「台湾宣教チーム」 特別礼拝
本日は台湾宣教チームによる特別礼拝により、原稿用意できませんでした。
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来週は台湾チームにお任せしています。証しとかメッセージは台湾チームがします。チームと一緒に主任牧師ではありませんが、牧師夫妻も一緒に来られます。ひょっとしたら特別賛美もするかもしれません。来週まで、そのことを打ち合わせしたいと思います。しかし、その次の週27日は、午後の飛行機なので、奉仕は無理のようです。ところで、聖書には「律法」と言うことばがよく出てきますが、この世の法律とどう違うのでしょうか?英語ではどちらも、Law と言いますので、耳で聞く分には同じです。聖書に出てくる律法は、「モーセの律法」とか「神の戒め」に言い換えることも出来ます。その中には、道徳的なものや祭儀的(宗教的)なものもあります。この世の法律には、「神を愛せよ」とか「あなたの隣人を愛せよ」などというものはありません。ですから、神の律法はこの世の法律よりも、より根本的であり、また宗教的です。きょうは「律法の役割とは何か、また、クリスチャンとは何を目指して生きるのか」ということを学びたいと思います。
1.律法は罪を知らしめる
ガラテヤ3:21-22「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」ここに、律法と神の約束とが対比されています。律法と神の約束、果たしてどちらが早く来たのでしょうか?少し前の節を見て分かりますが、神の約束あるいは契約は、アブラハムに与えられました。神様はアブラハムとアブラハムの子孫を祝福すると約束されました。「アブラハムの最たる子孫とは、イエス・キリストである」とパウロは解釈しています。そして、アブラハムとの約束の430年後、神はモーセを通して律法を与えました。十戒をはじめとする様々な律法です。しかし、イスラエルの人たちはその律法を守ることができませんでした。では、そのアブラハムとの約束は無効になったのでしょうか?パウロは、「いや、約束が430年後にできた律法によって、取り消されたり、無効とされたりすることはない。律法は、子孫であるキリストが来るまで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。だが、今度は、キリストに対する信仰によって、その約束が与えられるんだ」と言っています。ということは、律法は、人々をキリストが来るまで罪に閉じ込めていたということになります。
すると、私たちは、「ああ、律法というのは旧約時代のイスラエル人のためだったのか?私とは関係ないなー」と思うかもしれません。確かにそうなんです。でも、神の律法が来なければ、「あなたには罪がありますよ」ということは分かりません。神様を知らない人たちは、「失礼な!私には罪なんかありませんよ。法律に触れる罪などは犯していないし、結構、良い人間ですよ」と答えるでしょう。また、ある人たちは、「自分の良い行ないと悪い行ないと足し引きして、良い行ないの方が多ければ、天国にいけるでしょう」と考えています。そこに、律法という尺度を持ってきますと、どんなことが起こるでしょうか?この世でどんなに正しくて立派な人であっても、「あなたには罪があります。あなたは不完全です。そのままでは天国に行けません!」と診断されるでしょう。あるところに洗濯の上手な主婦がいました。彼女は、「私が洗ったシーツは一番白い」と近所で自慢をしていました。初冬にかかった頃、いつものようにシーツを洗濯して物干し竿に干しました。お昼ごはんを食べたあと、ついウトウトと寝てしまいました。「うっ、寒い」と思って、目を覚ましましたら、あたり一面に初雪が降っていました。「ありゃ、雪が降ったの?」と驚いてあたりを見渡しました。すると、くすんだ色の洗濯物が目に留まりました。「なんだ、この灰色のシーツは?」と思いました。なんと、まわりの雪と比べたら、どこよりも白いと思っていたシーツが灰色に見えたわけです。同じように、神の律法は「あなたには罪があります。不完全ですよ」と人々に示す機能があります。
でも、当時のユダヤ人は律法を守れば、神様に受け入れられる、救われると考えていました。でも、それは大きな間違いでした。律法は人には罪を示す役割がありますが、人を救ったり、命を与えることはできないのです。律法は、さらに罪を増し加え、死に至らせる力があります。ローマ5:20に「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。パウロはローマ書で、「律法が来ると、違反が、罪が増し加わる」と言っています。「え?馬鹿な?」と思うでしょう。人々は、「もしも、自分の周りに規則という壁を作らなければ、何か間違った行ないをしてしまうのではないでしょうか」と心配します。でも、その規則そのものが、誤った道に導くということがあるのです。先日、こういう発見をしました。環七通りを大谷田陸橋から下ってきます。駅のガードをくぐり、アリオを越えたところで右に曲がると亀有教会に来ることができます。その間にグリーンの中央分離帯があります。けっこうそこに、空き缶とかゴミが捨てられています。しかし、看板もたくさん立っています。『ここにゴミを捨てると罰せられます』、そのように書いた看板が、何十メートルおきかに立っています。それを見ていると次第に腹が立ってきました。「ゴミを捨てると、罰せられる!捨ててやろうか!」という思いが起こります。おそらく、だれかが、そういう思いをもって、夜だれもいないとき、ポイと捨てるんじゃないかと思います。「法に触れる」とか「罰せされる」という表示を見て、心の中に化学反応が起こります。言うことを聞かないと罰せられるので従うというのは、人を卑屈にさせます。さらに、それを破りたいという反抗心を起こさせるのではないでしょうか?この世では、いたちごっこをしています。悪いことをする人がいるので、さらに厳しいたくさんの規則を作ります。その規則にムカツクついて、さらに悪いことをする。これが人間の姿ではないでしょうか?
『恵みの歩み』の著者、スティーブ・マクベイがこのようにおっしゃっていました。先生と奥さんが、あるとき、アムステルダムの美術館を訪れました。一緒に歩きながら、いろんなものを見ていました。そこに、一段高い台がありました。その台の上に美しい家具が飾られていました。その台の前に、立て札があり、「この台の上に上がるな!」と書いてありました。その台の上には、大きな家具があったので、自分が乗ってもどうってことはありません。先生は、口笛を吹きながら、台の上に乗ってみました。先生は、その注意書きを見るまでは、その台に乗ろうなんて思いもしませんでした。しかし、「それをするな!」と言われたとたん、したくなったのです。先生は、牧師としてたくさんの規則を説教してきました。「あなたは毎日、聖書を読むべきですよ。伝道しなければなりません。教会に来なければなりません。祈るべきですよ。」先生は気づきました。「私が規則を押し付けたので、教会員たちは、本当に聖い神様の信仰生活を送ることができなかったんだ。逆に、不従順や反抗心を一生懸命詰め込んでいたんだ」。律法は命を与えるのではなく、罪を犯すことを奮起させ、死に至らせます。でも、恵みはどうでしょうか?聖霊ご自身が、すばらしい信仰生活を送ることができるように導いてくださいます。規則は私たちのまわりに依然として存在します。でも、内側におられる聖霊が、私たちを教え、私たちを励まし、私たちに力を与えてくださいます。規則や律法に対しては、反抗心を持ちながら、卑屈な態度で、嫌々ならが従いました。でも、主の恵みはそうではありません。自由な心で喜んでするのです。
律法は「あなたには罪がありますよ、不完全ですよ」と教えます。旧約時代の人たちは、みなそのようにして生きてきました。でも、完全に律法を守ることはできませんでした。それよりも、律法が来た時、さらに罪が増し加わったのです。では、新約時代は何が違うのでしょうか?それは恵みです。恵みとは、「あなたはキリストによって義とされていますよ。あなたはキリストによって神様から受け入れられていますよ」です。私たちは十字架の死によって、罪が赦されただけの罪人でありません。キリストの復活によって神様から、義と認められているのです。「ああ、私は義とされているんだ。義とされている人の生活とはこうなんじゃないだろうか!」と自然と罪から離れるのです。律法に目をとめると、罪を犯す方に誘い込まれます。しかし、イエス様の恵みに目をとめると、自然と正しい歩みができていくのです。アーメン。
2.律法はキリストに導く
ガラテヤ3:24-26節「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」この間、常磐牧師セルがありまして、尾山先生が新しい本を持ってこられました。『グレイス・ウォーク・ワークブック』です。8週間かけて1冊を学ぶようになっています。タッチングヘブンは7週間でしたが、これは8週間です。とっても分かりやすいテキストです。来週、届きますので、どうぞ購入して学んでください。この本の中に「養育係」について書いてありました。ガラテヤ3:24は、律法は、人々をキリストに導く、養育係である教えています。聖書の時代、裕福なギリシャ人やローマの家庭では、家庭の養育係(おもに奴隷)がいて、6歳から16歳までの子どもを毎日、教師のところに連れて行く責任がありました。律法はそのような働きをするのです。キリストを信じていない人々に罪の宣告をします。それによって、キリストに導くのです。養育係は、その子どもを教師のもとに連れていけば、それでその仕事は終わりである。ガラテヤ3:25は、私たちがクリスチャンになったとき、「私たちはもはや養育係の下にはいません」と語っています。クリスチャンになれば、もはや律法は必要なくなるのです。私たちには今、イエス・キリストがおられるのです。この時点で、私たちは、もはや、律法の下にいないことが理解できます。私たちの人生において、導きを与える規則は、必要ないのです。私たちには聖霊が内在しています。聖霊が導いてくださいます。私たちがクリスチャンになったとき、律法は私たちの中でその目的を成就しました。今は、ミスター恵み、すなわち、イエス・キリストと結婚しました。
少し前にもメッセージしましたが、私たちは律法という夫がありましたが、一度死んで、キリストと結ばれました。ミスター律法は元気です。でも、私たちは彼と結婚していません。私たちはイエス・キリストと結婚しているのです。そして、私たちがクリスチャンになったとき、新しい霊をいただきました。でも、私たちは同じ脳を持っています。クリスチャンになったとき、脳の移植手術を受けたわけではありません。ミスター律法との結婚生活がどのようだったか覚えています。だから、私たちは律法主義のライフスタイルに戻ってしまうのです。注意しないと、ミスター律法と同じような付き合いをイエス様ともしてしまいます。クリスチャンは「イエス様、あなたと結婚できてとても嬉しいです。あなたのために私は何をして欲しいですか?」と聞きます。イエス様は「私の愛を受け入れて欲しいのだ」と答えます。「主よ。あなたの愛を感謝します。今、あなたのために私に何をしてほしいですか?」「ただ、私の愛を受け入れてほしいのだ」「主よ。あなたが私を愛しておられることはわかります。でも、何をして欲しいのですか?あなたのために何をすることができるのですか?」「ただ私の中で安らいで、私の愛を受け入れて欲しいのだ」。クリスチャンになったばかりの人は、特に真面目な人は、クリスチャンになったら「何か良いことをして神様にお仕えしなければならない」と思います。そして、フラストレーションがたまっていきます。そのとき、ミスター律法と目が合ってしまうのです。すると、彼は「何かお手伝いしましょうか?」とやってきます。「私は何をすれば良いのでしょうか?」ミスター律法は、「お答えしましょう」と言って、ありとあらゆる宗教的規則を差し出します。そして、自分がイエス様と結婚しているのを忘れ、再びミスター律法と関係を持ってしまうのです。これを霊的姦淫と言います。イエス様の導きではなく、規則によって人生を立てようとするときに、そういうことが起こります。
日本には、イエス様と結婚したはずなのに、ミスター律法と浮気しているクリスチャンが非常に多いと思います。教会には奉仕がたくさんあるので、働き人がほしいのです。ですから、「あれして」、「これして」とお願いされます。イエス様のもとに安らぐことを忘れ、奉仕に明け暮れ、その後、疲れてしまいます。自発的にやっているなら良いのですが、半強制的にやらされているなら、ミスター律法と浮気しているクリスチャンです。また、献身者とか神学生も、ミスター律法のところに、戻っていく傾向が多々あります。祈り、聖書の学び、奉仕、伝道、寝る間もなくやらされます。「しょうがないのです。それが訓練ですから」と言うでしょう。今、佐保姉妹も神学校に学びに出かけています。ものすごくやることが多いようです。月曜日はわざわざ学校に掃除に行き、水曜日の祈祷会は厳守です。私が最初に行った神学校もそうでした。社会経験のある人は、仕事の延長でなんとかできます。限られた年数だったら、我慢できます。しかし、私は「弟子訓練と律法主義との境目って何だろうなー」と未だ分からないところがあります。神学校でも、教会でも「大変」「しんどい」「息がつまる」「不自由」そういう雰囲気があるならば、律法主義と結ばれているような気がします。私の家内はいわゆる献身者だった頃は、早天祈祷会に毎日のように出ていました。結婚してから気づいたのですが、家内は朝が弱いということです。そんなのに、「よく、何年間もあちらで早天に出ていなー」と感心します。私はその人が一生懸命やっていること、たとえば、奉仕、伝道、集会出席、献金とかあります。でも、問題なのは、何がその人を動かしているのか?その動機がチェックされるべきだと思います。組織の中で「しなければならない」と駆り立てられてやっているのでしょうか?それとも「主の霊によって、喜んで自由にやっているのか」であります。
昔は奴隷に2種類いました。1つは強制的にやらされている奴隷です。自分は奴隷なので、主人に仕えるのがあたりまえ。賃金はないけど、寝るところが与えられ、ごはんをたべさせてもらっています。主人の顔色を伺い、いつもびくびくしています。もう1つは、自分の意思で奴隷になった人です。イスラエルでは7年間奴隷だったら、その後は、自由になることができます。しかし、奴隷がその主人に仕えたいと思うなら、柱のところに行き、この耳にキリで穴を開けられます。それは、一生、喜んで主人に仕えますという証しです。使徒パウロは自分のことをキリストのしもべと言いました。そのしもべは、英語ではボンド・サーバントです。つまり、後者の方の奴隷で、自らの意思でキリストの奴隷になった人です。日本の国は共依存の国です。教会もともすれば、共依存の教会になります。牧師や一部の人がコントロールし、献身者やクリスチャンが一生懸命奉仕をします。コントロールしているという意識はないかもしれませんが、自分がこれまで律法主義のもとで生きてきたので、そういう雰囲気をずーっとかもし出しているのです。ずーっとその中にいるので、分からないのです。組織やまわりから矯正されてではなく、自発的なものであれば結構です。様々な宗教規則に縛られないで、御霊によって個性的に生きているならば結構です。何年か前、アメリカからメルボンド師がこられたとき、このように言われました。先生は、天に昇り、イエス様とお会いしたことがあります。そのとき、イエス様が「教会を一番、おびやかしているのは律法主義です」と言われたそうです。スティーブ・マクベイ師が本の中でこう述べています。「ある人は、神様のことを上司とし、自分自身を従業員とするのです。自分たちの神との関係は、神が主人でクリスチャンは奴隷なのです。神様が主であり、主人であることは真実です。しかし、神様はそれ以上のお方です」。
それでは、クリスチャンとはどういう存在なのでしょうか?ガラテヤ3:26「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」29節「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」アーメン。聖書は、「私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人である」と言っています。多くのクリスチャンは、神様の雇用人であると信じています。雇用主なる主の言いつけを守っていれば、それで大丈夫だというのです。しかし、次のガラテヤ4章にも書いてありますが、私たちは奴隷ではなく、神のこどもであり、相続人です。神様を「アバ・父よ!」と呼ぶ存在なのです。子どもと従業員の違いは何でしょうか?従業員の態度は、雇用主の顔色をうかがっています。奴隷の態度です。しかし、子どもは違います。雇用主に対して「やるべきことは何とか、やらないことは何」などをいちいち聞く必要がないのです。なぜなら、父親と同じビジョンを持っているからです。同じ夢を持っているからです。父親の心を持っているからです。コントロールのかかっている教会は、「牧師先生、あれして良いでしょうか?これして良いでしょうか?次に何をしましょうか?」と伺いを立てるでしょう。そして、ある課題があげられたら、一生懸命それを成し遂げ、評価してもらいます。何かおかしいですね。そうじゃありません。本当のクリスチャンはイエス様につながり、イエス様に聞いて行動します。牧師も大切ですが、それ以上に、神様につながり、神様からのビジョンで動いているのです。どうぞ、人ではなく、イエス様、神様に目を向けましょう。イエス様は私たちを「しもべではなく、友と呼ぶ」と言われました。イエス様の愛に応答するがゆえに、イエス様に従うのです。罰を受けるのが怖くて従うのではありません。どうぞ、律法主義とその奴隷根性を捨てましょう。私たちは神のこども、神の相続人です。父なる神様と同じビジョンを持ちましょう。父なる神様と同じ夢を持ちましょう。聖霊によって、父なる神の心を持っていることを感謝します。
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これまでの復習を少しさせいただきます。ガラテヤ第二章は信仰によって義とされる、つまり救いが与えられるということでした。そして、第三章のはじめは、信仰によって御霊を受けるということでした。本日は、第三章の中ほどから信仰によってアブラハムの祝福を受けるということを学びたいと思います。アブラハムは、ノアの洪水以後に生まれた人です。神様はアブラハムの子孫を通して世界を祝福することをお考えになりました。アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブからイスラエルの12部族が誕生しました。しかし、不信仰と不従順のゆえに、イスラエルは神様から捨てられました。神様はもう一度、アブラハムの子孫を起こすことをお考えになりました。それは信仰により、またイエス・キリストによってであります。今度、その対象となる人たちは、イスラエルではなく異邦人であります。異邦人とは「神の選びから漏れている人たち」という意味です。神の国と縁もゆかりもなかった人たちです。しかし、世の終わり、異邦人の私たちから、アブラハムの子孫を見出してくださるとは、なんとすばらしい特権でしょうか。
1.信仰と律法
6節以降には、2つの道が示されています。1つは信仰の道、もう1つは律法の道であります。まず、信仰の道とはどういうものでしょうか?信仰の道のお手本が、アブラハムであります。創世記15章で、アブラハムは神様から「あなたの子孫は、星の数ほどになる」と言われました。そのとき、アブラハムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました(創世記15:6)。アブラハムは75歳で神様から召され、「子孫が与えられる」と言われながらも、紆余曲折し、やがて99歳になりました。妻のサラも年で、もう人間的には全く無理でした。が、奇跡的に100歳のときイサクが誕生しました。アブラハムが「主を信じた」と言っても、その信仰が本当に完全だったのか、正直、疑わしいです。同じように、私たちの信仰が不完全であったとしても、神様がOKと認めてくだされば良いのです。なぜなら、私たちを信じる神様の信仰、神様の真実が完全であるからです。アブラハムのように不完全な信仰であっても、神様が義と認めてくださる。どうぞ、信じるということを考えるとき、あまり力まないでください。本当の信仰とは、「私は大丈夫でないけれど、神様は大丈夫」ということです。イエス様は「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです」(マタイ17:20)と言われました。信仰は大きさではありません。たとえ、からし種のように小さくても、命があれば良いのです。
でも、皆さん、信仰の道というものは狭くて、見出しにくいものです。私たちが「神様がおっしゃられた」と言っても「え?本当にですか?」と疑われるのがオチです。この建物の中にいるときは、「主の導きです」とか、「主が私にそのように示されたのです」と言っても、ほとんどの人は「アーメン」と同意してくださるでしょう。でも、この建物から一歩、外へ出て、信仰の話をしたなら、「あなた頭おかしいんじゃないの」と馬鹿にされます。イエス様はマタイ7:13,14でこのように言われました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」「まれです」とは、レア、なかなかいないということです。日本において、クリスチャンはレアものです。価値があるんです。日本で売っている世界地図は、ほとんど日本が中心に描かれています。でも、太平洋が中央にあって、どう見ても偏っています。しかし、日本以外で売っている世界地図は、大陸が中心に描かれ、日本は地図の右の縁(へり)です。日本は極東の地で、昔はジパングと言われました。でも、シルクロードの果が日本の京都と言われています。ちなみに、平安京というのは、エルサレム(神の平和)からネーミングされたようです。ですから、異邦の極東の日本まで、福音が伝えられ、今、こうやって一握りのクリスチャンがいるということはすばらしいことであります。だいたい、多くの人がゆっくり休んでいる、日曜日、礼拝に来るというのも、狭い道であります。先週、ある方からお電話がありました。「日曜日以外に礼拝はないのですか?」と聞かれ、「小グループの集会はありますが、今のところ礼拝は日曜日だけです」と答えました。日曜日はご主人がお家にいるらしくて、来るのは無理のようでした。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」私たちはレアものなんです。
ガラテヤ3:10-12までは、律法の道が書いてあります。神様の律法を守って、神の前に義と認められようとすることです。言い換えると、自分の行ないによって救いを得ようという道です。旧訳聖書には十戒を始めとする、神の律法がたくさん書いてあります。半分は神様に対する戒めです。あとの半分は人間社会に関する戒めで、多くは道徳的なものです。日本には律法という概念はあまりありませんが、その代わり、倫理道徳という考えがあります。仏教や神道も「信仰」ということばを使いますが、やっぱり人間の行ないも必要だと言っています。もし、私たちが道徳や行ないで救いを得ようとするなら、どういうことになるでしょうか?簡単に言うと、「これで良い」という基準がありません。むしろ、「まだ足りない」「まだ不十分だ」という声が聞こえてきます。パウロは申命記27章を引用して「すべてのことを堅く守って実行しなければ、のろわれる」答えています。申命記には主の御声に従い、主の命令を守るなら、何でも祝福されると書いてあります。「あなたのかごも、この鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」(申命記28:5,6)とあります。しかし、主の御声に聞き従わないとどうなるのでしょうか?「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる」(申命記28:16,17)。良く見ると、祝福よりも、のろいの方が倍くらいあります。つまり、行ないによって救いを得ようとする道は、一般には良さそうに見えても、最後は悲惨です。世の人は、信仰の道ではなく、行ないの道を行きたがります。最初は平坦で広い道であります。でも、最後は、険しいシナイ山にぶちあたります。富士山の九合目みたいに、岩山がせり立ってきます。
日本人に多いのが、完璧主義です。仕事場には間違いをなくそう、事故をなくそうというスローガンがよくあります。私はあるところでアルバイトをしていますが、今、お中元が多いんです。数が多いと出てくるのが、誤送、誤配です。日付指定というのがあって、「指定されたその日に配達してくれ」というのが一番厄介です。早すぎてもダメ、遅れてもダメ、その日に着くようにというものです。私なんか「早くたって良いじゃないか」と思いますけど。クレームがつくと、お客さんが利用しなくなるので「間違いがないよう」「間違いのないように」にと上から注意されます。本来なら、品物が多いのは儲かって、喜ばしいはずですが、仕事場は全くそうじゃありません。職員の漏らす言葉は「なかなか減らない。なんで、こんなに多いんだ」であります。商売繁盛じゃないのです。みなさん、事故ゼロ、100%を目指す。それは悪いことではありません。でも、100%完全で当たり前ということになると、98%もダメ、80%じゃぜんぜんダメということになります。なぜなら、100に対する、減点法だからです。完璧主義は、仕事だけではありません。スポーツの世界、学校、私生活まで及んでいます。だから、日本は大陸と比べ、精神的に病む人が非常に多いのではないでしょうか?日本人は失敗を恐れるので、発明や発見が少ないのです。日本は本当に縮み文化です。皆さん、神様は完璧ですが、人間は完璧に作られていません。もし、常に完璧になろうとするならば、必ず、どこかに狂いが生じてきます。
聖書に「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。別の訳は「信仰による義人は生きる」であります。義人とは、自分の行ないにではなく、信仰によって神様から義である、完全であると認められた人です。これはどういうことかと申しますと、私には罪があり不完全だけど、神様が恵みによって義と認めてくださっておられる。だから、神様を信頼して行けば、実質的に義となれるんだ。私の努力や行ないではなく、神様がそのように導いてくださる。これが信仰であります。そうすると、私たちの身も魂も生きるのであります。私の心臓はどうなっているのか?私の頭は正常だろうか?私の行ないは完全だろうか?そのように、自分をチェックし始めると、私たちは壊れていきます。心臓を動かしているのは神様です。頭もそうです。多少、物忘れするかもしれないけど、神様が思い出させてくださいます。行ないもそうです。聖霊様が私の総司令官であり、聖霊様に委ねながら行動すれば良いのです。「義人は信仰によって生きる」「信仰による義人は生きる」のです。アーメン。律法の行ないによる道ではなく、信仰の道を選びましょう。
2.のろいから祝福へ
律法ののろいとはどういうものでしょうか?10節「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」ということです。これは申命記27章の引用です。そして、申命記28章には祝福とのろいについての様々なリストが上げられています。そこには祝福も書かれていますが、すべての律法を守らなければ祝福は自分のものにはなりません。それだけではありません。律法を守らなければ、さまざまな災いが降りかかります。「すべてのことを堅く守って実行しなければ、誰でもみな、のろわれる」とはどういう意味でしょう。たとえば私は安息日を守っているし、主の御名もみだりに唱えない。殺人も盗みも犯していない。むさぼりの罪もない。ただし、両親は敬っていない。なぜなら、敬えるほどの両親じゃないからだとします。10のうち、9つは守っている。だが、たった1つだけは実行していない。テストだと90点です。それでOKでしょうか?No!すべての律法を守っていません。律法は「あなたには罪があります。だから、あなたは祝福ではなく、のろいを受けるべきです」と言うでしょう。これが律法ののろいです。アダムの子孫で、誰ひとり、律法を完全に守れる人はいません。ところが、イエス様の時代、「私たちは律法を堅く守っています」というグループがいました。ユダヤ教のパリサイ派の人たちです。でも、イエス様は山上の説教で、たとえ、人を殺さなくても、「能なし」とか「ばか者」と言っただけで、同じ刑罰を受けると言われました。また、「情欲をいだいて女を見る者はすでに、心の中で姦淫を犯したのです」と言われました。おおー。そうなると、生身の人間で、誰ひとり律法にかなう人などいなくなります。もう1つの律法ののろいとは何でしょうか?それは「○○するな」とか「○○しなければならない」という戒めに対する私たちの反応です。パウロが言うように、私たちの生まれながらの性質は、律法が来ると、逆らいたくなるのです。「聖書を毎日読まなければならない」といわれたとたん、読む気がしなくなります。「毎週、日曜日礼拝に出なければならない」といわれたとたん、来るのがいやになります。
イエス様はこういう律法ののろいに対して、どのような解決を与えてくださったのでしょうか?ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。キリストは人間の代表になって、この世に来られ、律法を全部守られました。聖書には、「キリストには罪がなかった」と書いてあります。その次に、イエス・キリストは私たちが律法を守れないために来る刑罰を、身代わりに受けてくださったのです。だから、私たちはもう、律法を恐れなくて良いのです。旧約聖書には、安息日に焚き木を拾いに行っただけで、神から打たれて死んだと書いてあります。また、「水がない」とつぶやいただけで、地面が裂け、生きたままで、のみこまれた人たちもいました。「おお、旧約時代に生きていたら、命がいくつあっても足りないなー」と思います。でも、イエス・キリストが、律法を守れないことから来る刑罰をみんなかぶってくださったのです。だから、だれでもキリストにあるなら、さばかれないのです。なぜなら、イエス様が刑罰を受けて、身代わりに死んでくださったからです。また、14節最後に「信仰によって約束の御霊を受ける」と書いてあります。イエス様を信じると、人はもれなく御霊を受けます。御霊がその人を生まれ変わらせ、心の板に律法を書き付けてくださいます。外からの強制ではなく、聖霊が内側からやさしく語ってくださる。御霊が肉の働きに打ち勝ち、神様に従えるように力と導きをくださるのです。イエス様はこのようにして、私たちの律法ののろいから贖い出してくださったのです。
では、最後にアブラハムの祝福とはどういう意味でしょうか?創世記12章で主はアブラハムに対してこのように言われました。「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」。みなさんこれだけだったら、異教の宗教です。「おお、神様、自分たちを祝福してください」。こういうご利益宗教はたくさんあります。さらに、主はアブラハムにこう言われました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。アーメン。アブラハムだけが祝福されるだけではなく、アブラハムを通して、すべての民族が祝福されるということです。アブラハムが祝福の基になる、管になるということです。教会では人々が両手を上げて、Bless me, bless me「私を祝福してください」と祈ります。神様はそういう祈りしかしていないクリスチャンを見て、どう思われるでしょうか?困ったなーという顔をするんじゃないでしょうか?でも、「私を通して周りの人々を祝福してください。私たちを通して日本を祝福してください」と祈るとどうでしょうか?「おお、私がかなえたい祈りだなー」と思うでしょう。イエス様はマタイ5章で、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と言われました。ご存知のように塩は、食材が持っている味を引き立たせてくれます。また、塩は腐敗をとどめる働きもします。光はどうでしょうか?自分がピカピカ光っていれば良いのでしょうか?光自体は本来見えないものなんです。しかし、何かに当たると反射して、そこが明るくなります。人々があなたの光に照らされて、はじめて光の役目を果たすのです。クリスチャンで、「世の中が悪いとか、どうしようもない」と批判ばかりする人がいます。あなたがそこへ遣わされ、塩気を与え、人々を照らせば良いのです。
Ⅰコリント12章には、聖霊の賜物が列挙されています。これは力の賜物とか、現れの賜物とも言われています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。9つあります。9つのうち8つが、他者のためのものです。たった1つだけ自分のためものものがあります。それは異言です。異言は自分で神様と交わるための聖霊の賜物です。でも、他の8つは、他の人のためのものです。ということは、神様が与えてくださった賜物というのは、自分が楽しむためではなく、他の人の益のためにあるということです。Ⅰコリント12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです」とあります。私が座間キリスト教会にいたとき、新井宏二先生が癒しの奉仕によく来られました。先生が祈ると、その人は眠ってしまいます。眠っている間に体が自然と動いて、聖霊ご自身がその人を癒されるようです。先生に、癒しの賜物があると聞いて、人々が遠くから訪ねて来ます。夜中に電話もかかってきます。先生は病院に呼ばれたら、祈りに行きます。私はそれを聞いて思いました。「癒しの賜物が与えられたらすばらしいけど、なんだか人にふりまわされて、プライベートな時間もないというのも困るなー」と思いました。それから、20年間、私が祈っても人々が癒されたということはありませんでした。でも、5年か6年前、中嶋先生が来られたから、癒しの賜物が現われ出しました。そのとき、どう思ったでしょうか?「ああ、足や腰の痛い人はいないか?どっか具合の悪い人はいないか?」と思いました。つまり、神様は癒しの賜物と同時に、憐れみの心も与えてくれました。かつてのように、「めんどうだなー」と思わなくなったということです。この賜物をぜひ、用いたいと思うようになりました。
よく、キリスト教会では「用いられる」ということばを使います。「神様に用いられる」ということはすばらしいことです。これは、アブラハムの祝福のことです。あなたを通して、すべての民族が祝福される。あなたが祝福の基になる、管になるということです。自分が祝福されるのも喜びがあります。でも、それだけだと自己充足的で、わがままです。天の父の心が与えられると、与えたくなります。「私を通して周りの人が祝福されたらどんなにすばらしいだろう!主よ、私を用いてください」と願うようになります。これこそが主の恵みです。でも、恵みと反対のものがあります。それは律法です。「○○しなければならない」「○○しなければならない」という義務感でやります。もっと悪いのが「○○してやっているのに」「○○してあげているのに」であります。これは神様が主体ではなく、自分がやっているのです。神様に用いられるということではありません。神様に用いられるというのは、私たちが器になることです。そして、実際に奉仕をなさるのは神様なんです。私を通して、主が語る。私たちを通して、主が癒す。私たちを通して、主がなさる。だから、すべての栄光は主のものなのです。では、私たちは何にもうれしくないか?そうじゃありません。神様に用いられているという喜びがあります。あなたは律法の道を行きたいでしょうか?律法の道は行ないの道であり、たえず完璧を要求されます。ダメ出しばかりです。間違ってはならないというプレッシャーがあります。一方、信仰の道は神様に頼る道です。私は不完全であっても、主が完全。「私を通して主が働いてくださる」という平安があります。律法は人々の首を絞めて、自由と喜びを奪い取ります。やがては死に至ります。一方、信仰による義人は生きるのです。なぜなら、主の恵みがその人を生かすからです。どうぞ、信仰の道、恵みの道を歩みましょう。
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パウロは「ああ愚かなガラテヤ人」と嘆いています
1.御霊を受ける
ガラテヤ書のテーマは、「人は信じたら義とされる
パウロは、ローマ8:9で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と語っています。つまり、イエス様を信じているクリスチャンである
でも、聖書には御霊を受ける、つまり内住の御霊だけではなく
しかし、私はイエス様を信じたときに聖霊が宿るという出来ごとと
ちょっと、話題がそれてしまいましたが、第一のポイントで学ぶこと
2.御霊による完成
ガラテヤ1:3「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか
言っていることは、間違いないと思います。なぜなら
パウロは「私たちは文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です
どうぞ、奉仕や献金も律法にしないでください。それらは
ルカ11:13にすばらしい約束があります。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても
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信仰生活は恵みです。多くの人たちは、イエス・キリストを信じるだけで救われるということを信じていません。数々の戒めを守ったり、良い行ないも必要だろうと思っています。それでも、さんざん福音を聞かされて、「ああ、そうか。信じるだけで良いのですね。アーメン」と洗礼を受けます。でも、多くのクリスチャンたちは、「信じたあとは自分の力でがんばらなくちゃいけないのですね」と古い生き方に逆戻りしています。力の源を神様に求めるべきなのに、昔の方法である、自分の力と知恵により頼みます。すると、信仰生活がなかなか前に進みません。それは、まるでサイドブレーキをかけながら、走るようなものです。イエス様を信じたら新しく生まれ変わります。だったら、古い生き方をやめて、キリスト・モードに生きたらいかがでしょうか?
1.信仰による義
ガラテヤ2:16はガラテヤ人への手紙の心臓部であり、また福音の中心でもあります。ガラテヤ2:16「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」
パウロが言う救いとは、神様から義と認められることです。でも、日本人には「義」ということばがよく分かりません。これは単なる正しさではありません。神の律法にかなっている正しさであります。人間の社会では、正しい人もいますし、あまり正しくない人もいます。あの人と比べたら、私は正しい方だとか相対的な世界です。しかし、そこに神様の律法をもってきたら、どのくらい足りないかよく分かります。神の義は100%の正しさ、完全無欠という意味です。この世に完全無欠な人が果たしているでしょうか?裁判官でも罪を犯します。どこかの判事が部下の女性職員によくないメールを送り続けて免職されるかもしれません。彼は法律の専門家ではありますから、良くないことは百も承知だったでしょう。でも、男の性(さが)には勝てなかったのであります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書いてありますが、もとの意味は「神の栄光に達しない、短い」という意味です。そうです。生まれながらの人は、神様の義、100%の正しさに達することができないのです。ですから、律法の役目というのは、人を救うのではなく、「あなたはここが足りませんよ。こういうところに罪がありますよ」と教えてくれる基準みたいなものであります。おおー、神の律法を人に当ててみて、それに達する人は一人もいないのです。ま、人に当てる前に、どうぞ自分に当ててください。
パウロは「人は律法の行ないによっては義と認められない」と言っています。では、どうしたら良いのでしょうか?「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と言っています。これはどういう意味でしょうか?ローマ3章には、キリストを信じる者に、神の義が与えられると書いてあります。学校では赤点が30点でしょうか?70点とれたらグッドかもしれません。でも、99点でもダメなんです。常に100点を取らなければ神の義には達しません。でも、神様がイエス様を信じるものに、神の義をプレゼントしてくれたらどうでしょうか?あなたの義がたったの20点でも、いや3点でも構わないのです。のびたのように0点だって良いのです。エペソ2:8、9「あなたがたは恵みによって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とあります。私たちが義とされる、つまり救われるためには信仰だけであり、行ないではありません。でも、ガラテヤのクリスチャンたちは混乱していました。ガラテヤ3:17をリビングバイブルで紹介いたします。「しかし、もし、キリスト様の救いを信じた私たちに、あとになって、それは間違いだった。やっぱり割礼を受け、ユダヤ教のおきてをみな守らなければ救われない、とわかったとしたら、どうなるでしょうか。キリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会ったことになるわけです。しかし、私たちの主に関する限り、そんなことは、絶対にありえないのです」。非常に、リビングバイブルは、分かりやすいので、そこからもう少し解説させていただきます。もし、キリストを信じるだけではダメで、ユダヤ教の掟、律法を守らなければならいとしたら3つのことが起こります。第一はキリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会うという。第二は、前に打ち壊した方法をもう一度打ち建てようとする罪を犯す。第三は、キリストの死は犬死だったことになる。せっかく恵みによってクリスチャンになったのに、たくさんの戒めや義務があるのでしょうか?律法主義のクリスチャンは、がんばり屋で禁欲的です。だから、「ああ、この世の人の方がよっぽど気楽だ」と思うかもしれません。よく、布教活動をしておられる、エホバの証人の方々は、果たしてどのように思っていらっしゃるのでしょうか?おそらく、そうしなければ終わりの日に救われないと、追いまくられるような気持ちで頑張っているんじゃないでしょうか?
みなさん、救いは私たちの行ないによるのではありません。救いは私たちがイエス様を信じることによって与えられる恵みであり、賜物です。私たちすべきことは、まずキリストのうちに安ぐことなのです。マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」クリスチャンになったために、やるべきことが多くなり、よけいに疲れたというのは問題です。それは律法主義が頭の中にあるからです。私たちの生まれた世界は「律法」ということばこそ使いませんが、律法主義です。小さいときから「これしちゃいけない」「あれしちゃいけない」で育ちました。学校へ入ると、「宿題やりなさい」「廊下を走ってはいけません」「髪の毛をのばしちゃいけません」「タバコを吸ってはいけません」。しつけとか、校則自体がそんなに悪いとは思いません。身を守るための規則や集団生活の規則というものが当然あるでしょう。でも、そこで人々は、大きな間違いを犯すことになります。私はこれを守っているから親から受け入れられている。私が勉強すると親や先生から好かれるんだ。私はこれができると友達から「すごい」と言われる。一生懸命、良い子になったり、一生懸命、学力や良い行ないを身に着けます。そうすることによって、自分は価値が在り、人々から受け入れられるんだ。逆に、何もしない、何もできないならば自分には価値がないし、だれからも受け入れられないんだと考えるようになります。必ずしも規則が悪いのではなく、規則からこういう間違った考え、間違った価値観が生まれるのです。私たちのアイディンテティ、自己存在は、そういうものでは決まりません。人は行ないによって決まるのではないのです。でも、残念ながら、大人になるとこういう質問をします。「あなたのお名前は?」と聞かれたら、「はい○○です」と答えるでしょう。その次にどういう質問をするでしょうか?「あなたは何をしていますか」と職業を聞くでしょう。何をしているかが、その人のアイディンテティが決まるのではないでしょうか?「私はアルバイトをしています」。これだけだと寂しい。でも、「私は牧師です」と言うと、「ま、アルバイトでも良いか?」となります。でも、これは間違った答えからです。私たちのアイディンテティは、私は神の子どもです。キリストに属する者、クリスチャンです。これにまさる不動のアイディンテティはありません。
でも、私たちはあまりにも律法的なこの世の中で生きてきたので、クリスチャンになっても、「ああ、神様に受け入れられるためには、もっと聖書を読まなければならない、もっと礼拝に来なければならない、もっと献金しなければならない、もっと奉仕をしなければならない、もっときよめられなければならない。」と考えたら、立派な律法主義者です。どこがいけないんでしょうか?2つあります。1つは動機が間違っています。私たちの肉で神様を喜ばせることはできません。もし、私が神様のためにアップルパイを一生懸命作ったとします。りんごを煮て、生地を練って、焼いて・・・「神様、あなたのためにアップルパイを作りました。どうぞ」と捧げます。でも、もし、神様がアップルパイが嫌いだったらどうでしょうか?私たちは神様を喜ばせる必要はないのです。なぜなら、キリストにあってすでに満足しているからです。2つ目の間違いは、あなた自身がかんばることです。日本人は「がんばれ、がんばれ」と励ましの気持ちで言います。でも、がんばるというのは自分の力や能力でやることです。でも、クリスチャン生活はそうではありません。キリストの命をいただいて、キリストがあなたを通して、現れるようにすれば良いのです。その具体的な方法は、第二のポイントでお話したいと思います。でも、この第一のポイントで、しっかり心にとめてもらいたいことは「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」ということです。救いは行ないによらない、神の恵みだということです。また、キリストにあって神様は満足しています。これ以上、私たちが何かをしなければならないということはないのです。キリストにあって神様は私たちのありのままを受け入れて下さっておられるのです。どうぞ、キリストに安らいでください。キリストに安らいでください。
2.キリストにあって生きる
私たちは律法、つまり戒めが来ると、逆らいたくなります。「そうしなさい」と言われると「そうしたくないよ」と反応します。「そうしちゃだめだよ」と言われたら、「ふん、やっちゃうよ」となるのです。これは私たちの内にある肉なんです。この肉をどうにかしない限り、あなたはすばらしいクリスチャンになることはできません。パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。・・・私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と悩んでいます。この世の中は、決まり、決まりであふれています。コンプライアンスなんて、聞こえは良いのですが、けっきょくは決まりです。クリスチャンになって、さらに決まりが増えたらどうなるでしょうか?この世でもいっぱい、いっぱいなのに、「教会に来たら、天国の律法がある!」いやですねー。そうじゃないんです。イエス様を信頼してゆけば、自然と、この世のきまりや律法を守って生きてゆけるのです。「では、クリスチャンになって聖書を読まなくても良いのですか?伝道をしなくて良いのですか?でも、聖書には伝道しろと書いてありますよ。また、奉仕も献金も良い行ないもしなさいと書いてあるじゃないですか?不品行とか悪口など、罪を犯さないようにとも書いてありますよ。隣人と愛しなさいと書いてありますよ。」でも、それらの良い命令や戒めも、律法になる恐れがあります。いや、本来、聖書を読むこと、伝道、献金、奉仕、隣人を愛することは、恵みであり特権なんです。なぜなら、私たちの内におられるイエス様が、私たちを通して、そうさせてくださるからです。はっきり言わせてもらいます。クリスチャン生活は倫理や道徳の生活ではありません。キリストが私たちの内から現れてやってくださること、いわば奇跡なのです。そうですクリスチャン生活というのは奇跡なのです。ハレルヤ!アーメン。
では、どうしたらその境地に達することができるのか?それが2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロは「律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と言いました。これはどういう意味でしょうか?これは、ローマ7章の「夫と妻のたとえ」でよく分かります。夫は律法です。決して間違いを犯さない正しい人です。いつも、私を「あれが足りない、これは間違っている」とあら探しをします。妻はああ、うちの人が死んでくれたら、「やさしい他の男性と結婚できるのになー」と思っています。でも、夫は健康そのもので、病気1つしません。このまま私が他の男性のところへ行けば、姦淫になるので許されません。たった1つだけ律法である夫から解放されることができます。それは、一度、死んで、生まれ変われば良いのです。もし、キリストと結ばれるならば、一度、死んで、よみがえることができるのです。つまり、律法が死んだのではなくて、律法に対する自分が死ねば、律法から解放されます。その後は、キリストと結婚して、キリストにあって生きれば良いのです。それが、この聖句の意味なのです。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
クリスチャンは新しく生まれた存在です。「イエス様のようになりなさい」と言われなくても、イエス様の命が内にあるのです。ですから、自分にではなく、イエス様に信頼して生きるならば、イエス様の命があふれ出てくるのです。でも、そうさせないものが自分の中に、まだあります。それは何でしょうか?それは肉です。罪ではありません。正確的には肉です。私たちは、たとえ生まれ変わってクリスチャンになっても、肉があります。では、肉とは何でしょう?肉とは神様に頼らないで、自分の考えや力でやるという独立心です。アダム以来、人間は長い間、神様から離れて生きてきたので、「神なしでやっていこう」という性質が私たちの中に染み込んでいるのです。律法の問題は解決しました。今度は、肉の問題です。どうしたら良いのでしょう?それは、自分の意思で、私たちが持っていると思っている1つ1つの権利をイエス様に明け渡すことです。スティーブ・マクベイという牧師が『恵みの歩み』という本を書いています。また、先生は2回ほど日本に来て講演をしてくださいました。1990年10月6日土曜日、先生は死ぬ経験を通らされした。「神様、私は16歳からあなたのために説教してきました。21年間も一生懸命にやってきたのに、私から何を望んでいるのですか?」と言いました。神様が霊に語りかけました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」と。「神様は、私がいろんなことができるから、そのために私を欲しかったと思っていた。私に教会を建てて欲しいと思っていた。私に説教してほしいと思っていた。カウンセリングをして欲しかった。病気の人のために祈り、婚約式や結婚式の司式をすること。亡くなった人の葬儀をすること。ミニストリーをするために、牧会をするために神様は私を欲しいと思っていた。しかし、そうではないということを突然、分かった。それらのことをするために私を欲しかったわけではない。神様は私自身を欲しいということが分かった。神様はお手伝いさんを求めているのではなくて、花嫁を求めておられるのだ。」
先生は、横たわりならが、数日前に、ある人からもらった「紙」のことを思い出しました。その「紙」の一番上には、「完全に神様にゆだねる」と書いてありました。左側には神様にゆだねる様々な領域が書いてありました。自分の人生、自分の将来、自分の幸せ、家族、気持ちよい環境。右側には自分が持っていると思っている権利が書いてありました。私がしてほしいようにしてもらう権利、自分の住みたいところに住む権利。その紙を持ちながら、祈り始めました。祈りながら、少しずつ、自分が今まで持っていたすべてのものを神様にゆだねていきました。自分に対する確信や自分の能力もすべて神様にゆだねました。自分の背景、自分の教育も、説教の能力、牧会者としての様々なスキル、すべてを神様にゆだねていきました。最後に、自分の名前をサインしました。最後にこのように書いてありました。神様は私に対して、やりたいようにやって良いという権利を持っておられることを認めます。神様は私に対して、好きなようにして良い。私の内側に対しても、やりたいようにやって良い。私を通して、やりたいようにやって良い。今まで、それらは自分のものだと思っていたが、それらを全部、神様にゆだねる。「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」。その下に自分の名前を書きました。スティーブ・マクベイ、1990年、10月6日、契約書。イエス様はあなたのうちにあって働きたいのです。でも、あなたがそれらを握っていたのでは、イエス様が働けないのです。私たちはイエス・キリストに私の全部をゆだねたら、とんでもないことになると恐れているのではないでしょうか?第一は好きなことができない。私の趣味や楽しみはどうなるんだ。第二に、世の中はそんなに甘くない。たくさんしなければならないことがある。私には多くの責任があるんだ。第三、目に見えないイエス様にそれほど、頼って大丈夫のか?自分がいなくなるんじゃないのか?多くの人は「恵みによって歩む」ことは、砂糖漬けの甘いクリスチャン、怠け者のクリスチャンなんだと誤解しています。でも、「自分に死んで、キリストに生きる」となると、「結構、ハードル高いなー」と思いませんか?私は奥が深いと思います。信じるだけで救われるという恵みです。しかし、クリスチャン生活も恵みでなんです。
責任という英語は、responsibilityと言います。しかし、これは2つのことばでできています。response応答と、ability能力です。つまりこういうことなんです。私たちがなすべき責任とは何でしょうか?それは、神様の能力に応答することであります。律法主義は、私たちの努力で、何かを成し遂げることです。「自分で何かを成し遂げないと自分には価値がないんだ」と一生懸命がんばります。律法主義は私たちの側に責任があります。でも、恵みは神様が事を行います。私たちの責任は、単純に神様の能力に応答することであり、神様がなさりたいことに対してゆだねることです。律法主義は自分の努力で神の祝福を勝ち取ろうとします。しかし、恵みはキリスト様に安らぎ、神様から与えられる祝福を待ち望みます。私たちがキリストにとどまるときに、私たちの内からキリストが現われて来て、自然と実が結ばれていくのです。自分が小さくなるときに、イエス様が大きくなってくださいます。自分が弱くなるときに、イエス様が強くなっていきます。これが恵みの世界です。私は、まだ50%しか体験していませんが、すべてのものを主にゆだねる祈りはしました。でも、肉がまだありますので、「私がやらないでだれがやる」と、気づかないうちに握っています。「ああ、いけない、いけない」と、そのたびことに、主にゆだねています。みなさん、どうせ恵みで救われたのでしたら、信仰生活も恵みで歩もうではありませんか。クリスチャン生活は道徳や倫理以上のものです。いえ、奇跡的な生き方です。
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キリスト教は確かにユダヤ教を土台としていますが、だからと言って同じではありません。当時のユダヤ人はモーセの律法と割礼などの様々な儀式を重要視していました。しかし、パウロが宣べ伝えた福音は、キリストを信じるだけで救われる。つまり、モーセの律法を守ったり、割礼などの儀式は一切不要だということです。なぜなら、イエス・キリストが律法を完成し、またイエス・キリストが律法を守り行なえない私たちの罰や呪いを十字架で負って下さったからです。しかし、紀元50年頃は、福音が福音としてまだ確立されていませんでした。なぜなら、ユダヤ教の背景を持ったクリスチャンがたくさんいたからです。エルサレム教会のペテロやヨハネも、そういうところがありました。しかし、使徒パウロは復活のキリストから直接、福音の啓示を受けました。それは、ユダヤ教とは全く違うものでした。ユダヤ教が古い皮袋だとしたら、福音は新しいぶどう酒です。パウロは全世界に純粋な福音を宣べ伝えるために、一切の妥協を許しませんでした。そしてパウロは、福音の真理を保つために、反対者たちと厳しく対決しました。これがガラテヤ人への手紙です。
1.福音の真理が保たれるため
ガラテヤ書2章からの内容は、使徒の働き15章をパウロの立場から書いたものです。パウロは第一次伝道旅行を終えて帰って来ました。すると、ある人たちが「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていました。パウロは、彼らを「忍び込んだにせ兄弟たち」と言っています。おそらく、ガラテヤの教会は、彼らの影響を受けたのだと思います。パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立や論争が生じました。両者は今度、エルサレムに上って、使徒たちや長老たちの前で話し合おうということになりました。エルサレムでも激しい論争になりましたが、結局、「異邦人は割礼を受けたり、モーセの律法を守る必要はない。彼らも恵みによって救われる」という結論に達しました。パウロは「おもだった者と見られていた人たちは、私に何も加えることをしませんでした。ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けていない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました」と言いました。このように、エルサレム会議では丸くおさまったのですが、パウロにはまだ、心配がありました。それは、2章の4,5節です。「実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」
パウロが危惧していることは、「律法主義が入ってしまったなら、クリスチャンであっても、自由を失い、奴隷になってしまう」と言うことです。その当時は、福音に反するものが、割礼とかモーセの律法というユダヤ的なものでした。しかし、教会の長い歴史の中で、形を変えながら律法主義が入り込んできました。教会では割礼は行ないませんが、洗礼は行ないます。信仰はともかく、洗礼を受ければ救われると考える人たちがいないわけではありません。幼児洗礼もその1つであろうと思います。また、洗礼でもどっぷり浸かる浸礼は聖書的で、滴礼は聖書的じゃないというグループもあります。しかし、パウロが言うバプテスマは、水の量ではなく、キリストの死と一体になることです。他にモーセの律法から来るものもたくさんあります。一番大きなのは聖日礼拝です。「クリスチャンになったら、聖日礼拝を守らなければならない」とよく言われます。これは十戒の「安息日を守れ」から来たものです。私も前の教会では「聖日礼拝厳守、祈祷会出席、十分の一献金」を言われました。先生は「これは恵みの律法であって、私たちを助けるためにある」と言われました。私も何の疑いもなく、ずっと30年間、守ってきました。しかし、新約聖書にはっきりと「日曜日の礼拝を守れ」とか、「十分の一献金をしなさい」とは書いていません。松戸の岡野牧師は、「日曜礼拝に来なさい」とはひとことも言わないそうです。ご主人が未信者で、来れない場合は、月曜日でも、火曜日でも、水曜日でも良いと言います。もし、日曜日来たら「礼拝、終わったらすぐ帰りなさい」と言います。なぜなら、未信者の家族がお腹をすかして待っているからです。求道者に対してはこういうそうです。「日曜礼拝に来られなかったらそれでも良いいんですよ。しかし、信仰をもってクリスチャンになると、霊的に生まれるので、礼拝に出たくなるんだよね。」また、「うちは献金袋も回さないし、献金袋もない。ただ、後ろの方に、箱が1つあるだけです」と言います。つまり、礼拝出席も献金も義務や律法ではなく、恵みでするんだということです。教会の開拓時代は、伝道のためにいろんな集会をやって、信徒も奉仕に疲れていたそうです。教会は一度つぶれて、先生は悔い改めました。その後は、「妻や夫、子どもたちを愛しなさい。生活を通して伝道しなさい。そのためには福音の愛で無条件に愛しなさい」と勧めました。伝道しなさいとか、奉仕しなさいと言わなくても、教会員が勝手にやっているそうです。
「律法を守らなければ救われない」、あるいは「救われた後は、一生懸命、律法を守らなければならないんだ!」となるとどうなるでしょうか?パウロは「それは奴隷に引き落とされることであり、自由を失うことです。私は彼らに一時も譲歩しませんでした」と言いました。律法主義とは何でしょう。それは自分の行いや努力によって神に受け入れられることです。そういう人にとって、神様は厳しい神様であり、何かをしていない場合、叱られるような気がします。だから、その人はいつも「これで良いのだろうか?何か足りないんじゃないだろうか」とドキドキしています。一生懸命、奉仕をするかもしれませんが、脅迫観念からであり、喜んでやっているわけではありません。聖書を読むのも、お祈りをするのも義務感からです。日曜日礼拝に来るのは、天国に入れてもらうための顔つなぎです。「忘れられては困るので、月1回くらいは挨拶に来なくては」。みなさん、これは奴隷であって、自由な生き方ではありません。日本では、せっかくクリスチャンになったのに、こういう生活を強いられている人が結構いるようです?そうじゃないのです。私たちは行いではなく、恵みによって救われたのです。神様はキリストの贖いを信じたあなたに満足しておられるのです。だから、もう神様を喜ばせる必要はないのです。とにかく、私たちは父なる神様の無条件の愛を十分受け入れ、満喫する必要があります。自分はどういう状態でも神様から愛され、赦され、受け入れられているという土台があって、はじめて、信仰の成長とか弟子訓練があるのです。この土台なくして、「あれしなさい」「これしなさい」とやられると、信仰生活、1ヶ月持ちません。
日本で、洗礼を受けた後に、あまり残らないというのも、この律法主義が原因しているのではないでしょうか。こちらは何にも要求していないのに、「あれしてない」「これしてな