピの人たち対して豊かに報いて得くださることを確信しています。19節に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。ちょっとこれは、驚きではないでしょうか?パウロは「私の神は…あなたがたの必要をすべて満たしてくださる」と言っています。「私の神」とは、すごいんじゃないでしょうか?パウロはそれほど神様と親しい関係にあり、まるで、神様を独占しているかのようであります。みなさんも、人々に「私の神は」「私のイエス様は」と紹介できたら、すばらしいですね。何故、パウロはこんなふうに「私の神は」と言えたのでしょうか?それはパウロが、自分が信じている神様は、いつも必要を与えてくださり、乏しいことがなかったということを腹いっぱい体験していたからです。パウロは「私の神様は良き神様であり、豊かに供給してくださるお方だ」ということを体験的に知っていたのです。私たちも、頭だけの信仰ではなく、心の深みまで、神様の豊かさを体験したいと思います。では、どうしたらそういうことを体験できるのでしょうか?

神様は「父なる神様です」。私たちは神様を「天のお父様」と呼びます。そのとき、「ああー、もう一人いたなー」と思い出します。それは、私を育ててくれた、地上のお父さんです。でも、どういうわけか、地上のお父さんと天のお父さんが、重なって見えます。つまりこういうことです。地上のお父さんが、酒ばっかり飲んで、ろくにも働かず、お家が貧しかった。お父さんは全く頼りにならないので、自分が母や弟や妹たちのために働いたという人はどうでしょうか?そういう人が、天のお父様の正しいイメージをいだくことができるでしょうか?おそらく、「天のお父様も、貧しくて、あまり面倒みてくれないんじゃないだろうか?」と思わないでしょうか?心の奥底に、「本当に頼れるのは自分だけだ、神様じゃないよ」と、思うのではないでしょうか?地上のお父さんがケチであるなら、天のお父様もケチに見える。地上のお父さんが弱々しかったなら、天のお父様も弱々しく見える?本当に神様は豊かに与えてくださるのだろうか?なかなか、信じられないのではないでしょうか?放蕩息子のお兄さんがそうでした。彼は「私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」と言いました。でも、彼の父は「子よ。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。では、放蕩息子のお兄さんとはだれでしょうか?当時の宗教指導者、パリサイ人や律法学者でした。彼らはとても真面目に律法を守りました。でも、父なる神様と楽しく交わったり、父なる神様の豊かさを喜ぶということがありませんでした。クリスチャンで、真面目に信仰生活を送っている人たちの中にもいるんじゃないでしょうか?「もし、自分が信じている神様を信じたなら、不幸な人がもう一人ふえる。だったら、紹介しない方が良いかなー」なんて。自分が心から信じて、慕っている神様だったなら、「黙れ」と言われても、言いたくなるんじゃないでしょうか?

パウロは「私の神は」と言えたことはすばらしいと思います。みなさんは、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださいます」と信じていらっしゃるでしょうか?私自身のことです。私は何度かお話したことがありますが、私の長男はアメリカに行ったきりです。アメリカ留学がこんなにもお金がかかるのか知りませんでした。長男を送り出すとき「私にはお金がないけど、私の父にはお金があるから大丈夫、心配ない」と言いました。そのときは、何とかなると本気で思っていたんです。でも、「この間、送ったのに、またかよー?」ということが度々、というか何年も続きました。私は教会堂建築のときはあまり苦労しませんでした。1億4千万円くらいかかりましたが、本当に、信仰によって建てられたと思いました。でも、息子に関しては信仰が試されました。会堂建設のように、大声で言うわけにもいきません。もうどこから、お金がくるのでしょう?どの銀行が貸してくれるのでしょう?一体、だれが貸してくれるのでしょう?何度も、パニック状態になりました。郵便局でも2年と4ヶ月働きました。「それはあなたの息子のことであって、神様の働きではないでしょう」と言われれば、それまでです。私も自分で送り出した手前、面倒みなくてはなりません。「だれも助けてくれない。自分が可愛そうだ」と、自己憐憫に陥る暇はありません。何度か、泣きましたけど、ただ、ひたすら、神様に頼るのみです。では、私自身、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださるということを信じているのだろうか?」と、自問自答しました。まだ結論は出ていませんが、こういうことだけは学んでいます。神様は「はい、どうぞ!」と現金を「ドーン」とくださるお方ではないようです。私自身も祈りつつ、どこからかお金を工面しようとします。あっちがダメで、こっちもダメ。じゃあ、こうしよう。不思議に1つの道が開かれます。また半年もたつと、「お金がない」という連絡が来ます。また、「こうしょう、ああしよう」と捜し求める。すると、不思議に1つの道が開かれます。この繰り返しで、今までやって来られました。少なくとも、言えることは、父なる神様は、こういう金銭的に八方塞の中で、訓練してくれたのではないかと思います。もう、長男のために十分送ったと思いますので、信仰的には、一段落しました。神様はケチな方ではありませんが、同時に、気前よく、ポンと与えてくださる方もないようです。神様は、必要であるならば、満たしてくださる。そのとき、私の信仰と私の品性を同時に、訓練して成長させてくださるということです。まだ、私もこの分野の学びは途中なので、途中のことしかみなさんには言えません。

でも、ここに重要なポイントが隠されています。「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって…満たしてくださる」と書いてあります。神様と栄光の富の間に、イン・クライスト、つまりキリスト・イエス様がおられるということです。言い換えるならば、キリスト・イエス様抜きでは、神様の栄光の富を受け取ることができないということです。では、「キリスト・イエスにある」とはどういうことでしょうか?これは、使徒パウロも経験していたことであり、私たちにも必要なことです。私たちがキリスト・イエスにあって神様の栄光の富を受けるためにはどのようなことが必要なのでしょうか?第一に、イエス・キリストを信じて、神様と親しい関係を持つということです。つまり、神様が天のお父様であり、私が神のこどもであるということです。神様と親子関係を結ぶならば、大胆に「下さい!」と、お願いできるということです。第二に、「キリスト・イエスにある」とは、イエス様が御国の金庫を開ける鍵だということです。ヨハネ16章でイエス様はこのように約束されました。ヨハネ16:23-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私は、このみことばをまだ、十分できて体験していません。一体何が足りないのでしょうか?それは求める祈りをしていないからです。祈りには神様と交わる祈りと、神様に求める祈りがあります。求める祈りは、何かレベルが低いように思われがちです。でも、祈りがあまりきかれていないとしたら、求める祈りが足りないということではないでしょうか?10数年に山崎長老さんが、「祈りの友」というグループを作りました。みんな同じ手帳を持って、そこに共通の祈りの課題を加えました。そして、みんながその祈りの課題を祈ります。不思議なことに、90%ぐらい叶えられました。やっぱり、自分で祈りのノートを作って、具体的に神様に祈るべきだと思います。「神様、まだ、これが叶えられていませんよ」と、食らいつくような祈りをしたいです。私たちには、求める祈りが不足していると思います。いかがでしょうか?第三は、「キリスト・イエスにある」とはビジョンと関係があるということです。私たちは「お金があったらこういうことができるのになー」と、まずお金を求めてしまいます。そして、「お金がないから、できないんだ」と諦めてしまいます。でも、そうではありません。お金よりも先立つものがあります。それはビジョンです。キリスト・イエスにあって、どんなビジョンを持っているのか?本当に神様からのビジョンであれば、お金がキリスト・イエスを通して、与えられるということです。私は「本当にビジョンがないなー」と思います。「必要なお金も、必要な人材も、すべて与えられるとしたら、何をしたいでしょうか?」ビジョンが先で、資金はその次である。これは神の国の原則であると信じます。

前にもお話しましたが、本郷台キリスト教会は、先月、8500坪の土地を購入しました。9億円するのですが、すでにその1億円を払ったそうです。その土地を前から、サッカー場として使っていましがが、会社が土地を手放したいということになりました。もし、他のところが買ったのであれば、もうサッカーはできません。300人ものメンバーがいますが、その父兄たちが、「教会が買ってくれたら、子供たちがサッカーできるのに」とお願いしたそうです。そこで、伝道のために教会が買ったのです。でも、本郷台キリスト教会はその10年も前から、1万坪が与えられるように祈っていたそうです。既に1500坪のダイヤモンドチャペルが与えられていましたので、あと8500坪が与えられるように祈っていました。すると前の教会の下にトンネルが通ることになり、代替地購入のため、2億円で売れたそうです。そのお金は、8500坪の土地に、新たな建物を建てる資金になりました。亀有教会では信じられない額かもしれませんが、大切なのは神様からビジョンをいただくということです。現状から夢を見るのではなく、神様の世界から夢を見る。ビジョンは下からではなく、上からやってくるものです。可能か、可能でないかではなく、お金があるかないかでもありません。神様からのビジョンが与えられるように祈りましょう。ビジョンが与えられたなら、必要な資金も、必要な人材も与えられるのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。アーメン。」

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2009年6月 7日 (日)

満ち足りる秘訣    ピリピ4:10-13

 ノーマン・ヴィンセント・ピールが書いた『積極的考え方の力』という有名な本があります。あるビジネスマンが、仕事中、時々、ポケットから白い紙を出しては口ずさんでいました。そのことによって、彼はいろんな問題を解決できました。その白い紙に書いてあったものが、このピリピ4章13節です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、彼は事ある度に、口ずさんでいたのです。私は、積極思考は、すばらしいことだと思います。反対しません。でも、このみことばは「できると考えるなら、何でもできる。私は主にあって不可能はない」ということを教えているみことばではないようです。聖書は文脈から学ぶことが大切です。このみことばの前後を見ると、別なことに対して言っているのではないかと思います。もう一度、11節から13節までを一気に読んでみます。ピリピ4:11-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」どうでしょうか?パウロは貧しい中、豊かさの中、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。あらゆる境遇に対処することと、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」というみことばが関係あると思います。きょうは2つのポイントでお話しいたしますが、口語訳の「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」というみことばを用いたいと思います。

1.貧に処する道

 言い換えるならば、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣です。戦争を通過した方は、飢えや乏しさということを十分に体験されたのではないでしょうか。配給米とか、ヤミ米というのを聞いたことがあります。大川牧師は「芋とかぼちゃは一生分食べたので、もう食べたくない」と言っておられました。私も8人兄弟の7番目だったので、結構、貧しかったです。何にもないので、小麦粉を解いてフライパンで揚げたり、水で溶かした片栗粉にお湯を入れて食べました。だから、もんじゃ焼きとかお好み焼きは、貧しい頃を思い出すので、食べたくないのであります。インスタントラーメンもそうであります。もう一生分食べたので、もう食べたくありません。世界では、8億人以上が飢えているそうです。また、飢えと貧困によって、毎日2万5000人が亡くなっているとのことです。それと比べたら、私の子供時代も、まだマシだったのかもしれません。でも、みなさん、家庭が貧しいとどんなことが起こるでしょうか?私は「また、シャケか-」と、食事の度ごとに不平不満をもらしました。どっちが多い、こっちが多いと食べ物でよく兄弟喧嘩をしました。学校に行くといろんなものが必要になります。買うお金が家にはなかったので、母は隣り近所にお金を借りに行っていました。こっちは、他の友達と同じでなければ恥ずかしいので、買ってもらうのが当たり前だと思っていました。しかし、私が高校生のとき、母が一階から二階にいる私にこう言いました。「他の兄弟はみんな我慢したのに、何故、お前はがまんできないんだ!ヤシ、お前が一番、親不孝者だ。ああ、情けない」。私は、「情けない」ということばが大嫌いなのであります。「何で、この家はこんなに貧しいんだ!」と何度、叫んだでしょうか?要は、父が酒を飲んで、あまり働かなかったからであります。結構、みなさんの中にも、「貧乏って嫌だよなー」と腹の底から思っていらっしゃる方がおられるのではないでしょうか。貧しさは本当に、心を卑屈にします。また、貧しいために人の物を取ったり、セコイことをやってお金をせしめる、そういうことをするようになるんじゃないでしょうか?お金で苦しんだ人は、大人になると逆に、金の亡者になる恐れがあります。ケチになって、貯金をして、全く使わないという人もいるかもしれません。また、私のように貧しかった人は、お金の管理が得意ではないかもしれません。あればあっただけ使ってしまう。どちらにしても、貧困という劣等感で支配されています。

 使徒パウロはどのようにして、貧しさの中にいる道、つまり、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣を学んだのでしょうか?Ⅱコリント11章には、パウロ自身のことが記されています。Ⅱコリント11:27「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」パウロは、神からの召命で、異邦人伝道を志し小アジアからギリシャ、そしてローマまでも出かけました。パウロを使徒として歓迎してくれるところもあれば、まったくそうでないところもありました。最初の頃、パウロは天幕作りをして、自費で伝道していました。コリントの教会に対してこのように述べています。「あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか?…主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(Ⅰコリント9:11以下)。パウロは、報酬のために福音を宣べ伝えたのではなく、福音を宣べ伝えなければ災い会うのでしたのです。でも、主がパウロに福音宣教を命じたがゆえに、主が責任をもって必要を満たしてあげたことは確かであります。おそらく巡回伝道者が最初に学ぶべきことは、「経済的な必要は神様が与えてくださる」という信仰でありましょう。牧師の場合は支えてくれる教会がありますが、伝道者とか宣教師は、明日のことに対する保証がありません。だから、祈って、必死に主に頼りながら、福音宣教をしなければなりません。でも、主が本当にその人を召しておられるなら、その必要は必ず与えられるということです。ですから、多くの場合、牧師とか伝道者になるときの関門は、経済的な問題が信仰によってクリヤーできるかどうかです。でも、その人が神様から本当に召されているならば、神様が経済的な必要を満たしてくださいます。

 では、私たち、みんなはどうでしょうか?クリスチャンであろうと伝道者であろうと本当は変わりありません。神様は、それぞれが働いて、日々の糧を得るように願っておられます。では、どうしたら、たとえ貧しさの中にいても、主にあって必要が与えられるのでしょうか?クリスチャンは3つのことができます。第一番目は祈るということです。神様は祈りのこたえてくださいます。第二番目は勤勉に働くことです。これは私たちの責任です。第三番目は創造的であることです。神様は私たちに神様の知恵と原則を与えてくださいます。「主の祈り」でも、「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように命じられています。仕事がなければ、「仕事をください」と神様にお祈りすれば良いのです。インドネシヤは日本よりも失業率が高いそうですが、すばらしい証がたくさんあります。ある人は寿司を全く握ったことがないのに、レストランで働くことになりました。いつものコックが急病で休んだために、彼は臨時採用になりました。彼は、「ハレルヤ!聖霊様どうやって握ったら良いでしょうか?教えてください」と聞きながら、寿司を握ってみました。すると、その寿司が売切れてしまいました。次の日、彼は店長に「昨日の倍、作らせてください」とお願いしました。すると店長は、「もし売れ残ったならお前が全部、買い取るんだよ」と言いました。すると、なんと、倍の数のお寿司が売れました。どういう訳か、彼のお寿司を人々が買いに来ました。何日かたって、前のコックが健康を回復して戻ってきました。そのため、彼はクビになりました。「ハレルヤ!主よ、クビになりました。また、どうか導いてください」と祈りました。するとどうでしょう?お店に、「いつもの寿司はないのか?」とお客さんが何人も尋ねてきました。仕方なく、店長はその人に連絡し、正社員になってもらって、またお寿司を握ってもらったそうです。このように祈りはきかれます。私は詩篇23篇がとても大好きです。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」ここには、主が私の羊飼いであるならば、乏しいことはないと書いてあります。主が私たちよりも先立って歩み、牧草や水のありかまで導いてくださるからです。また、英語の聖書は、I shall not want.「私は欲しいということがない」と訳すことができます。つまり、満ち足りているということです。現実的に、私たちは欲しいものがいっぱいあります。人間の欲望にはキリがないからです。でも、主は私たちに満ち足りる喜びを与えてくださいます。欲しいものは全部与えられないかもしれませんが、主は、必要なものは与えてくださるということです。イエス様を信じていない頃ですが、美味しいものを食べたときは確かに美味しかったでしょう。美味しいものは信仰にあまり関係ありません。でもどうでしょうか?信仰があると、わずかなものでも、「アーメン感謝します」とおいしくいただくことができます。私は貧しい家庭で育ったことを今では感謝しています。食わず嫌いは別にして、だいたい、何でもいただくことができます。なけりゃないなりに、ご飯が食べられます。「あれはあれで良かったなー」と思います。魂が満足しているならば、食べ物や持ち物などから解放されます。あればあったに越したことはないけど、なければないでも構わない。そういうシンプルライフこそが、貧に処する道ではないかと思います。

2.富におる道

 言い換えるならば、豊かさの中にいる道、富むことの境遇に対処する秘訣です。豊かさは悪いことではありません。でも、豊かになれば豊かになったで、誘惑もあります。箴言の30章には、このような祈りがあります。箴言30:8-9「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かになると、食べ飽きて、主を否み、「主とはだれだ」と言ってしまう可能性があるということです。世の中には、「成金」という人たちがいます。今から30-40年くらい前でしょうか?成田空港やその道路のために土地を売って大金持ちになった人たちがいました。また、鹿島臨海工業地帯とか筑波学園都市の場合もそうでした。日本中が開発ブームでしたから、その場所にひっかかったら土地成金になります。でもどうでしょうか?息子はスポーツカーを何台も買って仕事もしない。ギャンブルや財テクに手を出し、あっという間にお金を使い果たしたという人たちもいたでしょう。芸能界の人も売れないときは、ラーメンとかパンの耳で暮らします。でも、一旦、ブレークしたら、もうお金がうなるように入ります。まず、高級マンションを買います。それから毎日、高級クラブを飲み歩き、税金対策のため会社を経営したりします。ある人は外国のホテルを買いあさります。でも、どうでしょうか?本業ではなく、会社や株のために、莫大な借金を負ってしまいます。でも、彼らは一旦、身についたハイクラスの生活を落とすことができません。そのため、さらに借金が積み重なり、再起不能になるようです。私たちはそういう人たちの話を聞いていますので、「あんまり大きな額のお金は不要だなー」と思っています。でも、「ある程度のお金は持ちたい、ある程度は豊かになりたい」とどなたでも思っているのではないでしょうか?

 では、みなさん、お金の奴隷にならないで、豊かになるという秘訣はあるのでしょうか?あります。これが富におる道であります。皆さん、世界で最もお金持ちだった人はだれかご存知でしょうか?人類史上最高の富豪はロックフェラーであり、ビル・ゲイツの3倍もの富を築き上げました。ニューヨークのロックフェラーセンターのように、ロックフェラーは今でも、偉大な巨人として、世界中の称賛を集めています。これは、『ロックフェラーが知っていたもうけ方』という本からの引用です。ロックフェラーは一生母親との約束を守りながら、神様が与えてくださった賜物を開発し続けました。彼は、母親の教えに従って、困難のときも喜びのときも、いつも祈ることを忘れない人でした。彼の母は、息子に幼いときから次の3つの約束を守るように教えました。①十分の一献金をささげること。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。特に、マラキ3:10のみことばをよく思い起こすようにさせました。「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」アーメン。ロックフェラーは億万長者になった後も、誠実に節約する精神を貫き通しました。彼は一生、日記を付けるように会計帳簿を徹底的に記録しましたし、収入を正確に計算し、完全な十分の一の献金を神様に捧げました。世界一の富豪になった後も、十分の一献金を計算するための担当部署に、40名の職員を雇うほどでした。彼は小学校に入る前から98歳で天に召されるまで、一度も忘れることなく十分の一献金を神様に捧げました。幼い頃から受けた母の教えは、彼にとって座右の銘となり、最も大きな遺産になったのです。ロックフェラーは、十分の一献金が天の御国に宝を蓄えることであり、困難な人々を助けることであると考えていたので、いつも喜びながら十分の一献金を捧げました。そして、神様はそれを30倍、60倍、100倍にして、自分に返してくださるという信仰を持っていました。…さて、富におる道とは何でしょう?今、引用した本の中で、何度も繰り返し出てきた「十分の一献金」であります。人間的に考えるなら、「生活が楽になってからで良いよ」と言いたくなります。でも、そのように教えるならば、みなさんから神様の祝福を奪ってしまうことになります。主が「私を試して見よ」とおっしゃるのですから、信仰をもって捧げたらいかがでしょうか?主のみことばが真実であるかどうかは、捧げた人だけが分かります。

富におる道で、もっとも大切な真理とは何でしょうか?それは、「私たちは所有者ではなくて、管理者だ」ということです。お金や富、財産、あらゆる持ち物でも言うことができますが、私たちは所有者ではなくて、管理者だということです。では、だれが一体、所有者なのでしょうか?そうです。神様が所有者なのです。神様は私たちが必要とあらば、私たちに必要な分だけ預けてくださいます。もちろん、私たちは何らかの労働をして、受けることをしなければなりません。でも、それは「俺が自分の手で稼いだ」ということではなく、神様からの賜物だということです。さきほど、十分の一献金のお話をしましたが、十分の一献金とはこのような意味です。「神様、これらはみな、あなたからいただいたものです。私は今もこれからも、あなたにより頼みます。そのしるしとして、十分の一献金をあなたにお返しします。」また、十分の一は、「私は金銭の奴隷ではありません。私はあなたのしもべです」という意味です。そうしますと、金銭はあなたの良いしもべとなって、あなたに仕えてくれます。でも、十分の一をしない場合は、金銭があなたの主人となり、あなたが金銭の奴隷となってしまうでしょう。金銭はあなたにとって、とても厳しい主人となるでしょう。あなたは金銭に鞭打たれ、酷使され、追い回されるでしょう。どうぞ、金銭の奴隷にならないように、むしろ、金銭をあなたのしもべにしましょう。そうするならば、あなたは金銭をとても良いものに用いることができるでしょう。皆さん、お金はとても大切です。お金がなければ、教会堂も建てられませんし、牧師や宣教師を支えることができません。献金のときに、「このお金をきよめてください」とお祈りする方がおられます。これはお金が汚いとか汚れているという意味ではないでしょう。「きよめて」とは、「聖別する」と言う意味です。聖別とは、神様の御用のためにこのお金を用いてくださいという意味です。ついでに申し上げますが、「神様のご用のためにお用いください」のあと、「捧げられた方々の産業を豊かに祝福してください」とお祈りしたらもっと良いと思います。

セル・セミナーの関係で、香港からベン・ウォン師を何度もお呼びいたしました。ベン先生はいつもこのように言うのです。「出されたものならば何でもいただきます。ステーキだったらステーキを、ラーメンだったらラーメンでも喜んでいただきます。また、ベッドだったらベッドで寝ます。床に寝なさいと言われれば、喜んで床に寝ます。どうか気を使わないでください。」ベン先生は宣教師ですからいろんなところへ行っています。豊かなキリスト教国といえば、カナダ、オストラリア、南アフリカでしょうか。南アフリカの教会にはプール付きのゲストルームもあります。でも、貧しい国、たとえばインド、タイ、ネパールも行くことが度々あります。ネパールでは、寝床にさそりが出るそうです。ベン先生は、まさしく、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。でも、ベン先生は生活を楽しむこともちゃんとご存知です。亀有にお泊りになったとき、夜の10時過ぎだったでしょうか?「駅前のイトー・ヨーカドーに行きたい」と言うのです。亀有に来たときは、いつも行っているようです。一度、ご一緒したら「ああ、そうか」と思いました。ヨーカドーの地下に行くと、生ものが半値になっています。ベン先生はそこで、甘エビとか、刺身を買って来るんですね。ベン先生は市場みたいなところが大好きだとおっしゃっていました。みなさんも、どうでしょうか?お金が沢山ないと楽しむことができないと思ったらそれは間違いです。満ち足りる秘訣を持っているならば、わずかな金額でも喜び楽しむことができます。

皆さん、幼い頃を思い出してください。あなたがいただいたプレゼントでどんなものが心に残っていますか?おもちゃのピストルとか、ぬいぐるみ、帽子、赤い靴だったでしょうか?おそらく、そんなに高額ではなかったはずです。「あの時は満たされなかった。だからもっと、欲しい」という、心の中にイエス様を歓迎しましょう。イエス様は天のみくらを捨て、貧しい馬小屋にお生まれになりした。ナザレの貧しい家庭で育ち、貧しい中で伝道活動をされました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。亡くなられた時は他人のお墓を借りなければなりませんでした。なぜでしょう。Ⅱコリント 8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」もちろん、富むことの中には経済的、物質的なという意味も含まれるでしょう。でも、その前に私たちが癒されて、満ち足りる心を持つということが前提ではないでしょうか。私たちが満ち足りる秘訣を得ているならば、どんな境遇の中にあっても、富む者となることができるからです。

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2009年5月31日 (日)

心に留めること      ピリピ4:8-9

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。本来ならば、聖霊に関することをお話すべきなのでしょうが、ピリピ書から予定を組んでいましたので、どこかでしたいと思います。どこかで、と言うととてもいい加減な感じがしますが、エペソ人への手紙がこの次から始まりますので、聖霊に関することが出てきたとき補充していきたいと思います。先週は「喜びなさい。思い煩うな」ということを学びました。何人かの方々にヒットしたらしく嬉しく思いました。「今回も期待に応えられるだろうか?」と思うとプレッシャーがかかりました。きょうは、たった2節からですので、「どうかな?」と思って準備させていただきました。でも、大丈夫です。聖書から順番に語っていくと、偏るということがないからです。偏食は体に良くないと言われますが、聖書も同じだと思います。どんな箇所からも、主に期待して共に学びたいと思います。

1.心に留めること

 ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ここには、私たちが心に留めるべきことが8つ記されています。8つと言えば、イエス様の山上の説教を思い出します。マタイ5章には、「8福の教え、8つの幸い」が記されています。使徒パウロは、「最後に、兄弟たちよ、これら8つのことに心を留めなさい。そうすれば、平和の神が共にいてくださいますよ」と教えています。私がクリスチャンになりたてのころの話です。座間教会に、ネル・ケネディという女性のジャーナリストがおられました。時々、英語集会があり、青年たちがたくさん集っていました。あるとき、彼女がこのピリピ4:8からお勧めしてくださいました。「クリスチャンのジャーナリストとして、自分が何に心を留めているか?また、クリスチャンの若者たちが何に心を留めるべきなのか?」ということを話してくれて、本当に感謝でした。クリスチャンになって教会生活が長くなると、「この世の中は、罪と汚れに満ちており、良いものなんかちっともないんだ」と思ってしまいます。極端になると、「政治も学校教育も、医療も、音楽も、みんなダメだ。教会はそんなことに関わらないで、魂の救いに専念すべきだ」となります。だから、PTAの役員もしないし、この世の音楽も聴かないし、映画も見ない。選挙も行かない。その代わり、教会の集会に出る、聖書を読む、讃美をする、奉仕する。「そういうことだけがすばらしいんだ」となります。でも、それはピリピ4章8節の教えと逆行している生活です。

 では、なぜ、教会に関するものは聖くて、この世のものは俗的で汚れているという考えが生まれてしまったのでしょうか?それは18世紀にまで遡ります。理神論なる考えが、イギリスで始まり、フランスやドイツの啓蒙思想家に受け継がれました。簡単に言いますと、神様は地球や宇宙を造ったけれど、今はもうタッチしておられない。この地球も宇宙も自然の法則によって勝手に動いているんだ。さらに、「神は死んだんだ」とさえ言う哲学者も出てきました。教会はそのことを否定しましたが、少なからず影響は受けました。やがて、「神様に関することは聖いけれど、この世に関するものは聖くないんだ」と考えるようになりました。つまり、聖なる世界と俗なる世界とに2つに分けてしまったのです。聖なる世界とはどんな世界でしょうか?聖書、信仰、祈り、伝道、賛美、神学、道徳に関することであります。その多くは、教会内で行ないます。では、俗なる世界とはどんな世界でしょうか?ビジネス、教育、政治、経済、医療、芸術、マスメディア、この世の法律などであります。もし、この考えが正しいとするならばどうでしょうか?私たちはきょう日曜日、教会にいて聖なることをしています。聖書を読み、賛美を捧げ、お祈りし、みことばを学んでいます。今は、聖なる時ですから、冗談も言わないし、不品行なことも考えません。「そのわりには、牧師が俗的なんですけど!」と文句が出るかもしれません。でもどうでしょうか?この礼拝が終るととたんに人間的になり、笑顔が出てくる。そして、教会の建物を出たら、この世のことを考える。職場では職場の価値観、学校では学校の価値観、家庭では家庭の価値観で生きる。また、日曜日が来ます。すると、聖書を取り出して、宗教的な顔になって教会に行く。私はそういうキリスト教という宗教を教えていないつもりであります。なぜでしょう?聖書の本当の考えは、この世のどまん中にも神様がおられるからです。エペソ人への手紙1章には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書いてあります。神様は「政治の世界においても神様の持っているもので満たしたい。芸術の世界においても神様のもっているもので満たしたい。教育や医療、ビジネスの世界も神様のもっているもので満たしたい」と願っておられるのです。私たちは、この世の中に、神様が持っているすばらしいものを持ち運ぶという使命があります。

 そういう考えからしますと、ピリピ4:8は、まさしくそのことを教えています。なぜ、この世の中に、真実なこと、誉れあること正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と言われること、称賛に値することがあるのでしょうか?そうです。神様が造られたからです。創世記1章には「良かった」「良かった」「非常に良かった」と書いてあります。でも、残念なことに人間が罪を犯してから、自然界は喪に服してしまいました。それでも、使徒パウロはローマ1:20でこのように言いました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」完全ではないかもしれませんが、神様が造られたがゆえに、すばらしさがどこかしこに残っているということです。私は毎朝、中川のほとりを散歩します。雑草でも美しい花を咲かせます。1,2週間前、河川敷の雑草を刈り取る作業がありました。おじさんたちが、機械で一網打尽に刈り取るわけです。ある家の前にある花が植えてあります。その花は夏にはとても背が高くなり、大輪の花を咲かせる花なんです。ところが何本かは、河川敷まではみ出していました。あとから見ましたが、おじさんが機械で刈らないで、手作業でしたんでしょうね。3本か4本ちゃんと残っていました。「おじさん、やさしいなー!」と思いました。花をめでる心が、おじさんの心の中にもあったということです。そういえば、星野富広さんも草木にまつわる詩と絵をたくさん描いていらっしゃいます。うる覚えですみませんが、山登りの人が立ちしょんをしようと思ったけど、山ゆりが咲いていたので、場所を代えたというのがありました。あんまりきれいじゃないので、星野富広さんの美しい詩をいくつかご紹介します。①「病院の庭にさつきが咲いた。母が銀行強盗でもするようにおどおどしてひと枝折ってきてくれた。絵に描いて、となりのベッドの人に見せると、「きれいなゆりだなあ」と言った。②神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の 実を見ていたら、そんな日が本当にくるような気がした。」星野富広さんは、私たちが日常、見過ごしてしまうような些細なものに目を留めて、そこから素晴らしい神様の恵みを語ってくれます。そういう繊細な見方というのは、星野さんが学校の体育教師をそのまましておられたら、きっとできなかったんじゃないかと思います。

4章8節の、心に留めるべきことを、リビングバイブルは、このように訳しています。「真実なこと、良いこと、正しいことに注目しなさい。きよいこと、愛すべきことについて思いめぐらし、他人の長所に目を留めなさい。神様を喜び、賛美することばかりを考えなさい」。順番からすると、「すべての評判の良いこと」を、「他人の長所に目を留めなさい」というふうに解釈しています。私たちは自然界やこの世だけではなく、人々の中にも良いところを見出すべきであります。しかし、どうでしょうか?日本人は他人の良いところよりも、悪いところに目が行きがちではないでしょうか?先週の木曜日、お昼を食べているとき、日立にお住まいの石塚兄より電話がありました。ギデオンで勝田の教会におじゃましてラリーのメッセージをされたとのことです。そこに、吉永先生がいらっしゃって鈴木牧師と親しい関係だと聞いて驚かれたそうです。で、私の方は石塚兄が聞いてもいないのに、吉永先生は座間でうまくいかなくて、インドネシアに飛ばされて、その後は四国に戻って来て、勝田の教会に招聘されたこと。そして会堂建築で苦労されてストレスでものすごく太ってしまったこと。なんだか、悪いことばかり話してしまいました。その点、石塚兄はこの教会に10年以上おられた方ですが、人の良いところを見るすばらしい兄弟でした。今回も電話で、勝田の教会が教会あげてセルを目指している。目的主導の教会を作ろうとしている。そのような内容でした。私はピリピ4章を読んで、「これからメッセージを組み立てようかなー」としている矢先でした。なんと、リビングバイブルには「他人の長所に目を留めなさい」と書いてありました。いやー、私って何なんだろう?「口では人の良いところを見ましょう」と言いながら、自分自身は人の悪い点に目を留めているんじゃないだろうか?愕然としました。このように講壇に立っているときはまだ良いのですが、下に降りて、気を緩めると悪いことばが出てくる。おそらく、それは私が生まれてこの方、多くの批判や裁きを受けてきたので、自分に対しての見方、他の人に対する見方が否定的になっているということでしょう。

ベン・ウォン先生がコーチング・セミナーでよくおっしゃっていました。「日本も中国もそうだが、アジアの文化は親が子どものことを誉めないことである」と。また、何か失敗したら、もう立ち上がれないみたいなダメージを受ける。だから、失敗をどうしても隠してしまう。本当にそうだと思います。だれにでも長所と欠点があります。「あなたの欠点はどこですか?」と聞かれたら、4つ5つすぐに上げることができるでしょう。でも、「あなたの特技とか長所は何ですか?」と聞かれたら、「んんー」と、考えてしまいます。「長所は何だろう?私はどんなことにすぐれているのかなー」と悩みます。どうしてでしょうか?だいたい、何か悪いことをしたら注意されます。宿題してこなかったとか、遅刻したとか、喧嘩したとか…。宿題をやってきて当たり前、時間通りに来て当たり前。あまりほめられません。テストでも、たとえ70点取っても、「何故、80点とれなかったんだ」となります。もう、私たちの目が否定的になっています。悪いところが大きく見えて、良いところが見えない。日本の文化は、本当にそうだと思います。しかし、文化のせいばかりしてはいけません。私たちは聖書のみことばから神様が私たちをどうご覧になっておられるのか?そのことを心の奥底から、自分の価値観になるように理解しなければなりません。聖書で神様は「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。だった、私は高価で尊い、私は愛されるべき存在だということです。聖書で神様は「あなたは義である。聖徒である」とおっしゃっています。だったら、私は正しい人間で、聖い存在だということになります。神様が「そうだ」とおっしゃるのに、「私はそうじゃない」と言ったならば神様に逆らうことになります。

もう1つは、私たち自身に語っていることば、セルフ・トークを変える必要があります。私たちは意識しないで、日中、いろんなことを心の中でつぶやいています。「こんだけ、やったのに、あのそっけない態度はなんだ。もう、一生懸命やらないぞ!」「だいたい、あの偉そうな態度が気にくわないんだよなー。俺は道具じゃないんだ」。「いいよ、もうこれくらいで、どうせ給料安いんだから」。何を隠そう、これは数ヶ月前まで、郵便局で働いていたときの、私の心のつぶやきです。いや、もう、口には出さなくても、心で語っていることばが、いかに否定的でしょうか?おそらく、みなさんは聖められているので、こんなふうには語っていないと思いますが、どうでしょうか?まず、変えるべきことは、心の思いであり、このセルフ・トークであります。本当に、私たちは神様の愛と価値観を魂の中にいっぱいいただき、思いとセルフ・トークを積極的、肯定的にすべきであります。そうしますと、結果的に、人の良いところが見えてきたり、この世の中に良いところを見出せるようになるのではないでしょうか?一番の問題は、私たちのゆがんだ考え、ゆがんだめがねであります。ここを変えたならば、ピリピ4:8に記されている、8つの良きものを心に留めることができるのではないでしょうか。だから、ローマ12:2でこのように言われているのであります。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」アーメンであります。心の一新によって自分を変えるとは、まさしくそのことを言っているのであります。

2.行なうこと

ピリピ4:9「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」聖書ってうまくできているなーと思います。先週もそうでしたが、心理学者たちが言うようなことを2000年前、すでに教えておられるんであります。ピリピ4:8は私たちが思いを変えて、どのようなことに目を留めるべきか、ということが書いてありました。私たちの思いに良いものが留まるのが第一段階であるならば、第二段階は何でしょうか?それは私たちの生活が変わることです。これをライフ・スタイル・チェンジと言います。私たちは思いを変えたあと、実際に行動するときに、それがだんだんと身についてくるのであります。もし、思いが変えられただけで、実行しないならば、また古い生活と古い思いに逆戻りしてしまいます。だから、パウロは、「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい」と命じているのであります。一般的に私たちは中立を好みます。たとえば、お酒を飲んでいる人に、「もうお酒を飲まないように」と言います。でも、どうでしょうか?ただ、お酒を飲まない状態というのは苦痛なのではないでしょうか?「お酒をやめれば良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、それではまだ半分であり、また逆戻りする可能性は大です。そうではなく、お酒の代わりにその人を喜ばせる神様からのものが必要なのです。今まではお酒で中毒だったけど、今度は神様に中毒になる。神のみことばに中毒になる。代わりに、そういうものが必要だということです。私は「子供に長い時間、ゲームをしちゃだめだよ。目が悪くなるから」と注意します。「ほどほどに」、と言っても何時間でもやります。だから、ゲームよりももっと生産的で楽しいことをやらせれば良いんです。うちの子供は「パパ、一緒に散歩行こう!」と言います。私はひとりが良いんですが、ゲームよりは良いかもしれません。「マサチューセッツ工科大学へ本当に行きたかったら、英語を一緒に勉強しよう」とやっても良いですね。

エペソ人への手紙4章には、そのことが詳しく書かれています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」この人に、「もう盗んではいけません」と言いました。その人は「わかりました。もうやめます」と言いました。でもそのままでは、本当の悔い改めにはなりません。悔い改めとは「メタノイヤ」と言いますが、向きを変えるということです。「もう盗んではいけませんよ」と言われ、「分かりました。もうやめます」。それは盗みを休んでいるということです。「メタノイヤ」とは、向きを変え、別なことをするということです。働いて、困っている人に施すということです。以前は、「盗み」「盗み」「盗み」。「メタノイヤー!」と言われたら、「働いて施す」「働いて施す」「働いて施す」。これが本当の悔い改め、ライフ・スタイル・チェンジであります。ここまで行かないと人は本当に変わらないのであります。エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにやりたいと思います。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。「はい、わかりました。もう、悪いことばを出しません」。それでは、本当の悔い改めにはなっていません。ただ、休んでいる状態です。これをメタノイヤをするとどうなるのでしょうか」。「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」。「メタノイヤー!」。「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」であります。このように実行していくと、ライフ・スタイル・チェンジが起こるのであります。一旦、体に身についたら、もう抜けることはありません。しかし、エディ・レオ先生は49日間続けないと、身につかないと言いました。49日、なんか聞いたことがある数字です。

私たちはライフスタイルが変わるためには、ここまでしなければなりません。でも、人間は自分に甘いんであります。だから、それを見届け、励ましてくれる人が必要なのであります。つまり、説明責任を互いに持てる人、アカウンタビリティの持てる人が必要なのであります。「どう、最近、守っている?」と聞いてくれる友人が必要です。あるいはこういうことが身につくためには、コーチが必要なのであります。どうでしょうか?友人にお願いすれば、互いにコーチングもできるんじゃないでしょうか? みなさんは、自分の状態を率直に伝えることができる信仰の友人を持っていらっしゃるでしょうか?私は家内がそうなんですが、自分をコーチしてくれる牧師も必要だと思っています。こう頼めば良いのです。ディボーションを毎日したいんだけど、1週間後にチェックしてくれますか?「先週、ディボーション、何回できましたか?」「はい、ほとんど欠かさずできました」。仕事でビジネスホテルに泊まる人は、「私がホテルで変なビデオを見ないように祈ってください」と友人に頼みます。その後、友人が「先週、ホテルで大丈夫でしたか?」と聞きます。「はい、見ませんでした」。すると「ハレルヤ!良かったね」と励ます。ですから、自分の目標とか自分の変えたいことを、親しい人に話すんです。そのとき、「祈ってください。チェックしてください」とお願いします。そして、後からそれを報告する。ちょっと堅苦しい感じがしますが、これを説明責任、アカウンタビリティの関係と言います。清瀬に菅谷先生という方がいらっしゃいます。ここにも来られたことがあります。たまに、先生から「最近どう?」と電話がきます。私も「べらべら」と話すんですね。あっという間に、20分くらいたちます。岡山の中嶋先生からもたまに電話がきます。うれしいですね。先生の方からなかなか切らないので、30分以上話してしまいます。どうでしょうか?「説明責任」みたいに堅苦しいことばを使わなくても、「最近どう?」くらいで良いんじゃないでしょうか?「最近どう?」これを、亀有教会の挨拶にしても良いくらいですね。ハレルヤ、きょうは8つの良いものを心に留め、それを実際に行なうということを学びました。愛兄姉と平和の神が共におられますようにお祈りいたします。

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2009年5月24日 (日)

喜びなさい     ピリピ4:1-7

 聖書にはいくつかの命令があります。神様が命令するときには、必ず、そうできる保証というものがあります。神様はただ、命令するだけではなく、私たちがその命令に従えるような資源も同時に、与えてくださるということです。きょうは、ピリピ人への手紙から2つの命令を、神さからいただきたいと思います。1つ目は「喜びなさい」であり、2つ目は「思い煩うな」であります。もし、これらが私たちの感情に訴えるものであれば、それは不可能です。なぜなら、私たちの感情は自然発生的なものであり、自分の力ではどうにもなりません。しかし、この2つが、感情ではなく、私たちの意志に対して命じているのであれば、可能であります。神様が「喜びなさい」と命じるので、「はい、わかりました。喜びます」と従うなら、あとから「喜び」という感情がついてくるのであります。また、神様が「思いわずらうな」と命じるので、「はい、わかりました。思い煩いません」と従うなら、あとから「平安」が来るのであります。きょうは、それらのことを聖書から詳しく学びたいと思います。

1.喜びなさい

 ピリピ4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と書いてあります。では、みなさんはどんなときに喜ぶことができるでしょうか?逆に言うと、どんなときに喜べないでしょうか?一方が喜びであるなら、他方は悲しみとか失望でしょうか?ちょっと考えてみましょう。「あなたはどんなときに喜ぶでしょうか」。一人ひとり、考えて、その答えを私にテレパシーで送ってください。願い事がかなったとき。人からほめられて評価されたとき。何かうまくいったとき。プレゼントをいたただいたとき。楽しいことがやってきたとき。なるほど、たくさんありますね。今、プロ野球の交流試合が始まっています。しかし、新型インフルエンザも流行っています。見に行っている人は、みなマスクを着用しています。どうなんでしょうか?「わー」と喜びたいのですが、マスクが邪魔になるんじゃないかと思います。マスクしてでも、球場に行きたいのでしょうか?ちょっと滑稽な感じがします。では、みなさん、喜びと笑いの違いは何でしょう?表情とか、口の開き具合、かなり似ていますけど、違いますね。現代人は、喜ぶことが少ない分、それを笑いで補っているんじゃないでしょうか?我が家ではクイズヘキサゴンを見て、ずいぶん笑っています。大体、家内が笑っているときは、テレビを見ているときです。以前は、家族がテレビを見ることに否定的でした。でも、笑うことは健康に良いので、今は一緒に見たりしています。でも、みなさん、喜びと笑いは、質的に違いがあると思います。

では、イエス様が喜ばれたときがあったでしょうか?イエス様が大声で笑ったという箇所はおそらくないと思いますが、喜びにあふれたという箇所はあると思います。ルカ10章。ルカ10:17-21をお読みいたします。さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。70人の弟子たちはとっても喜んで伝道旅行から帰ってきました。「いやー、何人もの人たちから悪霊が追い出されたよ」「祈ったら、病気が治ったよ」「たくさんの人が福音を信じたよ」。弟子たちは自分たちの伝道旅行の成果が上がったので喜びました。もし、伝道旅行がうまくいかなかったら、どうでしょうか?「悪霊にやられて、一人も救われなかった」。当然、喜べないですよね。でも、イエス様はそういう何かをしたかではなく、何を喜べとおっしゃっているのでしょうか?「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。さらに、どうでしょう?イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて言われた」という続きがあります。内容を見ますと、父なる神様が幼子たちになしておられることを喜んでおられます。まだ、ここでははっきりとは、わかりませんが、喜びとは私たちが何かをしたかに基盤を置くのではなく、神様がなしておられることを喜ぶということではないでしょうか?私たちの喜びは、環境や状況に左右されますが、神様から来る喜びはどうも違うようです。

では、テキストに戻りますが、ピリピ4章の1節から3節の内容は、どんなことを書いているのでしょうか?ピリピ1章にもありましたが、教会の中に不一致や争いがあったようです。4章をみますと、ユウオウデヤとスントケという人たちは対立しているようです。でも、パウロはピリピの人たちを「私の喜び、冠」と呼んでいます。本来なら、ピリピ教会は、喜べない状況だと思います。でも、パウロは「いつも、主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と命じています。冒頭でも話しましたが、もし、私たちの感情に「喜びなさい」と命じているのであれば、それは無理です。感情は私たちの思い通りにはなりません。喜べる状況だったら喜ぶけど、喜べない状況にあるときは喜ぶことができません。感情というのはそういうものです。でも、パウロが命じているのは感情にではなく、意志、私たちの意志に対して命じているのです。確かにピリピの教会には不一致や争いがあり、喜べない状況です。でも、どうでしょうか?ピリピの教会の人たちは、ものすごい迫害の中から救われました。意見や考えの違いはあるかもしれないけど、みんなの国籍は天にあり、救い主が再び来られることを待ち望んでいます。そういうことを思って「喜びなさい」と言われたら、喜べるんじゃないでしょうか。それは、私たちの現実の生活でも同じです。仕事がうまくいった、望んでいるものが与えられた、病気が治った…そういう状況だったらだれでも喜ぶことができます。でも、逆に、仕事がうまくいかない、望んでいるものが与えられない、病気も治らない。問題が解決されるまで待つなら、永久に喜ぶことができません。パウロが「喜びなさい」というのは、うまくいったとか、うまくいっていないという環境や状況に対して、言っているわけではありません。

 では、どのようにしたら、環境や状況に関係なく、喜ぶことができるのでしょうか?これは、簡単な答えはないです。このように言っている私でも、悲しみや失望落胆に落とされたら、どうなるか分かりません。でも、聖書の原則だけは語ることができます。では、どんな理由で、いかなる状況の中でも喜ぶことが可能なのでしょうか。それは、キリストによって救われているということです。これはさきほどのルカ10章の弟子たちのことにも言えます。弟子たちは伝道旅行の成果がすばらしかったので喜んでいました。でも、イエス様はそんなことではなく、天に自分たちの名前が記されていることを喜びなさいと言われました。つまり、自分たちに何ができたかではなく、どういう存在になっているかということを喜ぶということです。今は、救われて神様の子供になった、この地上だけではなく、永遠の御国が与えられています。私たちはこの地上でたくさんのものを失います。喪失の悲しみ、喪失のトラウマというのがあります。健康を失うことも、若さを失うことも喪失です。人の信用とか仕事、ステータス、大切な持ち物、愛する家族、ペット…本当に失うということは悲しいです。決して喜ぶことはできません。でも、どうでしょうか?私たちがこれから行く、天国にはおそらく失ったもの以上のものがあるのではないかと思います。全く同じではないかもしれないけど、それ以上のものがあると思います。ですから、やがて行く天国のことを思うなら、どんな中でも、喜ぶことができるのではないでしょうか?

ピリピ4:5「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」このみことばは、「喜びなさい」とあとに続くみことばです。つまりは、私たちがどうして喜べるのか、その理由を述べているのではないかと思います。このところに「主は近いのです」と言われています。これには2つの意味があると言われています。1つは、主がいつも共にいるから、喜ぶことができるということです。主が共にいたらどんなことが起こるのでしょうか?ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」そうです。すべてのことが益にされるからです。だから、私たちはどんな失意の中でもイエス様が共にいるので、喜ぶことができるんだということです。アーメンです。もう1つ、「主は近いのです」とは、「主がまもなく来られて、御国が完成するからです」という意味もあります。そうです、「私たちが待ち望んでいる、御国が来るので、地上の悲しみに終わりが来ますよ。失ったものを取り戻すことができますよ」ということなのです。キリストが再び来られるとき、死も涙も、別れも、嘆きも、争いも、罪も、弱さも、不条理もなくなるということです。つまり、そのことを先取りするならば、どんな状況の中でも喜ぶことができるということです。もし、私たちが信仰によって、意志を働かせて、神様の命令どおり喜ぶならどうなるでしょうか?本当は喜べる状況では、全くないのです。「でも、神様のご命令なので、喜びます」。するとどうでしょうか?心の中から、聖霊によって、喜びが湧き上がってくるのです。そうです。少し後からですが、感情的にも喜ぶことができるのです。つまり、私たちが主にあって、喜ぶならば、喜びが湧き上がってきて、やがて喜ぶことができるようになるということです。神様の命令は、単なる命令ではなく、必ず、保証があります。私たちが神様のご命令どおり、主にあって喜ぶなら、喜びが出てくるのです。ハレルヤ!

2.思い煩うな

 ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」このみことばによって、数えきれない人たちが助けられているのではないでしょうか?この地上では思い煩うなと言われても、思い煩うことが海の波のように次から次へと押し寄せてきます。さて、このみことばは、3つの部分から成り立っています。まず、最初、この人はどうだったんでしょうか?どういう状態だったんでしょうか?そうです。何かのことで思い煩っていたのです。何かのことで思い煩っていたから、「何も思い煩うな」と言われているのです。つまり、思い煩いはあるものだという前提になっています。みなさんの中で、2009年5月になりましたが、「この5ヶ月間、1つも思い煩ったことはありません」と言う方は手をあげてください。では、先週1週間、たったの7日間ですよ、「私は思い煩ったことがありませんよ」と言う方は手をあげてください。私は思い煩いました。先週の月曜日は午後から常磐牧師セルがあるため、午前中はお菓子とか果物を買いに行きました。また、翌日からコーチング関東があるのでお布団も借りに行きました。午後1時、牧師夫人も含めて14人の牧師たちが集まりました。わいわい、がやがや。しかし、午後5時頃から、関東コーチングのコーチの先生方が集まってきました。こっちに顔を出しながら、あっちにも顔を出すと言う感じです。その夜は、コーチング関東の打ち合わせです。翌日の火曜と水曜日は50人前後の方々が集まりました。やるべきことがいっぺんに押し寄せてきたので、かなり、思い煩いました。これは、私の問題ですが、みなさんもそれぞれの生活の場で、いろんな問題が起こり、どう解決したら良いかと、思い煩ったことがきっとおありでしょう。つまり、この地上で生きている限りは、必ず、思い煩いというものはあるということです。

 次に、このみことばには思い煩いからの解決策が書かれています。思い煩わないで、どうしたら良いのでしょうか?「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」そうです、祈りの中で、「それらすべてのものを神様のところに持って行きなさい、ゆだねなさい」ということなのです。でも、順番があります。「まず、神様に自分はどんな問題で思い煩っているのか、1つ1つ報告しなさい」ということなのです。「え?神様は私の状況をご存知ないのですか?神様は全地全能なはずですから、いちいち報告なんて不要でしょう」と思うかもしれません。違うんです。神様はもちろん、お一人でもできますが、あなたとご一緒に解決したいと願っておられるのです。ですから、私たちが自分の今の状況を1つ1つ申し上げるときに、私たちの心の中に、神様が働いてくださるのです。1つ1つ報告しているうちに、「どれが大切で、どれが大切でないか」あるいは「どういう順番でやったら良いか」、あるいは「どれが自分のすべきことで、どれは神様がすべきことなのか」など、生理整頓ができてきます。ま、このことを祈りによって、あるときは紙に書きながら報告します。とにかくごちゃごちゃした、問題を神様に差し出します。すると、どうでしょう。「そんなに複雑じゃないなー」と分かってきます。そして、自分が思い煩っていたものが見えてきます。それは、「失敗したらどうなるだろう?」「うまくいかなかったらどうなるだろう?」という心配や恐れです。先のことは、私たち人間にはどうすることもできません。ですから、「ここは私がやりますから、どうか助けてくださいと祈ります。もう、1つ「これは私の力の及ばないところです。ですから、これはあなたにゆだねます」と祈れば良いのです。ゴスペルの賛美に、「キャスト、オール、ユアー、ケアーズ」という賛美があります。「すべての心配事をイエス様に投げ出しなさい」という意味です。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。皆さんが、夜、心配ごとがたくさん募ってきて、眠れないときがあるかもしれません。そのときは、「羊が一匹、羊が二匹」と数えるのではなく、1つ1つ、心配事を主にゆだねるのです。でも、それだけではありません。「感謝をもってささげる祈りと願い」とありますので、これまで主がなしてくださった、良いことも思い出すべきです。すると、その祈りがとっても効果的になります。

 そして結果的にどうなるのでしょうか?「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」「そうすれば」つまり、神様のところに報告して、ゆだねるべきことをゆだねたらです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」その人の心と思いがどうなるのでしょうか?人のすべての考えにまさる神の平安がやってくるということです。しかし、この意味がわかりそうでわかりません。コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンというアメリカの現代訳版ですが、このように訳しています。「そのようにキリスト・イエスに属するならば、神様はだれもが理解できないような平和であなたを祝福します。そして、この平和はあなたの感じ方と考え方を支配するでしょう。」この訳からも分かるように、神様は環境とか状況を変える前に、あなたの心とか思い、あるいは感じ方と考え方を変えるということです。ちょっと整理しますと、私たちの心(ハート)とか感じ方というのは、感情面を表しています。心配や恐れ、いだらだち、憎しみ、怒り…これらはマイナスの感情です。しかし、神様の平安がこれらを支配して、取り除いてくださるということです。また、私たち思い(マインド)とか考え方というのは、感情とは別の面です。思いとか考え方を変えなければ、どうにもなりません。でも、神様の平和が私たちの思いとか考え方を支配し、神様のみこころに合致するようにしてくださるならばどうでしょう。私たちの思いが神様の思いと同じになるなら、もうしめたものです。私たちはこの世と罪の中で、思いや考えが混乱させられています。でも、神様が私たちの心に平和の支配をくださいます。そうすると、私たちの思いや考えがピッシッと正されるのです。

 私たちは喜べないとき、あるいは思い煩ったとき、状況や環境を変えてくださいと神様に願います。でも、それは神様の方法ではないようです。神様は、まず私たちの心と思いが変えられることを願っておられます。おそらく、私たちの心と思いが問題にだけ集中し、がんじがらめになっているわけです。でも、それら1つ1つを神様に報告していくと、神様の平和が私たちの心と思いを支配してきます。その後に、神様は私たちと一緒に、問題を解決してくださるということです。ですから、何よりも先に私たちが神様の方に向く必要があるということです。旧訳聖書にこのような話があります(ヨシュア記5章)。あるとき、ヨシュアがこれからカナンの地に攻め上ろうとしました。そのとき、天使が抜き身の剣を持って、目の前に立ちはだかりました。ヨシュアは、天使に聞きました。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると、天使は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と答えました。ヨシュアは足のはきものを脱いで、主を伏し拝みました。つまりこういうことなのです。神様はヨシュアと共にいるけれど、ヨシュアが神様と共にいるかどうかを天使長は確かめに来たのです。天使は私たちの言うことは聞きません。もし、私たちが神様と共にいるならば、天使は一緒に戦ってくれるということです。ここに1つの法則があります。私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されていることが何よりも大事なのです。私たちは状況とか環境が変わることを願いますが、それは次の段階だということです。もし、私たちが神様と共にいるならば、神様は私たちと一緒に、状況とか環境を変えてくださるのです。神様は私たちと共におられます。どうか、私たちの方も神様と共にいることを喜びましょう。あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただきましょう。そして、私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されますように求めましょう。

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2009年5月17日 (日)

国籍は天にあり      ピリピ3:17-21

 教会によっては、人々を集めるために、いろんなプログラムを催すところがあります。それも良いことだと思います。でも、聖書のみことばをまっすぐに語るならば、人々が集まり、人々が救われると信じます。なぜなら、福音にはそのような力があるからです。良い話とかためになる話ならば、世の中にたくさんの講演がありますし、著名な方が語ってくれるでしょう。でも、この聖書からのメッセージは、人々に命を与えることができる唯一のものです。少し、気になるのは献金でしょうか?別にささげなくても良いのですが、そこも本当は恵みなのです。神様はささげた人の産業を祝福し、健康を与え、幾倍もの祝福をもって報いてくださる方です。どうぞ、「献金を取られる」と思わないでください。信仰をもって種をまいたならば、30倍、60倍、100倍もの刈り取りがあることを期待してださい。

1.彼らの行き先

 3章の19節を、日本語の聖書でみますと、「彼ら」ということばが4回出てきます。彼らというのは、キリストの十字架を敵として歩んでいる人たちです。直接的には、パウロが宣べ伝えている福音に反対し、迫害しているユダヤ教徒です。でも、キリストの十字架を信じない人たちは、今も、世の中には、たくさんいます。そういう人たちも、「彼ら」の中に含まれます。では、彼らはどのような行き先、どのような生き方をしているのでしょうか?19節をみますと、第一に「彼らの最後は滅びです」と書いてあります。リビングバイブルは「彼らの行き着く先は永遠の滅びです」と訳しています。ある英語の聖書は「hell地獄に向かっている」となっています。だから、パウロは18節で「涙をもって言う」と書いてあるのです。第二番目は「彼らの神は彼らの欲望であり」と書いてあります。「欲望」は原文では「腹」となっていますが、物を消費することと関係があるのかもしれません。自分の欲望を満たすことが、第一になっているということです。第三番目は「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」とあります栄光というのは普通、輝かしくて誉のあることです。でも、彼らは恥ずべきことを誇っているということです。第四は「彼らの思いは地上のことだけです」とあります。彼らにとっては、地上の生活がすべてであり、死んだ後のことなどどうでも良く、「生きているうちが花だ」と思っている人たちです。

 私は講壇から今でさえ、立派なことを語っていますが、かつては私も「彼ら」の一人でした。今でも、「あのときカワサキのバイクを買えばよかったなー。あのグリーンのモトクロッサーを乗りたかったなー」。「なんで、あのときカローラのレビンを無理してでも買わなかったんだろう」。そういう欲望が片隅に残っています。私は25歳のときクリスチャンになりましたが、私の生きる目的は、「生きているうちに自分の夢をたくさん実現し、楽しいことをたくさんやってみること」でした。JUNの服を着て、かっこよい車に彼女を乗せる。英語を勉強してアメリカに行きたい。飯のために仕事もするが、食べて飲んで、面白おかしく生きる。しかし、人と争って生きていたので、憎しみと、怒りが心に満ちていました。「神なんかいるか?何がキリストだ。宗教なんか弱い人間が勝手に作ったものだ。時代おくれな聖書とか読んで、本当はかわいそうな人たちなんだ」と思っていました。そして、自分がやってきた悪いことや破廉恥なことを人々に自慢していました。「したたかで、トッポイ人生こそ!私の生きる道」。そんなふうに生きてきたんですね。それがどうでしょう?キリストに出会って、180°変わってしまいました。救われて、半年後に神学校に行きましたが、小林先生という有名な先生が教室に入るなり、「この中には肉の匂いがぷんぷんする」と言いました。「ああ、俺のことだろうな?」と思いました。きよめられていないまま、神学校に行ったので、目立っていたのでしょう。28歳のとき、とっても真面目で私と正反対な京子さんと結婚しました。そのとき、大川牧師が私になんと言ったでしょう。「あんな清い人を泣かせるなよ」と言いました。先生は、私のひどかった人生を見て、まだ不安があったんですね。でも、みなさん、毎週、語られる大川牧師の恵みのメッセージで、少しずつ、少しずつ変えられていったのであります。北風は旅人のコートを強い風で脱がそうとします。すると旅人はよけい、ぎゅっとコートを抱きしめるのです。律法主義はそのように、罪ある人をますます硬くなにします。しかし、太陽の熱はどうでしょうか?ぽかぽか暖められると、自分からコートを脱ぎます。同じように、人は愛と恵みを受けると、自分から進んで罪を捨てなくなるのです。これが福音の力です。私は福音の力を体験して、牧師になったのです。過去がひどければ、ひどいほど、福音のすばらしさ、福音の力強さを語ることができるのです。ハレルヤ!

 どうでしょうか?みなさんの関心事はどこにあるでしょうか?消えてなくなるこの地上のことでしょうか?それとも永遠に続く御国のことでしょうか?さきほど、腹の話をしましたが、「現代は大量消費が良し」とされています。人々は大きな胃袋をもって、もっとほしい、ほっとほしいと言います。また、政府やCMは、「もっと消費しなさい。いっぱい消費して不景気を吹き飛ばすんだ」とけしかけます。現代においては節約とか貯金は奨励されません。貯めているお金を使って、流通させなさい。たくさん消費するならば、たくさん生産できる。消費イコール、景気アップ、こういう図式になっています。私は経済の専門家ではありませんので、なんとも言えませんが、隣の韓国はどうでしょうか?今から30,40年前は、ものすごく貧しかったです。そのとき、キリスト教会がリバイバルし、教会を通して、国や人々が豊かになりました。でも、今はどうでしょうか?離婚率、堕胎率はアメリカの次ぎぐらいになっています。アメリカもキリスト教国と言われていますが、模範となっていないところがたくさんあります。確かに経済力アップ、物の豊かさは魅力です。私たちは、豊かさを一旦、経験したならば、もう、ひもじい生活はできません。パソコンが1台あったら、もう1台欲しくなります。地デジになったので、大画面のテレビも買いたいです。海外旅行も安くなったので、いろんな国へ行きたい。私たちの欲望はこれで良いというところがありません。昔、「うわばみ」という、架空の動物を本で見たことがありますが、現代の私たちの胃袋は「うわばみ」になっています。これで十分だ、ということがない。「もっとほしい、もっとほしい、もっとほしい」と叫んでいます。

 みなさん、これが地上に住んでいる私たちの欲望です。でも、どうでしょうか?私たちは肉体のため、あるいは心を喜ばすため、一生懸命がんばっています。食べ過ぎたからこんどはダイエットします。いろんなカルチャー・スクールへ行ったり、映画をみたり、セックスや買い物を楽しんだりして、心を喜ばそうとします。でも、どうでしょうか?私たちは神のかたちに似せてつくられた存在です。神様は霊ですが、私たちも霊的な存在です。体や心がたとえ満足しても、霊はカラッカラで、やせ衰えています。いくら食べても物足りない。いくら飲んでも、酔いがさめたあとはものすごく空しい。いくら持っても物足りない。いくら楽しいことをしても、これで良いのか?死んだら終わりじゃないか。この世に、永遠とか真理というのがあるのだろうか?私は何のために生きているんだろう?生きる目的というのがあるのだろうか?だんだんと、考えてきます。でも、人にはこんなことは言えません。「何、馬鹿なこと考えているんだ。ちょっと、おかしいんじゃないの」と言われます。伝道者の書の記者は「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。…振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は私たちに永遠を思う思いを与えてくださいました。人間は死んだら終わりではなく、その先、何かあるはずだ。人間が死を恐れるのは、その先、どうなるか分からないからです。神様は私たちに、強烈なラブコールを与えています。それは私が御子イエスを与えたので、あなたがには滅んでもらいたくない。どうか信じて、永遠のいのちを得てほしい。そのために、父なる神様は御子イエスを十字架につけて、罪の代価を支払ってくださったのです。神様がくださった、この世のものを楽しむことは悪いことではありません。この自然は、神様が私たちに与えてくださったものです。でも、人類はそのことを忘れ、我が物顔に、自然を破壊してでも、大量消費に走っています。私たちは、本当は、所有者ではなく、管理者なのです。もし、私たちが神様との関係を正し、みことばに従っていくならば、この時代はもっと変わると信じます。

私たちは、この世のことだけに目をとめないで、神様との関係を、永遠を求めるべきです。私たちは神様によって造られた存在です。でも、私たちは神様を離れ滅びに向かっています。私たちは、向きを変えて神様に立ち返り、みこころを求め、御国を求めるべきです。

2.私たちの行き先

 ピリピ3:20-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」「けれども」となっていますので、キリストの十字架に敵対している彼らとは対照的に、私たちはどうなのかということをパウロは書いています。国籍ということばは、他の聖書には、「本国」とか「ふるさと」とも訳されています。みなさん、日本人である私たちがイギリスに行きたいとするならば、どうなるでしょうか?まず、パスポートが必要でしょう。短期間の旅行なら良いかもしれませんが、そこに住むとなるとビザとか国籍が必要となります。先日、パスポート偽造で入国していた外国の方が強制送還されました。お嬢さんは、中学を卒業するまで滞在できるようですが、ご両親はそうではありませんでした。残念ながら、日本国籍がない場合は、長い間、日本にいることはできないのです。天国もそうです。多くの日本人は、死んだら、天国へ行くと考えています。残念ですが、死んだ人がみな天国に行けるわけではありません。もし、悪人も善人も、みな天国に行けるとしたら、天国はこの世と何の変わらないところとなるでしょう。そうじゃありません。イエス様を信じて、新しく生まれ変わった者だけが、天国に行くことができるのです。神様のところには「いのちの書」があって、イエス様を信じて、契約を結んだら、そこに名前が記されます。キリスト教は、いわば、契約の宗教です。「主よ、主よ。私は生前、教会の礼拝に行きましたよ。私の家内は熱心なクリスチャンでしたよ。私も誘われて、毎週じゃないけど、教会に行ったことがありますよ。私のこと覚えているでしょう」。主は「さあ、あなたのことは全く存じ上げません」とおっしゃるでしょう。神様と契約を結んでいなかったからです。たとえ、教会に何べん行こうとも、たくさん良いことをしたとしても、契約を結んでいなかっなら天国には入ることはできないのです。

 では、天国とはどこにあるのでしょうか?「天」と書いてありますので、雲の上、天空にあるんじゃないかと思っている人もいます。昔、ソ連の時代、ガガーリンが人類史上初めて、人工衛星に乗り、宇宙に飛び出しました。彼は「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったそうです。あちらの国は、唯物論、見えるものしか信じません。これもソ連での話しですが、小学校のあるクラスの中で、たった一人、クリスチャンがいました。学校の先生は、みんなに「この中で、まさか、神様を信じている者はいないだろうな」と言いました。すると、一人の少年が「ぼくは信じています」と答えたそうです。先生は怒りに満ちて言いました。「宇宙へ行った、ガガーリンが何と言ったか知っているか。まわりを見渡したが、神は見当たらなかった、と言ったんだ。だから、神はいないんだ」。すると少年は答えました。「聖書には、心のきよい者は、神を見ると書いてあります。きっと、ガガーリンは、心がきよくなかったのではないかと思います」。先生は、何も答えられなかったそうです。聖書には宇宙とか空という意味の「天」もありますが、神様がおられるところも「天」と言います。パウロは「第三の天」とも言いましたが、私たちの住むこの世界ではなく、次元の違うところではないかと思います。天国は、神の国とも言いますが、正式には「神の支配」という意味です。神の支配の及ぶところ、そこが天国であり神の国です。ですから、目には見えませんが、今、このところにも神の国が及んでいるのです。イエス様は「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、「神の国は目には見えないけど、あなたが手のとどくところに来ていますよ。さあ、方向転換して、神の国に入りなさい」ということなのです。でも、どうでしょうか?意外と、日本人は入ろうとしません。飛行機に乗って、海外に旅行する人は、年間、何百万人もいますが、天の御国に入ろうとはしません。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これはどういう意味でしょうか?当時、天の御国に一番近いと思われていた宗教家たちは入りませんでした。なんと、罪人や収税人、遊女、異邦人が「われ先に」と押し入ったのです。デパートのバーゲン・セールでは、オバタリアンが、人々を押しのけて、良い品物をゲットしようとします。コンサート会場などでも、「われ先に」と良い席を取るでしょう。でも、どういう訳か、日本の場合、天の御国はあまり人気がありません。神様は非常に残念がっています。日本人は上品すぎて、あるいは満ち足りていて、「激しく攻める者」が少ないのでしょうか?おそらく、天の御国の価値が分からないんでしょう。無知なんです!猫に小判なんです。それだったら、何とか私たちが天の御国の福音を伝えなくてはなりません。なりふりかまわず、一人でも多くの人が、天の御国に入るように、福音を伝えるべきです。

 また、この箇所には、イエス様が世の終わり向こうからやって来るとも書いてあります。天国は私たちの方から行くだけではなく、向こうから近づいて来るものなのです。イエス様が再び来られるとき、どのようなことが起こるのでしょうか?そうです。生きている人は、そのまま栄光の体に変わり、死んだ人は復活します。そして、今度は、完成した天の御国に住まうのです。そうです。今は、天の御国は私たちの目には見えません。なぜなら、まだ完成していないからです。神様は、今、御国の民を集めている最中です。でも、その数が満ちると、目に見えるかたちで神の国がやってきます。みなさん、王国には3つのものが必要です。第一は王様、第二は臣民、第三は領土です。これら3つのものがやがて、そろうのです。天国は精神的なものとか、単なるおとぎばなしではありあません。現実に、必ず、やってくるものなのです。「我らの国籍は天にあり」、これは、キリスト教の墓地で、もっとも多く彫られているみことばではないかと思います。キリスト教の墓地には、希望があります。彼らは死んで亡くなったのではなく、眠っている状態です。永眠ではなく、休眠であります。世の終わり、イエス様が来られたなら、栄光の体によみがえり、天に引き上げられるのです。ハレルヤ!パウロは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と言っています。卑しいからだとは、やがて朽ちてしまう肉体という意味です。みなさん、この肉体では天国で永遠に暮すことはできません。この肉体はこの地上だけのものです。永遠の天国に住まうためには、朽ちない栄光のからだが必要です。イエス様は、全能の力で、私たちを変えてくださいます。それはいつでしょう?イエス・キリストが世の終わり、再び来られるときです。そのときこそ、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54)という、みことばが実現するのです。ハレルヤ!

 皆さん、私たちには希望があります。みなさん、希望の最たるものは、復活です。私たちの国籍は天にあり、そこで永遠に住まうことができるということです。天国は精神的なものでも、作り話でもありません。この目では見えませんが、今まもなく、完成しつつあります。その前に、神様は御国に入る人たちを応募しているのです。内村鑑三といえば、明治時代で最も有名なクリスチャンです。内村鑑三師にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。東大の総長だった矢内原忠雄氏がキリストを信じて、内村鑑三師の弟子となったばかりの時、内村師の愛する娘「ルツ子さん」が18才で死去しました。ルツ子さんと矢内原忠雄氏は同じ年でした。内村鑑三師は、愛娘ルツ子さんの告別式の時、「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と挨拶されました。その言葉は、キリストを信じたばかりの矢内原忠雄氏にとっては、内村鑑三師は、愛娘に死去されて、変な妄想を云われたと思ったほどでした。しかし「ルツ子さん」の棺を雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地に掘られた穴に埋められるその時、内村鑑三師は、一握りの土をつかみ、高く差し上げて、「ルツ子、万歳!」と叫びました。その声を聞いた時、矢内原忠雄氏は雷に打たれたように全身がすくんで動けなくなり、「これが本当のキリスト教だ」と感じ、その生涯を、天国を目指して歩みつづけたということです。内村鑑三師のそのころの詩があります。「私たちは四人家族だった。しかし今も四人だ。戸籍から一人の名は消えたが、天の記録に一人の名は増えた。四角の食卓の一方は空しく、三度の食事に空席ができたが、しかしなお私たちは四人だ。残された三人はもっと親しくなった。天にいった娘が愛のきずなとなっている。そしてやがて天国で再び一緒に相会うのだ。「けれども、私たちの国籍は天にあります」。お祈りいたしましょう。

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2009年5月10日 (日)

目標を目指して      ピリピ3:12-16

 森光子さんは、昨日、89歳の誕生日でした。そして、昨日演じた「放浪記」は、東京・帝劇で前人未到の上演2000回目だったそうです。彼女は毎日欠かさず150回のスクワット、軽めの屈伸運動に近いものをしておられます。お年を感じさせぬ容貌とバイタリティから「妖怪」とも一部で揶揄されているそうです。彼女は、紫綬褒章(しじゅほうしょう)、文化勲章を授与されたこともあります。なぜ、こういう話をするかと言うと、「神の栄冠を得るために、目標を目指して走る」というのが、きょうのテーマだからです。作家のフランチェスコ・アルベローニは「本当の老化は、夢も見ず、自分の可能性にも見切りをつけたところから始まる」と言いました。またCSルイスは「新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、歳をとりすぎたということはない」と言いました。それでは、きょうも、聖書のみことばからご一緒に学びましょう。

①キリスト教における「救い」

 キリスト教における救いとは何でしょう?私たちは「キリストを信じて救われました」と言います。では、どういう意味で「救われた」のでしょうか?私たちはキリストによって罪が赦されたので、地獄に行ってさばきを受けることはありません。積極的な意味では、キリストによって義と認められ、神の子供になったということです。これは、キリストを信じることによって、神様との関係が変わったためです。でもどうでしょうか?私たちの実質は、相変わらず罪を犯す存在であり、弱さや罪の性質も宿っています。それでも、私たちは主の御霊によって、栄光から栄光へと主の似姿へと変えられていきます。中身が変えられて、成長していかなければなりません。そういう意味では、まだ救われつつある存在です。これを神学的には「聖化」と言います。完全に救われるのは、キリストが再臨して、神の国が完成し、私たちのからだが栄光の体に変えられるときであります。死んだ肉体が復活する、つまり肉体が贖われるときこそが、救いが完成するときなのです。そのときは、罪の性質も弱さも病もありません。それを神学的には「栄化」と言います。ですから、クリスチャンはみな、聖化から栄化へのプロセスを歩んでいる存在なのです。

②パウロの目標

 それでは、パウロが既に持っているものと、これから得たいと望んでいるものは何でしょうか?使徒パウロは、キリストを知り、キリストを得ました。9節には、「キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を得た」と書いてあります。「キリストを信じる信仰によって義と認められた。」これはパウロによる救いの定義として最も有名なことばです。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙に、そのことが詳しく書いてあります。12節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会い、まったく変えられました。また、第三の天に引き上げられ、特別な啓示をいただきました。それなのに、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」とはどういうことでしょうか?確かに、パウロはキリストを知り、キリストを得ました。そして、神様から義と認められました。でも、パウロはキリストを完全に知っているわけでもないし、またパウロ自身が完全にされているわけでもありません。人間ですから、この地上で神様のことが全部分かるということはありえないでしょう。でも、終わりの日、神様のことがはっきりと分かる日がくるのです。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」アーメンです。私たちは神様のことをほんの一部分しか知りません。だから、今は、信仰が必要なのです。でも、やがてはっきりと分かる日がきます。また、パウロは既に義とされていますが、さらには、義の栄冠を得たいと望んでいます。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」私たちもパウロと同じように義と認められました。しかし、恵みによって、正しい生活を送り、義の栄冠をいただきたいと思います。

 もう1つパウロが目指していたことは何でしょうか?それは神様から召された使徒としての働きを十分に成し遂げることです。パウロは、異邦人への使徒として神様から召され、福音が届いていない地域に出かけて、教会を設立しました。小アジアへ行って宣教し、小アジア全体に福音が広がりました。その次はギリシャに足を運びました。コリントの人たち対して「神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです」と言いました。また、パウロはローマの人たちにこのように書き送っています。「もうこの地方には私の働くべき場所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました。」(ローマ15:23)。パウロは、ローマで福音を宣べ伝えてから、イスパニヤ、現在のスペインに行きたいと望んでいました。パウロはⅠコリント15章で「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と自負したほどです。でも、今は、どうでしょうか。パウロはローマで囚われの身となっています。神様のために働きたくても、働けない状況です。私だったら神様に文句を言いたいところです。でも、パウロは何と言っているでしょうか。13節「ただ、この一事に励んでいます」14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロには自分の計画や思いがありました。でも、それ以上に、神様ご自身が、私ができないことをしてくださるに違いない。たとえ、こういう状況でも、「ただ、この一事に励む」と言うのです。それは、神の栄冠を得るためであります。

 

③私たちが持つべき目標

 では、私たちが目指すべき目標とは何でしょうか?15節「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」16節「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」と書いてあります。私たちは、使徒パウロと程度差はあるかもしれませんが、基本的には同じような目標をもって生きるべきであります。私たちはイエス様を信じたことにより、神様から義と認められています。こんどは、中身がきよめられ、キリストに似るように成長していかなければなりません。つまり、聖化され、やがては栄化されることを目指すわけです。また、それぞれ神様からいただいた使命を全うすべきであります。神様はパウロだけではなく、私たちにも栄冠を与えたいと願っておられるからです。Ⅰコリント9章には、「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。…私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」と書いてあります。冠の種類は1つではないようです。Ⅱテモテ4章には「義の栄冠」があります。黙示録2章には死に至るまで忠実なら「いのちの冠」が与えられると書いてあります。Ⅰペテロ5章には神の羊の群を牧する人は「しぼむことのない栄光の冠」を受けると書いてあります。はっきりとは分かりませんが、神様からの使命を全うした人には、何らかの賞が与えられるようです。

私は小学校のときや中学のときは、何かの賞をもらったことがありますが、大人になってからはほとんどありません。「賞を与えるとか与えないというのは、不平等じゃないか」という意見もあるかもしれません。でも、ゴルフでも、野球でもスポーツ競技には、必ずと言ってよいほど、何らかの賞があります。カーレースにもありますし、競馬にもあります。文学や芸術の世界にもあります。世界的に有名なノーベル賞もあります。ウェブに「賞の事典ファイル」というのがあり、日本でどのくらいあるのか調べてみました。科学賞、芸能賞、美術賞、文学賞、文化賞の5部門。これは新聞社、総理府、財団、○○協会、都道府県が出している賞ですが、5部門合わせていくつあるでしょうか。日本だけで、ざっと3,205ヶありました。中には「一休とんち大賞」というのもありました。様々なスポーツの競技を除いてこれくらいあるのです。地上では、賞をいただけるか分かりませんが、それよりも天国で何らかの栄冠を受けたいと思います。

パウロは、神様から賞を受けるための大切な秘訣をここに書いています。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む…」ということです。うしろのものを忘れとは、過去の失敗や悲しい出来事を忘れるということです。結構、私たちは過去で生きています。心理学では過去が現在に多大な影響を与えていると言います。あるところは悔い改め、またあるところは癒しが必要でしょう。でも、最終的には神様のもとにそれらを置いて、忘れるということです。しかし、それだけではありません。成功したこと、「あのときは頑張ったなー」という誉も忘れるということです。私も「新会堂は信仰によって建てたなー」と自負していました。でも、16年たったので、もう新会堂とは言えません。あと、4つくらいは建てたいですね。私たちは過去に生きてはいけません。「ひたむきに前のものに向かって進む…」とは、ランナーが一生懸命に走っている姿を想像します。これは前向き、肯定的な生き方です。日本人はあまりにも、後ろ向きで否定的です。また、パウロは「ただ、この一事に励んでいます」と言いました。パウロにゆだねられたものは、使徒として異邦人の世界に教会を建てることでした。パウロは使徒職という一事に励みました。もちろん、牧師や教師、伝道者の働きもしました。でも、そういう働きは他の人に任せて、新しいところへ、新しいところへと進んでいきました。私たちが「ただ、この一事に励む」べきことは何でしょう?一事ですから、そんなに多くはないはずです。いや、1つです。家事や仕事もあるかもしれません。でも、神様の前に、私はこの一事に励みますというものが必要です。他のものは、その一事を支えるものかもしれません。いくつあっても良いですが、神様の優先順位はあるはずです。先週、林兄弟の仕事の関係者が、教会の外壁とか屋根を見てくれました。西脇さんと言う人ですが、名刺を見てびっくりしました。表には「ミッションン西脇」と書いてあります。裏を見たら、「マイミッション」とあり、いくつか箇条書きがありました。一般工事、特殊工事、教会工事、そしてミッション。このミッションの項目の文字が一番大きくて、「伝道、カウンセリング、宗教に関しての相談」と書いてありました。そして、一番傑作だったのが大きな字で「お部屋のリフォームから心のリフォームまで」と書いてありました。彼は建設工事をしていますが、本当は調布教会の伝道師でもあるそうです。

私たちの人生には限りがありますので、どれも、これもというわけにはいきません。この一事とは何でしょう?それは、神様があなたに与えた賜物を用いて、召命に忠実に生きるということです。それぞれ、タラントの種類やタラントの量は違います。任せられたものが1タラントであろうと2タラントであろうと、大事なのは忠実に果たすということです。やがて、神様の前に立つときがきます。「あれー、私の成すべきことってなんだったっけー」ということのないようにしましょう。今から8年くらい前のことですが、イスラム過激派がある神学校を襲いました。二人は大きな刀で切られ、一人は完全に死にました。もう一人も首を切られて死にました。隋液が出て、首がぷらんぷらんの状態で、かけつけた医者は「これはだめだ。でも、棺にこのまま入れるのは可愛そうだから、首だけ縫っておこう」と荒っぽく縫いました。ほったらかしにされていた彼は2時間後に生き返りました。その後、奇跡的に傷が治り、自分が天国に行ったことを人々に証しました。彼の証によると、天国にはいくつかの部屋があったそうです。救われても不忠実だった人の部屋、一生懸命忠実に仕えた人の部屋など、いくつかあったそうです。部屋の中で、人々はそれぞれ、何かを問われているようだったということです。みなさん、どうでしょうか?神様はすでに、あなたの心に「あなたはこれをもって神様の栄光を現しなさい」という賜物と召しを与えておられるのではないでしょうか?私たちは多くのことができません。神様が与えた賜物と召しに焦点を絞る必要があります。

 

④目標を設定するときの注意点

 目標設定の場合重要なことは、できるだけ具体的であるということです。ビジョンとしてあげるだけではなく、具体的にどのようにするのか、どの程度にするのか書き上げる必要があります。そして、短いことばで「私の神様から与えられた目標はこれ、これです」と言えたらすばらしいです。みんなに言う必要がありませんが、神様とコーチには言ったら良いですね。コーチは自分の夢を押し付けるのではなく、その人に与えられた夢を助ける人です。また、目標をあげるもう1つの注意点は、目標は測定可能であるべきです。何年後にこのくらいとか、何年後にこうなると明記しておけば、そのときが来たとき、達成できたか達成できなかったが分かるからです。たとえば、「私は全世界に出て行って福音を宣べ伝えます」というのは大き過ぎます。どこに行くのか、何年間で、どのくらいの人に福音を宣べ伝えるのか。そして、何人の人が救いに導かれるのか。そういうふうに測定可能であるべきです。私は総会資料に「10年間で350名の礼拝になるように」と書きました。350名は、5つの枝教会、合わせてです。同時に、5人の牧師、50人の信徒リーダーが与えられるということです。私が赴任してから、22年になりました。「未だ100名の礼拝も達成していないのに、何を言うんだ。これまで何度も、しゃべってきたのに空砲じゃないか」と私自身もそのように思います。でも、目標をあげないで、このまま行くと、あっという間に10年が来て、引退の年を迎えるでしょう。実はきょうの午後、練馬教会の「主任牧師セレブレーション」に招かれています。横田義弥副牧師が、小笠原先生に代わって主任牧師に就任します。小笠原先生は72歳です。それでも、後10年後に40の教会を生み出すというビジョンを掲げています。40というのは教会外のセルを含めてということですが、それでも大きな風呂敷かもしれません。小笠原先生は「目標達成はもちろん重要だが、そこへ行くまでのプロセスがもっと重要です」とおっしゃっておりました。

 でも、みなさん数字をあげることの弱点があります。それは、相手が絡んでくるものは不確実な要素が多いということです。教会が何名になるようにというのは、相手がいることなので、どうなるか分かりません。ビジネスマンが売上をこのくらいにしますと言っても、相手がいますので、どうなるか分かりません。主婦が「夫や子供から良い主婦と言われるように努力します」という目標を立てたとしても、相手がいるのでどうなるか分かりません。でも、だれも阻止することのできない目標の立て方があります。それは、自分に関した目標であります。たとえば、350人集まる教会に相応しい牧師になるというのは、だれも妨げることができません。人格的にこのような人になり、このようなスキルを身につけ、このようにチャレンジをする。そういう、自分に対する目標を立てることができます。また、ある人は、この仕事や奉仕をするのに、このような技術を身につけ、このような努力をし、このような人格になります。こういう目標はだれも阻止することができません。ですから、自分に関する目標を立てるならば、そのようにふるまい、そのように努力するようになるでしょう。まず、私たちは自分に対する思いを変え、思いを新しくする必要があります。周りの人や環境を変える前に、自分を変えていく。自分のライフスタイルをより良いものへと変えていく。そうするならば、結果的に、あなたに影響されて、周りの人や環境が変わっていくのではないでしょうか?夢と希望を持っている人、肯定的で前向きの人、そういう人のところに人が集まるものです。どうぞ、神様から与えられた、「賜物と使命はこれだ!」とつかんで、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。神様はあなたのために、すばらしい賞をご用意しておられます。

 きょうは「母の日」でした。母の日にちなんで、何か語らなければなりません。先日、家内に聞いたらこんなことを言っていました。子供が小さいときは、どこかへ行くという計画が立てられない。急に熱を出していけなくなる事がよくある。そのとき、怒ったり、がっかりしないように、計画を立てないで流れに任せるようになったということです。そういう意味で、お母さんは自分の目標、自分の計画どおり突き進むというよりも、夫や子供をどうしても優先させ、彼らの目標や計画がかなうように、自己を犠牲にするところがあるのかもしれません。かなり前のことですが、長野さんという婦人牧師が詩集を出しました。そこに「お母さんは、削り節。自分を削って与える削り節」と書いてありました。ちょっと悲しい感じもしますが、聖書には「受けるより、与える方が幸いです」と書いてあります。神様から与えられた、母としての使命というのがあります。それを果たすときに、やはり神様からの報いが与えられることを信じます。

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2009年5月 3日 (日)

損、ちりあくた      ピリピ3:1-11

 ゴールデンウィークの前半ですが、共に集まり、神様を礼拝できることを感謝します。礼拝の意義の1つは、「神体験」です。この場で、神様を体験することができるということです。聖書の学びとか、研究、悪いことではありません。良いことです。でも、このような礼拝は、神様と出会うことができる幸いな機会を与えます。みなさんは、神様、イエス様と出会っておられるでしょうか?きょうは、イエス様と出会ってすっかり変えられたパウロの話から始めたいと思います。

1.パウロの起承転結

前半は、起承転結ふうに、お話ししたいと思います。新聞には、4コマ漫画が載っていますがが、みな起承転結になっています。画像を見ながら、ご一緒に考えましょう。

①犬(パウロの敵)

 愛犬家には大変申し訳ありませんが、パウロは「犬に気をつけなさい」と命じています。当時は、家畜とかペットの犬は少なくて、野生の犬がたくさんいたようです。それで、聖書の中では、犬は「不潔な人、汚れた人」を指すことばであり、はなはだしい侮辱を意味していました。パウロはどのような人たちを「犬」と呼んだのでしょうか?2節には「悪い働き人であり、肉体だけの割礼の者」たちと書いてあります。彼らは、人間的なものにより頼み、自分を誇っていました。つまり、犬とはパウロに反対していた、ユダヤ教徒のことであります。パウロが福音を伝え、教会を設置しました。ところが、彼らはその後やってきて、「信仰だけでは救われない、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」と妨害したのであります。パウロにとって、彼らは、福音の敵でありキリストの敵でした。だから、犬と呼んだのであります。ガラテヤ書6章には、「割礼を受けるというのは、肉を誇ることである」と書かれています。彼らは「自分たちこそ本当のユダヤ人である。アブラハムの子孫、ダビデの子孫である」と誇ったのでしょう。犬でも「血統書付き」というのがありますが、そういう部類かもしれません。

②肉(パウロの誇り)

 パウロは「私もあなたがたのように誇ってみましょう」と自慢しています。でも、この自慢話は、彼らの次元に自分を合わせて、あとからひっくり返すためです。パウロはこういう話法を、しばしば用いています。Ⅱコリント12章でも「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです」と言いながら、自分が啓示を受けたことや、だれよりも苦労したことを述べています。ここで「人間的なもの」と訳されている、もとのことばは「肉」であります。パウロはあえて、自分も肉にあって誇っているのです。ざっと見ますと、肉において頼れるものが7つほど上げられています。「八日目に割礼を受けたこと」「イスラエル部族に属し」「ベニヤミンの分かれの者」「きっすいのヘブル人」「律法についてはパリサイ人」「教会を迫害するほどの熱心さ」「律法による義では非難されるところのない者」。おそらく、パウロほどのきっすいのユダヤ教徒は、いなかったのではないかと思います。また、パウロはタルソでガマリエルの門下生でしたから、学問的にもエリート中のエリートでした。バイオリストですと、芸大を主席で卒業し、ドイツに留学し、だれか有名なソリストに師事したとか?チャイコフスキー国際コンクールで優勝したとか?よくわかりませんが、音楽家でしたらそういう感じでしょう。

 

③ふん(パウロの回心)

 パウロはキリストに出会って、大転換を体験しました。そのことが3章7-8節で述べられています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」パウロは人間的には大変、得になるようなものが、損と思うようになりました。それらは、キリストと比べたら、「ちりあくた」となったということです。「ちりあくた」とは、英語の聖書ではdung、「ふん」になっています。口語訳は「ふん土」となっています。「ふん土」とは堆肥とか肥やしのことです。生まれ、血統、身分、学歴、自分のまじめさ、そういうもの一切が、損であり「ふん土」とはどういうことでしょう?人間的なものは捨てて、キリストに頼りなさいということです。パウロはキリストを得、キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を持つことができました。つまり、キリストに出会ってから、すべてが変わったということです。みなさんは、クリスチャンになってそのような大転換を経験したでしょうか?回心ということばは、英語でconversionと言いますが、もとの意味は、変わる、転換する、変換するということです。今まで価値のあったものが、「くそくらえ!」まったく価値のないものになったということです。そういう変革をパウロは経験したのです。

④冠(パウロの目標)

 回心したパウロが目指すものは、復活でした。9-11節「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」この文章を読みますと、パウロが望んでいることは、死んでから復活するということだけではないようです。死ぬような苦しみにあずかるとき、つまり、キリストの死と同じ状態になるとき、復活に達することができるということです。自分が「ああ、もう死んでしまうんじゃないか」という窮地に立たされたときに、復活の力が働くんだということです。まさしく、大逆転であります。パウロはそれを何度も体験しています。私たちもイエス様を信じた後も、試練や困難がやってきます。そのとき、自分の中にまだ混在していた人間的なものが砕かれ、取り去られる。そして、キリストの復活のいのちをいただいていくという作業が残されています。けちょんけちょんにやられて、死のさまに等しくなる。しかし、そこから復活の力が現れ、栄光から栄光へと変えられるということです。さらに、パウロが最終的に望んでいることは何でしょう?これは来週、学ぶ箇所ですが、14節にあります。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」アーメン。そうです。パウロが目指しているものは、栄冠であります。きっとパウロはギリシャのオリンピック競技でいただく栄冠をイメージして書いているのかもしれません。

 パウロンの起承転結はどうだったでしょうか?「人生はドラマである」とよく言われますが、パウロほど劇的な変化を体験した人は他にいないかもしれません。キリスト教に真っ向から反対していた人が、キリストを宣べ伝える使徒になりました。こういうケースが実際にあったのですから、私たちの回りにいる手ごわい人はどうでしょうか?強く反対している方が、かえって、望みがあるように思います。「いいよ、いいよ。キリスト教も良いね」と何でも賛成する人の方が、かえって難しいのかもしれません。でも、一番、大切なことは何でしょうか?そうです、生けるキリストと出会うということです。やっぱりキリストに出会って、人生がひっくり返る。そういう経験が必要であります。地上のものから天上のものへと、まったく価値観が変わる。これが、必要であります。

2.私たちの起承転結

 前半は使徒パウロの起承転結でしたが、私たちの起承転結はどうなるんでしょうか?

①起―問題や悩み

 人生において問題や悩みは必ず起こります。しかし、それらは良いものなのです。なぜなら、その人は神様を求めるようになるからです。イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」心の中が貧しいですか?悲しみや憂いがありますか?「この世に真実なものがあるのか?」と渇きを覚えておられるでしょうか?ある人が「死にいたる健康、命にいたる病い」があると言いました。健康な人には医者はいりません。病人は医者が必要です。同じように、「自分は正しい、何の問題もない」と言う人にはイエス様は不要です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。

②承―罪、肉、偽り

 なぜ、問題や悩みがあるのでしょうか?その根底に、罪、肉、偽りがあるからです。罪とは聖書では「的外れ」という意味です。まことの神から離れ、自分勝手な方向に進んでいるということです。肉とは何でしょうか?肉とは神様に頼らない人間的なものすべてです。生まれ、身分、学歴、自分のまじめさ、自分の知恵、力、それらはみんな肉であります。肉は一見、良さそうです。この世では何の問題もありません。しかし、そういうものがある限り、イエス・キリストにとことん頼ろうとしません。偽りとは、この世に混在しているウソです。日本、アメリカ、中国、どの国でも、文化の中にウソが含まれています。私たちはその中で生まれ、育ったので、ウソがまるで正しいものであるかのように思っているのです。

③転―回心

 回心とは悔い改めとも言いますが、キリストに出会って方向転換するということです。これは人生において一回限りです。「個々の罪を悔い改めなさい」「正しいことをしなさい」「偽りを捨てなさい」ということではありません。なぜでしょう?生まれつきの罪人は、それをしたくてもできないからです。残念ですが、自分を変える力が内側にないのです。キリストを信じるということは、キリストを心の中に受け入れるということです。それも単なる友人や客人ではなく、救い主、主として受け入れるということです。私たちの心の中には王座があります。生まれつきの人は、だいたい、自我、自分が王座に座っています。自分の好みで、自分の考えで、自分の知恵で行動しています。しかし、その王座をイエス様に明け渡して、自分はイエス様に聞き従うということです。主従が逆になる、これを回心と言います。回心すると、これまで価値のあったものが「損であり、ちりあくた」になります。逆に、これまで価値のなかったようなものが、価値あるものに見えてくるということです。どうでしょうか?車に乗っているとわかりますが、行くときの風景と、帰りの風景は全く逆です。方向転換すると、右のものが左に見え、左のものが右に見える。これが回心です。でも、一番重要なのは、救い主であり、人生の主であるキリストに出会う、キリストを受け入れるということです。このことがないと何も始まりません。

④結―聖化、栄化

 クリスチャンになると何が変わるのでしょうか?立場が変わります。神様が父であり、あなたは神様の子どもになります。ほうとう息子は指輪をはめてもらいました。身分が回復したのです。キリストを信じたあなたは、御国の相続者になったのです。さらに、神様はあなたに義の衣を着せてくださいます。ほうとう息子は、ぼろの衣を脱いで、新しい着物を着せられました。キリストを信じたら、義人、あなたは正しい人と見なされます。自分のアイディンテティが変わります。義人は義人のように行動します。なぜなら、もう「罪人じゃないからです」。そして、あなたは罪の奴隷ではなりません。ほうとう息子は裸足でしたが、靴を履かせてもらいました。もう、奴隷じゃないということです。このように回心してクリスチャンになりますと、神様との立場が変わります。これはだんだんと変わるのではなく、一気に起こるのです。このように、救いは一瞬にして起こるんです。でも、みなさん、クリスチャンになっても、中身はまだ変わっていないところがたくさん残っています。身分は変わっても、実質が変わる作業が残っています。これが、聖化であり、栄化であります。栄化とは最終ゴールで、天国に行き、復活するときであります。でも、この地上では、罪とか肉がきよめられ、偽りを真実に入れ替える作業があります。心の傷が癒されたり、考えが修正される必要もあるでしょう。でも、大丈夫です。あなたを変えてくださるのは、あなたではありません。あなたの中におられるキリスト、聖霊様があなたを助けてくださいます。もちろん、あなたの意志や努力も必要です。でも、イエス様が共にいてくださり、栄光から栄光へと変えてくださるのです。

 クリスチャンになってからどういうことをするのか、具体的にもう少し、説明したいと思います。罪とは何でしょう。いままでは、そんなのちっとも悪いと思わなかった。「世の中の人、みんなやっているんじゃないか!私はまだましな方だ!」とやってきました。しかし、イエス様を信じると、霊的に新しく生まれ変わりますので、「ああ、それは罪だなー、悪いことだなー」と痛みを覚えるようになります。これは霊的な感覚が目覚めたという証拠であり、良いことなんです。そのときに、罪を具体的に神様に告白します。告白とは、ギリシャ語でホモ・ロゲオーであり、「同じことを言う」ということです。神様にありのままを言えば良いわけです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」イエス様を信じる悔い改めは一生に一回ですが、個々の罪を悔い改めるのは一生涯続きます。これは結構、しんどいです。でも、罪が残っていると、様々な悩みや問題がずっと続きます。父なる神様は、「本当の原因はここにあるんだよ!」と教えてくださります。そのときは、素直になって、「はい、わかりました」と、罪を告白すれば良いのです。イエス様の血しおと聖霊の力で、だんだんきよめられていきます。

もう1つは肉の問題です。さきほども話しましたが、肉とは神様に頼らない、一切のものを肉と言います。ですから、肉の中には、すばらしいもの、美しいもの、価値と思えるようなものもあります。学歴、立場、才能、経験、頭が良いこと、これらはみんな肉になります。私たちはうっかりすると、神様よりも、こういうものに頼ってしまいます。しかし、神様は私たちをねたむほど愛していますので、そういう偶像崇拝的な信仰を放っておきません。何をするんでしょうか?そうです。試練を与えます。ヘルブ12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」と書いてあります。「うゎー」いやですねー。失敗や挫折、経済的な問題、人間関係のトラブル、あるときは病気さえもお用いになられます。そのとき、叫ぶんです。「主よー。あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか?ひどいじゃないですか?」。神様は悪魔さえも用いるんですね。ヨブ記を見ると分かりますが、サタンがヨブの持ち物、家族、健康を打って、取り去りました。それでも、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と礼拝しました。ヨブほどになるとは思いませんが、人は試練を通らされて、神様に信頼することを学ぶのです。

 最後の偽りの問題です。ここに樹木があります。左の木はひょろひょろでほとんど枯れています。なぜでしょう?土の中に、偽り(ウソ)がたくさんあるからです。真実がほとんどないんです。だから、樹木は健康に育つことができません。真中の木はいちおうは育っていますが、実があまりありません。これは土の中に、真理もありますが、まだ、偽り(ウソ)が混在している状態です。たとえクリスチャンになっても、文化的な偽り、家庭の偽り、この世の価値観で生きているかもしれません。ですから、そういう偽りを捨てて、真実と置き換える作業が必要です。右端の木は健康で大きく育っています。土の中がほとんど真実だからです。解決は実ではなく、根っこにあります。根が健康であれば、木が健康になり、豊かな実を結ぶことができます。私は、人から何か言われると、自分が責められていると感じてしまいます。小さなときから父や母、兄弟、学校の先生から責められました。5年生だったかクラス委員に選ばれました。そのとき、まわりの友人が「委員長のくせに!」とことごとく、言動を非難しましました。正確には、批判とか、さばきということばなんでしょうが、私の成育史では「責められる」という表現がぴったり来ました。家内は平気なんですが、テレビで正しい人がやっつけられたり、不当な扱いを受けている場面を見ることができません。「これ以上、傷つきたくない」という思いがあります。でも、この世では敵対する人がたくさんいるので、身構えたり、さばき返して防御せざるをえないわけです。自分のゆがんだ思考を、正しく変えていくならば、悪い感情が消えてなくなります。これも偽りを真理に変える作業です。クリスチャンになっても、いろいろありますが、神様はすべてを益に変えてくださいます。そして、救いの喜びが霊的なものから、心の中、生活全般に広がっていくのです。イエス・キリストはすばらしい恵みをあなたに用意しておられます。主を信頼しましょう!

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